Archive for March, 2013

Tweet 「ヨハネ20:1-19 イースターおめでとうございます!  無残な殺された方の現場にいた経験のある方はいるだろうか?  30年以上前、殺人事件の現場に居合わせてしまった友人がいる。私たちは電気工学を専攻する大学4年生の時だった。彼は夜中に実験がほぼかたづき、仮眠する前に、大学を出て数分のところにある自動販売機までビールを買いに出かけた。大学の門から数百メートル行ったところの自動販売機に近づいた時、そこにタクシーが止まっていた。すると運転席のドアが開き、血だらけの運転手が地面に倒れて動かない。さらに、後部座席からは、客だった人が出てきて、私の友人と顔を見合わせた。彼は殺人犯を見つめてしまった事に気づき、今度は自分が殺されてはたまらないと思い現場から必死に走って大学の門の方に逃げた。幸運なことに、殺人犯は、私の友人が逃げた方向と反対方向に向かって逃げていったそうだ。彼は、110番通報するため、大学入り口まで無我夢中で走った。 靴は脱げてしまい、また、そこは上り坂だったため、最後は、走れなくなって、地面をはっていた。 そして、守衛さんに110番通報をお願いした。 何時、犯人にまた会うかもしれず、彼は、それから本当に心配な日々が続いた。 しかし、彼の証言が犯人探しの重要な手がかりとなり、数週間後には、犯人逮捕となった。犯人は捕まったとはいえ、彼の体験した恐怖は、並たいていなものではなく、私は何年たっても、彼がそのときの話をすることで、気が楽になるならと思い、彼の話を何度も聞いた。 さて本日は、イエスが十字架に架かって、無残な殺され方をして、三日目です。勿論、歴史的な変遷を経て、21世紀の今日ではキリストの復活、イースターのお祝いだが、2000年前に戻って、弟子たちの気持ちがどのようなものだったかを考えたい。 イエスが十字架に架かったのは、金曜日。幸か不幸か、金曜日の日暮れから、当時のユダヤのしきたりで、外には出てはいけない日だった。 弟子たちは、自分たちが従ってきたイエスが十字架刑になり、また、自分たちも同じ刑にあったら大変と思い、イエスを見捨てた。 云ってみれば怖くて怖くてしょうがなかった。 だから、私は、すくなくとも、金曜夕方から日曜明け方まで、家の中に閉じこもっていなければならなかったのは、むしろ良かったことなのではないかと思う。 しかし、日曜の朝になった。 弟子たちは、次に何をして良いか全然、わからない。弟子たちの中には、もう、田舎の実家に戻るしかない。そして、ひっそり暮らせばよいと思った者もいた。しかし、勇気ある女性がいた。ヨハネ福音書によれば、マグダラ出身のマリヤは、お墓を見に行った。すると、どうだろう、お墓の入り口の大きな石が横にとりのけられている。そして中にあるべきイエスの遺体が、お墓からなくなっている。そしてマリアは、弟子たちのところに行き、遺体がなくなっていることを告げる。しかし、弟子たちは怖くて、すぐに墓に行って確かめようとする気にはならない。そこで、一番弟子のペテロともう一人の弟子が二人で、ユダヤの兵士たちに捕まることがないように、大急ぎでお墓に走っていく。すると、確かにイエスの遺体がなくなっている。ただなくなったわけではなく、体中に巻きつけてあった亜麻布がお墓の中にあり、さらに、別の場所に、頭を覆いかぶせてあった布も置かれていた。そして確かにそうだと信じた。あくまで二人の弟子が「信じた」というのは、マリアが報告した遺体がなくなっているという事実を信じたにすぎなかった。そこには、イエスが復活したなどという考えは全くなく、誰かが、イエスの遺体を、また裸にして持っていってしまったと思った。弟子たちは、ますます、気味が悪く、怖くなったのではないだろうか。そして、自分たちの身に、何かあってはならないと思い、一目散に必死に走って家に戻っていった。そして、マリアだけが墓の前に残って、イエスが亡くなった悲しみの上に、さらに、だれかがイエスの遺体を持っていってしまったむなしさを感じつつ泣いていた。 そこに、二人の天使が現われ、さらに、イエスが現れる。 最初はイエスだとわからず、お墓の手入れをする人だと思った。 しかし、イエスが「マリア」と呼びかけた声で、イエスだと気づく。  さて、今日復活主日に与えられた聖書の箇所はいったい何を私たちに教えているのだろうか? 人の死というのは、とても悲しく、また怖いもの。12年前、一人の友人を40代で亡くしたが、奥様が本当に寂しさを感じられた事と同時に、特に夜、怖くて怖くてしょうがなくなると話しておられたのを思い出す。しかし、聖書の言葉や詩編の言葉がいかに、癒してくれるかも話してくれた。病気で身内を失っても、怖さを覚えるのに、ましてや、イエスのように十字架刑という残忍な殺され方、しかも、いばらの冠をつけられ、兵士からののしられ、つばをかけられ、裸にされ、殺されてしまった場合、そのイエスをリーダとしていた弟子たちにとって、それが、どれほどの衝撃となり、怖くなったか、想像がつく。しかし、イエスは、怖くて震え上がっている弟子たちを放置されない。 また、イエスを失って、悲しくてしょうがないマリア、また、そのほかの女性たちを放っておかれない。それは、2000年たった今も、イエスの復活は、活き続けており、現代、配偶者を失って悲しくてしょうがない、親を失って悲しくてしょうがない。 あるいは、病の中にあり、自分の死への恐怖を覚えておられる方をも放っておかれない。  復活の主は、かならず、そこにおられる。 聖書の言葉、聖霊の働き、教会の兄弟姉妹のはげましの中に、復活の主の働きが、私たちの間にあり、たとえ困難に直面していても、喜びを私たちにもたらす。 たとえイエスが予言していたとはいえ、弟子たちにとって復活ということは、簡単に理解できて信じることができなかったように、現代の私たちも簡単には理解できないし、本当に心から復活を信じられるような人間にはなりにくい。 しかし、私たち人間が信じていようが信じていまいが、復活の主の方から、私たち人間に働きかけておられ、私たちを新しいものに変えてくださっている。 私たちの生活において、心の痛み、悲しみ、恐れが、平安、幸福、そして、喜びへと変わっていくには、時間がかかる。 復活節は、まだ7週間続く。聖霊降臨日まで、49日ある。49日というと、仏教で、ある方が亡くなってから毎週、毎週、初七日、二-七日(ふたなぬか)- – -、とお祈りする。 私はそれもとても良いことだと思う。 今日、キリストの復活日をお祝いしてから、これから聖霊降臨日までの49日間、毎週毎週、ぜひ、礼拝に参加され、復活の主がわたしたちの心への中にさらに入ってこられ、今年また新たに、おひとりおひとりが復活の主が与えてくださる、さらなる恵み、喜びを実感できますように。 ”Was Jesus Really Resurrected? ” John 20:1-18 Pastor Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! Have you ever witnessed a brutal death? More than 30 years ago, my friend witnessed a murder. We were Seniors, majoring in Electrical Engineering at a Japanese university. On that day, my friend worked very late and finished an experiment. He decided to stay overnight sleeping on a couch in the Lab. Before he rested on the couch, he went outside to get a beer. When he approached a vending machine (in Japan it is legal to sell beer through vending machines) a few blocks from the campus, there was a cab. Then he saw that the driver’s door was opened but the cab driver had fallen down onto the street. Then from the back seat, a passenger exited from the cab. My friend saw this guy face to face… He realized he was staring at a killer. To avoid being killed, he ran away as fast as possible to get back to the university’s front gate where a guard always stayed. Luckily the killer did not follow him, but instead he also ran away in the opposite direction. My friend ran his head off. When he almost reached the guard’s hut, he realized that he was not wearing his shoes. Also since the road was uphill, he was out of breath. So he could not run anymore and he…

Tweet Calendar 4,2013&聖書日課 2013年4月Calendar と 聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年3月31日復活祭聖餐礼拝の週報 週報通算#1252号(日本語) Easter Sunday Bulletin 1252E 週報通算#11252E号 (英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet Holy Week、聖なる週、受難週の真っ最中に詩編を読む機会が与えられていることに感謝したい。  本来の聖書日課によれば、この聖なる週に実に多くの聖書箇所を読む。それもそのはず、イエスが十字架に架かる週に起こる事が、新約聖書のかなりの部分に書かれているし、旧約聖書の多くの箇所にちりばめられている。  復活ルーテル教会用に作成した聖書日課には、すべての箇所を書くことができず、限られた聖書箇所だけを載せている。 聖土曜に読むように勧められている箇所はことさら多い。 そのなかの詩編のひとつは16編が与えられている。 以下詩編16編を3回読み返そう。  1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。 2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。 4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」 5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。 7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 最初の一節に「ミクタム」という言葉がある。 この言葉、人の名前ではない。 ヘブル語の言葉だが、その意味が明確にわからず、適切な日本語に訳せないため、日本語聖書にも、そのまま書かれている。 このミクタムという言葉は、16編のほかに、56編から60編の最初に書かれており、興味のある方は56編から60編にも目を通されると良い。 その明確な意味がわからないものの、どうも、短く格言的な真理をついた言葉と考えられる。  主イエスは、金曜に十字架に架かり、墓に葬られた。 しかし、日曜には復活し、マリアをはじめ、まずは女性たちに復活後の姿を現された。 金曜と日曜の間の土曜、イエスはどこにおられたのだろう? その質問の答えを思い巡らすのに、この詩編16編のとくに10-11節の言葉に集中したい。「陰府」とは、死者の居るところ、死者の住まい。  イエスが話された言葉は、詩編から引用されている言葉も多い。 この10節の前半に詠われていた言葉を、神はイエスの魂にも肉体にも実行された。 そして、10節の後半から11節の言葉を、今一度、読みたい。「あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」  今年のイースター、復活日は3月31日だが、復活節はペンテコステ(聖霊降臨日、今年は5月19日)まで7週間続く。  復活節に、おひとりおひとりが「永遠の喜び」を実感できる日々となりますように。 とくに、病との闘い、あるいは、人生において大きな変化や局面にある方々が「命の道」を歩み、「喜び」の訪れとなりますように、復活の主、イエスキリストの御名により祈る。    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 3月21日 詩編を読もう:御手をもって (詩編 31:10-17)  24日の日曜からは、Holy Week 、聖週間、を迎える。日本語では受難週と呼ばれたりもする。  イエス・キリストが十字架を担ぎ、そして、十字架に架かられる時を覚える週。  詩編31編の6節(口語訳聖書では5節)に、「御手に私の霊をゆだねます。」という言葉が出ている。 この言葉、イエスが十字架に架かられ、息を引き取られる前に、話された言葉でもある。(ルカ23:46) 与えられた詩編31編10節から17節(口語訳聖書では9節から16節)をできれば3回くらい読み返そう。  10:主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。 11:命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。 12:わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。 13:人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。 14:ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。 15:主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。 16:わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。 17:あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。 受難週を迎えるにあたって、準備はできているだろうか? そしてどのような事が起こることを期待されているだろうか?この「詩編を読もう」を読んでくださっている、お一人お一人、それぞれさまざまな人生の過程におられる。  10節から14節の言葉を読み返す中に、「この箇所が、自分にも当てはまる。」と思われるところがある方もいると思う。そして、受難週、イエスが十字架を担いで、歩かれたことを思い出したい。  どのような社会的な困難や、病の苦しみにあったとしても、15-17節にあるような言葉を覚えたい。 「わたしはなお、あなたに信頼し」という15節の言葉、この「なお」という言葉の意味をよくかみしめたい。 イエスが十字架上で、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言われたように、「その同じ御手をもって、わたしにふさわしいときに、助け出してください。」と祈れる者でありたい。 病の困難にある方、また家族の看病に追われている方、社会的困難に追いやられてしまっている方、職につきたくてもなかなかつけずにいる方、忙しくて健康的な食生活を送れずにいる方、さまざまな悩みの中にある方、、、それぞれに新しい局面が訪れますように。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネによる福音書第12章1-8節 John 12:1-8 救い主イエス・キリストの恵みと平安が、この会衆一同の上に豊かに注がれますように! 聖壇にきれいな花を時々飾る。。それは、本当にお花を生けたくてしょうがないというお気持ちの方々がいて、通常献金している上に、さらにお花代を捧げている。例えば2週間後のイースターでは聖壇の上は、ゆりの花でいっぱいになる。   なんで、そんなにこの聖壇にお花を捧げたいという気持ちになるのだろう? ただ、礼拝を美しくしたいから、、、? でもこの聖壇はいったい何なんだろう? 私たちが聖餐式のなかで、主イエス・キリストの体と血をいただく場所を聖壇と呼んでいる。そして、この聖壇の真ん中に、コミュニオンテーブル(聖体拝領台)と呼ばれるものがある。 一部の建築家たちは、テーブルをイエス・キリストの棺の形に似せて設計する。  少しお分かりいただけただろうか。 なぜ高級な御花をこの聖壇に生けたいと思うか。 葬儀において、棺の周りにきれいな花を生けたいと思うのは、とても自然な思い。 特に日本の文化ではそういうことはある。しかし、この世の通常の葬儀であれば、御花は亡くなった方を思い、悲しい思いの中で捧げる。 しかし、イエスに捧げるのは、少々違っていて、死から復活するイエスなので喜びをもって捧げている。 今日与えられた福音書の内容を見ていこう。 イエスが十字架に架かる数日前、ベタニアという町のマルタの家に人々が集まっている。イエス、ラザロ、マルタ、マリア、それに弟子たちもいた。 ラザロというのは誰だったか覚えているだろうか? 死んで4日も経ち、お墓に入っていたのにイエスが蘇らせた人。そして、マルタとマリアはその姉さんたち。 だから、3人の姉妹と弟にとって、イエスはまさに救い主であり、イエスにとても感謝していた。 そして、マルタは例によってすばらしい食事を用意した。またマリアは、一年分の給与(一日一万円の日当として300万円?)もするような高価な香油をイエスの足に塗り、部屋中がとても良い香りになった。 マリアも救い主イエスにこの上なく感謝していた。 この香油は、マルタ、マリア、ラザロにとって家宝のようなものだったのではないかと思う。 しかし、マリアがそのようなことをしても、マルタもラザロも全然文句を言うことなく、それを見守った。 ただ、ユダは、そんなことをしてもったいないとは言ったが。 ユダの話は今日は、フォーカスではないので、またいつかお話することにしたい。 この礼拝堂において、この話を聞いている我々にとって、今日の福音書箇所はいったいどういう意味を持っているのだろうか? この礼拝堂にも、イエス、ラザロ、マルタ、そしてマリアがいるのではないだろうか? わたしは、いると思う。 今日の話と似たようなことが礼拝堂でおこっている。 ラザロという名前の意味は、「神が助ける。」 ここに集まっている私たち一人一人、実は、ラザロだと思う。 どうか一人一人のこれまでの人生を振り返って欲しい。勿論、 いろいろな人生の過程は異なっているが、みんな、洗礼を受けるまでの過程にしたって、洗礼を受けてからもそうだと思うが、どれだけ神が助けていることだろうか。どれだけ、神なるイエスの聖霊が働いて、豊かな祝福をいただいたことだろう。大変な苦労をしたときも、近くで歩いていてくださり、わたしたちの我儘かって、あるいは、失敗をしたときも赦してくださり、今日このように、神の慈しみをもって、この礼拝堂に招いてくださっている。 また、いまも、この場にイエス・キリストの聖霊が存在してくださっている。 一人一人が、それに気づいていても、気づいていなくても、また好むと好まざるにかかわらず、それを信じようが信じまいが、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊と一体なる三位一体のお方が、おひとりおひとりの人生を、特に洗礼を受けてから、大きく変革している。 わたしたちは、イエス・キリストから、たいへんな恵みを受けている。 その恵みに応答して、神様からいただいている賜物の一部を喜んで、神、つまりイエスの体である教会に、捧げている。 教会が必要だから献金を捧げると言うより、まず、私たち自身に、神の恵みに応答して捧げる必要がある。  ところで、礼拝の中では、奉献は聖餐式の前に捧げている。 マリアが家族を代表して、高価な香油をイエスが十字架に架かる数日前、イエスに捧げたように、この礼拝堂のなかでも、最後の晩餐の前に、会堂に集まった人々の高価な献金を集めて捧げるという事が起こっている。 だから献金の奉仕をしてくださる方は、マリアではないだろうか。 また、聖餐式の準備をしてくださっている方は、マルタ役をしてくださっているように思う。 そして、みなさんご承知のように、イエスは最後の晩餐の翌日、十字架に架かるが、イエスの生涯は死では終わらない。 復活し、十字架の死をもって、死を滅ぼした。 イエスが復活するように、私たちも、イエスの体と血をいただくとき、そのイエスの恵みによって、私たちは新たに生かされ、そして、この礼拝堂から大きな喜びを持って、一週間の世の闘いに送り出される。 そしてまた一週間後の聖日に、礼拝に来て、過去の行いや言動について悔い改めの祈りをして、賛美し、神の言葉を聞き、わたしたちの賜物をささげ、そして、聖餐に授かるという行為は、いうなれば、信仰訓練。 その信仰訓練を繰り返す中に、神が私たちを世の中に奉仕させ、神様からの賜物の一部をまたお返しする、つまり大きな喜びを持って捧げる存在にしてくださる。  Joyful Giving John 12:1-8 Grace and Peace to you in the name of our Savior, Jesus Christ! We sometimes put beautiful flowers on the altar. There are some people who in addition to giving a gracious monetary offering, wish to give flowers as well. Why do these people want to place flowers on the altar? What do the flowers symbolize? Whether it’s monetary or floral; they seem compelled to give. Whether or not they recognize the meaning of their offering, I believe the offering of financial gifts and flowers are both a joyful response to God’s bountiful mercy and grace. As you well know, the place where we receive the sacrament is called the altar. In the center of the altar, there is a communion table. But did you know that some architects design this table in the shape of Jesus’ coffin? So when viewed in this context, we can begin to understand why people would want to place expensive flowers on the altar. During funerals, especially in Japanese culture, it is very common to decorate the coffin with very beautiful flowers. Normally because of someone’s death, we offer flowers to pay our respects and express grief. However, Jesus’ case is quite different because he is raised from the dead – a joyful occurrence. Let’s…

Tweet 週報通算#1251(日本語) 2013年3月17日の週報 週報通算#1251E (英語) Sunday English Bulletin 1251E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 東日本大震災から2年が過ぎた。 まだまだ、深い悲しみの中におられる方々がたくさんいる。  ほんの一瞬の差で、肉親を亡くした方々を思う。愛していた配偶者、あるいは婚約者、この上もなくかわいい子供や孫、あるいは本当に世話になっていた父や母。なんで私が残されねばならないか? なぜ、助けてあげられなかったのか? 2年前の大震災に、「捕われて」しまっている方々。  そのような思いをしている方々は、大震災で肉親を亡くした方々だけではない。 今、アメリカに移住してきたわれわれにとって、われわれは自分勝手で、日本に残している家族や親戚に対して、十分なことができなかったという思いに「捕われて」いるような面は否めない。   与えられた詩編126編をなんども読み返そう。  1:【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 1節と4節に、それぞれ「捕われ人」という言葉が使われているが、具体的には、神に背いていたイスラエルの人々が、バビロンに捕囚されたことを詠っているのかと思う。  しかし、バビロンに捕われた人々だけではなく、すべての何かへの「捕われ人」、それは、ネゲブ(4節)のような不毛砂漠地帯で絶望感を味わっているような気分の方々、涙を流しながら(5節)、泣きながら(6節)、働いている方々にも通用する話。 そのような広い意味での「捕われ人」に対し、イスラエルの人々のように「神に背いていた人々」という言葉をあてはめてしまいたくない。 しかし、過去の自分の行為や、あるいは、何か適切な行動を起こせなかったことを、自分の至らなさと思い続け、そこに神の介入を願わないでいることは、それは神の思いではない。  どんな失敗とか、恥ずかしいことも、悔い改めて、神の慈しみ、憐れみを乞い求めることこそ、神が喜ばれる。 そして、捕われていた人々に、解放を与えてくださる。 それは、深い悲しみにあって、泣き続けておられる方々が、喜びの歌を歌えるようになる。 詩編126編をよく読むと、たった6節しかない短い詩編に「喜び」という言葉が4回(2, 3, 5, 6節)も使われている。すべての捕われ人を解放し、喜ぶ存在になることは、私たちが自分たちだけで、できるようになることではない。 それは、神が赦し、解放し、真に喜ばせてくださる。 「偉大なる業」は、時代を超えて、すべての人々に賜る。 この「偉大な業」とは何だろう。 この詩編は紀元前、数百年前に書かれたものだが、この詩編の箇所も、キリストの死と復活に結びついている。  それは、礼拝の中で起こっている、洗礼式、聖餐式であり、また、キリスト教のもっとも大切な復活祭でもある。 洗礼が行われ聖餐式を経験している方々でも、解放された思いが、ピンとこないこともある。 しかし、そこには、確かな違いが生じていて、行動に変化が起こっている。 四旬節にあって、主の復活日を約2週間後に控えている。 いろいろな試練にあっている方々、悲しみの中にある方々、捕われている方々が、神の子イエスの犠牲とそのよみがえりの復活祭を通して、すべての民が、大いなる喜びの歌を高らかに奏でる時がきますように。    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 母の召天 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「礼拝を休むのはもったいない」  第二コリント5:16-21  ルカ15:1-3, 11-32 主イエス・キリストの恵みと平安が豊かに与えられますように!  過去一週間を振り返ってほしい。 何か、失敗した、恥ずかしいことをしてしまった、と思うことはないだろうか? あるいは、これまでの人生を振り返り、あの時は正しかったと思っていたことでも、よくよく考えると、やっぱり自分が悪かったと思うことはないだろうか。   ジャックウェルチという方をご存知だろうか。ジェネラルエレクトリックの会長を1981年から2001年まで務めた方で、各事業部の徹底的な効率化をした人で、フォーチュン誌では、”20世紀の経営者”とまでいわれた人。 それほどの方でも、側近には、「自分の判断の3-4割は間違っている。」と言われていたという話を聞いた。 彼は、リストラ、人員削減にも、とてもドライな決断をして、人減らしを徹底的に行った人物。 多くの経営者が彼のやり方に追従した。  しかし、ウィキペディアの日本語版によると、そのウェルチ氏が、一貫して終身雇用策をした日本の横河電機の美川さんという経営者こそ、経営の神様だとコメントしていたそうだ。これは私の考察だが、ウェルチ氏は、自分の経営判断が、神の考えに背いたものだったことを認めていたともいえる。  さて、今週与えられている福音書箇所は、放蕩息子と呼ばれる譬え話。 二人の兄弟がいたが、弟の方は、父親に生前贈与をしてもらった資産をすべてお金に変える。 そのお金で、今でいえば、ラスベガスのような所に行って、放蕩の限りを尽くした。そして、生活費は無くなり、困り果てる。 豚を飼っている農家で働くが、豚に食べさせる餌さえも食べたいと思うほどの、悲惨な生活。 彼は自分の判断がいかに過っていたか、父の思いに背いていたかを反省した。 彼は、財産を譲り受けた父親のところに帰って、「自分は父にも神にも大変な罪を犯しました。 もう息子と言われる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と言おうと決心する。 実家に戻って来ると、何と、遠くから父親が走り寄り、抱いて接吻する。 放蕩息子は、決心していた通り、「私はお父さんにも神さまにも大変な罪を犯しました。息子と言われる資格はありません。 雇い人の一人にして下さい。」と言う。 父親は、雇い人たちに、「この子に最高の服を着せ、指輪をはめ、そして、子羊を屠ってパーティだ。」と大喜びをする。 すると、事の成り行きを知った兄は、父に不平を言い出す。「わたしは父にいっさい背いた事はないのに子山羊の一匹だってくれたことはない。。。」 父は、「お前の弟は、死んでいたのに生き返って、帰ってきたんだ。 祝宴を開いて祝い喜ぶのは当たり前ではないか。」 と兄をなだめる。  さて、この譬え話、いったい誰を何にたとえているのだろう? とくに、キリストが十字架にかかる前の40日間を過ごしているわたしたち。 よく考えてほしい。 息子たちの父は神。二人の息子、放蕩息子と兄は、わたしたち人間。。。 ではこの譬え話の中で、イエス・キリストは、どこにおられるのだろう? 祝宴とは何だろう? 今日、与えられている聖書の話は、わたしたちの現実をたとえている。 また、放蕩息子が帰って来るところから祝宴が行われる話は、わたしたちが毎週、経験する聖日礼拝において起こっている。 毎週ラスベガスに行っているわけではないが、この放蕩息子のように、言ってみれば、意識する意識しないにかかわらず、私たちは失敗、過ちをおかしているのが現実。 例えばた、アメリカ時間の今夜、東日本大震災から2年目を迎えるが、大勢の方々が亡くなり、また、その後も大変な苦労をされている。家族を亡くした方の中には、未だに、「ああ、私がこうしていれば誰々は助かったのに。」と言って、自分が本当に過ちを犯したかのように思っている方々がいる。東日本大震災で亡くなった方は、2万人程だが、ほぼ同じ数の方々が毎日、飢餓のために亡くなっているという現実もある。多くの先進国では、むしろ食べ物を余らしているのに。 世界を構成するそれぞれの社会が、自分たちのことだけを考えて生活してしまっている現われでもある。   しかし、礼拝では、自分たちの神の思い通りではない生活をしている事を認め告白するため、私たちは、神の招きに与っている。その招きに応じるとき、礼拝堂に入るところから、実は、大変な神の歓迎が起こっている。 そして、神の歓迎への応答として、讃美歌も歌う。 もっとも兄のように、「わたしは父に背いたことも無い」と思って入って来られる方もおられるのは現実。 さらに、放蕩息子が告白したように、「わたしたちは、言葉と行いによって多くの罪をおかしました。」と言って、罪を告白する。  そして神は、赦してくださる。 そして、さあ、最高の服を着せ、最高の指輪をはめようとまで言ってくださる。 それは、礼拝の中で与えられる聖書の朗読や説教により、つまり神の最高の言葉によって、信仰の着物を着せてくださる事。 更にすごいことが起こる。 最高のことが起こる。 神は罪の赦しのためと言って、まったく罪のない、最高の純粋な子羊を、わたしたちに代わって、屠ってくださり、聖餐式という形で、子羊なるイエスの体と血、パンとぶどう酒をいただく、祝宴を行ってくださる。 そして、祝いと喜びの讃美歌を私たちは、歌う。 神の本当の赦しと恵みが、そこにあり、私たちを、力づけ、永遠の命を与え、そして、また新しく創造してくださり、新しい一週間へと送り出してくださる。  本当に、この聖日の礼拝に来ないのはもったいない。        “Simply A Waste Not To Come to Sunday Service” II Corinthian 5:16-21 and Luke 15:1-3 11-32 by Pr Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior. Please reflect upon your actions this past week. Did you make a mistake or fail to do something that you know you should have done? Think about not only this past week, but please reflect upon your entire life. Even though at first glance you may feel you’ve not done anything really wrong; if you gave it serious thought, could you say with confidence that you’re blameless in the eyes of God? Do you know a man named Jack Welch? He was CEO of General Electric between 1981 and 2001. He drastically changed GE’s corporate culture and acted contrary to the prevailing business wisdom. He eliminated bureaucracy, fired ineffective middle managers, and significantly increased GE’s profitability. Other Fortune 500 companies would later follow his “crazy” ideas. In 1999, Fortune Magazine named him “Manager of the 20th Century.” Even though Mr. Welch was an excellent manager and business leader; he admitted that 30-40% of his decisions were wrong. Mr. Welch was also the man who reduced payroll, sold off GE’s under-performing units and was often criticized for his brutal honesty. According to Japanese Wikipedia, he highly praised Mr. Eiji Mikawa, former president of Yokogawa Electric, because Mr. Mikawa championed corporate efficiency,…