Archive for May, 2013

Tweet 詩編5月30日 詩編を読もう:全地よ賛美し礼拝せよ (詩編 96:1-9) 牧師:安達均 復活ルーテル教会日本語部は6月2日と23日の日曜の礼拝は10時の礼拝に参加して合同礼拝を守る。 ちなみに9日、17日、30日は通常通り11時半から日本語礼拝を守るし、7月8月もすべての日曜、日本語礼拝が持たれる予定。今週後半に与えられた詩編96編1節から9節を通して、復活ルーテル教会の日本語部に連なる民に、主は何を語られているのだろうか? まずは、与えられた箇所を3回、読んでみよう。 詩編 96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 3節ごとに、思いつくままに、ポイントと思われることを書いていきたい。 1-3節:「全地よ主を賛美せよ」 まず、全世界の人々全員が主を賛美するようにと勧めている。 全地、つまり国籍、言語、世代を超えて、この地球上の民すべて、新しい歌を主に向かって歌い、主の御名を讃え、賛美するように。 すべての民に毎日働いている、驚くべき主の御救いの御業を、そして主の栄光を語り伝え、すべての民が主を賛美するように。 4-6節:「主は天をも造られた」 1-3節と6-9節にはさまれた4-6節は、なぜ全地の民が同じ主を賛美し礼拝するか、その決定的な理由が書かれている。それは、主が地上に存在するものすべて、さまざまな植物、動物、人間、自然を造られただけではなく、この地を覆っている天をも造られた。(先週与えられていた詩編8編もおおいに参考になる。)それぞれの国や地方なりに、神を解釈して、結局はこの地に神々がいるということになってしまっているが、その神々を超えて、栄光なるお方、天をも造られた輝ける主が存在している。  7-9節:「全地よ主を礼拝せよ」 だから、世界中のすべての民は、その神々を超えて存在しておられる主に、最終的におちつくように。そして、その主のおられる礼拝堂に、供え物を持って入り、そして輝ける主にひれ伏し、礼拝するように。  さて、最所に書いた質問に戻りたい。この96編は何を今の私たち、特に復活ルーテル教会日本語部に連なる者たちに語っているのだろう。 カリフォルニアは、19世紀半ばまではメキシコだった。 それより前は、さまざまな民族のアメリカ原住民が点々と住んでいたところ。そして、今は、世界中のいろいろなところで生まれた方々がさらに移住してきている。 アフリカから、中東から、南米から、アジア太平洋の国々から、ヨーロッパから、また、もちろんアメリカ原住民の子孫の方々もいれば、アメリカ国内の他州から引っ越してこられた方々も。  復活ルーテル教会は、アメリカ福音ルーテル教会のパシフィカ教区に属するが、南カリフォルニアに位置するパシフィカ教区だけで、15の言語を使って、礼拝している。日本語部はその15言語で礼拝しているグループのひとつ。 アメリカ福音ルーテル教会も、さまざまなキリスト教宗派の中の、ただひとつの存在。 6月は英語部との合同礼拝が2回行われることになっているが、合同礼拝に参加する中で、この詩編96編に書かれた、全地のすべての民が、主に向かって新しい歌を歌って、天をも造られた主を賛美し礼拝するということを覚えたい。 繰り返すが、日本語部は、復活ルーテル教会の一部であり、復活ルーテル教会はアメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区でさまざまな言語で礼拝している教区の一部であり、アメリカ福音ルーテル教会も、さまざまな宗派を含む、もっともっと大きなキリスト教会の一部である。  また、1節一番最初に書かれた「新しい歌」という言葉、自分たちの育った文化の中では経験してこなかった、あまりなじみのない新しい歌を歌うことになると思うが、主にひれ伏す思いで、賛美し礼拝できますように。  復活ルーテル教会の中には、日本語部英語部を問わず、さまざまな病と闘っておられる方々がいる。その方々のことも覚えて祈りつつ、賛美し礼拝する時が持たれますように。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「どうして聖霊の働きだってわかるの?」ヨハネ16章12-15節 父なる神、子なるイエスキリスト、そして聖霊による恵みと平安が集まりました皆様の上に、そしてすべての公同の教会に連なる人々の上に顕れますように! 「聖霊が働いてそのようなことが起こりました。」とだれかが言われたのを聞いたことがあるだろうか? 聞いたばかりではなく、何かが起こって「その時、聖霊が働いた。」と、ご自身で語ったことがあるかもしれない。 しかし、いったいどうして、何かが起こったことが聖霊の働きだと言えるのだろうか? 例えば、宝くじにあたったとして、それが聖霊の働きだと言えるのか? 或いは、交通事故がおきても助かったら、それが聖霊の働きだと言えるのだろうか? 先週はワシントン州で橋が崩落する事故が起こったが、亡くなった方はいなかった、聖霊の働きと言えると思うが、仮にどなたかが亡くなったら、もう聖霊の働きとは言わないのか? 人々が聖霊の働きだというかどうかは、ケースバイケースだと思う。  今日は三位一体主日であり、神学的な観点から、その聖霊の働きが、神とキリストの思いと一致しているような場合は、それは聖霊の働きだと言えるのかもしれない。 しかし、三位一体論から、そのような結論を述べたところで、難しい話になってしまいそうだ。 何年も前の話だが、40年以上、牧師をしてきた方が、それほどの経験のある方でも、三位一体を説明するのはとても難しいと言われたのを聞いたことがあり、今日のメッセージでは敢えて、三位一体という言葉を使わないようにしたい。  願わくは、今日与えられた福音書箇所、ヨハネ福音書から、「聖霊の働き」と言える場合はどういう場合なのか、導き出せればと思う。  ヨハネ福音書といえば、14章から16章は、イエスの最後の講話と呼ばれる。 翌日には十字架に架かるイエスが、使徒たちに、いろいろな話をしたところ。 この三章だけで、イエスは、将来の聖霊降臨の約束を4回語っている。  その4回の約束のうち、3回は、イエスは聖霊という言葉ではなく、真理の霊という言葉を使っている。 今日与えられた16章も聖霊が弟子たちに来ることを約束していると思う。 しかし、ここでも、イエスは聖霊という言葉ではなく、「真理の霊が弟子たちにことごとく、真理を悟らせる。」という言い方をしている。  ここで、真理の霊という言葉のなかの「真理」という言葉について掘り下げたい。日本語では真理は文字通り、「真」という文字と理論の「理」という文字からなっている。 ギリシャ語では、真理は「アレッセイア」という言葉が使われるが、そのもともとの意味は、「隠すところがない。」つまり「本物」とか「出現、顕れる」という意味を持っている。 また、ヘブル語なら、「アメト」という言葉でアルファベット表記をするなら「amt」、それはもともと「amen: アーメン」と同じで、「確かに」とか「完全に信頼できる」という意味を持っている。 そこで、真理の霊とイエス・キリストが述べているのは、「信頼できる確かに顕れる霊」という意味合いを含んでくる。 さて、イエス・キリストは、その真理の霊がどのように働くと言っているのだろうか? 12節から15節の中の、とくに13節から、「この全面的に信頼できる真理の霊が現れて、その霊の働きは、私たちに、真理を悟らせる」ということ。 二つ目の「真理」という言葉は、イエス・キリストそのものであるともいえる。 ヨハネの14章前半では、イエスご自身が、「私は道であり、真理であり、命である。」と語っておられた。 真に顕れる、100パーセント信頼できる霊が、私たちを真理そのものであるイエス・キリストに近づける、あるいは結びつける働きをするということ。 さて、本日の質問である。聖霊の働きかどうかを知りたい場合は、「その働きが、だれかをイエスに近づくような働きをしているかどうか」という質問をしてみるのが良いと思う。 宝くじがあたった場合は、それが聖霊の働きと言えるかどうか?という話をしたが、もっと大切な質問は、その宝くじがあたったことが、その方をよりイエスに近づけるように働いたかどうかをチェックする必要がありそうだ。  或いは、例え大きな事故があっても、命が助かった場合、聖霊が働いたいえることはあると思う。 しかし、たとえ些細な事故で、だれかが亡くなった場合でも、聖霊が働いていたということはあると思う。 これは1947年に長崎県の時津町というところで本当に起きた事だが、ほとんど満員の小さなバスが、急な上り坂の途中でエンジンが止まってしまった。 運転手はブレーキをかけるが、運悪くブレーキも故障。 バスは後方に動き出してしまった。 車掌の鬼塚道男さんはバスを降りて、石を置くが、その石をバスは乗り越えてしまった。  バスの後には、30フィート以上のがけが控えていた。 鬼塚さんは、バスの下に飛び込み、自らが車止めになる。彼のバスに乗っていた人々を助けようとする情熱的で私心の無い行為が、バスを止めた。 バスに乗っていた30人あまりの乗客は全員無事。 鬼塚さんはその後、病院に運ばれたが亡くなった。 21歳だった。  私は、鬼塚さんの信仰心があったのかどうか知らないが、確かな聖霊が鬼塚さんに働いていたと思う。たとえ鬼塚さんがこの世の命を亡くすことになろうが、鬼塚青年の死は、ほかの何人もの死を防ぐことになった。明日はメモリアルデーで亡くなった方々を覚える週末。 家族や知人の中に、似たような死を遂げた方を覚える方もおられるのかと思う。 たとえ、似たような例が無いと思われた方がいたとしても、少なくとも、一人、2000年前のお方を思い出されますように。  聖霊、本当に顕れて完全に信頼できる霊はいつもあなたをキリストに近づけ、さらに、キリストに結びつけるように働いている。 その霊に気がつくとき、復活の主にある慰め、癒し、希望、喜びを覚え、そして、あなたの人生にどのような事態が発生したとしても、神の御名を賛美されますように。   アーメン “How Do You Know When It’s the Holy Spirit” Jon 16: 12-15 May the Grace and Peace of our Father, Son, and the Holy Spirit be revealed to you and all members of Pacifica Synod! Have you ever heard someone say, “Due to the work of the Holy Spirit, this thing happened.” Not only have you heard it but you, also, might have said it. However, how do you know that was the Holy Spirit? For example, if you win the lottery, would you say it’s the work of the Holy Spirit? If there is an accident and nobody’s injured, would you say it’s the work of the Holy Spirit and if someone died, would not mention the Holy Spirit? I think whether people refer to the Holy Spirit is on a case by case basis. This coming Sunday, we celebrate the Holy Trinity. However, today I will try not to use the words Holy Trinity for the rest of my message, because many years ago, a pastor who was an experienced parish pastor, for more than 40 years, said that even after all the time he spent preaching, it was difficult to know the meaning of the Holy Trinity. So I hope that we can answer the question, “How Do You Know When It’s the Holy Spirit?” by reading through the Gospel given today: The Gospel of John. The chapters 14 through 16 of John’s…

Tweet Calendar 6 2013&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年5月26日の週報 週報通算#1260号(日本語) Sunday English Bulletin 1260E 週報通算#1260E号(英語) え Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 5月23日 詩編を読もう:人類の責任 (詩編 8) 牧師:安達 均 5月26日の日曜は、聖霊降臨後の最初の主日で、多くのキリスト教会では三位一体主日を祝う。この時期、与えられている詩編は8編。 三位一体とは、簡単に言ってしまえば、「神とキリストと聖霊が一体である。」という事。キリスト教のとても大切な教えだが、奥が深くあまり簡単に理解できることでもない。そこで、あまりこの言葉に固執することなく、神と人間の関係について理解を深めることが大切だと思う。神と人間の関係を考えるなかで、後に、三位一体についても理解が深まる時が来るように思う。  与えられた詩編を3回繰り返し読んでみよう。 詩編 8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。  どんなことを思われているだろうか? 今日は1節から順番に思いついたことを書いていきたい。  1節は合唱・演奏するにあたっての説明書だが、ギディトというのは、あるきまったメロディの名前だと思われる。 2節の言葉、よく読むと最後の10節が同じ言葉で終わっている。全能の主が全宇宙にもこの地球上にも君臨してくださっているという意味の言葉がこの詩編の最初と最後に書かれ、サンドイッチになった形。サンドイッチの中身は2節の後半の「あなたの威光をたたえます。」という言葉から始まっている。  3節にいきなり、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から守る。と書かれているのは、興味深い。 主イエス・キリストが子供たちを大切にされたこととも関係があるように思う。 この地球もさらに宇宙も、将来にわたって、健全であるために、次世代が生きていける地球と宇宙の環境保全の大切さを呼びかけらているように感じる。 4節の言葉、詩編作者は夜空の星を眺め、神と全宇宙の関係について、さまざまな思いを巡らせたことだろう。それは現代の人類も同じで、特にこの4節の言葉は、私たちが、神と全宇宙のことを考えるにもふさわしい言葉。 1969年にアポロ11号が月面着陸したとき、コインに各国の指導者たちの言葉を刻み、月面に置いてきたらしい。 バチカン、つまりローマ教皇の選んだ言葉として、この詩編8編の言葉が刻んであるそうだ。  5節は、とてつもない広い天、全宇宙にあって、この地に人間を創って、主が人間に心を留めてくださっている驚き。 いったい人間とは何者? 6-9節には、この地において、神が人類を信頼して任せていること。 それは、創世記1章26節にも書かれていたこと。とくに20世紀の後半になって、人類自身の行為により、生態系が侵されつつあることに気づきはじめた。 それは一体わたしたちにどのようなことを示唆しているのだろうか。  この詩編8編の言葉を繰り返し読むなかで、神は現代の人類に、将来の何世代にも渡って、神の創造された生態系を維持管理していく責任を授けられていると感じる。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet もっと大きな業 ヨハネ 14: 8-17 集まりました会衆の上に父なる神と子なるキリストそして聖霊による恵みと平安が豊かに注がれますように! 聖霊降臨祭をもって復活節が終わる。 50日間にわたる、復活節、皆様方、それぞれに有意義に過ごされたことを信じる。 あっという間に50日過ぎて、「あら、私何もしてなかったわ」と、思われている方もいるかもしれない。 例えそうであったとしても、それは神の名において意義のある50日間だったと思う。  3月31日の主の復活日からはじまって、毎週日曜日、一度も休まずに来られた方、何回か休んでしまった方、あるいは、イースターと今日だけたまたま来たという方もいるかもしれない。 どのような50日間を過ごされたとしても、今日、この場に来られたのは、或いは、今ウェブに掲載されたこの原稿を読んでおられるのは、本当に意味のある事と信じる。   さて、三者択一の問題を出したい。 主の復活からペンテコステまでの50日間、イエス・キリストの使徒たちは、いったい何をしていたのだろうか? 1)すぐに伝道活動を開始した。2)すぐに社会奉仕活動を開始した。 3)何もしていなかった。何番だと思われるだろうか? 答えは、3)が一番近いと思う。  本日与えられた福音書は、イエスが十字架に架かる前日の晩に使徒たちに話していたこと。色々な話の中で、イエスはこんなことを語っておられた。:「わたしを信じる者は、私の行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。 わたしが父のもとへ行くからである。」 さて、イエスの使徒たちは、イエスの十字架の死と復活が起こった後、すぐに、イエスの行っていた業を行っていたのだろうか? たとえ彼等はイエスから直接学んできてはいたが、イエスの死と復活が起こった後、彼等は何もできなかった。 この復活節の説教で何度か触れてきたが、使徒たちは、最初はイエスの復活なんて全然信じられず、ばかげた話とまで言っていた。復活したイエスに会ったところで、使徒たちは、次に何をして良いのかわからず、ぶらぶらしていた。何人かは、昔とった杵柄(きねづか)で、漁師に戻ろうとも思った。 しかし、何度か復活したイエスに会うことで、だんだんと変えられていったのは事実。 変えられていったとは言え、イエスの語られていた「もっと大きな業」を行うようになるには、ペンテコステまで待たなければならなかった。  そして、ペンテコステ当日、いったい何が起こったのだろうか? 今日、読まれた使徒言行録2章には、まさに、ペンテコステ当日の様子が描かれていた。「炎のような舌がわかれわかれに現れ、一人ひとりの上にどどまった。 そして一同は聖霊に満たされて、さまざまな言語を話す人々が、互いにわかりあえるということが起こった。」 ペンテコステに起こった出来事は子供や大人さえも怖がらせてしまうような話ですらある。 しかしもっとも重要なことは、このペンテコステ当日に起こったことをきっかけとして、全能なる神から、イエスの使徒たちに、炎のような聖霊が宿ったこと。聖霊が確かに一人一人に下り、逃げ腰だった使徒たちが、イエスの述べていた、「もっと大きな業」つまりイエスの使命を、実行できるようになったこと。使徒たちは、エルサレムからはじまって、病の人々を癒したり、また、ユダヤ人か異邦人かを問わず、どんどん人々をイエス・キリストを信じる者に変えることができた。使徒たちは、いろいろなところに遣わされていく。 ペテロはローマまで行くことになり、ローマカトリック教会の初代教皇とされている。 アンデレという使徒は恐らくギリシャに来て、ギリシャ正教会の主教に。 マタイはエチオピア、熱心党のシモンはエジプトへ行き最初のコプティック教会の主教に。また、マタイはインドまで伝道に行ったともされる。 新約聖書が記された時代、飛行機も車も無い、しかもキリスト教が迫害される時代、ただ聖霊によって炎のような力が与えられ、イエスの名において奇跡的な癒しを行い、つまり社会奉仕活動であり、また驚くべき宣教活動を行うことができた。 聖霊が使徒たちを燃え上がらせ、イエスの言われていた「もっと大きな業」が行われた。    実は、エルサレムと地中海周辺で起こった聖霊降臨後の300年余りの出来事は、1500年間キリスト教に殆ど縁がなかった日本においても起こり、現代でも起こり続けていると思う。聖霊が多くの方々に働き、教会・社会に仕え、宣教活動が行われていくということが起こっている。フランシスコ・ザビエルは、聖霊により炎のような力が与えられ、日本に来て、伝道活動を行った。現代のようなポルトガル語と日本語の辞書もないのに、彼は日本人と会話し、毎日何百人もの人がイエスを礼拝しにきた。政治的な圧力からキリスト教は禁止され250年あまりの鎖国があった。1850年に日本のドアは再び開いたとはいえ、キリスト教禁止は続いていたので、英語教師や医師としてキリスト者たちが日本に入り、そして遂に、1870年代には、日本人もキリスト者になれることになった。以後140年のキリスト教伝道の時代が続いている。 といっても、16世紀の伝道時代とあわせても、日本のキリスト教伝道の歴史は200年と少しの年数しかたっていない。ローマだって、キリスト教を本当の意味で受け入れるのに300年かかっており、日本においてもっと多くの方々がキリストを受け入れるのには、まだまだ時間がかかるのかもしいれない。でも、カリフォルニアに住んでいる我々はどうなのでしょうか? なぜ私たちは、カリフォルニアでクリスチャンとして生活しているのでしょうか? 統計によれば、日本に住んでいる人々より、海外にいる日本人・日系人の方が洗礼を受ける人数が多くなっている。 しかも、この南カリフォルニアにいる日本人・日系人は、海外の中ではとても多い。 確かに、聖霊の炎は働いており、この地で日本語を話して生活をしている方々が洗礼を受けるようにいろいろな方々が遣わされている。 そして、みなさんも、その一部。 洗礼は、ある牧師とある受洗者だけの関係ではなく、聖霊に導かれた人々がいろいろな形で働いて、洗礼ということがおこる。 この復活ルーテルでも、これからもさらに洗礼者が出続けるように、皆様がさらなる聖霊の働きを受け周りの方々が洗礼を受けられるように働かれるように祈る。 それは、イエスのおっしゃっておられた、「もっと大きな業」の一部を成すことで、大きな喜び。 Greater Works Than These John 14: 8-17 Grace and Peace to you in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit! Pentecost is the last day of the Easter Season. During the last 50 days, I believe you all had a meaningful season. Some people might say, “I did not do anything during Easter.” Even doing nothing is OK. I still believe that your 50-day period was meaningful in the name of our Father, God. From March 31, there are people who worship every Sunday and there are people who can’t make it every Sunday. Or there may be people who come only at Easter and Pentecost. Whichever category you belong to, I believe it is so meaningful that each one of you are worshiping the Lord, Jesus Christ, on this Pentecost Sunday. Let me ask you a simple multiple choice question. What were the apostles doing for the first 50 days between the resurrection of Jesus and Pentecost? 1) They were evangelizing people, 2) They started social ministries, and 3) They did not do anything missional at all. What do you think the answer is? The answer is 3…. The Gospel read today is what Jesus was saying on the night before he was crucified. Among the many words he spoke, there was one sentence: “Very truly, I tell you, the one who believes in me will also do the works that I do and, in fact,…

Tweet 2013年5月19日の週報 週報通算#1259号 (日本語) Sunday English Bulletin 1259E 週報通算#1259E号 (英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 5月16日 詩編を読もう: 神の息 (詩編 104) 牧師:安達 均 キリスト教で三大祭を挙げるとすれば、クリスマスの降誕祭、イースターの復活祭、そしてペンテコステの聖霊降臨祭。 今年の5月19日、来週の日曜は、三大祭のひとつ、聖霊降臨祭にあたる。 聖霊降臨祭を迎えるにあたって、与えられた詩編は104編の後半部分。 以下に書き出してあるので、例によって、ぜひ、3回読んでみよう。 一回目は、気になったところを書き留めるなり線をひくなりし、二回目は、神はいったい自分に何を語っているか? そして三回目は、神はいったい自分の所属するコミュニティに対して何を語っているか? 思いを巡らして読んでみよう。   詩編 / 104編 24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。 25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。 27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。 30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。 31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。 32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。 33:命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。 34:どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。 35b:わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。 おひとりおひとり、どんなことを思い巡らされただろか? 私は概ね以下のようなことを考えている。  気になった節: 30節 「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」 “御自分の息”とは、神の息で、それは聖なる霊の意味になってくる。 まさに、聖霊降臨祭を控えて、この言葉が気になる。  神は私に何を語りかけているか: 私は先週、5月7日に肺炎との診断が出た。 5月1日から4日は、シノッドアッセンブリと称する、教区長が議長となって約400人の方々が集まる会議に出ていた。教区長補佐として、自分にも、かなりの負荷が架かっていたかと思う。会議の途中から、肺炎になっていたのだろうが、息がきれるとか、咳が出るといった肺炎らしい症状は何も出ず、肺炎に罹っているなどとは、全く想像できなかった。 ただ、右側上腹部に、夜中だけ、痛みを感じてはいた。 夜中は痛くても朝には不思議に回復し、自分の責任を果たし、アッセンブリを終えた。教会の 一部となって仕えるとき、神の息、それは人間が理解している空気とか風というものをはるかに超えた聖霊の力が、私の心や魂に働いていたように思う。 また、7日には痛みの原因が肺炎だったとわかり、さらに抗生剤の治療を受けて、癒され大幅に改善している。 与えられた詩編を読むことで、肺炎の真っ只中に、神が働いてくださっていたことに気づかされる。 そして、神への感謝と賛美の気持ちが沸いてくる。    私の所属するコミュニティに何を語りかけているか: 31節には、「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。」と歌われている。もともとは詩編作者の個人的な願い祈りとも解釈できるが、この詩が聖書の一部となり、私たちコミュニティにも投げかけられていると感じる。 聖書を一生懸命読むが余りある部分に捕われ、「世の終わりがもうすぐきますよ。」というようなことを語られる方がいる。32節を読むとき、この地球上で災害が起こることは否定しない。しかし、私は、今日の詩編の31節を読み、さらに聖書全体を読んできたなかで、神はご自分の創られた創造物を永遠に喜び、主の栄光がとこしえに続くことを良しとされていると信じる。 コミュニティ全体が、神の息、つまり聖霊が、今の世にも働き続けていて、たとえ、地球環境が病にかかっているような状況にあったとしても、地球がその状態から癒され、さまざまな動物たちや植物も含め、そして、その一部である人間も、健全に世代交代を続けていけるような状況へと神が快復しようとしてくださっている。  さまざまな病や困難におられる方々へ、神の息が働き、癒され、そして希望と喜びが与えられますように。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet Mother’s Day- Heinz Guderian said: “There are no desperate situations; only desperate people.”There are people so overwhelmed with the detours and disappointments of life that they do things beyond our comprehension. Justino Diaz was not emotionally equipped to handle the difficulties and setbacks that confronted him….So, one day, when his family of 13 gathered around the dining room table, he doused them with gasoline and set them on fire with a blow torch.We can hardly imagine anyone doing something so horrific and yet we hear about such things daily…. Recently a mother in Washington state stood outside a Taco Bell trying to sell her two day old infant for $5000. She settled for $500 before being arrested.The same week, a Chicago policeman, stole $50,000 from an elderly woman on his beat to pay off his gambling debts. Desperate people do desperate things. In out Gospel we meet a mother who was desperate but instead of doing something immoral-unethical or illegal….She did something irrational….She went to Jesus expecting that he would heal her sick daughter. Well, what’s so irrational or odd about that? Remember, she was a woman – strike one! She was Gentile- a non-Jew- strike two! She was a Canaanite – strike three! To put it simply, Jews and Canaanites did not get along very well together so this woman would have been considered something of an outsider or outcast. Nevertheless, her daughter was sick and like all good mothers she was willing to go the extra mile for her…..Before coming to Jesus…

Tweet 2013年5月12日の週報 週報通算#1258号 (日本語) Sunday English Bulletin 1258E 週報通算#1258E号(英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace