Tweet 今週は詩編15編と読もう。 短い詩編なので、じっくり読める。 いつものように、気になる言葉をあげる。 詩編作者がいわんとしていることについて考える。 そして、主なる神は、21世紀を生きる者に、なにをいわんとしているか、思いをめぐらせよう。 詩編15編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。 4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。 5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。 土曜まで牧師休暇中のため、今週は牧師のコメントをお休みします。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet “Do You Also Wish to Go Away?” John 6:56-69 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Let’s assume that you have been blessed with a very good life, both spiritually and physically. Job was wealthy and had a wonderful family, wonderful spouse and children. However, due to Satan, he lost his wealth, his family, almost everything. Not only that, he contracted a terrible case of leprosy. Three friends initially visited him to comfort him, but in reality, they argued that he must have done something wrong because he lost his wealth, health, and family. In other words, his three friends talked about Job’s misfortune. Assume that you were like Job, but in your case, you were visited not by three friends, but assume that you were visited by Anpanman. And think about what he said, “My head is made of anpan (sweet red bean paste bread), please eat my head, anpan, and this will help you spiritually and physically.” So what do you do? Do you eat anpan, the head of Anpanman? or Do you leave Anpanman since you cannot believe what Anpanman said. Let’s put aside the story of Anpanman and talk about the Gospel text today. According to the lectionary, we have been reading John Chapter 6 for the last several weeks. (We also read Chapter 14 due to the Peace service last week.) Jesus and his disciples healed the sick and, in the beginning of Chapter 6, Jesus fed 5000…
Tweet LCR日本語部9月の教会カレンダー/聖書日課 2015年9月のカレンダー・聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年8月23日LCR日本語部週報通算第1365号 2015年8月23日の週報 August 23, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1365E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は8月20 日から8月23 日の聖書日課に与えられている詩編34編16 -23節を読もう。23日の礼拝では、福音書は再びヨハネ6章にもどって、イエスが話された「命のパン」の話しの続きになる。聖餐式のことを覚えつつ読むのも良いと思う。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 16:主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 17:主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。 18:主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。 19:主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 20:主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 21:骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。 22:主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。 23:主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。 気になる言葉として、20節「主に従う人には災いが重なるが」という言葉。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に、先々週と先週の復習。先々週は、34編の1-9節、先週は10-15節、そして今週は16節-23節を読んできている。 詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、16-23節の説教の結論であり、また礼拝の締めくくりとも言える。先週12節-15節の説教のポイントは、「主を畏れるように。そして、言葉に気をつけて、平和を探し求めよ。」ということだった。 そして16節以降は、なぜ主を畏れ、従うことがそんなに大切なのか、その理由が語られる。あるいは、礼拝の結論として、主に従うものに神が祝福を与えてくださるという宣言が語られるとも言える。さて一節づつ振り返りたい。主は、従う人に目を向け、助けを求める叫びを聞いてくださる(16節)。 :主は悪を行う者にも御顔を向け、その名を地上から絶つ(17節)。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に助け出される(18節)。主は打ち砕かれた人の近くおり、悔い改める者を救ってくださる(19節)。 主に従う人には災いが重なるが、そのすべてから救い出す(20節)。骨の一本も損なわれないように、守ってくださる(21節)。 :主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる(22節)。 主はその僕の魂を贖ってくださり、主を避けどころとする人は罪に定められない(23節)。 今日、この詩編34編16-23節を通して、主なる神は、私たちに何を語られているのだろか。私は、言葉は違うが、この詩編に書かれていることは、聖餐式の最後に牧師の宣言や、礼拝の祝祷(祝福)に相当するように思える。 聖餐式の最後は、「主イエスの体と血は、あなた方を強め、永遠の命を与えてくださいます。」と語る。「主イエスの体と血は、」と言っているのは、主イエスの命のパンと血をいただくもの、すなわち、聖餐に授かるもの、主イエスを信じ主に従う者は、強められ、永遠の命が与えられるという宣言だ。さらにダメ押しともいえる、祝祷(祝福)をもって礼拝は終了するが、「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主があなたに御顔を向け、あなたに恵みをあたえてくださいます。主があなたに微笑まれ、あなたに平安を与えてくださいます。」というこれらの言葉が意味していることと、詩編34編の16節から23節は、聖餐式と礼拝全体のしめくくりの言葉に思えてならない。 ただ、詩編では上記に書いたように、「主に従う者には災いが重なる」と書いてあり、これは話しが違うのではないかと思われるかもしれない。 しかし、現実問題は、信仰者だって、天災にあうかもしれないし、事故にあったり、スピード違反で捕まったり、ということだってありうるのだと思う。 大切なことは、そのようなことがあっても、そのままでは終わらないということ、救い出される、主が購い出してくださるという事だと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 詩編 34: 9-14, フィリピ 4:4-9, ヨハネ 14:27 主の平安が豊かに注がれますように! 今日どのような気持ちでこの日を迎えているだろうか?日本では8月15日土曜の正午、それは西海岸時で8月14日の午後7時に、太平洋戦争の終戦後、ちょうど70年となった。なにをもって終戦と呼ぶかは、昭和天皇が、無条件降伏を認め、天皇自ら肉声で、玉音放送として、日本国民に向けて放送された。 さらに、後に多くの言語に翻訳されて、世界にも紹介された。 昭和天皇の言葉の一部を口語訳にしたものを紹介したい。「今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。(中略)しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。」また最後の段落では「責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟せよ。」 との言葉があった。 戦後70年たって、経済的な復興は見事に達成されたのかもしれない。また戦後70年の間に、日本だけを見れば、たしかに戦争は起きず、平和だったといえるかもしれない。 しかし、未来永劫のために平和な世界を切り開くという点においては、現在世界各地で、戦争は10箇所で起こっているともいわれる。 世界平和への道はまだまだ遠い。 そのような中で、キリスト教徒として、この世界をいかに生きていくように、今日、主なる神は私たちに話されているのだろうか? どのように平和を実現していけるのだろうか? 第一日課として、読まれた詩編の言葉には、「平和を捜し、追い求めよ。」という言葉が語られていた。 そして、その言葉の前には、「主を畏れて、また舌を悪から、唇を偽りから遠ざけて、平和を求めるように。」とあった。 そこには、平和を求めるということは、必ずしも暴力とか、武器をもって戦わないことが、平和をということではないのだと思う。 私たちの交わす言葉において、口から出る言葉も、どんなにか暴力的なことになってしまうか、相手を傷つけてしまうかを、よくわきまえるように言われていると思う。 平和を探し、求めるということは、行動が平和的な行動をするだけではなく、心の上でも平安が求められるということになってくる。 そのように考えると、私たちの身も心も平和な状態に達するということ、しかも世界中の民が、その状態に達するということは、はてしなく道のりの遠いことのように思えるし、とても達成できそうもないことのようにさえ思える。 いったい、神様、私たちは、平和に向けて、どうしたらよいのでしょう? 今日与えられていた福音書、ヨハネ14章27節は、十字架に架かる前に、イエスが弟子たちに、さらに人類に残されている最高の言葉であるようにも感じる。 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 」 と弟子たちに話された。そしてその翌日の金曜日には、十字架に架かり、日没前に、イエスは墓に葬られる。 しかし、三日後、日曜日には復活して、なにも暴力を防ぐことができなかった弟子たちをいっさいとがめることなく、赦し、「あなたがたに平和があるように」と言われ、主の真理の霊を注いでくださった。 今日、日曜日、世界中のキリスト教会で、なぜ礼拝の時があるのだろうか? 今日、新たに、日曜日に礼拝の時が与えられているのは、主イエスが復活し、全人類を赦し、そして「あなたがたに平和があるように。」と言われたのが日曜日だったから、毎週日曜日、キリスト教会では、礼拝の時がある。 毎週、日曜日は、復活の日であり、神の憐れみの深さ、その寛大さに、私たちは、驚かされ、ひたすら主を畏れ、崇める。主イエスが与えてくださる平和について、その意味を深く考えよう。 人間的な思いからすれば、説教の最初で述べたように、世界平和はとてつもない遠くのゴールのように感じる。 しかし、キリスト教徒として、たとえ、イエスが十字架に架かられた週末があろうが、世界のいろいろなところで戦争が起こった過去があろうが、先週、金曜あるいは土曜かもしれないが、どんな悲惨なできごとがおきようが、もちろん私たち過去を認め、罪を告白する。そして主が復活した日曜日には、神の憐れみが与えられることを実感する。 私たちは、それらの過去のことは、反省はするが、もう心配はせず、こわがらなくてよい。 今日という日曜に、イエスが与えてくださる平和、それが私たちが想像できる平和とは大きく異なる、主イエスの平和を覚えて、喜びあふれる思いで、イエスの体と血をいただこう。 人類は2000年間、とても不思議な聖餐式、主の体であるパンを裂き、それを分ち合い、また主の血であるぶどう酒を、わたちあってきている。 人間の頭では世界平和が依然、遠くはるか先のことのように思える、しかし、われわれは主イエスから赦し、主の愛、主イエスにおける平安をいただこう。 そのパンとぶどうジュースに、イエスが存在している。 そのパンとぶどう酒に、主の赦し、主の愛、イエスにある平安、が存在している。 神の平和は、実はもうここにある。 マルチンルターキング博士が示唆していたように、神が与える平和とは、最終目的ではないのだ、しかし、平和はそのものは、手段であり、われわれが歩む道である。 わたしたちは、その神の平和、主の体とパンを、さらに多くの人々と分ち合い人生を歩もう。そして、主の体である教会が、ますます、主の御心に満ちたものになっていきますように! アーメン 安達均 “A Long Way to Go?” Psalm 34: 9-14, Philippians 4:4-9, John 14:27 May Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! What do you feel today? In Japan time, at noon, Saturday August 15, which was in Pacific Daylight Saving Time, 8 p.m., on Friday, August 14, it was exactly 70 years after the end of WWII. 70 years ago, at that time, the Japanese Emperor declared unconditional surrender and his speech was broadcast all over Japan and later it was translated into different languages and rebroadcast all over the world. In his speech, he mentioned, “The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great…it is according to the dictates of time and fate that We have resolved to pave the way for a grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.” Although it is not very clear in this English translation, the Emperor was envisioning “Peace for all over the world.” And, he also mentioned in his last paragraph, “mindful of its heavy burden of responsibility, and of the long road before it.” After 70 years, Japan geographically has not been an aggressor and there has been no war (involving them) during the post-war period, but if you looked back including other regions, the Korean and Vietnam…
Tweet 2015年8月16日LCR日本語部週報通算第1364号 2015年8月16日(平和礼拝)週報 August 16, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1364E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は8月13 日から8月16 日の聖書日課に与えられている詩編34編10 -15節を読もう。16日は平和主日礼拝を予定しており、聖書箇所は、第二日課と福音書は、聖書日課から選んだものではない箇所が拝読される。しかし、第一日課は、あえて、今週与えられている詩編箇所が読まれる。 平和礼拝へ向けて、心を供えつつ、しっかりこの詩編箇所を読みたい。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 10:主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。 11:若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。 12:子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。 13:喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は 14:舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ 15:悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。 平和主日礼拝を控えて、インパクトのある言葉として、15節の「平和を尋ね求め、追い求めよ。 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいくが、その前に簡単な解説を加えたい。先週後半の詩編は、34編の1-9節、今週は10-15節、そして来週は16節-23節が与えられている。先週、書いたことの繰り返しになるが、詩編作者は詩編34編で礼拝を表現しているように思える。1節は前置きのようなもので、2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られている。そのように見てくると、本日の箇所、10-11節の2節は先週の証の続き。そして12-15節は、神の御言葉、説教のポイントに入ってくるといってもよい。 以上を踏まえて、一節づつ読みたい。ダビデの体験したことから、聖なる人々よ、主を畏れて敬うように、主を畏れる人には、なにも不足するものがない(10節)。 若獅子は獲物がなくなって飢えるようなことがあっても、主を求めている人にはいつも良いものが与えられる(11節)。若い世代の人々よ、私に聞き従うように、主を畏れることがいかに大切かを教えよう(12節)。喜ぶあふれ、長生きしようと幸いを得ようとする者は(13節)、語る口や舌を悪や偽りの言葉から遠ざけ(14節)、悪い行いはせず、善を行い、平和を探し、追い求めよ(15節)。 今日、この詩編34編10-15節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。この週末は第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるにあたって、復活ルーテル教会では、6月終わりから「40日間の平和への祈り」を呼びかけてきている。今日読んでいる詩編34編15節の言葉は第15日目に与えられていた箇所でもあった。 そして、12-15節を通して、今日改めて読むとき、そのポイントは「主を畏れて、悪を語らず、平和を追い求めよ。」ということになるのだと思う。 「40間の平和への祈り」の小冊子には、その三日目に19世紀のアメリカのラルフ・ワルド・エマーソン牧師の言葉で、「暴力によっては平和に導くことはできず、理解によってのみ達成する。」という言葉があったことも思い出している。 詩編34編12-15節で歌われていることと、共通するような面を感じる。理解しあうということには、決して暴力を振舞うことを避けるという行為も大切なことだが、それ以前に、悪を語らない大切さがあり、さらに、もっともはじめには「主を畏れる」ことの大切さを知った上で、対話の席にもつけるように思えてくる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet John 6:35 41-51 主の恵みが集まった会衆に豊かに注がれますように! キリスト教で、予定説という言葉があるが、聞かれたことがあるだろうか? 一例は、「ある人がクリスチャンになるかならないかは、あらかじめ神様が決めていることですよ」ということ。 勘違いしないで欲しいのは、この予定説という考え方は、一部のプロテスタントの考え方で、カトリックや東方正教会では、そんな考えは同意していない。 ルーテル教会もプロテスタントではあるが、予定説という考えはしておらず、そんな話はしない。といいながら、今日、予定説という言葉は使って話ている。 というのは、今日の福音書には、イエスが「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と話された言葉が出てきたが、これは予定説のことをいっているのではないだろうか、と考える方もいると思うから。もう少し違った言い方をすれば、イエスは、ある人がイエスのもとに来るかどうか(信者になるかならないか)は神があらかじめ決めておられるということをイエスはおっしゃりたいと思う方もいるだろうから。 私は、そのような考え方は、しない方が良いと思っている。というより、この44節の言葉には、もっと他のすばらしいことが含まれていると思っている。信者になるかならないかは、イエスの父なる神があらかじめ計画されていたことなのだ。と言ってしまうと、それは、神はある特定の人々のみを導いているという話になってしまわかないだろうか? また、それは人間の先入観とか偏見すらも、あたかも神の考えであるかのごとく語ってしまう可能性すらもあるように思う。 では、イエスが言われた「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、どういう意味を含んでいるのか、さらに思いを巡らせたい。ここで、今年の修養会でジョンウェスレーの話を今一度振り返ってみたい。 メソジスト運動をはじめたジョンウェスレーは、イギリスのアングリカン教会から、アメリカにいる原住民への伝道を志して、アメリカに渡った時は、そもそも戒律主義者だった。 聖書にある律法を守れば、人間は正しいとされると思っていた。メソジスト派という名前の通り、Methodology つまり、きちんきちんと規律を守っていれば、人間は救われるという考え方で伝道しようとしていたのだろう。しかし、アメリカに伝道に来たものの、全然うまく行かなかった。 ウェスレーは、失意のうちにイギリスに戻る。ロンドンのアルダーズゲートという場所で、モロビア派のピーターベーラー宣教師が、当時からすれば、さらに200年前に著されたマルチンルータのローマ3章の説教集について語っていた。ウェスレーに雷が落ちたかのごとくの回心が起こる。 ローマ3章のポイントは、人間はそもそも罪人である。正しい者とされるために、律法を努力して守って義とされるわけではない。 そのような人間を憐れみ、神はイエスキリストを立てて、十字架の死に到るまで父なる神へ従順な信仰を貫かれたイエスをいけにえとされた。その真理なるイエスを信じる者が、正しいとされることを神は示された。言い換えれば、イエスの信者になるということは、完全に神の恵み、神の贈り物であって、人間の努力によるものではない。 人間が努力するかどうかではなく、人間が、その神からの恵みを受け取るかどうかが問題。 神の贈り物ということについて、250年前のベーラー宣教師の言葉ではなく、もうちょっと現代的な贈り物の比喩を使って話してみたい。バレンタインチョコレートは、箱に入っていて、きらびやかな包装紙につつまれ、さらにリボンがかけてあったりする。そこで、そのチョコを食べるには、リボンをはずし、包装紙をとって、箱をあけ、やっとチョコレートにありつける。 神からのプレゼントである、恵みとはそのようなバレンタインチョコとは異なっていて、箱にも入っておらず、包装紙もなければ、リボンもない、私たちのまわりに、神からの恵みが、そのまま満ち溢れている。その恵みは、すべての人間が享受するには、リボンも解く必要もなければ、包装紙をはがす必要もなく、箱をあけなくてもよい、なんら人間が努力する必要はない、勉強をする必要もなく、その恵みにありつける。人間は、実は、神からのプレゼントである恵み、イエスキリストをふんだんに享受してしまっている。 キリストを信じるものになるかどうかは、その恵みを、イエスキリストと信じて、受け取るかどうかになってくる。 ウェスレーは、ローマ3章の説教を聞き、神の恵みに気づいて回心した際に、心がジーンと温まってくるものを感じたそうだ。 そして、それから後のメソジスト派は、驚くばかりの発展をして、アメリカにとどまらず、世界中に広まっていく。 さて、しつこいようだが、最後にもう一回質問したい、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」という言葉は、イエスは現代の私たちに、なにを教えようとされているのだろうか。自分で戒律を守ったりするという努力とか、人間の力によっては、だれもイエスの元へ行くことはできない、つまり人間の力によって信者になるというわけではない。 しかし、父なる神が引き寄せてくださる、一方的な神の恵み、全人類にくださった十字架のイエスキリストを受け取るかどうかが、私たちが信仰者となり、神から義とされるということを教えてくださっていると思う。 人間の力、あるいは聖書を学んで御言葉を暗記したりする人間の努力によって、信仰に到達するのではなく、信仰は神からの贈り物、「私は命のパンである」といわれた、すべての源、イエスを受け取ることから信仰が新しく始まるのだと思う。そして、イエスの御言葉と聖体をいただきつづけ、常に新たにされ続けることが、信仰の継続ともいえる。 今日、新たに、イエスの御言葉を聞いた。そして、これからイエスキリストの体と血である聖体をいただくが、ぜひその深い意味を覚えながら、いただこう。そして、新たな聖霊の力、喜びをもって、世に遣わされ、そのイエスの恵みを分かちあうものとされよう。 アーメン Becoming A Christian According to God’s Grace John 6:35 41-51 May the Lord pour his grace and mercy upon the people here in this sanctuary! Have you ever heard the word, “Predestination” in a church? For example, whether or not a person will have Christian faith is pre-planned by God. Please do not misunderstand: “Predestination” is not a concept or doctrine that all Christian Denominations agree with. Catholic and Orthodox Churches do not agree with this concept. As for Lutherans, we do not talk about this…however, I am talking about it a little bit this morning: Because, people might think that the words Jesus said in the Gospel today, “No one can come to me unless drawn by the Father who sent me” are somewhat related to Predestination. In other words, some people might think that Jesus is telling that whether or not you come to Jesus (become a believer of Jesus Christ) is already planned by God. My thoughts on this are, it is better not to think that way or said another way, there is more important aspect of the verse to reflect upon. If you pursue the concept of predestination, people might think that God is inviting only certain individuals and not others. There is a possibility that someone can replace God’s thinking by one’s individual predetermination. So what does it mean “No one can come to me unless drawn by the Father”? I would…
Tweet 2015年8月9日LCR日本語部週報通算第1363号 2015年8月9日の週報 August 9, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1363E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace