Tweet 本日LCR日本語礼拝にて、一年に一度行われます召天者記念礼拝が行われました。去年から今年にかけて、多くの教会の友が天に召され、まだ悲しみのうちにあるご家族の皆さんもいらっしゃると思います。このように礼拝の中で、共に天に召された愛する者達を偲び、その一人一人の存在が私たちの心の中で生き続けている事を再確認できる機会を与えられている事に、神様の恵みと平安を思い、心からの感謝を捧げます。 説教「死は終わりではない」 ヨハネ11:32-44 アメリカ福音ルーテル教会では、牧師になるために、最低500時間におよぶチャプレンとしての学び・体験が要求される。私は、癌の病棟に配属され、致命的な癌だと宣告された方との会話、あと数日後には、亡くなると思われる方との対話が多かった。 もうすぐ亡くなるという事がわかっていたある方との会話で忘れられない話がある。「生きるって何なんだろう。」という話題になった。そのとき、彼自身が、「神とともに生きる。ということではないだろうか。」という答えをだした。 そして、彼のひとみがぎらぎらと輝きだしたことを、今でも思い出す。 彼の肉体は、やせほそり、本当に弱っていて、もう肉体の死が迫っていることはわかっていた。しかし、彼の魂は神とともに永遠という単位で生きられるという希望が湧いてきた様子を、昨日のように思い出す。 今年3月には愛するフォスター牧師が亡くなった。 フォスター先生は、死は人間に必ず訪れるもので、決して不自然なことではないとされ、肉体的な死は、永遠の命の中の通過点にすぎないと考えておられた。 といっても、死は、生きて残される者との、別れであり、とてつもない悲しみや苦しみを、何ヶ月も、あるいは何年にもわたって体験することだってある。 今日、与えられた福音書、ラザロの蘇りのストーリーだ。 この話を信じられるかどうかという問題よりも、イエスがいかに、若い弟ラザロを亡くしたマルタ、マリア姉妹たちのために、泣きじゃくる姉妹たちの身になって、イエスも泣いて対応されたことに、強い感銘を覚える。 イエスの憐れみ、いっしょになって悲しんでくださる、その憐れみの深さは、計り知れないものがある。 ここで、もしも、イエスという名前がピンと来なければ、日本のクリスチャンの小説家、遠藤周作の言葉を借りてきたい。 彼は、クリスチャンでありながら、イエスを玉ねぎに譬えている。 そして、イエスの代わりに、玉ねぎと呼んだ小説も書いている。 玉ねぎとは、いつも台所にあって、身近にある。玉ねぎは、日本料理、中華料理、アメリカ料理、メキシコ料理、カリブ海料理、等々、何料理にも使われる。 また、玉ねぎは、刻むと、涙が出てきてしまうが、そう、私たちの涙のまっただなかにいてくださる方。 今日の聖書の箇所で、ラザロの姉妹や友人たちがラザロが死んで悲しみのどん底にある中で、イエス泣かれた様子、玉ねぎが泣かれた様子を思いうかべて欲しい。 悲しみのどん底にある中で、玉ねぎはラザロに「出てきなさい」と言われ、臨終の時に着せられた布に巻かれたまま、ラザロは墓から出てきた。 そして、玉ねぎは最後に、まわりにいる者たちに、「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われる。 これはどういう意味があるのだろうか。 「ほどいてやる。」日本語では「解放してやりなさい。」と言っても良いと思う。 人間はとかく、「人間は死んだら墓に葬られて終わりだ。」という概念から解放を与えてくれる。 人間の死は、決して終わりではなく、神とともに生き続ける。 天に召された人々を覚えて、今日のような礼拝に招かれることは、彼等が神とともに生き続けているという確信が与えられる。 アーメン 安達均 “Death is Not the End” John 11: 32-44 To be a pastor of the Evangelical Lutheran Church in America, over 500 hours of study and experience as a chaplain in a clinical setting is required. I served in a hospital cancer unit for three months. I cannot forget one of the conversations with a terminal cancer patient. While we were talking, the question “What is life?” was asked. He answered the question himself, “The purpose of this life is to live with God, isn’t it?” I remember his eyes shining brightly as he gave his answer. His body was so thin and weak and approaching the end, that was a certainty. However, the hope for the soul to live eternally with God became obvious. I remember that incident was like yesterday… This past March, our beloved Pastor Howell Foster passed away. He shared that physical death comes to everybody and it is not an abnormal matter at all. Physical death is only one point of one’s eternal life. However, during this transitional point, we have to experience sadness and suffering due to the separation between the person passing through the door to heaven and the people left in this world. It is a reality that we experience a great deal of pain and grief for months or years. The good news from John chapter 11 was the story about the raising of Lazarus. Whether or not we can believe this miracle,…
Tweet 2015年9月27日LCR 日本語部召天者記念礼拝(聖霊降臨後第18)週報通算第1369号 2015年9月27日召天者記念礼拝週報 September 27, 2015 LCR Japanese Ministry English bulletin Sunday English Bulletin 1369E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
September 24th, 2015
2015年9月24日 詩編を読もう:隠れた罪から清めて下さい (詩編19編8-15節)
No Comments, Uncategorized, by admin1.Tweet 今週は9月24 日から27 日の聖書日課に与えられている詩編19編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編19編 8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。 12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。 13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。 14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。 15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。 私の場合は、とても気になる節として、13節の「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」さらに後述したい。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 19編の8節以降だけを読んでいるが、簡単に1-7節にどんなことが書いてあったかを記しておきたい。1節には、指揮者によって、賛歌、ダビデの詩となっており、ダビデの状況を推察しながら、詩編作者が礼拝の賛歌として詠ったものだろう。2から7節で、天も地も太陽も、そして昼、夜という時までも、すべて神の創造のなかでおこっていて、なんら隠れうるものはない。 いわば、神の創造の壮大さ、完璧さが賛美されていたようだ。 そして8節から11節には、律法のすばらしさ、完璧さが賛美されている。 主の律法が完全で魂を生き返らせるようで、主の定めは真実で、無知なものは知恵を得る(8節)。主の命令は、ストレートに喜びすら与え、主の戒めは清らかで目を輝かせる(9節)。主を畏れることは清いことで、永遠に続き、主のなさる裁きは正しい(10節)。律法は、金や純金にも優って、価値があり、蜂蜜よりも甘い(11節)。12節以降は、神への語りかけ、祈りになってくる。あなたの僕である私は、あなたの律法を熟慮し、守ることで大きな報いを受けるが(12節)、律法を知らずに犯した過ち、そして、自分に潜んでいる罪から、どうか私を清めてください(13節)。この私を驕りから引き離して、それに支配されないようにしてくだされば、重き罪から清められ、私も完全になるでしょう(14節)。 どうか、私の話す言葉が、主の御旨にかなうものとなり、自分の思いが御前に置かれるようなものとなりますように(15節)。以上だが、13節あたりからは、ダビデがついつい自分勝手な思いからおかした罪の告白、反省が込められているようだ。 今日読んでいる詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 上述した、13節を読んで、私は昔の記憶が蘇ってきている。 私にとっては、大きな二つの出来事だった。 最初は30年以上前だったが、ある友人が私にしたことが、とんでもなく私を傷つけ、私はこらえきれずに、友人を責めてしまった。しかし、その友人は、なんら私を傷つけたなどとは思っておらず、謝る気もなかった。 二つ目の出来事は、10年くらい前だったが、逆のことが起こった。私にとっては寝耳に水というか、その友人の考え方がとても信じられないという思いになってしまったが、ある友人が、一切悪気のない私のしたある行為が、彼を傷つけ、私に不満をあらわにした。 30年前の例は、私はある方の罪の被害者であるかのごとく、そして10年前の例は、加害者でもないのに、加害者ごときに扱われてしまったように上記には書いてしまった。 しかし、よーく考えると、どちらも、私に問題があったように思う。 そもそも考え方の違う人間同志、自分のものさしで、相手がこうするのは当然だろうという考え方自体には、問題がある。 詩編19編13節で、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」と祈る詩編には、私たちの普段の祈りでもあるべきだし、この祈りにより、自分自身のものさしから、解放されるような要素があると思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ 9:30-37 主イエスの恵みと平安が、会衆の上に、また今日この場に集えない人々の上にも、豊かにあるように! 「やれ打つな」と来たら、それに続く言葉は何だろうか? 「蝿が手をする足をする」という小林一茶の俳句を覚えている方は多いと思う。みなさんハエは好きだろうか? この俳句の意味することは? 私はだいたいの意味はわかっているつもりでいたが、最近、ある英語の訳を読んで、なるほどと思った。 Look, don’t kill that fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feel. となっていた。科学的にあるいは、神学的に、ハエが祈るかどうかについて、神学者によっては、動物には宗教心は無いと断定的なことを言う方はおられる。 私の立場は、科学的な面でも神学的にみても、なんらそんな断定はできないと思っている。 そのようなハエが祈るか祈らないかという議論より、私は、「ハエが祈っている」と見るところに、小林一茶の、また、それを「Pray」という言葉を使って訳した英訳者のハエに対する思いやりがあると思う。 本当に小さな、世の中で、のけものにされてしまいそうなものへの思いやりがそこには、あるのだと思う。 さて、今日与えられた福音書の内容に入っていきたい。先週読まれた福音書と同様、イエスが、それは重要な自分の死と復活を話をしているのに、弟子たちは、イエスの話しをよく理解できなかった。理解しようとするどころか、だれが一番偉いかという議論をしていた。 情けない、弟子たちの姿がある。しかし、当時の弟子たちだけではなく、現代の私たちにも同じことが言えるのではないだろうか。人より、先でありたい、上でありたい、偉くなりたいという欲望に満ちているのが、人間の現実なのだと思う。 私たちは、ついつい自分が一番になってしまう。 たとえば、5人10人と同時に写っている写真をみるとき、まず一番先に、自分がどこに写っているかを捜すのが人間の常だと思う。そのような、自分が先、上、偉いという欲から解放されることはとても難しいことだと思う。 そのような私たちに、イエスは、とても大切な行動を、今日の福音書の後半部分で示されていると思う。 イエスは、小さな子供の手をとって、弟子たちの真ん中に立たせた。そして抱き上げた。 ここで、子供が意味することは、当時のユダヤ社会でもっとも重要とされていた律法について、知識もなければそれを守ることもできない子供、いわば無能力者を意味していたように思う。イエスはそのような子供たちを愛された。 また、マタイ25章では、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)という話をされた。ここで、「最も小さい者」とは、「飢えている人、のどが渇いている人、自分たちの社会には関係ない旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人」等々だ。 当時のユダヤ社会では、いわば、無能力者の存在とされた人々、もっとも弱い立場にいる人々をイエスは、本当に愛された。 このような、子供を抱き上げる行動や、最も小さい者の一人にしてくれたことが、私にしてくれたことだと言われた言葉に、私たち自身が、「すぐに自分を、上、先、最高」と思ってしまう思いから解放されるヒントがあると思う。 いまいちど、「やれ打つな、ハエが手をする足をする。」 という小林一茶の俳句を思い出したい。 ハエというイメージの中にある私の思いをシェアしたい。 旅客機に乗っていて、他の旅客機を目撃することがある。 何マイルも離れた距離に飛んでいる旅客機は、近くで見れば、大きな豪華な飛行機だが、遠く離れてしまうと、まるでハエが飛んでいくようにみえる。 とくに、自分が進む方向と、反対方向に進んでいく旅客機は、まるで、ハエがあっと言う間にどこかに行ってしまうかのごとくである。。。 何をいいたいかというと、私たち一人一人は、実は、宇宙から見れば、それこそ、ハエのような存在なのだと思う。 ここで、宇宙を神におきかえても良い。旅客機でさえ、ハエに見えるのだから、ハエよりさらに小さな小さな存在なのだと思う。しかし、その小さな一人一人を、主なる神、主なるイエスは、とてつもなく愛してくださっている。小さな、一人一人のためなら、自分が十字架上で殺されても良いと思われるほどに、愛しておられる。 さあ、今日から、この世のはえと、いやこの世のもっとも小さい者とどうつきあうだろうか? これまでどおり、特に変わらないだろうか、あるいは、一人一人、イエスの示された行動や語った言葉から、何か学ばれただろうか? 聖霊の働きにより、一人一人が、益々祝福され、神から喜ばれる存在になりますように。 アーメン。 牧師 安達均 “Look, Don’t Kill That Fly!” Mark 9:30-37 May grace and peace come to you in the name of Jesus Christ! Amen! How many of you know the meaning of the word “Haiku”? Haiku is a type of Japanese poem that is composed of 17 sounds (either vowels or consonants). But those 17 sounds are themselves composed of three short verses (five, seven, and five). I am told that this poetic form is the shortest one in the world. Let me give you a famous Haiku as an example, “Ya-re u-tsu-na, Ha-e ga te wo su-ru, A-shi wo su-ru.” Of course you do not know what I am talking about, but I believe, you hear the rhythm. 5-7-5. “Yare Utsuna, Hae ga te wo suru, Ashi wo suru.” The meaning of this poem cannot be translated into only 17 vowels and consonants, but it goes something like this. “Look, don’t kill that small fly! It is making a prayer to you by rubbing its hands and feet.” Do you normally like flies? Although I do not know for certain whether or not flies pray, I think the poet is showing his compassion to the least or one of the smallest creatures in the world; that most people consider a nuisance. I would like to talk about today’s Gospel text….
Tweet 2015年9月20日LCR日本語部週報通算第1368号 2015年9月20日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は9月17 日から20 日の聖書日課に与えられている詩編54編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編54編 1:【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。 2:ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】 3:神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。 4:神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。 5:異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ 6:見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。 7:わたしを陥れようとする者に災いを報い/あなたのまことに従って/彼らを絶やしてください。 8:主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。 9:主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。 インパクトのある言葉として、3節にある「神よ、御名によって」と詠いはじめる力ある言葉。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 1-2節は前書きで、1 節にある言葉、「マスキール」というヘブライ語は、32編をはじめ、全部で13の詩編の前書きに現れている。あまり意味は明確ではないが、教えとか教授的な意味がありそうだ。2節にはダビデの置かれた状況が書かれている。簡単に説明すると、ダビデが、主の御心から逸脱して行動していたサウルのすぐ近くに来ているという情報がサウルに報告され、サウルの部隊がダビデの命を狙っている。サムエル記上23章19節参照。 3節以降の詩編の内容に触れていきたい。サウルがダビデを見つけだして殺されるかもしれないが、ダビデは、「神よ、御名によって」という力強い言葉を述べて、さらにそのパワーを増し加えるように「力強い御業によって」と述べた後、びっくりすることに「わたしを裁いてください」と詠う(3節)。ダビデの心境は、すべてを主の御心に自分を委ねている様子が伺える。そして、ダビデの口から出るすべての祈り・願いを、神がすべて聞いてくださるようにという嘆願(4節)。御心に従わない横柄な者たち(サウルの部隊)が私に逆らい、命を狙っている、彼等は主の御名を第一にしていないのです(5節)と訴える。見よ、神はわたしを助け、魂を支え、陥れようとする者に報いてくださる、あなたの真理によって、彼らを絶やしてくださるように(6-7節)。主よ、わたしは感謝して、恵み深いあなたの御名に感謝し、いけにえを捧げます(8節)。主は常に苦難から救い出してくださり、わたしの目が敵を支配しますように(9節)。 この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の全体の流れは、ダビデはピンチに立つが、主の御名によって、祈願し、現状を訴え、主を信頼して、主が救い出してくださることを確信する。 それを、ダビデより後世の人々が、民が主の御名に感謝し讃えるのが、詩編54編。 後世というのは、イエスキリストの降誕後も含まれ、現代においても、主の御名において、常識では考えられないような、神の救いがあることを覚える。現代を生きる人々に、本当に健康面でピンチにたたされたり、とてつもない多忙な日々に置かれてやりきれないと思えるような窮地に立たされている人々も大勢いる。 そのような状況の中にあって、詩編54編は、現代の私たちに、主の御名によって祈り、願い、主なる神を第一に生きているかどうかが、鍵であることを教えているように思う。 とくにイエスキリスト降誕後、紀元後に生きている私たちは、どんなピンチにあろうが、力強い主の御名、十字架上で死にて追いやられ、墓に葬られても、復活なさる、三位一体なる主を第一に生よう。常に自分を第一にするのではなく、主なる神を第一に生きているかチェックしつつ、この混迷の時代を、神の救いに与って歩み続けよう。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ8:27-38 主なる神、イエスキリストの慈しみと恵みが この礼拝堂に集まった人々の心の中に豊かに注がれますように。 私の友人と食事をしたとき、その友人は、私がいままで考えもしなかったことを話だした。 その時、彼は56歳だと思うが、「平均寿命まで生きたとして、もう7000回くらいしか、夕食を食べる機会はないと思うと、一回一回の食事を本当に大切にしたいと思う。」 と話していた。 肉体的な死に、日々、近づいているというのは事実だ。 先日隼人君が生まれた。 うまれたばかりではあるが、この世に生きている人、だれをとっても、実は、日々、肉体的な死に近づいている。 せっかく教会に来たのに、「安達牧師、そんな気のめいる話はしないでください。」という方もいるかもしれない。 しかし、これは、本当に気のめいってしまうような話なのだろうか。 もちろん、日々運動や健康食に気をつけて、より長生きすることができるという話はあるのだろう。 しかし、所詮、その長くなった人生でも、究極的には、やはり、その長くなった肉体的な死に向かって近づいている。 本日与えられた福音書、16章におよぶマルコ福音書のなかで、前半の最後、8章の最後をさきほど拝読した。 ここは、イエスの宣教に大きな転換期にさしかかったともいえる箇所、それは、8章の前半までは、イエスの宣教活動は安定した上り坂だった、しかし、今日の箇所以降は、イエスの急激な下り坂をくだっていったともいえる。 8章半ばまでに書かれたことは、イエスは多くの人々の生活を大きく変えることに成功した。 たとえば、イエスは奇跡的に病人を癒したり、目がみえない、耳が聞こえない、しゃべれない人々を見事に、目をみえるようにしたり、耳が聞こえるようにしたり、しゃべれるようにした。 あるいは、5000人の空腹のなかにあった人々、さらに4000人もの人をも、わずかな食料にもかかわらず、満腹にした。 そのイエスの姿は、まさに全能の方、最高の医者のようでもあり、偉大な政治家にもなれそうな人だった。 ところが8章の後半に入って、様相が変わってくる。 イエスは、弟子たちに「あんたがたは自分のことを誰だというのか?」と質問する。 そこで、でしゃばりというか、おっちょこちょいのペトロは、「あなはメシア」であるとこたえる。これはすばらしい答えで、大当たりなのだ。 しかし、ペトロには大きな勘違いがあった。 メシアとはどういう意味なのだろう。。。ごはんを食べさせる飯屋(めしや)じゃない。 もう少し違う発音をするなら、メサイア。メサイアあるいはメシアとは、油注がれたもの。それは、旧約聖書の世界では、超人的な英知と能力を持ってイスラエルを治める方の意味。 ペトロのイメージは、イエスがこれから、超人的にイスラエルを政治的にも治めて、ローマの圧力からも解放してくださる、そんな感覚で、メシアという言葉を使ったように思われる。 すると、イエスは、はじめて、人の子がユダヤ教の指導者たちによって、排斥され殺されること、しかし三日目には復活することになっていることを話す。 ペトロは復活するなんていうことは聞いていなかったのだろう。 最後まで話をよく聞かずというか理解することができないまま、イエスに反駁する。 「イエス様、そんなことがあってはなりあませーーーん。」 するとペトロは、イエスから「サタンよ、引き下がれ」つまり、悪魔よ引き下がれといわれてしまう。 悪魔と呼ばれてしまう、ペトロ。 そこには、ペトロの勘違いをイエスは見抜いて言われているのだと思う。 そして、イエスは、私に従いたいものは、自分を棄て、自分の十字架を担いで歩むように。という話をされる。 いったい、イエスは、弟子たちに、本当に何を言いたかったのだろうか。 また、今日の福音書を通して、主イエスは現代の私たちに何を教えようとされているのだろうか? イエスは、圧倒的な知識と力をもって、イスラエルを治める政治家ではなかった。 そして、イエスに従うこととは、権力をもつことでもなく、金銭的に裕福になって有名になる、いわば、ドナルドトランプのような人間になることでもない。 イエスは神の子であり、同時に人の子であり、それは神が創造されたすべての人類のその魂を、つないでいくような方だった。 そして、人の子として、人類が体験する最高の苦しみをいっしょに体験し、またわたしたちの罪をぬぐってくださるような方。 そして現代を生きる人間は、とくにアメリカのような国に住んでいる人は、イエスが体験したような十字架刑を体験する可能性はとても低いと思うが、イエスの言われる十字架を担ぐとは、私たちが生きていくなかで、たいへんな痛みを体験するということではないだろうか? 「安達牧師よ、キリスト教を信じることが、痛みを体験することなどなく、健康で長生きができて、経済的にも豊かになるということを教えないのですか?」 といいたくなるかもしれない。 申し訳ないが、それは、ペトロの勘違いと同じ勘違いがあるのかと思う。 キリスト教の牧師として、キリスト教徒になるということは、痛みを体験しないとか、破産しないということを保証する、ということではない。しかし、どんな困難が訪れようが、イエスの信仰において、父と子と聖霊なる方がそばにいらしてくださること、その困難をいっしょに体験してくださっていることを、保証する。 そして、イエスが三日後に死から復活されたように、私たちも死を克服し、永遠の命に与れることをぜひ、覚えておいて欲しい。 イエスの愛と慈しみにより、世の救い主のおかげで、私たちは喜びをもって、永遠の命に生きることができる。 それゆえ、肉体的な死を迎えることが現実であっても、希望をもって歩み、肉体的な痛みも、決して気のめいってくるような話ではなくなる。ぜひ、イエスの信仰により、どんな苦しみを体験するかもしれない将来があっても、主にある喜びを覚えて、歩んで参りたい。アーメン 安達均 “Peter’s Misunderstanding” Mark 8 27-35 May the Mercy and Grace of our Lord, Jesus Christ, be richly poured into the hearts of the people in this sanctuary! When I was eating dinner with a friend, he said something I’ve never thought about… according to him, he was about 56 at that time, “Assuming that I live in healthy condition until 75, I do not think I can eat a healthy dinner more than 7000 times for the rest of my life, so I enjoy dinner every time since it is so priceless. It is true that everyone is getting closer to physical death every day. The newborn, Hayato, was born to the Fukuyama family, a few weeks ago, even for him, the number of days he lives for the rest of his life is less every day. Some people might not want to hear such a depressing fact and say, “Please do not talk about such a depressing topic, Pastor Adachi!” But, my question is: Is it truly a depressing topic? Of course, people may say that if you exercise and eat healthy food every day, you may live longer and number of days you live will be increased. That may be true, but even so, still day by day, you are getting closer to the end of your physical life. The Gospel given today, in the 16 total chapters of Mark, is the end of…
Tweet 2015年9月13日LCR日本語部週報通算第1367号 2015年9月13日の週報 September 13, 2015 Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1367E Sunday English Bulletin 1367E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は9月10 日から13 日の聖書日課に与えられている詩編116編1-9節を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編116編 1:わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2:わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。 3:死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4:主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」 5:主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。 6:哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。 7:わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。 8:あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。 9:命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。 気になる言葉として、「弱り果てたわたし」と言っている詩編作者の状況。 詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 この詩編から伝わってくることは、詩編作者は、この世を生きる時間はもう短くなってきているように思う。もう体もまともには動かせないような状況があるようにも感じる。しかし、まだ息は絶えておらず、たとえ肉体的な死が訪れようが、魂は生き続ける、そんな様子を詠っているように思える。。。。そのようなことを思いつつ、一節づつ振り返りたい。 嘆き祈る声を必ず耳を傾けて聞いてくださる主を私は愛し、生涯、主を呼び続ける(1-2節)。 死が網のように私にからみついて、地獄の恐怖を覚え、苦しみと嘆きを前にしているが、「(肉体的な死はやむをえないが)どうか私の魂を救ってください。」と私は主の御名を呼ぶ(3-4節)。主は憐れみ深く、正義を行なう方で、情け深い(5節)。 哀れな人々を守ってくださる主は、弱り果てている私の魂を救ってくださる(6節)。私の魂よ、安らかであれ、主が報いてくださるから(7節)。主はわたしの魂を死から助け出してくさり、涙がとまらない状況から救い出し、歩行できないような状況になっても、救い出してくださった(8節)。肉体的にはもうなにもできないような状況ではあるが、世の命が続くかぎり、信仰をもって、主とともに生き続けよう(9節)。 この詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 この詩編を読んでいて、ふっと思ったのだが、いつの時代に生きる人間も、「おぎゃー」と言ってうまれた日から、一日一日、この世の死に近づいていく日々を送っていく。この世に生きる日々は、一日一日、少なくなっていく。 そのような中で、この世をどう生きるかということは真剣な問題。 詩編116編を通して、信仰の大切さ、日々主を讃えつつ、生きることの大切さを覚える。その信仰の中で、肉体的には、どんなひどい状況がおとずれ、この世の死がおとずれようが、魂の救いがあること。主とともに、永遠の命があることを、示唆されているように思う。永遠の命があることは、主イエスの顕現によって、この詩編が詠われるようになってから、数百年後に明らかになったことではあるが。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ7:31-37 聖霊の息吹が豊かに注がれますように! リラックスしているだろうか? 今日のビーチサンデー、リラックスした服装で礼拝堂に集っていることに感謝。 私は高校卒業後、最初に入学した大学での専門は電子回路だった。 電子回路の教授が電子回路のことで教えてくれたことはほとんと覚えていない。 しかし、彼が卒業式のあと、リラックスする時間を大切にするようにと教えてくれたことをはっきり覚えている。 彼によれば、リラックスしているときに、もっともクリエイティブになれるから。 しかし、クリエイティブになれるといっても、どんな創造も、一人の人間が突然なにかを創りだすということはなくて、なにかの情報のインプットや、なにかに誘発されたひらめきがあり、創造がおこっている。 そこにはさまざまなヒントやおかれた環境が関係している、そして考える余裕、もあって実現している。 私は、創造も救いも、じつはすべて、主によって実現していて、人間はあくまで、そのCo-creator なのだと思う。 今日、与えられた福音書を読んでいくなかで、神の創造と救いに関係することが出てきてくるので、そのような神の創造についても思いうかべ、そして、私たちも、その神の創造と救いの業に参画したいと思う。 さて、与えられた福音書、目立った言葉はなんだろう。 ギリシャ語でも、もちろん英語にも日本語にもない言葉、”Ephphatha” という言葉が書かれている。その意味は、日本語では「開け」となっているが、イエスが使っていたアラム語の言葉、Ephphathaを、なぜマルコはそのまま残したのだろうか? この耳の聞こえない人に対して、イエスは男の耳の中に指をいれ、つばを吐いた手で男の下に触れ、”Ephphatha”という言葉で叫ばれると、男の耳が聞こえるようになった。 イエスの不思議な行いによって、聞こえるようになり、話すこともできるようになる。 この話はマルコ7章だけが記述している。私は、この聖書に訳された言葉「開け」が書かれようが書かれまいが、どんな意味かわからなかったとしても、この箇所が人々におおいに希望を抱けるようにしているのではないかと思う。少なくとも、私たち夫婦にとってはそうだった。 実は、私の妻、さと子は若いころから、右耳が聞こえにくいと言っていた。 結婚したころは、まだ聞こえにくい程度だったが、結婚して10年ほどたったときには、ほとんど聞こえていないようになってしまった。そこで、中野近辺の何人かの耳鼻科の先生にも相談したが、皆、成す術無しとのことで、左耳だけでも正常なのだから、良しということかと思った。 ところがある方が、神尾記念病院というところに行ったらどうかと紹介してくれた。 神尾とは神の尾っぽということで、私は、神の中でもその尾っぽ、とても謙虚な名前に思い、わたしは、良いと思った。 そして、神尾病院の詳細検査の結果、人間の骨として一番、小さい骨といわれる鐙骨を、人口骨に変える手術をすれば、聞こえるようになるという診断だった。 ただし、手術後の休養が大切で、二週間入院とのことだった。あたまの中では、理解できても、そんなただでさえ小さいさと子の、その耳の中にある、最小の神からいただいた骨を、人間が作ってしまうことができるのか。 また、さと子の骨をどうやって人口骨に変えることができるのかよくわからなかった。ただ、私たちはDr. God’s Tailを信じた。 その時、私たちの3人の子供たちは、9歳、7歳、4歳で、2週間の入院は、たいへんだとは思ったが、実家の協力も得られるので、手術をGoすることにした。 結果として、おみごと、さと子の耳は手術直後から、よーく聞こえるようになった。 というか、退院して家に帰ってくると、子供たちの声が全部、左だけで聞こえていたのが、右でも聞こえるようになり、いかに子供たちの声がうるさいかということがわかるようになったという。 いずれにしろ、私たちはDr. God’s Tailに、そして、背後で働いていてくださった、主なる神を誉め、感謝した。 37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応が出ているが、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という、神の創造のすばらしさを思い出させる。そして、「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようになる」話は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき、あるけなかった人が鹿のように踊りあがる。口の利けなかった人が喜び歌う。」という神の救いの預言があったが、マルコ福音書に記述されたイエスによって、それが実現したことを思い起こす。 マルコは、エッファタ、とか、タリタクムという聞きなれない、普通の人には、よくわからない言葉を通して神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしたのだと思う。 そして、私は、さと子の耳におこったことが、つまり神の創造や救いが、人類の多くの働きの中で、主なる神の息吹、聖霊の介添えがあって、現在も起こっていることを伝えたい。 そして、どうか、ただエッファタという言葉を信じて、リラックスして聖霊の息吹が自分の心に満たされるようにして、神の創造と救いの業に、わたしたちも参画しよう。 アーメン 安達均 “Ephphatha: Be Opened” Mark 7 31-37 May the Holy Spirit be richly poured upon the people in this sanctuary! Are you relaxing? I’m thankful for Pastor’s Carl’s leadership and wisdom declaring this Labor Day weekend Sunday as Beach Sunday. Some of you know my major in college was electronics. I learned how to design electronic circuit boards implemented in many kinds of electronic devices. I do not remember much about what my professor taught me about electronic circuits, but there is something I clearly remember him saying at our commencement: Please try to find time to relax; then you may become very creative. As human beings, we are most creative when we are relaxing. Even though you can be creative, I do not think an individual can create something amazing without inspiration. There is always input from somewhere, information from someone, or great need in a specific area; then those circumstances make someone create or I would say God is always the creator of anything but human beings may potentially become co-creators. When we read the Gospel to the end, I think it is related to God’s creation and salvation and we realized that humans may join in these activities. In today’s Gospel, what is the most unfamiliar word to our ears? What does the Greek word, “Ephphatha” mean? In English, it is written as “be opened” This word is Aramaic that was…