Archive for June, 2015

Tweet マルコ5:21-43 主イエスの恵みと平安が豊かに与えられるように!  6月3日から8日まで、結婚30年ということもあり、妻と私は休暇をいただきボストンを旅行した。 休暇といっても、やはり日曜朝どこで礼拝を捧げるか、教会を探した。 4日の木曜の朝、場所を確認するため最初の候補だったハーバード大学近くにある、University Lutheran Churchに出向いた。  すると今年第二次世界大戦終了から70年にあたり、世界ではじめて原爆投下となってしまった日本時間8月6日午前8時16分、東海岸時間で8月5日午後7時15分に向けて、5月28日から、毎晩7時から7時15分まで、70日間の祈り会が持たれているという張り紙を見つけた。 広島の原爆というと、いろいろなことを思い浮かべる。 私は、今日ここで、原爆が良かったとか悪かったとかを話すつもりは毛頭ない。 ただ、2歳で被爆して、12歳で白血病で亡くなった佐々木貞子さんの話をしたい。 彼女はそれまで育ててくれた両親、家族、友人たちとの別れが来ることはわかっていた。しかし、語り継がれた話を信じて、希望を決して捨てなかった。折り紙で千羽鶴を折れば、翼が与えられ、飛ぶことができ、永遠の命が与えられると。   本日与えられた福音書では、メッセンジャーから会堂長とイエス、そして弟子たちに、12歳の娘がもう亡くなったというニュースが届く。 もう亡くなったのだから、イエスにわざわざ来てもらうことは無いとまで言われてしまう。  しかし、イエスと会堂長、イエスの弟子たちは、急いで、会堂長の家に出向く。 そして、イエスは会堂長に、「恐れることはない、信仰を持ちなさい。」 と語っていた。  ここで、イエスの言う「信仰」とは何だろか。 先ほど読んだ福音書の中で、出血の止まらない女性が、この人に触れば救われると思い、必死でイエスに触ろうとする様子が描写されていた。そこに、真の信仰が著されていたように思う。  イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。 信仰とは、あきらめや不安を乗り越えて、絶対なる神に信頼を置く事と言える。 信仰は信じることだが、信じるという頭の中の働きだけではなく、信仰の結果として行動に顕われると思う。  そして、イエスは、娘が亡くなり、近隣の者たちが泣き騒いでいるなか、娘の両親と3人の弟子だけを連れて、娘のいるところに入っていく。 神から絶大な信頼を受けたイエスが、「タリタ クミ」、「少女よ立ち上がりなさい」というと、確かに12歳の少女は立ち上がって歩き出す。 それはイエスだけが奇跡を起こしたわけではなく、父親、母親、さらには3人の弟子たちの信仰もあって、奇跡が起こった。  くしくも同じ12歳だった佐々木貞子、私が調べた限り、彼女がクリスチャンになっただとか、キリスト教の神を信じたという記録は何もない。 しかし、私には、彼女の思い、祈り、彼女の信仰は、絶対なる神、この世の救い主、イエスに届いていたと思う。  そして、神はそれに答え、「タリタクミ」という言葉をなげかけ、折鶴を折り、祈り続けた彼女は世界中を羽ばたいているように思えてならない。 佐々木貞子は、世界中の人々の心に、生きているのだと思う。 西海岸だけでも、少なくともシアトルとサンタバーバラに佐々木貞子の碑が立てられている。 さて、今、あまりにも、多くの戦いが起こっている現実がある。 国家レベルの戦争もあれば、テロリストとの戦い、また、先週は本当に言葉に言い表しようのない教会での銃撃事件が起こってしまった。 繰り返し起こる銃撃事件、繰り返されるテロ、繰り返される戦争を現実に見る中で、私たちは、主イエスから「立ち上がりなさい」と呼びかけられていることを感じる。 私たちは、あきらめることなく、不安を乗り越えて、主なる神、主イエスキリストに絶対的な信頼を置き、祈り願う。 真の信仰が求められているのではないだろうか。   University Lutheran Church での70日間の祈りの行動に感化され、カール牧師と教会のスタッフで、”40 Days of Peace”という小冊子を用意した。今年の終戦記念日を迎える前、40日間、さまざまな困難にある社会また、世界平和に向け、祈り考えていきたい。 7月7日にはじめれば終戦記念日の8月15日に終了する。  8月16日の日曜日の平和主日礼拝では、主イエスから平和を実現する人々となるように呼びかけられていることを覚え、礼拝の時を持ちたい。  祈りをもって、今日のメッセージを終了したい。 慈しみ深い神よ。 さまざまな問題をかかえる社会状況のなかで、主に祈ります。 どうか、ひたむきな信仰を持つことができますよに!  アーメン 安達均 “Talitha Koum, Little Girl, Get Up!” Mark 5:35-42 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! In early June, Satoko and I took a vacation to Boston for our 30th anniversary. Even though we were on vacation, we still looked for a place to worship on Sunday June 7th. At first, we chose University Lutheran Church near Harvard University. On Thursday morning, my wife and I were walking there to verify its location. While walking, we found a poster saying that they pray for peace every night from May 28th through August 5th between 7:00 p.m. and 7:16 p.m. Since this year is the 70th anniversary of the end of World War II, they decided to pray for 70 days from May 28th until 7:16 p.m. Eastern time on August 5th which is the time when the first Atomic Bomb was dropped on Hiroshima at 8:15 a.m. (Japan time) on August 6th. If we think about that incident, various images will come to mind, but I want to make sure that this message doesn’t discuss whether it was right or wrong. Instead, I want to focus on a girl who, at 2 years old, experienced the radioactive effects of the bomb because she was 1 mile away from the ground zero. Because of her exposure,…

Tweet 7月の教会カレンダー&聖書日課 2015年7月カレンダー&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年6月28日LCR日本語部週報通算第1358号 2015年6月28日の週報 July 28, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1358E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は6月29日から7月1日の聖書日課に与えられている詩編88編を読もう。はっきり言って、暗い詩編だ。ここまで暗い詩編はほかにないのではないかと思う。 しかし、神の御心があって、この詩編は加えられているのだと思う。詩編作者の立場にたって、また、21世紀に生きる私たちにとって、その御心はなんなのか、考えたい。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編88編 1:【歌。賛歌。コラの子の詩。指揮者によって。マハラトに合わせて。レアノト。マスキール。エズラ人ヘマンの詩。】 2:主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。 3:わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。 4:わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。 5:穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ 6:汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。 7:あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。 8:あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます。〔セラ 9:あなたはわたしから/親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて、出られません。 10:苦悩に目は衰え/来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び/あなたに向かって手を広げています。 11:あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がって/あなたに/感謝したりすることがあるでしょうか。〔セラ 12:墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。 13:闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。 14:主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。 15:主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。 16:わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。 17:あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。 18:それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。 19:愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。 気になる言葉としては、11節から13節に書かれた質問。しいて一つあげるとすれば、「滅びの国であなたのまことが語られたりするのでしょうか。」 詩編作者の気持ちになって、この詩編箇所を振り返りたいが、長いので、三つの箇所にわけて、要点だけ。 1節の詳細説明は避けるが、楽団を形成して、この詩編が歌われる様子が思い浮かぶ。2-10節の内容は、社会から疎外されてしまった詩編作者自身と、ほかにも、疎外されてしまった人々がいて、みな、閉ざされた墓、暗闇の地にいると詠う。しかし、2節の最初は「主よ、私を救ってくださる神よ」との神への問いかけではじまり、10節は「あなたに向かって手を広げている。」との言葉があることから、詩編作者が神に祈り続けており、神への希望を捨てていない状況がわかる。11-13節は、決定的ともいえる質問をしていると思う。死者に神の御業が起こるのか、滅びの国にあなたのまことが語られるのか、等々。これらの質問に対して、答えが明確に書かれているわけではないが、真っ暗闇にいる詩編作者は、「いやそんなことはありえない。」という考えに陥っているのだと思う。14節から19節は、さらに真っ暗闇に入っていく様相で、神からも突き放されてしまうと詠う。そして、「私に親しいのは暗闇だけだ。」という言葉で終わっている。しかし、それでも、詩編作者は、その心境を神に向かって、詠っていることに注意したい。  詩編88編を通して、神は何を現代の私たちに語ろうしているのか? 社会からも疎外され、神からも見放され、墓にいるしかないような自分、あるいは滅びの民のようではあるが、それでも主なる神に語り祈り続けようとする信仰に、とてつもないパワーを感じる。21世紀、教会ですら悲しい銃撃事件がおき、本当に暗い世の中だと感じている人々が多いのが現実なのかと思う。実は、墓にいる死者をも蘇させることができる神に徹底的に祈る信仰が求められている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ4:35-41 主イエスの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、さまざまな理由で礼拝に来られずにいる人々の上にも豊かに注がれますように! イエス様の目から見れば、このように行動したら良いということはわかるけど、回りの人々の目が気になり、とてもそんなことはできない、と思うことがあるだろうか。  たとえば、この人を教会に誘ったら、こんな人は誘わないで欲しいと言われてしまうのではないかとか。しかし、そういうことは決してあってはない。   さきほど読んだ福音書の内容に入っていくが、どのように聞かれただろうか? イエスさまはすばらしい、どんな怖いことがあっても、だいじょうぶ。イエス様が波を沈めてくださる。台風が来ようが、火山爆発があろうが、地震が来ようがだいじょうぶ、イエス様がなんとかしてくださる。ということなのだろうか。 実は、今日与えられていた聖書箇所は、サウスカロライナ州チャールストンで起こってしまった銃撃事件と多いに関係があるのだと思う。  今日の福音書は、与えられた聖書箇所のイエスの言葉とともに、福音書記者マルコが意図したことや、弟子たちの気持ちも想像してみる必要を感じる。それは、今日の聖書箇所の前後にどんなことが書いてあるかにも気を配って、今日の箇所を考えると良いのだと思う。 今日読んでいるマルコ4章35節以前は、種蒔きをする人のたとえ、灯火や秤のたとえ、からし種とたとえといった、すべてたとえ話で来ていることに注意したい。 一連のイエスのたとえは終わり、イエスが「むこう岸に渡ろう。」と、イエスが語られる言葉ではじまっている。さて向こう岸とはどこだろうか?  それは5章のはじめを読むとわかるのだが、向こう岸でも、さらに内陸に入っていったゲラサ人が住む地域をイエスは目指していた。それは、ユダヤ人ではなく、異邦人の地域。 弟子たちにとっては、文化も違うし、考え方も違っていて、いわば外国だった。 弟子たちにとっては、「なんで、そんなところに行くのですか、イエスよ?」 という気持ちがあってもおかしくない。 弟子たちは、キリストの世界宣教などまだわかっておらず、ユダヤ人のわたしたちだけで、楽しく過ごして、ユダヤ人たちだけが、病気が癒されたり、おなかがすいたときには、おなか一杯食べてれば良いのだ、なんて思っていたのではないだろうか。だからイエスから異邦人の地に行こうという指示に、弟子たちの心は穏やかではなかったのだと思う。  このように読んでいくと、このガリラヤ湖が大荒れで、激しい突風がおこって、船が水浸しになってしまう光景は、いわば、弟子たちの心を表す、たとえのようにも思えてくる。 イエスは、「黙れ、静まれ」と風に向かって叱られる。その様子は、弟子たちが、「私たちのよく知らない異邦人の町なんかにいくのはやめましょうよ」と言いたくなるような、おだやかでない弟子たちの心境に対して、自分よがりの文化に、叱っているのではないだろうか。 そして、今日の福音書箇所の最後のイエスの言葉は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われている。 これから文化や方言も異なり、また悪霊にとりつかれてしまっている人々に解放をもたらする異邦人伝道に対し、イエスは弟子たちに私を信じて、勇気を持ってついてきて、いっしょに宣教の業に励むように導いているのではないだろうか。 今日の福音書箇所は、チャールストンでの銃撃事件で、大きな動揺を覚えるアメリカ福音ルーテル教会の牧師や信徒たち、またどこの宗派であろうが、バイブルスタディの真っ最中であのような事件がおこって心境おだやかではないキリスト者の心境を、嵐にたとえて語っているように思えてくる。 事件のおこったマザーエマニュエル教会でアフリカ系アメリカ人の方々9人が亡くなったが、二人の牧師は、サウスカロライナ、コロンビアにあるルーテル神学大学で学んだ方たちだった。さらに残念に思うのは、銃撃犯の21歳のデュランルーフは、アメリカ福音ルーテル教会のヨーロッパ系アメリカ人の会員だった。 イエスキリストの伝道ということを考える時、いろいろ悩むことがある私たちである。キリストの教えはすばらしいのだが、キリスト教といえども宗教であり、社会では、「宗教は友達を失くすのよ。」なんていわれたりしてしまう。伝道することが恐ろしくなってしまう私たちの存在がある。 そのような社会に、イエスは「黙れ、静まれ」と言ってくださる。そして異なる文化、考え方の方々の中に入っていき、対話するように導いているのだはないだろうか。 あのような事件が起こる現代の世の中にあって、そこに躊躇がある私たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という言葉を、新たに投げかけてくださり、私たちは、祈り、常に隣につきそってくださっている主イエスを覚えて、今週も主に従う生活を歩もう。 (日本語説教は、サウスカロライナの銃撃事件により、当日礼拝の直前に、内容をかなり追加・削除した。下記英語訳は、追加・削除前のものであること、了承いただきたい。)   アーメン 安達均 “Why Are You Afraid? Do You Still Have No Faith?” Mark 4: 35-41 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! There are times, when we know this is God’s will and we act without hesitation. However, there are times when people around us may not agree it’s the correct action and we are unable to act decisively. For example, if I invite this person, I might be taken advantage of. Regardless, all are welcome to church, this is our calling. And consequently, all people are invited to welcome others to church, too. Let’s talk about the Gospel text. What did you learn about Jesus? Jesus is powerful; he calms you when you’re fearful. He even calms stormy weather. I believe we should focus on Mark’s intentions and the disciples’ feelings about what occurred. It is almost always helpful to read what was written before Scripture and after Scripture to better give context. Before the scripture, Chapter 4 is all about parables. Parables of the scattering seed, parable of the lamp, and mustard seed. At the end of Chapter 4, in today’s Gospel, Jesus began with the words, “Let’s cross to the other side of the lake.” What is on the other side of the lake? If you read Chapter 5, you will know what’s there. Jesus was heading not only…

Tweet 2015年6月21日LCR日本語部週報通算第1357号 2015年6月21日の週報 June 21, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1357E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は6月18日から21日の聖書日課に与えられている詩編107編1-3節および23-32節を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 107編 1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 23:彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。 24:彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。 25:主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので 26:彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け 27:酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。 28:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。 29:主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30:彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32:民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 気になる言葉としては、私にとっては25節の「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」という箇所。 読む人によっては、「神様のいじわる」と言いたくなってしまうかもしれない。 しかし、聖書全体から教えられるメッセージは、決して、神様がいじわるな方だというわけではない。 さて詩編作者の気持ちになって、この詩編箇所を今一度味わいたい。 「恵み深い主の感謝しよう、慈しみは永遠にあるのだから」という言葉をもって、主に感謝しよう。主が贖ってくださった人々は唱えよう、主は人々を苦しめる者から贖って、東西南北、あらゆる方角の国々から、集めてくださった(1-3節)。  人々は、海に船を出し、大海を渡って商売人となり(多少高慢な人間になったような面もあったのだろう)彼らは深い淵で主の御業・驚くべき御業を見ることになる(23- 24節)。 主は言葉を発することで、嵐を起こし、波を高くした(25節)。 よって、人々は天に昇ったり深淵に落ちるような気分になってしまい、苦難の魂が溶けてしまうかのよう(26節)。 また酔ってしまった人のようによろめいてしまい、知恵も働かず、なにもできなくなってしまう(27節)。 なにもできずにいる彼らは、大声で主に助けを求めてみる、すると、主は彼らを導きだした(28節)。主は嵐を静められ、波はおさまった(29節)。彼らは波が静まったのを喜び、目的地の港に導かれていった(30節)。だから主に感謝せよ、主の慈しみは深く、人々に驚くべきみ業を成し遂げる(31節)。民を集めて主を崇めよ、長老が集まった集いで主を賛美せよ(32節)。 21世紀の現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編をもって何を語っておられるのか考えたい。紀元前に地中海を我が物顔に航海していた商人に突然、悪天候がおとずれたように、現代においても、順調にものごとが運んでいても、突然の逆風に遭遇し、なにもできなくなってしまうようなことがある。もう少し言うなら、「私の人生、とくに困っておらず、宗教にお世話になるつもりはありません。」と言う方とか「もうちょっと年を経て、キリスト教が必要になったら教会の門をたたきます。」といってくださる方もいたりする。 しかし、人生はいつ暗雲がたちこめ、真っ暗闇になってしまうか、何事もうまく行かずに意気消沈してしまうことにもなりかねない。 しかし、紀元後になって、主イエスが顕われてくださってから明確になったことだが、主イエスの信仰によってどんなことがおころうが人生は終わらない。 たとえこの世の命が終わったあとでも、主の慈しみは永久に続き、主が共に歩んでくださる。 どのようなことがおころうが、主が共にいてくださって、導いてくださっていることを覚えよう。 今週与えられた詩編箇所を読む中で、人生、順風の中にいる時から、主を畏れる信仰をもって生きるように導かれているように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ 4: 26-34, 第二コリント 5:6-17   聖霊の力によって、キリストの愛が人々の心の中に染み渡るように! 「悟りの境地に達する」という言葉がある。 本来、仏教の言葉だと思う。 この言葉をどんな風に、捉えているだろうか?  仏像を見たことがあると思うが、いろいろなものがあるが、美術品として本当に美しいものもあるが、仏陀がとっている姿勢がまさに、悟りの境地に達している姿勢なのではないかと私は想像している。 では、仏教もキリスト教も宗教なのでから、イエス様だって、同じように悟りの境地に達していると思われるだろうか? そして、キリスト教徒として究めれば、キリスト教徒も悟りの境地に達するといえるのではないかと、世間では思われているかもしれない。 さて、みなさんの中には、キリスト教徒として、人生が長い方もおられる。 どうだろうか、自分は悟りの境地に達していると、思われる方いるだろうか?  与えられた福音書の言葉と、さらに、第二日課で与えられた言葉を通して、キリスト教徒も仏陀と同じように悟りの境地に達するようなことがあるのかどうか、考えてみたい。 福音書の中で、イエスが、「神の国のたとえ話」として、ちっぽけな種がとてつもなく大きな木になるという話をしている。 からし種のような小さな種でも、主の御力によって、とてつもなく大きな木へと成長し、さらには、その木の上に、鳥の巣さえ出来てしまうような木に成長するという話。これはあくまでたとえであり、実際に、イエス様がいわんとしていることは、種から大きな木が成長するということではない。  イエスがいわんとしていることは、先週の福音書箇所だったマルコ3章には、イエスは気が狂った人と、思われ、まるで価値の無い人間だとすら思われてしまったが、そのような状況を覆す必要をイエスは感じていたのではないだろうか?   気がくるっていて、社会的にはまるで価値が無いとされてしまうような存在、もっとさかのぼるなら、エルサレムの馬小屋で生まれたような小さな赤ちゃんから、実はとてつもないおおきな神の国に変わっていくということをイエスは述べたかったと考えてはどうだろうか。 彼の生き様自体に、とてつもない価値があることを人々に知らせる必要があったのだと思う。 そして、自分優先ではなく、神優先、神の栄光のために生きていこうとすることがどれだけ価値があることかをイエスは示したかったのではないだろうか。  そしてイエスの死と復活、昇天後も、そして現代もその神の国を形成していくのは、聖霊に導かれてキリストを信じるようになった者たち。 成長しつづける巨木の一本一本の枝を成す存在になっていくということが云えるのではないだろうか?  本日の第二日課、コリント信徒への手紙の二、5章17節には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という言葉があった。 その神の国を形成する人類、一人一人も、イエスとつながって、成長する木の枝となり、いつも恵みを受け続けて、常に新しくされるということがおこっているのだと思う。 さて、このように考えてきたところで、説教の最初の質問、「キリスト者が悟りの境地に達するか?」という質問にもどりたいと思う。 キリスト者が常に新しくされるというのは、一つの悟りかもしれない。 しかし、悟りに境地に達して、そこに留まるということではないのだと思う。 キリストの教会につながるという事は、私は5つのポイントがあることを述べてきている。 復習すると、1)聖書の御言葉を読む、2)主に祈る、3)礼拝を休まないようにして、礼拝でも、社会のためにも奉仕する。 4)家族、友人、知人を誘って御国の伝道に協力する。5)いただいている恵みに応答して、恵みの一部を捧げる。 キリスト者は、このような生活を営む中で、キリストの体である教会に遭遇する中で、さまざまな状況に遭遇し、そこに聖霊の働きがあって、さらに神を褒め称えたくなるような新たなる発見をするし、自分も新しくされていくという経験を繰り返す。 6月3日から8日まで、さと子と私は休暇をいただいた。とくに留守を守ってくださった皆さんに感謝したい。休暇をとってボストンを旅行するといってもやはり日曜朝はどこで礼拝を捧げるか、教会を探していた。 4日の朝、最初の候補だったハーバード大学近くにある、University Lutheran Churchに出向いた。 すると今年第二次世界大戦終了から70年にあたり、世界ではじめて原爆投下となってしまった日本時間8月6日午前8時16分、東海岸時間で8月5日午後7時16分に向けて、5月28日から、毎晩7時から7時16分まで、祈り会が持たれているという張り紙を見つけた。 私たちは、6月6日の夜の祈り会に参加した。参加者は私たちを含めてわずかに6名に過ぎないが、その小さな群れで祈る中で、広島や長崎で亡くなった方々の痛み、さらには十字架上のキリストの痛みにも感じた。しかし、アメリカの方々が広島、長崎の犠牲者も覚えて祈ってくださっていることへの感謝と同時に、神の御国にも通じるものを感じ、十字架に架けられ殺され、葬られても復活するイエスによる喜びさえ覚えた。 そして、喜びを覚えるだけではなく、聖霊の力とともに、この祈りの輪を広げる行動をしたいという気持ちでいっぱいになった。 小さな祈り会であったが、神の働きについて、新たな視点を得たように思う。  私たちキリスト者は、悟るということはあるのだと思う。 しかし、悟りの境地に達して、とどまっているということではない。 キリスト者としての生活を歩む中で、なにげなく見逃してしまいそうで、こんなもの何にもならない、と思われてしまいそうなちっぽけな種のようなもの中に、とてつもなく大きな神の御国を見る。 そして、聖霊の働きの中でおこる悟りに応じて、私たちは新しくされ、私たちは新たな可能性に向けて世に遣わされる。  アーメン 安達均 “Achieving a State of Perfect Enlightenment?” Mark 4: 26-34, 2 Corinthians 5:6-17 May the Holy Spirit be poured into the hearts of the people in this sanctuary! There is a phrase in Buddhism, in Japanese it’s “Satori no Kyochi ni tassuru,”which means “Achieving a state of perfect enlightenment.” I believe most of you have seen statutes of Buddha. Buddha is often depicted sitting calmly and many people see them as examples of serene beauty and I agree that some statutes are very beautiful. I think Buddha statues symbolize the state of perfect enlightenment. So do you think there’s a similar concept in Christianity? Do you think that Jesus Christ is like Buddha sitting calmly because he achieved a state of perfect enlightenment? Do you think that Christians can also achieve a state of perfect enlightenment? Since some of you lived as Christians for many years, what do you think? Do you think that you have achieved a state of perfect enlightenment or is it a process? Based on the Gospel text, Mark Chapter 4, together with the second reading, II Corinthians Chapter 5, let’s think about the image of Christians sitting very calmly while achieving a state of perfect enlightenment. In the Gospel, Jesus talks about a parable describing how even the smallest seed may become a very big plant. It represents the fact that something as great and…

June 14th, 2015

2015年度日本語部修養会

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Tweet 6月13日土曜日の午前10時より、Santa AnaにあるPacifica Synod Office (教区オフィス)で行なわれました。今年のテーマは、「祈りについて」でした。講師に伊藤秀美牧師を招き、素晴らしい学びのひと時となりましたことを感謝いたします。祈ることによって、喜びが与えられる。祈ることによって、神と自分との間が適合され、自分の中の落ち着きと平安が生まれる。それが周りの人たちへの思いやりや愛情へとなり、決して他人を責めたり傷つけたりせず、どのような人でも同じように受け入れられるような社会、国、世界となっていく、それが神の御心であり、祈りが私たちの生活に生きている、キリスト教が社会に適合しているという事なのだと学びました。また様々な宗教は人が作ったものであり、人は自分たちの宗教を最高のものだと思ってしまうところに問題が起こり、他の宗教を受け入れないという狭さに繋がってしまうが、実はそれらの宗教の上にもっと大切な「無条件の愛」がある事を忘れてはならない、というお話お印象深かったです。10時から3時半までがあっという間に過ぎてしまい、もっとお話を聞きたいと全員が思いながら閉会となりました。   修養会プログラム 修養会プログラム2015   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年6月14日LCR日本語部週報通算第1356号 2015年6月14日の週報 June 14, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1356E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace