Archive for July, 2011

July 26th, 2011

2011年8月の予定

No Comments, 教会案内, by admin1.

Tweet                                  2011年8月の予定       8/1~5        Vacation Bible School     LCR 8/4、18       事務打ち合わせ           1:00PM   JMオフィス 8/7、14、21                キリスト教101                            10:00AM        T.   Hall   8/9         アーバイン家庭集会          10:30 AM    愛子 G.宅  8/11、18            聖書を読む会            10:30 AM   Joyce’s Library 8/14              長崎ツアー説明会          1:30 PM      T. Hall 8/28             カール先生の説教                       持ち寄りランチ         礼拝後         T. Hall    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet Calendar 8, 2011 C 2011年8月のCalendarを掲載いたします。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ローマの信徒への手紙8章26-39 「神様の特別な愛」  “God’s Special Love” わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。 神様はあなたにとって何でしょう、色々な答えがその質問に対して出てくると思いますが、多くの方は神様は愛であると答えるのではないでしょうか? 神様の愛とは私たちにとって計りがたい素晴らしいものです。そこで、今日与えられたローマの信徒への手紙をもとに神様の愛とはどのようなものであるかを4つの話の中で聞いてください。 その前にもう一度今日のローマの信徒への手紙8章の35節から39節を読んでみましょう。だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう? 艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。私たちたちは、あなたのために一日中死にさらされ,屠られる羊のように見られている」と書いてある通りです。しかし、これら全てのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリス・イエスのよって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。 では一番目の話:これは夢の中での話です。皆さん、あなたが神様の裁判所に被告、accusedとして連れてこられたのです。神様はJudge, 裁判長です。そして、サタン、つまり悪魔はあなたの検察官、accuserで, あなたが実際したか、またはしなかったかの罪について裁判を受けているのです。サタンはあなたの罪を目撃した証人を呼んであなたの罪を摘発しました。それを聞いてあなたの心は沈みます。その通り、自分は悪いことをしたと心の中で認めているからです。それは誰かに暴力の手を出したと言うより、誰かの悪口を言った、誰かを仲間はずれにした。親切にしなかった。口もきかなかった。そんなことですが、神様から見ればこれらはすべては罪です。 またそれ以上に検察官はみんなの前で誰かのとったビデオを見せたのです。そのビデオの中でこのあなたが生活に困っている人に出会った時、どうしようかというシーンが出てきました。そして、そのビデオはどうしてか、あなたが心の中で思っていたことが声として出てしまい裁判長にも陪審員にも聞こえてしまったのです。「困っている人はそれは怠慢な人、他人に頼って生きている乞食当然。私にはぜんぜん関係のない、赤の他人」ああ、どうしよう、恥ずかしい、穴があったらそこに入りたいと思っていたその矢先、裁判長は言いました。「これは本当ですか、あなたは隣人を省みなかったと認めますか?」「はい、そのとうりです。何も返答することはありません。私の罪をお許しください」と頭を深く下げたのです。その時、イエス様が夢で現れて宣言なさったのです。「あなたは私を信頼する者。私はあなたの罪の刑を私の十字架の死によってすでに取り去りました」と。先生、これは変な話ですねと言われてしまうかもしれませんが、ポイントは「神様は私たちを愛するが故にイエス様をこの世に送り、私たちの罪を背負って死んでくださったということです。私たちの罪を自分の上に負って死んでくださったイエス様、それはキリスト教の信仰を持たない人には難しい神様の愛の形です。しかしこの愛があってこそ私たちは今ここにイエス様を慕って生きていけるのです。 二番目の話は、ご主人がアル中の奥さんの話です。この奥さん本当にご主人のことで今迄つらい人生を送ってきたのです。しかしある時ご主人、自分の問題に気が付いて奥さんに今までのことを許してくれ、もうこれからはお酒は飲まない、だからセカンド・チャンスをくださいと泣いて語ったのです。奥さん、どうしたらいいのかわからず,牧師さんを訪ねたのです。「先生、私の家族、私の友達は私が主人をそのまま受け入れるなんて、そんなことだめですよと言っているので牧師さんは答えました。「あなたは、まだご主人を愛していますか?」と。「はい、私は主人を愛しています」と奥さんは大きな声で答えました。 その後、牧師さん、こういうガイダンスを奥さんに与えたのです。「奥さん、あなたに覚えておいてほしい事があります。あなたはご主人のjudge裁判官ではありません。ご主人のJury陪審人でもありません。あなたはあくまでもご主人をを愛する奥さんだと言うことを肝に命じてください」と。「そして奥さん、もうひとつ」と牧師さん続けて言いました。「あなたの広い心と愛ですべてを許すという、あなたの寛大さにあなたのご主人は、今までの自分の惨めさで心を痛めるでしょう。ご主人の心の回復はあなたのUnconditional,無条件の愛によってのみ起こるのです」と。 三つ目の話はBetty Van Dyke さんという人が書いた目の見えない女の子が始めてピエロに出会った時の話です。生まれた時から目が見えなかったこの女の子はピエロと言う人がどんな人か分かるには唯一つのことをしなければならなかったのです。それはピエロに触ることです。 この女の子は両手でピエロの頭を触れ始めたのです。「大きな耳、ボールのような鼻、髪の毛はちょこっとだけ、そしてなんか変な洋服を着ているこの人、なんて変な人なんでしょう」と笑いなら言いました。「なんだか私笑いたくなる、だってピエロさんってとっても変わっているし,声だって普通の人とより子供みたい。ピエロさん、あなたHugしていい?私あなたのお友達になりたいわ」と。この女の子、目でピエロを見えなくても、ピエロさんは子供たちを嬉しくしてくれる人とわかったのです。ピエロさんにHug して “I love you funny person” と言いました。 この話は私たちが受ける神様の愛を語っているのです。私たちは神様の愛というものが100%はっきりわかりません。しかしイエス様との祈りの中、信頼関係の中に時間が経つ内にそれが分かるようになるのです。コリントの信徒への手紙第一の13章12節の言葉を聞いてください。 「私たちは、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには.そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は、一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」 本当です。イエス様という神様を通しての愛を今は私たちは完全に分かることが出来ないでしょう。しかしそれが出きるような時がいつか来るのです。今は神様の愛というものを聖書の福音の中、聖餐式と洗礼式、また他の人からの思いやりの中に見出すことができます。ある意味で、私たちは目の見えない女の子がピエロを手で触って「私の前でここにいる人はイエス様です」と言えるかもしれない。しかしそれ以上に、心の中でイエス様と出会う、信仰によってイエス様と顔と顔を合わせて出会う時が来るのです。その時私たちを愛してくださっている神様に愛を持って仕えることが出来るようになるのです。 最後、4っ目の神様の愛とはどのようなものであるかの話はPastor Valbaracht という人による第二次世界大戦後に経験した話です。 私が兵隊としてアジアに送られた時、娘はまだ生まれて3ヶ月目の赤ちゃんでした。戦場で時々送られた写真で娘の大きくなってゆく様子はわかっていたのですが、娘にとってお父さんの私は箪笥の上にあった写真に過ぎなかったのです。もっとも、これがあなたを愛してるパパなのよと家内は娘にいつも言っていたのですが。しかしお父さんは実際そこにはいないのです。3歳の娘さんがどうしてお父さんの愛を感じることができるでしょうか? 何千マイルも離れて生きている私がどのように娘の愛の対象になるでしょうか? わたしのお父さんは私の家から近くわたしの娘をいつも訪ねていたので、娘はおじいちゃんが大好きでした。お爺ちゃんが、お爺ちゃんとお父さんの二人の役目をしていたのです。しかしそのお爺ちゃんも戦争中に病気で亡くなったのです。 戦争が終わり、3年目に私が家に帰ってきた時、どのように私を受け入れてくれるかの不安がありましたが、娘が、私の顔を見て、「パパ?」と言って私の腕の中に飛び込んでくれた時、私は嬉しくて涙が出てとまらなかったのです。パパとママと娘と一緒に長い間抱き合って泣いてしまいました。嬉し泣きです。 同じようにイエス様は両腕を広げて、彼の胸の中に飛び込んできなさい。私はあなたのお父さんです。そこで私の愛をイエス様の子供である私たちに示しましょう、と言われているのです。 今日の説教は神様の特別な愛を4つの話を持って聞いていただきました。神様の愛は私たちに色々な形でも現れるということを知ってください。そして、どうか皆さん、神様と会話の時、祈りの時を持って毎日を過ごしてください。神様は必ず私たちの中に来てくださるのです。アーメン。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1174 2011 7 24W   2011 7 24WE  (英文) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイによる福音書13章24-30、36-40節 「雑草と麦」“Weed and Wheat”                                                                                                  私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 今日の福音書は先週の種蒔きと刈り入れ時の話の続きです。お百姓さんが良い種を畑に蒔きました。しかしその人が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦の種を蒔いたのです。しばらくすると、麦と毒麦が揃って芽を出しました。毒麦、それは雑草ですが、よく麦と似ている、そこで、畑の仕事を任されていた男は、その毒麦の芽を抜こうとご主人様に申し出たのですが、ご主人は言いました。「一緒に麦と毒麦を収穫の時まで、その儘にしておきなさい。そうしないと、毒麦を取ったつもりで、麦を引き抜いてしまうかもしれない。最後の収穫の時にそれを分けてとりなさい」と。 もし私達が今日の福音書の話しの中にいたとしたら、腐ったりんごはまだ新鮮なりんごから取り除くというように雑草抜きに励んだはずです。しかし、誰か教会に来ている人の中で、この人は教会にくる資格がない、だからその人を追い出そうという動きが出たら、それは教会の中での一番の悲劇です。しかし実際、アメリカのほとんどの教会は50年ほど前まで  “Excommunication” という規定がありました。これは教会員として悪い行為をした人、恥ずかしい行為をした人たちをメンバーの席からはずすという規定です。それはどういうことかと言うと、不道徳な行為をした人、警察に捕まるような悪事を起こした人たちに教会から破門状が出されたのです。5年ほど前、あるアジア人の教会では役員会の会長が、6ヶ月の間教会に出席してはいけないという知らせを受けました。なぜかというと、この人の16歳の娘さんがボーイ・フレンドとの間で赤ちゃんを産んでしまった。それは遺憾であると役員会は会長さんと彼の家族に6ヶ月、教会の行事に参加してはいけないとの通告を出したのです。 これはアメリカの植民地時代によくあったことで、教会はモラルに反したことをする人たちを差別、村八分にする、そういう時代があったのです。モラルを守ろうということは教会としてはっきり言っていいのですが、それを守ることのできなかった人にこそ、神様の赦しと助けをあたえるべきと断言します。人間はみな罪人で、神様の赦しを必要としているのです。クリスチャンと呼ばれる私たちは罪を嫌うのですが、所詮、私たちはみな罪人。ですから、神様の許しと愛を必要なのです。 皆さんの中でアミッシュ、あるいは、メノナイトという昔からの習慣を守って今でも17世紀のような農業生活をしているクリスチャンの人たちのことをご存知ですか? 家内のナンシーの実家はペンシルベニアのこの人たちの住んでいる地域から近いところで、本当にこの人たちの生活を観察してみると昔の世界に戻ったような気がします。まず電気が使えません。家の中で夜の生活はろうそくのみです。自動車も使えません。洗濯機も、冷蔵庫も、電気で動かすものは使えません。畑を耕すのも、動物が鋤を引っ張って行われます。男は成人になると髭を生やさなければなりません。女の人は頭の上にボンネットをいつもかぶり、いつも長いスカートで、ズボンをはくことは禁止されています。彼らはPennsylvania Dutchという特別な言葉を話し子供たちは公立の学校には行きません。自分たちだけの学校があり、読み書き、簡単な算数はそこで習いますが、主な教育は聖書を学ぶことです。 ところで、メノナイトというクリスチャンもPennsylvania Dutch の人たちですが、この人たちは、もう少し文明を取り受けて生活をしているクリスチャンの人たちです。家の中では電気は使えない保守的なメノナイトと普通のアメリカ人のように文明を受け止めて生活する進歩的なメノナイトの人たちもいますがアミッシュとメノナイトはもともと同じ血のつながりのある人たちです。しかしこの二つのグループ、アミッシュとメノナイトがあるひとつの決まりのことで分かれていったという、その背景のうらにShunning という習慣があります。これは英語で、 “Social avoidance” と言い、その意味は自分たちのこの非文化的な生き方を出てアメリカの一般の生活の中に入っていく人たちは、一度外の世界に出たら、もう両親、親戚、つまりアミッシュと言うCommunityにもどることができないと言う決まりです。 つい最近、テレビで、若いアミッシュの青年が、大学にいきたいと言うことで自分の家を出た。そしてGEDの資格を取るために勉強している。しかしやはり自分の家族に会いたいと家の門のところまでいった。そこに家族はいるのはわかっているんですが、彼の家族は出てこないのです。家族にとってこの息子は親も兄弟も捨てたものとみなされているのです。なんと切ない気持ちでなきたくなりましたが、この青年は彼の育った社会を捨てたのです。 アミッシュとメノナイトの一番の違いは一度、家族の者が自分たちの社会から出たらアミッシュは、でた人を戻ってきたいと言っても受け取りません。Forever good bye なのです。メノナイトは自分の子供が家の農業を継いでくれることを望みますが、もし子供が、「私は家を出て都会に言って学校、大学にいきたい。」と言ったとしたら、親は悲しむかもしれませんが、その息子を村八分にすることはしないのです。 なぜこの話を紹介したかと言うと、それは教会と言う私たちの信仰の集まりの中でも長い間、あの人は私たちの仲間、でもほかの人は私たちが付き合うべきではない人たち、と言ってイエス様の元でみんながお互いに一つになって愛し、助け合ってゆくべき教会の中で、私たち、あの人たちと言う、イエス様の今日の話にあるWheatとWeed と言う関係を作ってしまうことがあるからです。 聖書の中で、私たちは驚くほど多くの麦と雑草に似た話を読みます。と言うのは、ユダヤ人の位の高い人たちはいつも自分たちは神様から愛されている、神様の戒めを厳重に守っている麦だと信じているのです。その反対に、体の不自由な人、貧乏人、徴税人、のような者たちは、神様から遠い人たち、神様の恵みから離れている雑草だと言うのです. そのひとつの例をルカによる福音書の18章9節に書かれているもので紹介しましょう。  「自分は正し人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るも者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪びとの私を憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 私たちは誰でも神様に愛され、よい実を結ぶ者になりたいのですが、時には反対のこと、人を裁くこと、いや、裁くと言うより、私はほかの人よりもっと神様に愛される人になりたいと思うことがあります。それは意識的ではないかもしれない。しかし、自分のことが一番大切と思う私たちは神様に誰よりも愛されたいと思うことがあるのです。 ところで、キリストに従う私たちは、裁かれると言うことをあまり気にしないでいいのです。「イエス様私を許してください」と心の中でいえる私たちはすでにイエス様に愛されているのです。ですから、大切なのは私たちがよく口にする、お互いを愛すると言うこと、お互いを大切にすること、思いやりを持って人間関係を結ぶことです。 私たちの教会の群れは小さいものですが、小さいながらお互いを助けながらイエス様にすがりついて生きているのです。 最後に言いますが、私たちは神様から雑草とは呼ばれていません。私たちは神様の愛を栄養に、神様の御心を行う事のできるようなものとなる麦の実であるのです。私たちの神様からいただいている役目は、すべての人に神様の愛を分ち合うことです。私たち人間は愛し、愛されるために生まれてきたのですよと皆さんにその福音を言葉と行いによって示すことです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算No. 1173 2011 7 17W 2011 7 17WE (英文) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet      マタイによる福音書13章1-9、18-23節 「わたし達は福音の種を蒔く者」 “We are sowers of the Gospel ” 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。アーメン。 私が牧師として始めて招聘を受けたPhiladelphiaの教会は1970年以前は白人の Middle Class の Community でしたが、1980年にアメリカの都会の中で公立のhigh schoolの中で人種差別の問題が出てきた時、法律としてInner city と郊外の学校の生徒をバスによって自分の住む地域の学校以外のところに通わせるという試みが行なわれるようになりました。私の教会はOlney High school  という名の知られていた公立の高校のすぐ近くでこの制度が始まった時以来蜂の巣を棒でつつくような問題がcommunity の中で出てきたのです。ごみが道端に多く捨てられるようになったとか、ギャングの縄張り、ドラック問題、つまり治安が急に乱れてきたといわれるようになったのです。人種差別とはアメリカの社会で今も続いて問題になっていますが、1970年代はノーベル平和賞を受け取ったMartin Luther King を多くの白人の人たちはトラブル・メイカーだと思っていたのです。多くの白人の家族は郊外に移ったのもこの頃です。私は人種差別を撤回しようとの運動を続けたMartin Luther  King を尊敬します。社会の中でMinority と呼ばれている人たちの社会的地位、叉同じ神様のもとで、同じ人間としてのわたし達は全ての差別に反対する義務があります。 さて前置きが長くなりましたが、イエス様も当時イスラエルの世界でトラブル・メイカーとお偉方から批判されていたのです。イエス様は安息日に畑で麦を積んだこと、叉安息日に病人を癒したこと、羊が、崖から落ちそうになっている時それが安息日であったら助けないであろうかと言って律法と戒律を守ることが人生で一番大切なことと信じていたユダヤの宗教リーダーを非難したのです。イエス様がユダヤのリーダーの人たちから攻撃され、それに対して彼らこそ偽善者だと答えたのはイエス様が神様から送られた者で、本当に自分は 神様のみ旨を行なうものとの揺るがぬ確信がありました。しかし、彼に従う弟子たちはイエス様を神の子と信じ、自分の命も惜しまずイエス様の教えに従っていこうと思っていた時もあれば、本当にイエス様は私たちに神様の国をこのユダヤの地で実行されるのだろうかと思ったこともあったでしょう。そんなイエス様の弟子たちの心を読み取ってイエス様は種蒔の譬えを話されたのです。この譬えは最もわたしたちにとっても大切なたとえ話です。 イエス様はお百姓さんが畑に種を蒔きに行った話をしました。この時代、畑は小さかった、そこで種を蒔くのも手の拳で一掴みの種をばら撒いて歩いたのです。ある種は道端に落ち、そこの土は硬く根を出すことができず、結局鳥が来て食べられてしまった。叉ある種は土が少しだけかぶっている岩場に落ちた。根が種から出たのはよかったのですが、その根が伸びることができなかったので、結局熱い岩場で枯れてしまったのです。ある種は茨の中に落ちたのです。そこには土も水気もありましたが、せっかく芽を出した種も茨で囲まれ伸びることが出来なかったのです。 しかし、ある種は良い土の上に落ち、そこで30倍、60倍、100倍以上の収穫を上げたのです。この譬えをイエス様はこのように弟子たちに話したのです。始めに硬い道端に落ちた種について。この種は神様の言葉を聞きますが、その神様の言葉の意味が分からない人たちのこと。種は心の固い人たちのところでは育ちません。心の固い人とは、英語で言えば、 “Those they just don’t get it” or those they don’t even try to get it. です。この人たちは聖書というものを聞いたたことはあるが、関心のない者、神様とは私達にはぜんぜん関係がありませんという人たちです。このような人に出合うと心が沈みます。私達のできることはこの人たちが何時かは神様という方に触れる機会があるようにと祈ることです。 薄い土のかぶった岩場に落ちた種は一生懸命根を出そうとしましたが、岩は太陽の熱で熱くなり、切角でた根もdry up してしまいます。このような人は神様の福音を受け取った人なのですが、時間が経つにつれて聖書も、イエス様もけろっと忘れてしまった人たちです。このような人はイエス様に触れたことはあるのです。教会にも来ていました。しかし、長続きしなかったのです。神様の福音は一時だけのものではありません。私達の人生の始めから終わりまで私達を導いてくださる神様の導きと支えです。 茨の中に落ちた種はこれまでイエス様の言葉を聞き、イエス様に従ってきたのですが、何か他のものに心を引かれるようになった。それはお金持ちになるとか、自分が有名になることが、人生の一番大切なゴールと考えるようになった人のようです。私の知っている牧師さんがこう言いました。「私は一日に300ほどの e-mail を受け取ります。それほど私のアドバイスを聞きたい人がいるとは、私はカウンセラーとしての自分の才能を見直しました。」この人に私は心の中で言いました。「よく言うよ、この先生、自惚れるのもいい加減にしろ」と。 最後にイエス様は幾つかの種は良い土の上に落ちたと書いています。そこで30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。とうもろこしの種を考えてください。家内の実家はペンシルベニアの農業の町にあり、今は美味しいとうもろこしのかき入れの時です。とうもろこしはその実が種なのです。一つのとうもろこしは500ほどの種のついた植物です。収穫されたとうもろこしはお店に並びます。それは食事として使われるのですが、一つのとうもろこしの中の500粒の種が叉来年の春、一粒、一粒、土の中に埋められて一つの茎から6個ほどの新しいとうもろこしができるのです。アメリカ全土のとうもろこしの収穫は世界中のおなかの空いている人の何十年に渡ってやしなう食べ物になるほどの量なのです。物も使いようです。 イエス様が弟子達にこの収穫の話しをした理由は二つあります。私達は私達自身の行動によってまだ神様を知らない人たちに、イエス様こそ私達を愛してくださる、救ってくださる神様ですよと語ってください、導いてください。私達一人ひとりの行動の中で、神様についてゆく清い生活を送ることが、まだイエス様のことを知らない人たちへの伝道の道なのです。 一人でも多くの人がイエス様という神様の人格に触れ、神様の愛を受け入れることができるようになる。その愛を他の人に示してゆく人生が送られるようになる。それが私達に与えられたキリスト者としての使命であり、神の子として生きる喜びであるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet   週報通算No. 1172 2011 7 10W 週報通算No. 1172E (英文 ) Sunday English Bulletin 1172 english (3) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]