Tweet 今週も与えられた聖書箇所を読み、思いを巡らせる中で、主の御心、思いが、皆様方の心の中に染み渡りますように。 2月12日(日) マタイ5:21-37 先週は、聖書を文字通り読む事の怖さを観想として書いた。文字通り読み実際にその通り生きていたら、手を切り取る人が、あるいは目をえぐり出す人がいくらでも出てしまうだろう。ではどう読んだらよいのだうか?大きな視点は聖書全体が神からのラブレターと言っても良いのだと思う。そして神が人間を愛してくださっているように人間が互いに許し合い、愛し合うという視点が聖書の根底にあることを覚えて読むことの大切さを感じる。そのように読めば、この箇所も文字通り読むこととは違った視点が見えてくるのではないだろうか。 2月13日(月) ヤコブ1:2-8 何かつらい事があっても、試練であり忍耐を増す機会なのだと理解すると、喜びがわいてこないだろうか。 3月1日からはレントとなる。今年のレント、控える物/事をしっかり決めて、試練の時、喜びの時となりますように。 2月19日(日) マタイ5:38-48 自分を迫害する者とか敵とはいったい誰のことを言っているのだろう。キリスト教会の歴史は大きな迫害に耐えてきた事実がある。現代の日本人の社会では当時のような迫害はないものの、しかしキリスト教会を毛嫌いする人々、心の底でキリスト教徒を憎む人々もいる。与えられている聖書箇所から、そういう方々にも、神の愛は注がれていることを覚えたい。 2月16日(木) 出エジプト 22:21-27 週の後半に与えられているどの旧約聖書箇所も、19日に与えられるマタイ福音書5章38節以下でイエスが述べることと関係してきていることを感じる。 とくに、ここに挙げる出エジプト22章の箇所の中で、26節の「わたしは憐れみ深いからである。」という言葉と、マタイ5章45節でイエスが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われたことが、共振して響いてくるように思う。 イエスが語られたことは、さまざまな旧約聖書の言葉を、より意味深いものにしてくださる面がある。 2月19日は10時のバイリンガル礼拝と、ミニジャパンフェスティバルの予定です。主なる神の慈しみが、いたるところに示されますように! 恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2017年2月12日顕現節第6主日礼拝説教日本語訳2-12-2017 説教「Trying to Get Our Attention」日本語訳 「私たちの注意を引くために」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2月5日(日) マタイ5: 13-20 5日の説教では、イエスの語る律法について少し語ったが、深く触れなかった。イエスは律法を決して軽視していない。 その重要性は多いにある。 ルーテル教会で、もの心がついたものが洗礼を受けるときには、マルチンルターの書いた小教理問答集を学ぶことを勧めている。 その問答集でいちばん最初に学ぶことは、十戒である。 十戒には、最初の三つの戒めに神との愛の関係が、後半七つの戒めは隣人との愛の関係が書いてあるともいえる。十戒無しには、キリスト教会もユダヤ教会も、また社会もなりたたないくらいに、重要なのだと思う。 2月6日(月) ローマ 11:2-10 ローマ書9章から11章はとくにユダヤ人について書かれている。とくにこの箇所は、律法が第一主義になってしまい、律法に基づいた行いこそが救いに結びつくかのごとくに考えてしまう、つまりつまづいてしまうユダヤ人を表しているように思える。 2月12日(日) マタイ5:21-37 この福音書箇所、「えっ、そんな、イエスさま厳しすぎます。とても、そんなこと守れません。」といいたくなってしまう。しかし、考えようによっては、イエス様が本当におっしゃりたいことは、文字通りに厳しいことをおっしゃりたいのではないのでは。。。聖書の言葉というのは文字通り読むことは危険ですらあるのだと思う。こういう話があった:救急車がかけつけたところ、ある人が腕を切り落とそうとしていた。そして、その横にはマタイ福音書の5章のこの箇所が開かれた聖書がおいてあったそうだ。 2月11日(土) 申命記 30:1-9 週の後半の旧約聖書は、創世記、レビ記、そしてここにあげる申命記からだが、どこも戒めを守ることの大切さが強調されているように思う。 しかし、本当に強調されていることは、子孫等へ「心をつくし、精神をつくし、あなたの神、主を愛させる」という戒めを守ることなのかと思う。 それは、「律法を守る行いに徹する」こととは異なる。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 先週、インドネシアに出張しており掲載が遅れ申し訳ありません。 1月29日(日) マタイ5:1-12 イエスに従い始めた弟子たちはもちろん、当時のローマの圧力に生活苦を強いられ、その副作用ともいうべき病や怪我を負っていた人々にとっても、当時のさまざまな困難が天では報われるという言葉が、どんなにか希望につながった事だろうか。現代の私たちには想像しきれないほどの癒し、励ましがあったのかと思う。いま一度、この山上の垂訓を読み返す時、現代の私たちがおかれているさまざまな状況に対しても、どれだけ主が愛してくださり、たとえこの世の苦労が多くても、天では報われるという普遍的な喜び、希望を持てるように思う。 1月31日(日) ヤコブ5:1-5 山上の垂訓の言葉の裏を返せば、つまり富んでいるものたち、さらに言ってしまえば多くの困難を強いられている者たちのわずかな収入から高率の税金を取り上げて生きているような人々を思うと、彼らは天ではどれだけひどいことになることかをヤコブはつづっている。マルチンルターがヤコブ書をかなり非難していた。わたしは、ヤコブが他の箇所で「行動によって救われる」ような事を書いていたので非難しているのだとばかり思っていた。今日新たにこの箇所を読むとき、マルチンルターは、ヤコブ書のこのような箇所も好きにはなれなかったのかと思う。 2月5日(日) マタイ5:13-20 1月29日の山上の垂訓の続き。有名な、キリストの弟子たちが、地の塩と世の光にたとえられる話。 じっくり考えるとき、世の光の部分は、ともし火をそのスタンドの下におくものではなく上におくものというたとえは文字通りわかりやすいと思う。いっぽう地の塩に関するたとえは、奥が深い。 2月2日(木) 申命記4:1-14 イエスは山上の垂訓の続きの中で「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と語られるが、申命記4章には、その根拠があるように思う。 もともとはモーセがシナイ山で神から聴いた言葉、十戒が二枚の石に記されたこと。その掟は、いつの世もどんな世界でも、決して消えないことを覚える。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet LCR日本語部週報通算第1415号 2017年2月5日の週報 2-5-2017 Bulletin 1415E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace