Archive for December, 2012

Tweet Calendar 1 2013 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet “He’s Already Twelve?” 「もう12才?」 ルカによる福音書2:41-52 私の孫達が幼い時、彼らは完璧でした。悪い所等何処にもなく、目に入れても痛くない程可愛い、私に喜びを与えてくれる存在でした。ところが、気になる変化が起こり出したのです。孫たちに「独立心」が芽生え出し、おとなしくひざに座っていてはくれず、立って歩き出し、何にでも手を出し始めたのです。割れ易い貴重な飾り物をおもちゃにしたり、鍋やフライパンを叩いてさわいだり、そして「NO (イヤ)!」と言うことを覚えました。食べ物の好き嫌いが激しくなり、また嫌がらせを面白がって頻繁にするようになりました。私の二人の可愛い孫達は何故変ってしまったのでしょう?そして12才になると、今までに増してもっとひどくなりました。以前のように私に甘えて抱っこすることもなくなり、むしろ私の事を現代から取り残された、ジョナスブラザースもジャステインビーバーが誰であるかも知らない、渋顔の禿げ頭の爺さんとしか見ないようになってしまったのです。たった12年の短い間にこれほどの変化が起こるとは全く驚かないではいられません。 今日はクリスマスの数日後ですが、聖書には子供のイエスの話が出てきます。もう12歳の彼は、エルサレムで生まれた赤ん坊ではなく、思春期の青年です。きっと彼も親を悩ませたことでしょう。 皆様もこのお話をご存知でしょう、彼らの習慣で、マリア様とジョセフは過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに行きました。過ぎ越し祭は大切な風習の一つで毎年首都のエルサレムで行われ、男性は必ず参加するべきことに決まっています。女性は特に参加する事を強いられてはいないにも拘らず、マリア様も参加したという事から見ても、この家族の信仰がいかに深いかが理解できます。祭りがすんだ後、マリアとジョセフはナザレへと帰途につきました。でもイエスが同行していないことに気が付くと『多分どこかのマクドナルドにでもよっているのではないか?』『遊園地にでも行って遊んでいるのではないか?』と大急ぎでエルサレムに引き返しました。勿論二人はイエスを神殿で見つけるなどとは、考えても見ませんでした。でもその神殿の中に長老やラビ達に混ざって座り、重要な聖句やユダヤ教のしきたりについて討論しているイエスの姿を見つけたのです。この神殿での話しから、どれほど主イエスが幼い時から御言葉を熱心に学んでいたかがわかりますね。でもユダヤ教のこの年齢の子供達はほとんどが宗教の勉強を厳しくさせられており、ほぼ全部がトーラの79847語を暗記していました。しかし、み言葉を暗記したからと言って、必ずしもその意味を理解したとは限りません。それがこの話の特徴であり、そこに重点があると思うのです。12才のイエスは聖書の最初の五冊を暗記したことを自慢する為に神殿に行ったのではありません。彼は聖書の言葉の深い意味を学びに行ったのでした。ここで学ばされることは、私たちがどれ程知り尽くしていると思っていても、実際はもっと学ぶことが沢山あると言うことです。特に神様の御言葉に関してはそう言えます。考えてみて下さい、イエス様が御言葉を読み、学ぶ事が大切だと思っていたというのですから、私達にとってもそうすることが大切だとは思いませんか? ルカが私達に言っている、イエスは背丈も伸び成長した、という事は身体が成長して衣服が合わなくなったという事だけではなく、賢く成長したという事なのです。聖書の中での「賢い」と言う意味にはいろいろありますが、一つは「神の深さを分かりそれを説明する事ができる」とあります。神の心を理解し人々に伝えることに勤めると言うことです。簡単なことではありませんね。 私が大学生のときに初歩の化学を取りました。私はもともと化学は苦手ですが、私の化学の成績の悪さはむしろ教授に問題があったと言っても良いかと思います。この教授は優秀な人でしたが、人に、特に私のような初心者に解るように説明して教えることは出来ない人でした。 イエスはトーラを暗記しましたが、それだけでは充分でなく、もっと理解して人々に説明できるように勉強したかったのです。それは私達にとっても価値ある目標ではないでしょうか?  皆さんにお尋ねします:皆さんの中で聖書は私達に取って最も重要な信仰の本であると信じている人が何人いますか?何人の方が、聖書を理解する事が難しいと思っていますか?最後の質問ですが、皆さんの中でどこかの聖書を学ぶ会に出席している人は何人いますか? 皮肉な話ですが、私たちが神様の御言葉として敬愛している聖書ですが、この66の本には、自分一人では理解出来ない、頭を抱えてしまうような箇所が沢山あるのです。それにもかかわらず、その分からない箇所に時間をかけて学び、理解しようとする人は僅かしかいないのです。聖書研究に集る人数よりも、チリの料理競争に集まる人の数の方が多いと言う事です。おかしいなとは思えませんか?イエス様は賢く成長されました、それは御言葉の深い意味を学ばれたからです。私たちも同じように求めるべきではないでしょうか。 この年ももうすぐ終わりです。新年の抱負としてこれらの事を目標にしてみませんか? 毎日聖書を読む事。一生懸命に、皆さんと一緒に御言葉を学ぶ事。それらの御言葉を心に留めて祈る事。そして、熱意を持ってそれらの御言葉を分かち合う事。 これらの目標を達成する事ができたなら、2013年が終わる時には、あなたはきっと周りのだれよりも賢い者となる事でしょう。 アーメン。 民 Day訳 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012年12月30日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012年12月24日Christmas Eve燭火礼拝週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012年12月23日の週報 週報通算#1239 (日本語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

December 23rd, 2012

No Comments, 週報, by admin1.

Tweet 2012年12月23日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカによる福音書3章1-6節 「律法の宗教 対 恵みの宗教」 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 宗教には2つの形があります。その一つは律法、あるいは戒律による宗教で、もう一つは、恩恵による宗教です。これについてお話ししたいのですが、まず最初に2つの私の描いた絵を見ていただきたいのです。最初の絵は猿のお母さんとその赤ちゃんです。それも母猿が赤ちゃん猿をどこかに行くために運んでいる姿です。私たち人間は赤ちゃんを連れて外に出る時、肩におんぶするか、胸に抱いて、抱っこします。お猿さんのお母さんも赤ちゃん猿を胸に抱くことはありますが、どこかに連れていく時にはこの絵の中に書かれているように、赤ちゃんを抱くというより、赤ちゃん猿がお母さん猿にしっかり捕まっているのです。 森林、または、ジャングルに住むお猿さんは一本の木の枝からもう一つの木の枝に飛ぶように動き回るのですが、そんな時、赤ちゃん猿は必死の思いでお母さん猿にしがみついているのです。そうでもないと、動き回る猿のお母さんから落ちてしまうからです。律法の宗教はこの赤ちゃん猿の姿です。母猿にしっかり捕まっていないとおっこってしまう、または迷子になってしまうのです。 さてもう一つの絵をお見せしましょう。これはお母さん猫が子猫を連れてどこかに移動するときに見られる姿です。親猫は猿のように小猿を抱くことはできません。親猫が子猫を連れて移動するには、子猫の首のところを口にくわえた姿を皆さんは見たことがあると思います。子猫は、まだ小さいので、くわえられているといっても別に痛いわけではありませんが、自分では何もできずに、親猫の言いなりになっているだけです。しかしながら猫のお母さんは猿のお母さんと同じく一生懸命自分のかわいい子猫に時間をかけてやるのです。 何も難しいことを話しているわけではありませんが、子猿の絵を見ると、そこに子猿が一生懸命お母さんにつかまって、落ちまいとふるえているような姿を想像するのです。それは遊園地でジェットコースターにのり一番高いところから急激に降りていくその時、両手でジェットコースターのハンドルにしがみついている私たちの姿と同じでしょう。 何か心の中に問題がある時、悩みがある時私たちは、悲しくなります、気が沈み見ます。なぜか涙がぽろぽろ出てくることもあります。孤独感を感じます。しかし、神様は私たちをいつも見守ってくださっているのです。 洗礼者ヨハネはお父さんが神殿につかえていた祭司です。ですから小さい時から聖書、それは今の旧約聖書をよく読んでいたはずです。彼はイスラエルの地に救い主がおいでになることを信じていました。それとともに彼の役目は神様の信仰から離れていた、あるいは神様を信じるといいながら、神様の御心にかなうような生活をしていない人たちを非難してきたのです。それは、洗礼者ヨハネはこのように神様への信仰を形だけで行っているユダヤ人に神様のみ旨に戻れと声を張り上げて、民衆に語っていたのです。 皆さんがご存知のように、洗礼者ヨハネのお母さんエリザベトとイエス様のお母さんは従姉妹同士です。ですから、お互いに行き来がありました。イエス様の小さい時、お母さんに連れられて従妹のところに尋ねたこともあったと思います。時が来て、このヨハネはヨルダン川で、ユダヤの群集に、悔い改めの洗礼を授け、神の国の到来、それは、救い主の到来を力強く語ったのです。 誰でも神様に愛され、また神様によって救われたいのは最もです。しかし、救いにあずかるには何か良いことをしなければならない、神殿で献金をする。生贄の捧げものをする、それによって神様から喜ばれると多くの人たちは思っていたのですが、洗礼者ヨハネはそれ以上に自分の罪を祈りの中で、神様に語りなさい。と勧めたのです。心が神様に向いていないなら、どうして神様の祝福を受け入れることができるでしょうか。 律法は私たちがそれを完全に守ることが出来ないことを教えます。しかしそれが完全に出来ない私たち、つまり、罪を繰り返して行ってきた私たちを神様は私を信じ、私に従ってきなさいというイエス様への信仰を心に持つことにより神様の平安、恵みを受け取ることができると教えたのです。 これを英語ではこのように言い表します。Law convicts us to sin, but grace forgives us. 律法は私たちに律法を守ることができないことを指摘し、その反対に恵みは私たちをその罪から解き放ってくれるのです。 最後に二つの話を聞いてください。これは私の友達の先生から送られた短い話ですが、今日の説教のないようにとてもちかい話です。英語のものですが約するとより英語で聞いてください。 Now I want to share with you with a story of the husband and wife who didn’t really love each other. The man was very demanding, so much so that he prepared a list of rules and regulations for his wife to follow. He insisted that she read them over every day and obey them to the letter. Among other things, his “do’s and don’ts” indicated such details as what time she had to get up in the morning, when his breakfast should be served, and how the housework should be done. After several long years, the husband died. As time passed, the woman fell in love with another man, one who dearly loved her. Soon they were married. This husband did everything he could to make his new wife happy, continually showering her with tokens of his appreciation. One day as he was cleaning house, she found tucked away in a drawer the list of commands her first husband had drawn up for her. As she looked it over, it dawned on her that even though her present husband hadn’t given her any kind of list, she was doing everything her first husband’s list required anyway. She realized she was so devoted to this man that her deepest desire was to please him out of love, not obligation. This is the way we relate with our Lord Jesus.  No by the…

Tweet 復活ルーテル教会・日本語部 Lutheran Church of the Resurrection Japanes Ministry Merry  Christmas!  December,  2012                          見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル と呼ばれる。その名は,「神はわれわれと共におられる」 という意味である。 (マタイによる福音書1章23節) 12月2日よりアドベント(待降節)に入りました。イエス様の降誕を心静かに待つ季節です。皆様にとって、この一年はどのような年だったでしょう。世界各地で起こる災害や争いに対し、私たちにできる事は、心を合わせて世界の平和を共に祈る事だと信じます。救い主の誕生を祝うこの季節に、神さまからいただいた祝福を感謝し、賛美する時となりますよう、心からお祈りいたします。   復活ルーテル教会日本語部では下記のように、日本語部のクリスマス聖餐礼拝、そしてクリスマスイブの キャンドルサービスを行います。どうぞ皆様お揃いでお出かけ下さいますようご案内致します。   12月23日 日曜日 午前11時半より  日本語部クリスマス聖餐礼拝 12月24日 月曜日 午後  4時より   聖誕祭燭火礼拝(日英両語)           説教:岸野 豊 牧師 特別賛美:波多江美代子姉           皆様の上に、神様の平安と祝福がありますように!                      復活ルーテル教会日本語部 牧師 岸野 豊                                             9812 Hamilton Avenue, Huntington Beach, CA 92646    Phone:(714) 964-1912 Email: jministry@lcrhb.org.  Web Page:California.california.lcrjm.com クリスマス・イブ バイリンガル燭火礼拝英文ご案内 Christmas Invitation in English 2012   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2012年12月9日の週報週報通算#1238号 (日本語)                       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカによる福音書 21章25-36節 「あなたが用意できていようといまいと、わたしはあなたの所に来る」 私たちの父なる神と、主イエス・キリストより恵みと平安が、あなた方の上にあるように。 アーメン。 教会の暦によると、今日からアドベントのシーズンに入ります。これはクリスマスの前の3週間で、日本語では待降節、つまりイエス様の到来を待ち望む期間です。一般にはこの期間をクリスマスまでの準備の日と考えられていますが、アドベントという言葉の中には、待つとか準備をするという意味はありません。辞書でこの言葉を引いてみると、「重要な人物やイベントの到着、または到来と説明されています。 キリスト教ではこのアドベントは二つの意味があり、第一はイエス・キリストの降誕、第二はイエス・キリストの再臨、つまり蘇られたイエス様自身が、私たちのところに再び戻ってくる時を指します。ですから、イエス様が私たちの元に戻ってくる日があるというのです。 イエス様が十字架にかかり死んだその裏に、イエス様が私たちの罪を背負って死んでくださった、それは本当は私たちが受けるべきであった罪をご自身が受け入れて陰府に下ったということです。 毎日曜、教会の礼拝の中で、使徒信条の言葉を語る時、私たちはイエス様がこの世にまたやってこられる、その約束を待ち望むのです。しかし、イエス様は目に見える形で私たちのところに戻ってくるというより、私たちの心の中に来られるという言い方のほうが正しいのです。それは「私に従いなさい」という私たちへの心の中に語られる言葉で表されているのです。ですから、本当にイエス様は見られる形で来られるのですかという質問に勿論ですとは言い難いのです。しかし、アドベントとはどういうものであるかを今日の説教の中で1つの話をもって語ってみましょう。 一人のお爺さんが、スーパー・マーケットで買い物をした後、帰り道の途中にある公園のベンチに腰掛けました。木枯らしの吹き始めた寒い時でしたが、もう2時間も買い物をしていたためか、足に痛みを感じ始めたのです。彼は彼の大きな両手で膝と太ももをマッサージし始めたのですが、心の中に何か空しい思いが湧いてきたのです。というのは、彼は奥さんに先立たれて今は一人暮らし、子供に恵まれなかったので、毎日の生活も一人ぼっちの孤独さをいやというほど感じて毎日を過ごして来たのです。 ところが、目をつむって、足のマッサージをしていたそのおじいさんの膝になにかあったかい、そして柔らかい感触を感じたのです。びっくりして目を開けると、おじいさんの真ん前にやっと歩くことができるようになった男の子がやってきてこの子もおじいさんの膝に手を置いて立っていたのです。 近くのベンチにこの赤ちゃんのお母さんが座っていました。お母さんはお爺さんに「すみません、うちの子が、何か迷惑な事でもしたようで」と話しかけると、お爺さんは、「いいですよ。私はこの子が私のところに来てくれたことだけで、今まで、思い詰めていたわびしさが飛んでいきましたから」。と言って赤ちゃんをお母さんの元に連れていったのです。 お母さんは言いました。「この子はつい2,3日前に一人で歩き始めたばかりで、とっとこ、とっとこ自分の世界が広がったように、それも人前まで行って自分でできることを自慢したいように思っているようですが、ごめんなさいね」。 お爺さん、もう一度この男の子を抱き上げ、お母ちゃんに言いました。「私は家内に先立たれて以来何時もわびしさを感じていましたが、今日、お宅の坊やが私を訪ねた時、何か心の中に暖かいものを感じました。こちらこそ、ありがとうと言うのです。」私たちが心の中に何か温かいものを感じる時、何か希望を抱く思いになった時、何か心の中に希望を抱くことができるようになった時、それは、そこに、神様が、私たちを見守ってくださっている、私たちに希望を与えてくださっている、神様が、今ここにいらして私たちを支えてくださっていることを知るのです。 アドベントは神様がいま私たちと共にいることを、そして神様がこれからも私たちの命が、この地上で続くかぎり私たちを見離すことはないことを死に打ち勝った、イエス様がいつも私たちと共にいて力と慰めを与えてくださっていることを知る時です。 イエス様は私たちから離れることはありません。悲しい時、わびしい思いに駆られる時、もの悲しい思いが私たちを暗闇の中に閉じ込めてしまうような思いになる時にも、光を持って、希望を持って、イエス様は、常に私たちと共にいるんだよと聖霊の力を与えてくださるのです。 またこのアドベントの時は和解の時でもあります.私たちは神様の姿に似て作られたと聖書から語られていますが、完全でない者です。思いも行いも、イエス様を見習って生きてゆこうと思いつつ、その反対のことをしてしまう私たちです。罪を20も30も重ねて生きている私たち、愛していただく資格もない私たちをあなたの御心にとめていただいていることに感謝します。どうか、このアドベント、あなたが再び私たちの間に来てくださる約束の中に、あなたの思いを悟らせてください。 最後に、イエス様は「あなたが用意ができていよう、いまいと、私はあなたの所に来る」とおっしゃっているのです。ですから今こそ、イエス様のこの言葉を心に止めてください。それは私自身が心に留めなければならないことです。神様から罪の許しをいただいて、お互いを大事にする心が私たちの心の中の育つよう祈りましょう。アーメン。  “I will come to you whether you are ready or not” May God the Father and The Lord Jesus Christ give you grace and peace.  Amen.   When Jesus was risen from the dead and then return to heaven, he has promised that he will come back or return to us.  That is called the Second coming of Jesus.  I don’t know about you, but there’s a certain comfort in imagining what it might be like to see the Second Coming of Christ.  After all that is what Jesus has promised to us.   But at the same time we think the second of coming of Jesus is the time of Armageddon. That is, the time of the rapture, the time of judgment of the people.  Those who has been faithful to Christ and his teaching and those who don’t have faith. You probably know some of the Christians who come to your home and tells you that you have to accept Christ or else. They are the one who also tell you the time Jesus is imminent that we need to prepare for him.   The famous radio talk show host Garrison Keillor who is the most famous Lutheran often talks about Church matter on his radio show “A Prairie Home Companion”.  He talked the conversation about the Advent with his parents were never a time of hope and expectation connected to the cradle and the manger; but a chance…