Archive for October, 2011

October 29th, 2011

2011年11月Calendar

No Comments, 教会Calendar, by admin1.

Tweet 2011年11月のCalendarを掲載します。 2011Calendar 11 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイによる福音書22章34節―40節 「人生で一番大切な戒律」“The Most Important Law in Our Life”  或るまだ神学校を出て間もない牧師は教会の皆さんたちから何時も「あの先生の説教は長すぎて眠くなってしまう」と言われていました。そこで教会の役員会で、「先生の説教はとてもいいのですが、少し長すぎるのでは」という発言が出たのです。それに対して新米の牧師さん、「いや、私は皆さんに神様の言葉、聖書で言う神様の言葉のミルクを沢山差し上げたいのです。」と答えました。一人の役員さんは牧師さんの言葉尻を取り、「それでは神様の言葉もコンデンス・ミルク」でお願いしますと。コンデンスとは短縮したという意味です。 これは牧師さんに限らず、私の大学で専攻した、キリスト教と哲学のクラスも、その先生の講義が長々と単調な声で、子守唄を歌われているような感じの時もありました。立教大学の中沢先生は旧約聖書のヨブ記の研究で有名な方ですが、先生は聖書をへブル語で読むのです。いくらへブル語の授業を受けたといっても、先生がどこで何を読んでいるのかもわからない、よくそんな経験をしたのです。言葉というものは面白いことに、長いセンテンスで話されるとはじめに何を言われていたか忘れてしまうのです。言葉も文章も短い方が頭、また,心の中に受け入れ易いのです。 カール・バルトという有名なドイツ人の神学者がアメリカを訪れていた時、ある神学生はバルト先生に、「先生、あなたが40年にわたって教壇から教えた神様の教えを一言で言うならばどうお答えしますか?」バルト先生は英語でこう答えたのです。 “Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so, little one to him belong, we are weak but He is strong.”日本語では、「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」です。これはイエス様に従う私たちの素晴らしい信仰告白です。 今日の福音書は、パリサイ派の人々、ユダヤ教の宗教団体のリーダーが、イエス様に、「一番大切な神様の戒めとはなんでしょうか?」という質問した話です。イエス様はそれに対してこのように答えました。 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように、重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」英語では、“Love the Lord God all your passion and prayer and intelligence.” This is the most important;the first on any list, The second most important commandment is like it: Love your neighbor as you love yourself.”これは、神様、イエス様に対しての私たちの愛、そしてまた、隣人に対しての私たちの愛です。それがイエス様が私たちに命じられた掟なのです。 ところで ユダヤ人はモーセがシナイ山で十戎を神様からいただいたのを皆さんご存知と思います。。それは神様が私たちに下さった掟です。それは10の律法とも言われています。この律法はそれを守ることで、神様の祝福を受ける。しかし、破ることによって裁かれるというのです。ユダヤ人たちは、長い歴史の中で、神様からいただいた十戒の他に613の細かい掟を作りそれを人々に守るように強制したのです。それは248条の「あなたはこれをしなければならない」という律法、例えばそれらの律法のうちには、作物を集めるとき、全部ではなく少しは落穂ひろいのできるように貧しい者にそれを残しなさい。 そして365条に亘る「あなたはこれをしてはいけない」という律法とです。たとえば、鱗のない魚を食べてはいけない、安息日には医者は病気の者を癒してはならないなどの私たちから見れば、これが戒めなんですかと言うものが沢山あります。しかし戒めを完全に守ることによってユダヤ人は神様の救いを頂けると信じていたのです。そこで律法学者はイエス様に、613の律法のうち一番大切なものは何でしょうかと質問したのです。イエス様はそれに対して二つの律法、この二つの律法がすべての律法を要約した律法であると答えたのです。その一つは、申命記という旧約聖書の中にあるシェマー(Shema)という祈りの言葉です。それを読んで見ましょう。きっと皆さんもこれを何回も聴いたことがあると思います。「聞け、イスラエルよ.我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)イエス様はこれが一番大切な戒めだと教えたのです。 そして2番目に大切な戒めは「前の一番の戒めと同じように、あなたは自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。この二つの戒め以上に大切な戒めはないというのです。英語では心を尽くしては、with all your heart, 魂を尽くしては、with all your soul, 力を尽くしては、with all your mind です。私たちのすべてを用いて神様と、隣人を愛することが、私たちに義務であり、喜びに繋がれるのです。 つい最近ここの教会員の方と恵比寿マーケットの近くにあるエルビスというカラオケ店で、何人かの方々とカラオケの楽しい時を持ちました。誰かがそれをカラオケ伝道だなんて言いましたが、自分の好きな懐メロ、思い出の曲、それが讃美歌ではなくても心の中で感じられる思いをこめて歌うのは楽しいものです。わたしのすきな日本人の歌手は広田三枝子とクールファイブですが、英語で最高なのはフランク・シナトラです。彼の歌う“All the Way”という歌は私の大好きな歌です。家内ナンシーに聞いてください。私が幸福と感じるときは、自然とその時の心を表現する歌が、口から出るようになるのです。 “When somebody loves you, it’s no good unless he loves you, all the way.Through the good and lean years and through all the in between years—come what may.” ここで言いたいのは、 “All the way”100% の私たちが、神様を慕う、愛する思いです。神様より100%愛され、神様を100%愛することができるなら、それ以上に人生で幸福のことはありません。それは、親が自分の子供を100%愛し、子供が親を100%愛することと同じです。もちろん、何か悪いことをして両親から怒られた。そんな時愛されていると感じないかもしれません。同じように、神様に逆らって何か悪いことをした時、神様から愛されていないと思うかもしれません。しかし私たち人間は神様のイメージを持って生まれてきたと聖書は教えています。私たちはお互いに神様からいただいた美徳があるのです。その美しい徳が自分の中で感じられる時があるのです。この神様よりいただいた自分、自分のギフトを人と人との付き合いの中でいかに使っていくか、そして、それを認識することができる時も一人ひとりに与えられるのです。 話はすこし変わりますが、何ヶ月も前に、自分で自分の牧師としての仕事に今まであった活気が体から抜けていくような気持ちになったのです。何か気持ちがすっきりしない。体力もない。やる気がない。普段は陽気な性格の私が、心の中に何かもやもやとしたものを持っている自分に気がつきました。これが鬱病ではと自分で感じていたので、お医者さんにかかり、それが本当に鬱病の初期だとわかりました。家内もうすうすそのことに気ずいていましたから、お医者さんの診断を聞いて、びっくりというより、ああそうだったのか、でもそれがわかってよかったとい良い意味で受け取ってくれたのです。なぜならこれは治療の方法があるからです。しかし一般には鬱病、それは大変だ、と言われるようですが、次第にもとの自分に戻りつつあります。ここで皆さんに知って欲しいことは私の為に心配していた人たちが祈っていてくださっていたということです。神様はその方々の祈りも聞いてくださっていたのです。 聖書の中に「一人のものが苦しむ時、みんなが共にに苦しむ。一人の人が喜ぶ時、みんながともに喜ぶ」という言葉があります。本当にその通りです。それができるところ、それが教会です。お互いを助け合う、お互いのために祈る、そしてお互いを支えてゆくところに神様はいらっしゃるのです。ですから教会は私たちの家族です。そこにイエス様が何時もいらっしゃる所、愛と、癒しと、励ましと、祈りがある処です。 同じように、先週、松井誠史さんと昭子さんの金婚式を教会で祝うことができた私たちの群れは神様に恵まれた教会です。私たち一人ひとりの名前を口に出して、祈ってくださっている会員もこの教会にいるのです。 神様は私たちの心が神様の福音を心に留め、実際にそれを私たちの間で分ち合うところに恵みと平安を与えて下さいます。 アーメン。          Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet   週報通算#1186(日本語) 2011 10 23W 週報通算#1186WE (英語) Sunday English Bulletin 1186E         Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet     結婚50周年記念日によせて                                                                私の生い立ちから紹介します。 私は、父母が1925年に祖父の呼び寄せで渡米し、ロサンゼルス近郊の北ハリウッドで野菜を主とする農業を営んでいる時に第六児として生まれました。6歳の時、祖父の死去の知らせを受けた父は、大家族を連れて日本に引き上げました。その年に第二次世界大戦が勃発し、貯えた預金もインフレの為に失い、父は苦労の連続でした。10人の子供達の教育から、生活環境の相違の調節や反米感情による苦しめ等、小学校時代は日本人並みに生活する事は大変でした。同年代で同じような経験をされた方達には理解できると思います。  終戦後、民主主義が唱えられ、中学校、工業高校に学びました。その後、父の友人で国会議員だった方の紹介で、大阪にある中小企業の会社に入社し、日本での経営方法、人と人との関係を学び、大変良い体験でした。(1953-1954年)1955年、21歳の時に米国に将来の夢を託し、父の友人に保証人を頼み、400ドルの借金をして帰米しました。日本を離れる二日前、父母から米国で生活する為の心得を聞きました。「アメリカでは生きる力を失っては駄目です。金銭は天から降って来ない、まじめに働けば必ず結果が出る。多民族の集団だから宗教心がなければ生きて行けない。困った時には牧師さんに話をして相談しなさい。」父母からの言葉は今でも遺言として頭に残っています。父母は佛教信者でありながら、どの宗教を信じなさいと指示はしませんでした。  年後、弟が永住を決意して帰米して来ました。当時は不況で仕事が見つからず、町の工場で働きました。ある時、仕事で宣教師と出会い、アメリカの宗教であるキリスト教を勧められました。日系の佛教会に通っていましたが、弟が言うにはあまり感動がないということで、試しに二人で行ってみようと、日系のキリスト教会、センテナリーメソジスト教会に行きました(1960年)。当時、日本語部120人、英語部800人、合計920人の、全米第一の教会でした。人種差別は無く、日本いる思いがしました。私自身、キリスト教についての知識は全くのゼロであり、何から始めればいいのか解りませんでした。出席回数を増やすごとに、信者達、また牧師先生との交わりが出来るようになり、日本で言われている「神」とキリスト教で信じている「神」との違い、また「救い」の説明や、様々な事を教わりました。全てが神様から示されたという思いで、悔い改め神にすがり、信じるようになりました。1961年、神様の導きだったのではないでしょうか、それまでは、信者から2-3回洗礼を勧められていましたが、キリスト教を良く理解してからにしますと断っていましたのですが、M牧師から「イースターに洗礼を受けてはどうか、キリスト教については、また信仰については洗礼を受けてから聖霊が働きます。これは信仰の始まりであり、永遠のもので、卒業ではないのです、神は祝福してくれるのです」と言われ、洗礼を受ける決心をしました。そしてその年のイースターに10人の兄弟姉妹とともに洗礼を受けました。感謝でした。 その年の8月に、3ヶ月の予定で日本に行き、1961年10月18日に 両親の世話により家内の昭子と結婚しました。家内を連れてアメリカに帰って来た時、教会ではまるで10年来の友達を迎えるかのように家内を歓迎してくれました。青年会で特別集会を開き、歓迎会をしてくれたときは、感謝と祝福で一杯でした。1962年、M牧師が礼拝後にアパートに訪問され、家内にも洗礼を受けるように勧めました。家内もキリスト教の事は殆ど何も知らなかったのですが、これからの人生を神様に委ねると決意し、その年のイースターに洗礼を受けました。家内は日系人の教会で、日本語にも不自由しなかったので、同じ立場の人達と一緒に淋しくなかったと思います。主が働いていたのでしょう。 1968年、兄弟共同で植木業を始めようと思い、庭園業の経験を基盤に、オレンジ郡に移り、6エーカーの借地をし、準備にかなり時間がかかりましたが、2年位かけて商品になる植木ができるようになりました。忙しくて教会は休みがちになりました。その時働いていた教会の方が、「松井さん、神様があなた達を呼んでいますよ、教会の家庭集会に来ませんか?」と誘ってくれ、出席しました。その時、神様のみ言葉に感動しました。当教会の牧師先生は私達のことを覚えて、週に一度、午前中仕事場にお祈りに来てくださり、感謝でした。子供達がイエス様の愛を学ぶ為にと、サンデースクールに行く事にしました。それと同時に礼拝に出席し、日本語部は16名でしたが、良く祈り、愛に満たされた教会だと思いました。弟の家族と一緒に、アナハイムフリーメソジスト教会に転会し、主の為に奉仕できることに感謝しました。  植木業経営も20年位経ち、気候と時代の景気に左右されて浮き沈みが激しく、心の落ち着く事はなく、ただ平安を得る事が出来る場所は教会以外にないと思いました。三人の娘達も成長し、キリスト教の教えを土台に人生を歩み始めました。仕事が出来るようにしっかりと教育を受け、社会の為に役立つようにと育てました。結婚しても主が第一であり、神の恵みに感謝できる、そのような家庭を築く事を願いました。  1992年、我が家族にも肉体的試練が与えられました。昭子が突然ストロークになり、言語障害を起こしたのです。不思議にも、教友の祈りに支えられ、三日間入院しただけで退院し、三ヶ月で直りました。その年に、T牧師の愛の言葉によって、復活ルーテル教会に転会しました。  1999年11月11日夜7時、私はストロークで半身がしびれ、その上医師の診断によってハイコレステロールが原因で前立腺癌であることがわかりました。2ヶ月休暇を取り手術をしました。当時、余命5年と言われましたが、教友の祈りにより、現在丸11年生かされて、感謝です。  2008年、昭子は自動車事故に遭い、それによって直径3㎝位の脳腫瘍が発見されました。頭にドリルで穴を開け、膿を出しました。教友の熱い祈りによって、癒され、言語障害もなく元気になりました。神様のなさる事は人知では計り知れないと思い、感謝で一杯でありました。 2011年12月6日現在、結婚50周年記念日を迎え、3人の娘も結婚し、家庭を築き、それぞれの娘達から一人ずつ孫が与えられました。この孫達が主に守られながらキリストの教えを身につけ、健康で成長して行く事を祈るばかりです。このような的外れの私達夫婦にも、苦難のときも喜びのときも、三位一体の神様はいつも私達の側に居てくださいました。復活のキリストを信じるこのルーテル教会の牧師先生達を始め、教友達の励ましのお祈り、今日まで生かされている恵みと喜びに感謝します。皆様の上に主の祝福が豊かにありますように祈って止みません。先ずはお礼まで。 2011年12月7日  松井誠史                 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet テサロニケの使徒への第1の手紙1章1-10節 「神様の恵みを振り返ってみると」“Looking back at the Grace of God” 皆さん、テサロニケという名前の都市を聞いたことがありますか?この都市は地中海のギリシャの北にある都市で有名な漁港のあるところです。イエス様の使徒として伝道に励んだパウロはこのアジアとヨーロッパの境にあるテサロニケを2回尋ねました。そこでパウロはイエス様の福音を群集に語ったのです。そして3週間ほど滞在して次の都市へと伝道に励んだのです。その後パウロは彼の弟子であるテモテをテサロニケに送り、このまだ若い教会でクリスチャンがどのように育っているかを調べたのです。 今日のテサロニケの信徒への手紙はパウロがユダヤの土地の外のクリスチャンとなったテサロニケの人々への初めての手紙、それ以上にパウロの一番古い書簡です。新約聖書の21の書簡の内の7つの書簡はパウロによって書かれたものですから、キリスト教がユダヤの地を出て、地中海をめぐる外国の地の中でどのようにキリストによる神の国の到来を宣べ伝えたか、またどのようにしてイエス様の福音がユダヤ人だけでなく全ての世界の人たちに広まって行ったかを知る大切な手紙の文章です。     牧師さんは誰でもその人が一番最初に招聘された教会のことを忘れません。それは私にとって1979年から1983年にかけて牧会に携わったフィラデルフィアの教会です。今でも毎年クリスマスにはまだ手紙のやり取りをする人たちがいます。パウロはテサロニケでイエス・キリストについて語りました。イエス・キリストの愛とイエス様を信じる信仰による救いです。 皆さんパウロのことを知っていると思いますが、この人はユダヤ人で、パリサイ派という宗教団体の熱心なリーダーでした。また彼はイエス様を神の御子であると信じたクリスチャンを虐待した男です。多くのクリスチャンがこのパウロによって殺害されたのです。しかしこのパウロが、ダマスカスという町でイエス様に出会ったのです。イエス様の弟子を見つけ出したら、男女かまわず、縛り上げ、エルサレムに連行するという恐ろしいとこを行っているとき、彼は天からの光に照らされ、目が見えなくなり、「イエス様の声、それは、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」でした。イエス様の敵であったサウロはイエス様に出会うことにより回心を経験し、180度変わって今度はイエス様とイエス様の愛を宣べ伝える宣教師として一生を捧げたのです。今の時代のように電話はありません、E-mail もありません。手紙といっても郵便局がある訳でもない。誰かに頼んで持っていってもらった手紙は何ヶ月もかかって到着したのです。手紙の内容は「主に従うものとは」、「テサロニケでのパウロの宣教」、「神に喜ばれる生活」、「主の再臨」そして結びの言葉は「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という励ましの言葉です。この書簡がパウロによって書かれた最初の物ということを念頭の置いて初めの一章の言葉を読んでみましょう。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」。さてこの言葉どこかで聞いたことがあるのを思い出しましたか? これはパウロ独自の手紙のはじめに書く挨拶です。その言葉を借りて私も説教の前に皆さんに挨拶するのです。そして、兄弟たち、あなた方のことをいつも神に感謝せずにいられません。特にあなた方の信仰による働き、愛による行動、希望の確信です。 パウロはいつも教会のことを神様に感謝しています。私たちも祈りの中で、私たちの教会を祈ってくださっていますか?教会とは建物ではなくその中にいる私たちのことです。神様の言葉を聴き、神様に従い、神様の愛を私たちの行動、私たちの言葉の中で実行すること、また感謝することです。神様の想像されたこの素晴らしい世界に住むことができること、私たちが神様からいただいている自由の精神、家族と友達、特に教会では私たちはすべて神様の兄弟、姉妹です。特に私たち、故郷の国から離れて、両親、自分の肉親の兄弟、姉妹と共に生活できないものにとって、お互いを、輝子さん、愛子さん、し倭文子さん、広子さん、誠史さんと一人一人、愛情を込めて呼ぶことのできることは大切です。考えてみると、私たちの中にお互いを日本にいた時から知っていたという人いますか?私はこの国に来てもう36年になりますが、高塚先生が日本のルーテル教会よりこの復活ルーテル教会に宣教師として派遣されたその翌年の1989年に新しい伝道の主事として南カリフォルニアに来たとき今ここにいる何人かの教会員にあったはずです。 なぜ宣教師が日本からアメリカに送られてきたか、またなぜこの復活教会が日本人の伝道の場として選べられたのかというと今主任牧師として働いているZimmerman 先生の前任者Foster 先生が是非ここで日本人伝道をしてください、私たちはそのために場所と経費を提供しますからとの熱心なお願いがルーテル教会のNew York の本部に出たからです。この先生は日本人贔屓であったことは確かです。家族を連れてきた高塚先生も燃えていました。あそこに日本人がいるよといわれるとそこに飛んでいった。Irvine のConcordia 大学に、アナハイムの聖書学院(LBI)に日本人の留学生がいるよと聞くとそこに行って学生さんたちを連れてきた。企業の日本人も今より多くいた。そこで日本人の礼拝を今の保育園の一部屋から初めたのです。日本人がラスベガスにいると聞いて、そこまで行って聖書を学ぶ時を持知Stewart道子さんが授洗されたとも聞いています。また、ある時は、日本人伝道を復活教会からどこかに移そうという動きもありました。しかし、先生の奥さんが癌で苦しんでいた事もあり、それが先生の苦しみとなって現れた時もあります。高塚先生の任期が終わり、田中先生が奥さんと共に宣教師として送られたとき、日本人の伝道は英語の復活教会とどのような関係を持っているのかとの問いが出され、それまで日本人伝道として、特別伝道費という自分たちの比較的大きなアカウントを持っていたものが、英語、日本語の一つの教会として一つのアカウントにするべきだという声が英語と日本語の会員から出されたのです。 田中先生は「それは一つにするべき」とはっきり言われ、それ以後、復活教会は二つの言葉を話す礼拝のある教会、しかし教会としては一つ。私達の教会はこのEvengelical Lutheran Church in America という名前の私たちの伝統を宗教改革を1517年に始めたマルチン・ルターの系統を受け継ぐ「キリストのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」の3つの信仰の基礎を土台とした福音派の教会です。ルーテル教会はプロテスタント教会で一番古い教会です。田中先生の次に宣教師としてここで働いた先生は、伊藤先生です。伊藤先生はロスアンジェルスに近いトーレンスというところでのルーテル教会で宣教師として働いていましたので、二つの教会の掛け持ちでしたが、エネルギッシュな方であった事は皆さん存知でしょう。伊藤先生はイースターの前の出来事であるPassover, それは過ぎ越しの祭りをこの教会で守ることを指導してくださったのです。ユダヤ人が、エジプトで奴隷として働かされていたときに出たモーセのリーダーシップによるエジプトからの脱出、そして遂にユダヤ人が自分たちの故郷、イスラエルの地に戻ったことについてのお祭りです。 それをイエス様は十字架にかかる前、12使徒ともに祝い、またこの儀式を今私たちの受け取るキリストの体とキリストの血による、私たちの贖いの儀式として下さったのです。 伊藤先生が2009年の11月に日本に帰ることになり、その時から宣教師が日本から送られるという形が終わりました。ここでの日本語での牧師はアメリカの中で育った日本語と英語のBilingual の牧師にやってもらうと言うことになり、そこで私が2010年の1月からここで牧会を始めるようになったのです。 はっきり言って私は日本語での伝道をしたことがなかった。30年に亘っての牧会は英語の教会でしたので、はじめは戸惑いました。私の家族は日本語が出来ません。私の日本語も、皆さんから「先生の日本語は時々おかしいですね」と、しかし頑張って行きましょうという皆さんの支えで、ここまで来たのです。 さて、教会の中でのトラブルがない教会はありません。それは教会も人によって運営されているOrganization  である限り、人と人の意見の違いによって分裂するときもあれば、その反対に、いろいろな意見のある中で、主イエス・キリストが本当に私たちの救い主であると言う私たちの信仰告白をお互いが認める時、そこに聖霊の働きが加わって今まで分裂していた教会が一つの教会の組織になることがあるのです。 教会が、イエス様の理想とする信仰の場であって欲しいと考えるのはクリスチャンであるなら皆さんはそれは当たり前と考えるでしょうが、教会も神様の聖霊に満たされていないと争いの場になるのです。 イエス様が十字架にかかり死んだ。葬られた。しかし生き返られた。これは2千年前も今も多くの人にとって、信じがたい、信じられない出来事です。しかしそれを信じられない私たちの上に聖霊が下され、その聖霊の力の働きで、私たちはイエス様を神を信じることができるのです。神様を信じることができる、出来るようになったとは不思議なことですが、それは神様が私たちの心の中に入ってきてくださったからです。 ある人は言います。私たちはいい子にならないと神様から愛されないと。では、きかんぼうの子供、又は,放蕩息子というような者は神様から愛されないのですか? そこで質問があります。皆さんは今まで自分をきかん坊で年をとっても駄々をこねる人間と思っていますか?  はっきり言って59歳の二人の成人の子供のいる、Looks like respectable person と皆さんから見られている岸野豊という、これは皆さんも今では馴染みのある牧師さんですが、その牧師さんともあろう人も、駄々をこねる、きかんぼうの子供になることが時々あるのです。(イヤ、時々じゃないよ、いつもだよ)と皆さんから言われてしまうかもしれません。牧師らしくしてくださいと言われても,でんでんむしが危険を感じると自分の殻の中に閉じこもってでて来ない時があるのです。最も皆さんはそんなことないでしょうが? しかし私たちすべては、所詮問題を持った人間です。そんな問題を持った人間同士の、人間ぐさい、罪をかぶった私、私たちの為にイエス様はこの世界に来てくださったのです。わたしたちの惨めさ、愛されるべきでない私、私たちの為に甦ったイエス様は、「心配しないでいいよ。私があなたの不完全なすべてを私の十字架の上で取り除いてあげたんだから、ほんとだよ,心配しないでいいよ。その代わりに、私の愛を皆さんにわけ与えてくださいね。それが、私の弟子としてのあなたの務めですよ」と言ってくださっているのです。  来月11月で、宣教23年目になります。私たちが一緒になって、心を一つにして神様に祈る時、そこに神様が、イエス様としていらっしゃるのです。本当です。それはが神様の私たちに下さった信仰のプレゼントです。神様が私と、私たちと共に何時もいるんです。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1185W (日本語) 2011 10 16W   週報通算#1185WE (英語) 2011 10 16WE Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイによる福音書22章1-14節 「招待と期待」“Invitation and Expectation”  私たちの父なる神と主イエス・キリスト、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 結婚してまだ時の浅いカップルの会話を紹介しましょう。彼らは週末に友達の7時に始まるParty に呼ばれていました。暫くしていなかった芝刈り、落ち葉の掃除をその前に済まそうとご主人は一生懸命働いていたのですが、急に奥さんの、「あなた、もうParty に出かける時間よ。準備できてるの? 」との声を聞いたのです。「あれもうそんな時間になっていたのかとご主人、急いで残りの仕事を済ませ、シャワーに飛び込んだのです。ひげをそり、髪をとかして、カジュアルな服を着て奥さんの前に出てきたのですが、奥さんの最初の言葉は、「あなた、フットボールの試合を見に行くじゃないの。招待状によるとHollywood の有名人が来るのよ。 少なくともネクタイとジャケットを着てください」。 今日の福音書はイエス様が私たちに、どんな服装が必要か、何を着たならいいのか、また着てはいけないものについて語っているのです。ある意味でこれはイエス様のたとえの中では厳しいものです。Happy End もありません。しかしその中で、大切なことを語っているのです。私たちの中で、王様の息子、王子様の婚宴のお祝いのParty に行った人はいないでしょう。しかし、一般庶民でも、王子様の結婚式がいかに大切なものか、また王様はその準備の為に沢山のお金をかけたことは想像できます。王様の跡継ぎの王子様の結婚式はこの夏のPrince William とKate Middleton の結婚式の様だったと思います。誕生日もお祝い事ですが、結婚式とそのあとの宴会ほどすばらしいものはありません。イエス様が、神の国を宴会の食事の時と比較するのは意味のあることです。神様の国に属すると言うことは、神様の催す宴会に参加することができると考えてもいいのではないでしょうか? イエス様の時代には結婚式に招ばれると言うことは二回にわたるinvitation で始まります。最初に招待状が送られます。それに返答しなければなりません。そして二回目の手紙の内容は、remainder,このおめでたい結婚式を忘れないようにとの忠告です。このお祝いは素晴らしいものですから、是非出てください、一緒にこの素晴らしい時を祝ってくださいとのinvitation です。 さて王様は召使を送ってすべての人を結婚式の宴会に招待したのですが、招待されていた人達は理由をつけていかなかったのです。またほかの人達は、王様の召使を捕まえて、侮辱を加えた上、殺してしまったのです。もしあなたが王様であったなら、この事件にどう対処しますか? 王様は怒って、軍隊を送ってそれらの人殺しを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そして、もう一度、彼のメッセンジャーを送ってこの結婚式のパーティーに来てくださいを呼びかけました。それから「婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人は誰でも宴会に連れて来なさい」と命じたのです。 王様の僕は道に出て行って出会う人は、悪人でも善人でもみな集めたので、婚宴の席はいっぱいになりました。王様がこのパーティーに入ってきて、出席者の中に礼服、つまりそのパーティーにふさわしい服を着ていないものを見て、怒り、「何で、あなたは礼服を着ないで、ここに出てきたのか」と尋ねたのです.黙ったままのこの男は王様の命令で縛り上げられ、外の暗闇にほうり出されたと書いてあります。最後に14節で「招かれるものは多いが、選ばれる人は少ない。」と書いてあるのです。この福音書の話は先週に続き、イエス様のたとえ話です。 このイエス様の話のポイントは何かといえば、たとえ話の中にあったように、神様は私たちを神様の元に招待されているということです。しかし招待されている私たちはいつも、必ずしも神様に従って生活していないのです。そこで後ろめたさを感じます。しかし、もし皆さんが芸能界のタレントのパーティーに呼ばれたとする。それが美空ひばりとか、加山雄三のパーティーだとしたら、行かない人はいないでしょう。もっとも、美空ひばり、加山雄三って誰と若い日本人に言われてしまうかもしれない。プロマイドにサインをしてもらって、握手をしただけで一生それが思い出の宝となるのですから、タキシード、またはセクシーなイブニングドレスを着て、そのパーティーに飛んでいくはずです。 しかし神様のParty とは、いつも宴会のような者ではありません。神様はいろいろな人を集め、そこで人と、人の出会いの私たちは神様のパーティーに呼ばれて、それは教会の礼拝、愛餐のときでもあります。そこで第一に、ほかの人と共に神様の素晴らしさを賛美するのです。第二に、私達は自分自身の人生、生活の中でのPriority、何が一番大切なことかを真剣に考えなければならないのです。それが何かといえば、私たちの生活の中で、神様に喜ばれる人生を送ることができるように勤めることです。私たちの生活の態度、人との付き合いの仲で、私たちが小さなイエス様になることです。 イエス様はどのような方でしか? という質問を良く受けますが、その答えは、すべての人を愛した方です。愛されたのはイエス様の弟子だけではありません。世間から嫌われている人、病気の人、生活に困っている人、悩みを持ている人、自分の将来は一体どのようになるのだろうと不安を感じている、すべての人のためにこの世にこられたのです。神様は私たちすべての者にこの神様の宴会にこられるよう私たちを招待しているのです。そこに私たちが来ることを期待しているのです。この招待はすべての人に無償で与えられているのです。そして、神様はこの素晴らしい宴会を無駄にすることはしません。すべての人が、それが良い人でも、悪い人でも、すべての人に与えられているのです。すべての人々は神の愛の対象だからです。この神様の宴会に招待されているということは二つの大切なことを意味します。その一つは沢山の人たちとお祝いの時を共有すること、そしてもう一つは私たちの生活の中で何が一番大切なことかを確認することです。それは、神様の無償の恩恵、慈悲です。神様が、私たちの無償で、神様の愛を下さる、下さっている、これからもずっと下さるのです。しかし「いやそんなことはない。神様だって悪いことをした人を無条件で愛せるのですか」と、その質問は、イエス様を救い主として受けとった人、また、まだ神様を救い主として受け取った人からも聞かれたことが何回もありました。 私たちは善行,よき行いをしたことで神様からポイントをいただくのではありません。このポイントが沢山たまって、この世を去るとき、天国に行く引き換え点となるわけではありません。 このところをRobert Caponさんという牧師さんの講演会で聴いた話を紹介しましょう。ケーポン牧師によると、私たちはUsed car , ポケットに$265ドルの現金を持って夢の中古車を探している者だというのです。探しても探しても、そんな夢の中古車は見つかりません。私から言えば、そんなところに、たった  265ドルの車なんてあるはずがないのですが。この男、駄目だ、そんなもの見つからないかとしょんぼりして家に帰ろうとしていたところにセールスマンがニコニコしながらやって来て、奥のガラージにもう一つ、君の見てない車がある、見てみるかい。これがその車の鍵だ。どうもうちの社長は君が気に入ったらし、社長はそれをただで上げるといってる。あんた幸福だね。ガラージに行ってみるとそこには車が一台だけ、それも新品のポルシェ、スポーツ・カーです。何でこれがただなんておかしいよ。何かこの車にジンクスでもあるんじゃないだろうか? 本当だとしても、新品のポルシェにかかる保険が払えるだろうか?あまり馬力が多すぎて、私には手におえないんじゃないだろうか? でもここの社長さん、なんで私にこの車をただでくれるというのか。何かたくらみでもあるのかなあー。この男の心がまだ動揺して、どうしようと惑っているその間、社長さんは根気強くその男を遠くから観察していたのです。神様はこの社長と同じです。遠くから私たちをみっめて、「私があげるギフトは無償ですよ。頭金の払いもいらない、利子もない、月ずきの払いもない。No  string attachですよ」と。 神様の国はそのようなものと聖書は語るのです。私が良いことをすることによってではない、私たちの救いは、神様から一方通行の愛によって無償で与えられているのです。私たちに神様が願われていることは、素直に神様の愛を「ありがとう、神様」と言って受け取ることです。神様の国は天国とも呼ばれますが、それは死んだ方の行く所だけではありません。神様の国は私たちのただ中、真ん中にあります。 ルカによる福音書17章20節から21節にはこう書いてあります。「神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなた方の間にあるのだ」。 聖書の中で一番、大切な時は何時かという質問が何回も出てきます。皆さんはその答えを知っているはずです。一番大切な時は過去ではなく、未来でもない。一番大切なときは今なのです。Right Now!  Right Here! です。 今なすべきことをしなければならないのです。その中で一番大切なことは神様を愛するように、お互いを愛し合いなさい、お互いを助け合いなさい、お互いを大切なものとしなさいと言う言葉です。 James Whistler と言う画家、アーテイストが彼の才能を認められて多くの人たちが彼の絵を求めるようになりました。あるお金持ちの人は彼の絵を買いたい。しかし一つだけ条件がある。それは、Jamesがこのお金持ちの人の家に来て、それをどこに飾ったらいいか教えてくれということでした。James はお金持ちのマンションで、「ここはどうか」「あそこはどうか」と一つ一つの部屋で絵を掲げた男に言いました。「あなたが本当にこの絵を一番いいところに飾りたい気持ちはわかります。でも一番良い所に飾りたいなら、すべての部屋の家具、壁にかかっているものを取り除けなさい。そうしたら、あなたが一番いいと思ったところがわかります。一番大切なあなたが宝物と思っているものは、それが家の中で一番大切なところに掲げられるのは当然です。 同じように、私たちの多くは神様を、家の中のたとえで、家具と家具の隙間に入れようとします。しかし神様は私たちに、私をあなたの家の中で一番大切な所に置いてくださいと言っているのです。神様が私たちにとって一番大切な方であるなら、わたしたちの心に中に住んでもらえるようお願いしましょう。 イエス様は言いました、「私は命のパンである。私に来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は乾く事がない」。どうか神様の聖餐を受ける時、そこに本当に神様がいるんだということを心の中で嚙み締めてください。主は何時もあなたとともに歩んでくださっているのです。   アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet  週報通算#1184(日本語)   2011 10 9W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイによる福音書21章33-46節 「神の国の果実」  “Fruits of the Kingdom” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方の上にあるように。アーメン。 先週の召天者礼拝は本当に素晴らしい礼拝でした。私はそこで、悲しみよりも喜びを、そして感謝の思いで一杯でした。皆さんが心を合わせて神様に賛美をし、神様の約束した神の国は私たちに約束されているんだと確信を持つことができたからです。 さて、今日ここで私の作ったフルーツ・サラダを見てください。バナナ、りんご、パイナップル,オレンジ、イチゴ、グレープ、いちじく、キーウイー、柿、梨、そして、さくらんぼ。おいしいですよ。 イエス様はよく色々なフルーツを彼の話の中で使っています。フルーツは、地面の中で、また葉っぱから太陽の栄養をとってできる神様のギフトです。フルーツサラダの中に沢山のフルーツがあるように私たち一人一人もそのフルーツです。神様から頂いたギフトを持つフルーツです。それは、お花を綺麗に生けることの出来る人、料理の上手な人、庭仕事が好きな人、短歌、俳句、カラオケで満足と感じられる人、新しく来た人の接待が好きな人、献金を数える、記録をする事が自分の気性に合っている人、私たちの中にはこのように神様からのギフトを頂いている人が沢山いるのです。そのお互いのギフトを使って教会の中で神様を賛美が出来ることに私たちは感謝します。全て私たちが出来ることは、神様からのギフトなのです。私たちがお互いにお互いのギフト、お互いの素晴らしさを感謝するところには神様がいつも私たちと共にいてくださるのです。 今日の福音書の話は譬え話でその舞台はブドウ畑とその畑の仕事を任された悪い小作人の話です。この小作人、これが都会の人だとしたら、借りているアパートの面倒をみない人です。その人は、アパートに入ったのはいいのですが、家賃を払わない、壁に大きな穴を開ける、そして、許可なしで部屋の中を紫のペイントで塗りつぶす、下水道は詰まったままで水が流れない。出て行って下さいと言っても出ない。最後にはお巡りさんが来て力ずくで追い出すしかありません。 ところが聖書の中での小作人はそれよりずっと悪い。ブドウ畑を収穫の時まで面倒を見るように頼まれたのです。小作人はある程度の収穫されたぶどう、それは全体の20%ぐらいでしょう。それが、小作人の収入で、80%のぶどうはブドウ畑の持ち主のものです。ぶどうの殆どはぶどう酒となります。それが結構いい収入となるのです。 ぶどうの収穫の時が来て、畑の主人は自分の僕を送り出し受け取るべきぶどうを取りに来たのです。しかし小作人は一人の僕を殺し、もう一人の僕に石を投げかけたのです。畑の主人はまた何人かの僕を送ったのですが、この僕たちも悪質な小作人によって殺されてしまったのです。私はなぜ主人がお巡りさんのような人を送らなかったのかと思いましたが,その代わり自分の息子なら軽んじられないだろうと小作人のところに送ったのです。ところが、小作人は「こいつは主人の息子だ、こいつも殺してしまおう。」と。とんでもないことをしたのです。 この譬え話の中で畑の持ち主は神様です。ブドウ畑はイスラエル、雇われた農夫はユダヤ人、僕は預言者そして息子はイエス様です。この譬え話は神様の私たちを赦すことの辛抱強さ、神様の愛、そして不正な小作人をも救いの中に入れたい神様の思いやりです。 私たち人間は、この愛を受ける価値のない者をも愛する神様の愛がよくわかりません。しかし、神様は私たちが神様を愛すること、また、それによって神様といつも密接な関係を作ることを望んでいるのです。聖書の中で、神様に“アバ父よ”と言う言葉がいたるところで見付かります。それは直訳するなら「お父様」、「お父ちゃん」です。私たちがどんなに神様に逆らうような者になっても神様の元に返ってくるように願っているのです。 最後に送ったブドウ畑の主人の息子は雇われた小作人によって殺されてしまいました。これはこの地上のイエス様の最後の時を語ってます。思い出してください。イエス様が彼の人生でエルサレムに入城したとき、群集は、「ホザンナ、ホザンナ、神の名によってくるものに祝福あれ」とイエス様をユダヤの民のリーダーとして迎えたのを覚えていますか。 そのイエス様は同じ週の金曜日にユダヤ人のリーダーによって十字架による死刑の宣告を受けたのです。そのイエス様が救い主として来られ「ホザンナ、ホザンナ」とイエス様を迎え入れた群集は今度は、「十字架につけろ、十字架につけろ」とイエス様を見放したのです。 いまこの教会に来ている人の中には人生の初めから家族ぐるみでクリスチャンとして育った方、人生の過渡期に、神様とはどのような方かと思って教会にこられるようになった方、キリスト教には関係がなかったが、友達になった人に誘われて教会に来るようになった方といろいろな理由でここに皆さんが集まっています。 70年,80年ほどの信仰生活を持って神様に全てを委ねますとはっきり宣言できる人もこの中に沢山いらっしゃいます。キリスト教のABCを教えてくださいと言う方もいます。その中で、私がはっきり言えることは、救いを求める全ての人にイエス様は神様の愛を与えてくださっていると言うことです。 今日の福音をもう一度21世紀にい来る私たちにどのように拘わるかを考えて見ましょう。 私たちは神様から送られるメッセージ、そしてメッセンジャーに耳も心も開かないことが沢山あります。あるいは送られたメッセージが、私たちを良い方に向うようにとの良い意味でのアドバイスだとしても、心の中がもやもやしている時には、「ああ、あなたのアドバイスなんていらない。私をほっといてください」ということがあるでしょう。 私の場合、その神様から送られたメッセンジャーの#1は家内のナンシーです。言葉を濁さず、私を観察して思ったことをズバット言います。「どうしたの、何でそんなに落ち込んでいるの。自分で自分が落ち込んでいるのを楽しんでいるみたいで、おかしいよ。何か心配事があるなら、私に話してよ。私はご飯の用意をするだけの奥さんではないのよ。本当に心配事、悩み事があるならイエス様にお祈りしているの? していないでしょう。あなたの態度、その傲慢な態度でどうして教会の牧師の勤めが果たせるの」と。それを何回も何回も繰り返して聞いているうちに、一人にしておいてくれと怒鳴ったこともあります。もっとも、そのすぐ後で、まずいことをしたと反省するのですが。教会の会員さんからも言われることがあります。どういう訳か私は、悩み事がある時、自分の心の中に思っていることが顔に出てしまうらしい、「先生どうしたの、大丈夫、」と言われて、「何ともない。大丈夫」と答えても、まだ心の中でのもやもやは続くのです。 牧師は信徒の前で模範でならなければならないと言われますが、模範のような顔つき、態度もあっても、そこに心がなければ落第です。しかし、牧師でも、信徒でも、同じです。同じ人間です。私の足りないとこを神様は知っています。それでも私を愛してくれる、それが神様、私の家族、それはこの教会の方々すべてを含みます。私たちはお互いを助け合うことを神様から命じられているのです。お互いを親切に、心からの言葉を持って、私たちの兄弟、姉妹と呼べる関係を築いていきましょう。 ブドウ畑はこの世で私たちが一緒に生活するところです。神様は私たちからこの世に住む私たちの支払いを期待しています。その支払いは何でしょうか? それは今日の説教の初めにお話した神の国のフルーツといわれるものLove愛、Compassion あられみ、Peace 平和、Trust 信頼、Encouragement 励まし、Courage 勇気、Prayer 祈り、Forgiveness 赦し、そして Repentance悔改めです。これらのフルーツを私たちの生活の中で分かち合い、お互いを助けて生きていけるようイエス様の導きが皆さんの上にありますように。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]