Archive for October, 2015

Tweet 今週は10 月29日から11月1日まで、聖書日課に与えられている詩編119編1-8節を読もう。 いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編119編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。来る聖日は復活ルーテル教会では日本語宣教が始って27周年の記念礼拝となる。姉妹教会の大江教会・立野牧師に説教をお願いしているが、与えられている福音書はマルコ12章28-34節で、当時のユダヤ教の指導者とイエスの「最も大切な掟」に関する問答。その問答の中で、「神を愛し、隣人を愛する」というこの二つが最も大切な掟であることが明らかになるが、そのようなことも考えながら、この詩編が現代の私たちに語りかけてくることについて観想しよう。  詩編 119編 1:いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 2:いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 3:彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。 4:あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。 5:わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。 6:そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。 7:あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。 8:あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 「いかに幸いなことでしょう」と言葉で1-2節とも始っているが、私にとっては、3節の「主の道を歩みます」という言葉。 過去数週間にわたって、聖日の福音書は、マルコ9章以降を拝読してきているが、主イエスに従うこと、主イエスの道を歩むことはどういうことが、一つの大きなテーマとなっており、この詩編119編で詠われる「主の道を歩む」ことに興味を抱く。   詩編作者の気持ちを想像しながら、1-8節の内容を吟味したい。8節までに詠われていることを簡潔に一文で書いてしまえば、「幸いとは主の律法を守って、主の道を歩むこと。」となるのかと思う。 詩編では、様々な言葉を使って、主の道を歩むことがどういうことかを表現している。 「まったき道を踏む(1節)」、「心を尽くして主の定めを尋ねる(2節)」、「決して不正を行なわない(3節)」、「あなたの命令を固く守る(4節)」、「あなたの掟を守る(5節)」、「あなたの裁きを学ぶ、まっすぐな心であなたに感謝する(7節)」という言葉が、きれいに並べられているように感じる。 そして8節は、「あなたの掟を守ります」という誓いの言葉と、「どうか、お見捨てにならないでください。」という嘆願で終わっている。 詩編作者は、この誓いの言葉と、赦しを請うような言葉を詠うことになったかを思うと、おそらく詩編作者に、主の道を歩みきれないような過去があったように思える。6節では「どの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう」と詠っているが、詩編作者が、主の道を歩みきれないがために、自分自身が恥ずかしくてしょうがないような状況があったような状況が見えてくる。  与えられた詩編119編1-8節は、これを読む現代の私たちに何を語ってくれているのだろうか? 冒頭に書いたように、聖日に与えられている福音書箇所とのかねあいから考えたい。 与えられた福音書では、律法学者は「もっとも大切な掟は何か」ということが、議論になっており、いわば、頭で大切な掟は何か焦点にしようとしている。それに対して、この詩編作者が詠っていたことは、律法の内容が何なのか、とか、最も大切な掟は何かということは、一切触れていない。モーセ五書に書かれていた掟の数は600以上にも上っていても、ユダヤ教徒とし十戒とそれ以外の数々の律法の内容を把握するしていることが、当たり前だったのかもしれない。そして、詩編作者が強調して詠っているのは、律法を守って、行動・実行することの大切さを、教えてくれているように思う。 現代の私たちも、十戒は学ぶにしても、いちいち、600の律法の内容を細かく吟味することは稀。今日の詩編は、イエス様が語ってくださった、「主を愛し、隣人を愛する」というこの二つの掟を、頭で理解するということが最も大切というわけではなく、この二つの掟を守って、行動することが、最も大切であると、主は語られているように思う。「主を愛しなさい、隣人を愛しなさい」を実行に移そう。それが「幸せ」なのだ。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ10:46-52 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上にも、また聖霊の働きにより、今日はここに集えない方々の上にも豊かに注がれますように! わたしの学んだ神学校、ミネソタにあるルーサーセミナリは、アメリカにある8つのアメリカ福音ルーテル教会の中でも規模の大きな神学校だった。幸いなことに、ルター派の神学者でだけでなく、様々な修派の神学者たちが、教壇にたっていた。 あるとき、ゲストスピーカとして、もともとはメソディスト系の旧約聖書学者が、講演に招かれており、聞いたいた。最初に、「ルターは、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみということを言っているが、“のみ”といいながら、なんで三つあるのかがわからなかった」という話からはじめた。最近、ルーテル復活ルーテル教会の信者になられた方もいて、はじめて「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉を聞き、同じ疑問を持たれている方もいるかもしれない。   「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉は、ルター派教会のトレードマークのようになっているが、みなさんは、どんな風に捕らえているだろうか。今日は、宗教改革記念日ということもあり、ルターだけではなく、16世紀の多くの宗教改革のリーダたちが主張した、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」ということについて、与えられた福音書から考えを深めてみたい。  福音書記者マルコは、バルティマイという盲人が、イエスに近寄り、「憐れんでください。」と二回、さけんでいる様子を伝えている。 盲人の心境を思うと、とてつもない憐れみをイエスは覚えたのだろう。 というのは、当時の社会情勢から、なにか不幸があったり、体の不具合があったりする場合、とかく、過去に罪深い行為、悪い行いがあったから、あるいは、先祖がなにか罪をおかしたから、そんな不遇な目にあっているという解釈がされた。  しかし、聖書が伝えていることは、私達人間は、みんな罪人なのである。 「私は神に対して罪人ではないが、あなたは神に対して罪を犯した。」などということ自体が罪ということになってきてしまう。 そして、イエスはそのような社会に憤りを覚えていた。 目が見えない上に、バルティマイは、神の罰を受けているからなのだ、というレッテルを貼られて苦しんでいるバルティマイの気持ちを、イエスはハラワタがひしひしと痛むほどに、わかっていたのだと思う。 そして、騒いでいたバルティマイをしかって黙らせようとしていた人々とは、逆に、イエスは、バルティマイのさけんだ通り、憐れみを持って、「あの男を呼んでくるように。」と言われる。 そして、目が見えなかったバルティマイが開眼する。 バルティマイの目が見えるようになったことについて、イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と話された。「あなたの信仰」とはなんだろうか? その信仰とは、頭でイエスを理解した気になって、「イエスを救い主として信じます」ということより、バルティマイが、イエスこそなんとかしてくださるという、自分の希望も拠り所もすべて、イエスに掛けて、生きていこうとする態度そのものが、信仰なのではないだろうか。 バルティマイは、イエスからは、「行きなさい」といわれたにもかかわらず、イエスから離れていくようなことはなく、イエスの道に従ったと、今日の福音書の最後に書かれている。 イエスの道に従う信仰は、十字架の死と復活を通して、明らかになる。それは、イエスが十字架に架けられるとき、逃げていってしまった弟子たちさえも、イエスが赦し愛してくださること。そして、人種や国籍を超えて、私たち一人一人を憐れんでくださっている、という神からの恵みのみにより、イエスに全信頼をおき、すべてをイエスに掛けて生き続ける信仰があるのではないだろうか。   さらに、そのイエスの恵みを、キリスト者が覚えることができるのは、聖書に綴られた、御言葉のみを通して、人間に与えられるのではないだろうか。 もちろん、われわれの実生活の体験の中で、イエスの愛を覚えることはある、しかし、その背後には、聖書のみに語られたストーリがあるから、恵みを覚えることができるのではないだろうか?  いや、そんなことはない、私は聖書は読まなくても、映画や小説の中で、イエスの恵みに触れることがあるという方がいると思う。 しかし、そのような映画や小説ができている背景には、聖書のストーリ、神の愛が大元になっている。  ルター派教会のトレードマーク、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」という言葉は、ちょっと言葉を補足して言い換えるなら、「聖書のみに顕された、イエスから与えられる恵みのみを通して、イエスを救い主と信じることができ、その信仰のみによって、罪深い全ての人間が正しき者とされる。」と言い換えることができるのではないだろうか。 新しい1週間、聖書の描かれたバルティマイのストーリを通して、与えられた主イエスの恵みにより、さらに信仰が与えられ、バルティマイのストーリが、皆様一人一人のストーリーに重なってきますように。そして新たに喜びを与えられ、主イエスに従い続けることができますように! アーメン  安達均 Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone Mark 10:46-52 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured unto each one of you! I received theological education through Luther Seminary in St. Paul, Minnesota, which is the largest seminary out of 8 ELCA seminaries. Luckily, I could listen to lectures or discourses not only from Lutheran theologians or Bible scholars, but also from many other denomination scholars. One day, I was listening to a lecture spoken by a guest scholar of Old Testament from Methodist. He started with the words something like this, “Martin Luther said “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” but it did not make sense to me at all at first, because if alone, why three?” Since some of you became members of Resurrection Lutheran very recently, you might have the same kind of question. Or for some of you, “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” was the first time to hear it…. “Scripture Alone, Grace Alone, Faith Alone” is a kind of trade mark for Lutheran Church. For those of you who are Lutherans for many years, how do you answer to the question by the Methodist scholar? Today, it is the Reformation Sunday. Why don’t we think about this question a little bit deeper? In the Gospel text today, Bartimaeus, who was a blind person, came closer to Jesus shouting twice, “Have mercy on me.” When Jesus thought about Bartimaeus, I believe, he felt…

Tweet 2015年10月25日LCR日本語部週報通算第1373号 2015年10月25日宗教改革主日聖餐礼拝の週報 October 25, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin Reformation Sunday 1373E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は22日から25日まで、聖書日課に与えられている詩編126編を読む。6節だけの短い詩編なので、繰り返し何度か読もう。そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編126編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。特に、来る聖日はルーテル教会では宗教改革記念日となるが、福音書として、バルティマイという盲人がイエスに「憐れんでください」と嘆願し、目が見えるようになる話が読まれる。そのようなことを考えながら、じっくり、この詩編が現代の私たちに語りかけていることを観想したい。 詩編126編 1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、2節、5節、6節に繰り返された「喜びの歌」という言葉。  詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。英語に訳されたものを読むと明らかになったが(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い・祈り)。つまり、1-3節ではバビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、6世紀以降に起るであろう、何かの困難に直面した時が来ようが、主に頼ることが鍵であり、どんな困難からも解放が、そして喜びが訪れるという希望・祈りが 詠われているように思う。一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、民は夢を見ているような気分となった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々さえも「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われてしまう私たちを解放してください(4節)。涙ながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。 与えられた詩編146編は、これを読む現代の人々に何を語ってくれているのだろうか? 冒頭に書いたように、聖日に与えられている福音書は、目が見えなかったバルティマイが、見えるようになる話。いわば、目がみえないという事実に捕らわれていた盲人に、解放が訪れたことを振り返る。1-3節では、現代に生きる私たちが、いかに、主なるイエスにより、解放が訪れたことを振り返るように導いているのではないだろうか?また後半の4-6節では、現代に生きる私たちも、将来の世代だって、さまざまな困難に直面する。自分の力ではどうしようもない困難を体験する。 しかし、主なる神がご自身で創造されたすべての民を愛してくださっており、困難を体験する人々が、主なる神にひたすら憐れみを求めることができ、信仰によって、かならず解放は訪れる。また種まきをする人と種を運ぶ人、それが収穫の時期には、大勢の人が収穫の喜びを味わえるように、その解放とは、個人的に一人一人の中でも訪れるし、教会という人々の集まりの中でも現実のものとなる。 そして、その恵み深い体験が、周辺の人々にも、大きなインパクトを与えることになる。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ10:35-45 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に、また、今日はここに集まることができない兄弟姉妹の上にも豊かに注がれますように! みなさん日本茶をすごく苦いと思うことあるだろうか? ほとんどの方が日本茶を飲むことが習慣のようになっていて、そんなことを言われても、とても苦いという感覚はないのかもしれない。 もう45年近く前の話になるが、私の兄は日本のカトリックの高校に通っていたが、その3年生の時、一年間、ペンシルベニア州の家庭にホームステイで留学していた。日本からのおみやげとして、日本茶を持っていった。 ホームステイ先について、兄から手紙が来た。 その手紙には、着いて早々に、日本茶を入れて、飲ませたとのこと。 ところが、ホストファミリーの父親は、飲むなり「苦い」といって、あとは全然飲めなかったそうだ。また高校生の息子もいたが、彼の反応も最初は同じだったが、砂糖を入れて、残りを飲んだそうだ。   なぜこんな苦いものが平気で飲めるのか、しかし、私たちは、飲めるばかりではなく、お茶はおいしいのである。私たちは不思議とは思わないが、はじめてお茶を飲んだ人からみれば、本当に不思議なのかもしれない。 与えられた福音書の直前には、イエスが3度目の受難予告をしている。 1回目、2回目のパターンと同じで、イエスが3回目の受難予告をしても、弟子たちにはピント来ない。今回は、ヤコブとヨハネが、イエスに願いごとをしている場面が与えられた福音書は描かれている。 願いごとというのは、「イエスが栄光を受けるときに、私たちをイエスの横に座らせてください。」というもの。 ヤコブとヨハネは、イエスが苦しみを受けるだとか、十字架に死にて葬られるなんてことは全然わかっていなかった。 そして、イエスが、私が飲む杯をいっしょに飲めか? その杯とは、弟子たちは栄光の杯のことをいっていると思って、つまり、ローマ軍に対する勝利の象徴の祝杯というか、ローマの圧力から解放される、祝いと喜びの杯のイメージを持っていたのかと思う。 しかし、イエスが伝えたかったことは、勝利の祝杯などではなく、日本語では苦杯をなめるという言葉があるが、苦しい思いをすることをさしていた。弟子たちは、そのようなことはわからずに、イエスの杯をともに飲むこともできるしとして、自信をもって、「できます」と答えていた。   しかし、イエスの話したことで、見逃してはならないことは、どんな苦しみを受けようが、さらに死んで墓に葬られようが、三日後に復活が控えている、永遠の命が、神によって与えられることを強調しておきたい。 イエスは、その苦しみの中を通っていくなかで、復活の新しい命が与えられることを伝えたかったのだと思う。 さて、このマルコ10章に書かれた話、キリストの弟子たちのとの対話から、現代の私たちは、何を学んでいるのだろか? 30年近く前だが、大学時代の友人と会っている時、クリスチャンである私に、次のような話になったことがある。彼は私と同じ工学部で学んだが、商社に就職し、最初から給料も高く、私が月100時間も残業して、心臓カテーテル検査装置といって心臓の専門医が患者の心臓のどこに問題があるかを診断するための医療機器を開発していたが、それでも、彼からしてみれば、私の給料は、わずかで、彼から見れば、私の生活は本当に苦しく見えたのだろう。 彼からしてみれば、私に勝利しているような感覚があったかと思う。そして、彼には、私以外にもクリスチャンの友達がいたようだが、彼が知るクリスチャンは、みな苦労しているということを言っていた。  私は、それを聞いて、彼はよいことに気がついているなと思った。 というのは、イエスがいう、「私に従いなさい」というのは、イエスがそうであったように、徹底的に仕えること、僕となること、自分を無にすることでさえある。 苦労をするし、苦しみを味わう。 あるいは、キリストが十字架に架けられて殺されたように、信仰を持つがゆえに、殺されてしまうことだってある。 守部喜雅というキリスト教に関する本をいろいろ出している先生がいるが、彼は、日本のキリスト教の歴史において、約250年ものキリスト教の禁教をし、キリスト信仰を持つものを死罪にしてきた日本は、実は殉教者の数が一番多い国でないだろうかと言う。 キリストに徹底的に従うことは、苦杯はなめるし、死ぬことだってあるが、イエスにある永遠の命に授かることでもある。 決して苦杯が苦いままではないし、死は死では終わらない。  私たちは、いつも礼拝で、聖餐式に授かるが、それはイエスの苦しみの血が存在している杯をいただく。それゆえ、聖餐式の杯は、苦杯なのだと思う。 ルーテル学院の上村敏文準教授は、日本にひろまったお茶(ティーセレモニー)は聖餐式と深い関係があり、苦いお茶を飲むことによって、イエスの苦しみを覚えるという意味があるのではないかと言われていた。 聖餐式では、イエスの苦しみそして死を覚えるが、しかしまた、日曜日の復活、復活後のイエスから与えられた、すべての人々に与えられた赦し、恵み、永遠の命、そして喜びを覚える。苦杯であっても、その苦さが苦いままでは終わらない。その苦味、苦しみが、喜びの味に変わってくる。 すなわち、どんなに苦しい仕事の毎日を送っていようが、自分がどんな状況があろうが、イエスの死と復活によって、すなわち、主イエスにある信仰による、神の愛によって、苦しみの日々は喜びの日々に変わっていく。 主イエスにある、喜びを覚えて、新しい一週間を歩みたい。 アーメン 安達均 The True Joy in the Bitter Cup Mark 10:35-45 May the Grace and Peace of our Lord be with you All! Have you ever thought that Japanese tea is very bitter? Most Japanese people are accustomed to drinking Japanese tea, so they probably do not think it is very bitter. My oldest brother studied in the US, for one year, when he was a senior in high school. He home stayed with a family in Pennsylvania. He brought with him Japanese tea and served it to the family. He wrote a letter to us about his experience serving the tea. His host family father could not drink Japanese tea at all. Also there was a family member the same age and grade level as my brother, but he put sugar into the hot tea. For them it was a mystery why Japanese people could drink such a bitter tasting beverage. However for Japanese it’s no mystery at all. Green tea is not bitter, but tastes good. The Gospel given today, just three sentences before the gospel, Jesus was pointing out that he would be killed. In spite of his words repeated for the third time, the disciples did not understand what Jesus meant. This was the same pattern as with the first and second mentions of his suffering and death. However, this time, John and Jacob asked Jesus, “Grant us to sit, one…

Tweet 2015年10月18日LCR週報通算第1372号 2015年10月18日の週報 October 18, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1372E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は90編9節から16節を読もう。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに、この詩編を通して何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編90編 9:あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 10:あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 11:主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 12:彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 13:あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 14:「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 15:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。 16:生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」 出張中のため、牧師のコメントは、以下ごく簡潔にまとめます。 インパクトのある言葉: 9節の「あなたは主をさけどころとし、いと高き神を宿るところとした。」 詩編作者の気持ちを思うと、ダビデが、また後の神の子イエスが現われることも預言を受けていたのだろうかと思う。ダビデ(そして後のイエスも)徹底的に主を避けどころとして、生きるがゆえ、どんな困難をも、神によって、通り抜けていくことができた(できる)。 観想: 神は現代の私たちに、徹底的に主に頼って、つまり、神/そのひとり子・イエスに在る信仰を持って、今の世も生きるように、導いている。 かといって、どんな無茶なことをしても、だいじょうぶという意味ではない。 あえていうなら、信仰をもって生きるなかで、どんな困難に遭遇することがあったとしても、だいじょうぶということ。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ10:17-31 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 先週、火曜から水曜日にかけて、バークレーにある神学校のカンファレンスに参加した。将来の牧師候補生は先輩牧師と連絡を取り合いながら牧師になる過程を歩むが、その双方の学びの時だった。私は特定の牧師候補生に対して、先輩牧師としての連絡をとりあう立場にはないが、アジア系の神学生が増える様相があり、一人の神学校教授から招かれ、参加していた。 牧師あるいは神父というと、わたしは実に多くの主教、神父、牧師から影響を受けたと思う。その中でも今日は、私とさと子の結婚式の司式をしてくださった牧師の話をしたい。亡くなって17年になるが、亡くなる前にこんなことをいっておられた、「私は何も持ってない。 だから幸せなんだ。」 その言葉は、新鮮で、当時30代半ばだった私にとって、そんなことは考えたことはなかった。 当時の私たちにとっては、家ももうちょっと大きい家に住めたらいいなと思い、マンションから戸建てに引っ越した。給料ももう少しもらえたら良いな、とか、子供部屋にもエアコンをつけたほうが良いな、などなど、いろいろ欲しいものがあった。 だから、なにも持っていないことが幸せだという概念は、私には縁遠いものだった。  そして、今、その牧師が言っていたことを思い返すとき、なんで、そんな心境になれたのかを思い返すとき、本当に何も持っていないから、幸せなのだということを、言いたかったのではないと思っている。 じゃあ、牧師は何を私たちに伝えたかったのだろう。 与えられた福音書の中で、イエスは資産家に慈しんで、語っている、「あなたに欠けているものが一つある。」 いったい何が欠けているのだろうか?その後のイエスの言葉は、「持っている者を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」とある。 持っているものは売り払うなんて、一つどころではない。 これは厳しい言葉だ。 キリスト教会の2000年の歴史を振り返るとき、このイエスの呼びかけに応えようとした人々が大勢いた。たとえば、一世紀のクリスチャンたちは、「すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒2:43-44)とある。 キリスト教会とは、そのような人々の歩みなのだと思う。 それにしても、イエスはこの資産家に何が欠けている、といいたかったのだろうか? イエスは、この資産家にも、すべての人々に、持っているものをすべて、売り払って、イエスに従うようにということをおっしゃりたいのだろうか?  資産家、あるいは金持ちの話となると、ザアカイという徴税人の話がルカ福音書19章に登場している。彼の場合は、イエスに出会って、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)と言う。そして、イエスは「今日救いがこの家に訪れた。」(ルカ19:9)と言われる。 イエスは、ザアカイの50パーセントを良しとしており、すべての人に、「あなたの持ち物をすべて売るように。」などとは言っていないことを確認したい。 それにしても、じゃこのマルコ10章に登場した、資産家に欠けていた一つのこと、とはいったい何なのだろうか?  資産家は、イエスが慈しんで言われたことを聞いた後、気を落として、悲しんで立ち去る。そして、聖書は「資産家はたくさんの財産を持っていたからである。」と記している。 この資産家の行為によって、私たちには、彼はイエスの元を離れ、自分の財産に頼って生きていこうとしていることが明らかになってきているのではないだろうか。 イエスには、最初から、この資産家が自分の財産に頼って生きようとしていることがわかっていたのでなないだろうか。 つまり、ひとつだけ、「主に頼るということ」に欠けた人生を送っていたことを問題にして、イエスは、憐れんで、この資産家にすばらしい助言をしてくださったように思う。 さて、私たちを結婚式をしてくれた牧師の話に戻りたい。「何ももっていないから幸せだ」と言ってくれた牧師が、繰り返しになるが、本当に伝えたかったことは、何も持たないことがそのまま幸せにつながるということではなかったと思う。牧師の言葉の裏には、「主に頼りきって、教会にすべてを捧げてきた、自分には何もない人生だから、幸せだ。」ということを言われていたのだと思う。 現在アメリカ福音教会の牧師たちの半分以上は、50歳以上の年齢だ。 引退する牧師がつぎつぎに出てきている中、新しく牧師になる人々の割合は少ない。 牧師が足りない時代に入ってきている。 実際問題、我々の教区だけでも、ここ二年間に、3つの教会の門を閉じた。とても厳しい経験をしている信徒の方々がいる。 しかし、必ずしも、教会を閉じることが悪いことだとも思っていない。 なぜなら、私たちは、死が終わりではないということを知っている。 また、日本の諺には、失敗は成功の元という話もあり、実際、そうなのだと思う。 さて、今日のメッセージは、次の言葉を持って、まとめたい。 将来の教会のための牧師、教会のリーダ育成、またそのための、神学校への資金援助は、深刻な課題である。 もしも、イエスに徹底的に頼るなかで、将来牧師へのコーリングを感じている方がいたら、ぜひとも、私に相談して欲しい。皆様方の寛大な献金と、将来の牧師探しへの協力に感謝しつつ。 アーメン 安達均 “One Thing You Lack” Mark 10: 21-27 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be showered upon us in this sanctuary! I was attending a conference last Tuesday and Wednesday that teaches mentor pastors and mentees who are in candidacy to become pastors in the future. That was a wonderful conference and I believe both mentors and mentees learned a lot. Although I am not yet a mentor pastor, due to the fact that there are several Asian prospective candidates in Southern California, a seminary professor invited me to attend that conference. When I think about pastors/fathers in my life so far, there are many who influenced me. Today, I would like to talk about Pastor Keisuke Soma who married Satoko and me. He passed away 17 years ago. Before his earthly death, we met with him right before our family came to the United States. One thing I remember what he said to us very graciously was “I do not have any possessions that is why I am blessed.” For us, at that time we were in our mid-30s, at least for me, I had never thought about such things, and his words were so fresh. At that time, I was still living in Tokyo and we wanted to move from a condo to a house and we did, we wanted to have more income, we wanted to have AC for our kids’ rooms,…

Tweet 2015年10月11日LCR日本語週報通算第1371号 2015年10月11日の週報 October 11, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1371E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年10月8日 詩編を読もう:神の御業を仰げ (詩編90編12-17節) 今週は10 月8 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編90編の後半12-17節を読む。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考えたいと思うが、昨年11月に1節から12節までをとりあげたが、前半に何が書いてあったかも、さっと振り返りたいと思う。そして神はこの詩編箇所を通して、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編90編 12:生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。 13:主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。 14:朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。 15:あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。 16:あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。 17:わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。 気になる言葉やインパクトのある言葉としては、「私たちの手の働きを、確かなものに」という願いが二回強調されていること。    詩編作者の立場を思って詩編90編を読んでいきたいが、1節から11節までには、どんなことが書いてあったか、ざっと振り返る。まず1節には【祈り。神の人モーセの詩。】となっていた。モーセの生涯を思って、後世の一人の詩編作者が詠んだものと思われる。2節から11節は、神は永遠という単位におられ、山や大地が生まれる前からおられる、それに比べれば、1000年といえども、一夜のごとく。ましてや一人の生きる70年ほどの期間は短いが、それでも私たちの罪はあらわとなり、労苦と災いのうちに過ぎ、神の怒りに気づかされる。 モーセにとっては、出エジプト以降、カナンに到着直前までの40年の日々に、民が神の思いに反する行いをし、本当に厳しい年月であったことを振り返っているように思える。 だから、生涯の日々を正しく数え、知恵(主を畏れる心)を得られますように(12節)。主よ、怒りのままでおられることなく、お戻りください。いつまで私たちを見放しておられるのですか、主の僕を励ましてください(13節)。朝には主の慈しみで満たして、(これから生きる世代の生涯は)、喜び歌い、祝うことができるように(14節)。主が民を苦しめられた日々、年月を思い返し、喜びを返してください(15節)。主の民があなたの業がすばらしいものであることに気付き、次世代のものたちが、あなたの光を仰げますように(17節)。主の喜びが、民の上に注がれ、私たちの手の働きがあなたの御旨にかなう確かなものとなりますように。 さて、与えられた詩編箇所を振り返るなかで、今、神が私たちに何を語られようとしているか、現代にあって、どういう意味を持っているのかを考えたい。数週間前には、栃木県周辺では大洪水が起こり、今週は北海道で大型台風が襲っており、今週はアメリカ東部では、洪水でたいへんなことになっている。このような時代、神の怒りだといわれる方がいたりする。私には、本当に神が怒っておられるかどうかはわからない。 今週火曜と水曜の二日間だけ、教会の新しいリーダ育成のためのカンファレンスがあり、バークレーの神学校まで出張していた。東部の各地で起こっている洪水等のため、参加予定の方で来れない方々がいた。 また、サウスカロライナからなんとかかけつけることができた牧師は、教会員の方々で、洪水の被害に会われている方がいるとのことで、教会のスタッフや、教会員の方々となんども電話連絡をとりあっていた。それでも、研修会のディスカッションにもよく参加されていた。さらに、彼の結婚相手は、ハーフジャパニーズで、彼の義理の母は熱海で育ちとのことで、私に親しく話しかけたりしてくれた。彼が指を動かし、電話をかけていたその相手は、洪水の真っ只中に置かれている町に住む人々。それを思うと、彼からの暖かい語りかけがどんなに心強いものか、想像がつく。教会、主イエスの体、に仕える者の手が、主の御旨にかなって、どんな状況の中でも、神の愛が、主を畏れる者に伝わり、主の御業を仰ぐものに、主の威光が照らされているのだと思う。 アーメン 安達均   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace