Archive for August, 2013

Tweet 8月29日 詩編を読もう:幸せ (詩編112) 牧師:安達均 今週読む詩編は112編。 いつものように、3回読んで、それぞれ、気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 / 112編 1ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。 2:彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。 3:彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。 4:まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。 5:憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。 6:主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。 7:彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。 8:彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。 9:貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。 10:神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。 どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。今週は、いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことを書いておきたい。 気になる言葉は何だったか? 「いかに幸いなことか」 詩編の最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉のあと、「いかに幸いなことか」という言葉が出てきている。 詩編の中には、この言葉がしばしば使われている。(興味がある方は、時間のゆるすときに1、41、65、89、119、128編を読まれても良い。) 「いかに幸いなことか」という言葉は、人間が生きて行く上で、「幸せって何なんだろう?」と考える事はよくある。その質問の答えを詩編作者が提供してくれるわけで、「いかに幸いなことか」という言葉には、次に何が書かれているか、強い興味が沸いてくる。実は、イエスキリストもこの言葉を使って、山上の垂訓を語っている。(マタイ5章) 自分に何を語りかけられたか? 「幸せとは主を畏れること」 「いかに幸いなことか」という興味ある言葉の次には、まず「主を畏れる人」という言葉が出てきた。これは基本中の基本で、「主を畏れる」ということは、聖書の中で繰り返し出てくる。 箴言の1章7節には「主を畏れることが知恵の初め」という言葉がある。 3週間前の8月8日に読んだ33編でも、この言葉が出てきて、「主を畏れる人」というタイトルで、「詩編を読もう」を書かせていただいた。 今週読んでいる詩編112編では、「主を畏れる人が幸せ」ということが詠われているわけであり、私は、「ごもっとも」と思う。  コミュニティに何を語りかけているか?  幸せな信仰者の人。そして、詩編113編の中で、主を畏れる幸せな人は、「このような人生を歩んでいますよ」ということを、コミュニティに語りかけている。 イエス・キリストがこの世に登場された時代は、安息日には、会堂(シナゴーグ)と呼ばれるところに人々は集まり、詩編を詠って賛美し、またユダヤ教の指導者が説教のようなことをしていた。 つまり、詩編の言葉が、コミュニティに広まるメカニズムがあったのかと思う。 現代でも、キリスト教会は日曜日にコミュニティの人々が集まり、讃美歌を歌って、メッセージを聴くという伝統を引き継いでいる。 しかし、まだまだ、同じこのオレンジカウンティという場所、あるいはアメリカ合衆国にというコミュニティに住んでいる方々で、「主を畏れることが知恵の初めであり、また、主を畏れる信仰が幸せなんだ。」ということまで意識される方々は少ないように思う。  最後にもう少し、112編全体に触れておきたい。2節3節では、主を畏れる人には良い事ばかりが起こるような印象が書かれているが、4節以降は、この世の現実が書かれはじめる。 4節には「闇の中に光が昇る」とあり、主を畏れる人も、闇を経験する。 また裁判沙汰のような事(5節)も起こるかもしれないし、7節には、「悪評をたてられても」という言葉も書かれており、悪い噂がたってしまうことがある現実が書かれている。 イエス・キリストの歩まれた生涯を思い浮かべるのも良い。 私たち、毎週日曜日に、主を畏れ、主を賛美する者の群れも、さまざまな悩みやあるいは病の中にあって闇を経験している者も多いのが現実だ。にもかかわらず、主を畏れる者は、主にあって強められ、主の祝福によって守られ、恵みが与えられ、主が微笑んでくださり、さまざまなごたごたの中にも、心の平安が与えられ幸せである。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1272号    (日本語) 2013年9月1日の週報 週報通算#1272E号(英語) Sunday English Bulletin 1272E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 神の行い:束縛から解放 ルカ 13:10-17 キリストの恵みと平安が豊かにありますように。 自分はなにかに束縛されてしまっていると思うことあるだろうか? 歴史的な事実として、イスラエルの民はエジプトで奴隷となっていたが、それがひとつの大きな聖書に書かれた束縛のイメージだ。  こんな母親がいた。子供にむかって、「私はあんたたちの奴隷じゃないんだから、少なくともパンツくらい自分で洗いなさい。」と言い、子供は自分でパンツを風呂に入ったときに必ず洗うようにさせていた。かと思うと、子供の奴隷になってしまうお母様方が多いと聞く。自分の理想とする子供になって欲しいがため、とにかく勉強して、良い大学に入り、良いところに就職できるようにと、何から何までやってしまう。結果、母親は奴隷のように子供に束縛されてしまう。 あるいは、何かが欲しくてしょうがなくなり、高級ブランド品とか、高級車とかに束縛されてしまう。こういう話がある。猿を捕まえるための道具で、箱がある。箱には穴が開いていて、中には、さるの欲しそうな食べ物がひもでぶら下がっている。猿がその箱のところに来て、これはしめたと思い、中の食べ物をつかむ。 ところが、それを取り出そうにも、しっかりひもにくくりつけられてぶら下がっているから、簡単には取り出せない。離してしまえば良いのに、欲しくてしょうがないので、つかんだままその場にいる。そうしている間に、猿は箱の近くで捕らえられてしまう。  いくつかの束縛のタイプを話したが、今日の福音書に入っていきたい。この話、束縛されてしまっているのは、だれだろうか。もちろん、18年間、病の霊に苦しみ、腰の曲がってしまっていた女性。しかし、その女性だけではないと思う。 だれが、束縛されているだろう。 イエスの行いを見て憤慨して横柄なことを言い出した会堂長はどうだろうか? 会堂長はユダヤ教の規定に、がんじがらめになっていた。 当時ユダヤ教のしきたりでは、安息日には会堂に集まって詩編を歌い、リーダの話しを聞いた。また第二(月)日と第五(木)日では、聖書(トーラ)を読み、律法について学ぶ日として、人々は集まっていた。 聖書には、実に多くの安息日の規定がある。ユダヤ教のしきたりでは、安息日には基本的に何もせずに、シナゴーグ(会堂)に出向くだけ。現代でも、オーソドックスなユダヤ教の方々は、土曜日に車に乗らずに、シナゴーグには歩いていく。また歩くにしても、歩いてよい距離の上限は決まっていたりする。  会堂長は、18年も腰がまがったままでいた女性が癒されたのに、イエスが安息日に癒したため、自分の理解していた安息日の規定と彼の知識に従って、人々に向かって「安息日は癒してもらう日ではない。他の6日の間に来るように。」と述べる。 自分の理解した律法に束縛されていた会堂長に対して、イエスは18年も束縛されていた女性だったのだから、たとえ安息日であっても解放するのが筋だと説明する。福音書には、反対者たちが皆恥じ入ったとあるが、実は、その女性が癒されたあと、イエスの会堂長に話したことは、彼らにとっても大きな解放の言葉だったのはないかと思う。ある意味、さきほど、猿が必死に、その箱の中の食べ物を離すことができずにいる所に、ぱっと、別にその餌を食べることが一番大切なことではないんだよと気づかせ、ぱっと手をそこから離すことができるようにしてあげるようなイエスの行いと言葉がある。  この21世紀を生きる現代にあって、いろいろなことに縛られてしまっている私たち、その結果一番大切なことを忘れてしまい、私たちを創造してくださった神との関係をおろそかにして生活している現代人に、聖書に描かれたイエスの行為と言葉は大きな意味を持っている。 様々なことに縛られてしまう私たちは、規定でがんじがらめになってしまっていた会堂長に、はっと、本当の神の愛を見せた上、会堂長の行き過ぎた安息日の解釈にイエスの投げかけた言葉には、私たちも多いに学ぶ面がある。 私たちの生活で、イエスというお方である神以外に、さまざまな神々を自分で作ってしまうところがある。 お客様は神様ですと南春夫さんは言われた。芸人にとっても、どんなビジネスをするにも、もちろん、お客様は大切だ。しかし、本当の神ではない。家族はもちろん大切で、子供に自分の最高の愛を示そうとすることはすばらしいことだが、子供を神としてしまい、自分を創造された神様とすり代えてはならない。私は聖書を読むことが大切だとよく話すが、それは聖書が神様で、聖書を読むことが一番大切ということではなく、聖書の中に書かれた、イエス・キリストの行為、話された言葉を読み、イエス・キリストという方を知りそのお方と関係を持つことが一番大切であり、そしてイエスの生き様を振り返り、できる限りイエスの教えに従った生き方をすることが私たちの使命。  いろいろ間違った考えや行動、つまり神ではないものを神のように思ってしまう現代人であるにも関わらず、十字架に架かって殺されてまでも、復活して徹底的な愛をもって、人間を赦される神。イエスは、色々な事に束縛されてしまっている現代人を解放するために、聖書に書かれたストーリーやイエスの言葉が働いて、現在も多くの方々を解放している。 そのような主なる神、イエス・キリストをますます讃え、イエスの愛に満ちた新たな一週間を送ろう。アーメン。 ”God’s Action: From Captivity to Release” 2013 8 25 Luke 13:10-17 Pr. Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Jesus Christ! Have you ever felt that you were captive to something? As a historical fact, Israelites were slaves in Egypt, which is a biblical image of captivity. While we were raising our children, my wife often said, “I am not a slave of yours. I cannot do all of your laundry. Why do not you wash your underwear at least?” Shin, the honest first born son, followed what she said.  Sometimes I hear stories that there are mothers who are captives of their children. They want their children to be an ideal adult, meaning going to a prestigious college and earning a good income, so some mothers do everything in order for them to focus on their studies, like they are slaves to their children. Or there are people who would like to own something, i.e. brand-name goods, such as expensive jewelry or an expensive car. There are people who are captives to luxury brand items.  I am sorry to use this analogy, but I will use it since humans are close monkeys. There is a trap to catch a monkey, a sturdy box that has a hole that a monkey can put his hand into the box. In that box, there is an apple hanging firmly tied to the top of the box by a…

Tweet Calendar 9, 2013聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算1271号(日本語)2013年8月25日の週報 週報通算1271E号 (英語) Sunday English Bulletin 1271E) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週読む詩編は103編の最初の8節。神の愛を詠ったすばらしい讃美だと思う。時間の許す限り3回でも5回でも読まれたら良いかと思う。   詩編 / 103編 1: 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。 2:わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 3:主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 4:命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け 5:長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。 6:主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。 7:主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。 8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。 この詩編を読み、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか?  私は、1節と2節にある「たたえよ」という命令形の言葉が気になった。3-5節の部分は自分に語りかけられる言葉と感じた。6-8節は、人類全体というコミュニティに向かって語られているような気がした。 そこで、1-2節、3-5節、6-8節に分けて、それぞれ思いつくことを書いておきたい。 1節、2節ともに「わたしの魂よ、主をたたえよ。」という言葉からはじまっている。 繰り返されることで、「主をたたえよ」という強い命令のように感じる。 それは、詩編作者、ダビデが自分の体験から自分自身に言っているようでもあり、この詩編を読むものすべてが自分で自分に、「わたしの魂よ」と呼びかけ、「主をたたえるように」命令しているようでもある。それも、ただたたえるのではなく、全身をもって(1節後半)、また、主が計らってくださったことを何ひとつ忘れることなく(2節後半)たたえるように。 命令する以上は、その理由が書かれているのかと思い、続きを読んでいくと、3節以降は、やはり「主をたたえる」理由が見事にうたわれている。  3節から5節は、「主はお前の」という言葉ではじまっていて、主と自分の関係の中で、主が直接、自分にしてくださるすばらしい御業が書かれている。「赦し」、「癒し」、「購い出し」、「冠を授け」、「満ち足らせ」、「新たにし」という主が自分にしてくださる動詞が6つ出てきている。 まさに神の行い、御業。主の愛が自分を包括してくださっているようでもある。 6-8節は、コミュニティについて詠っているように感じる。 6節では、虐げられている人々へ、つまり、コミュニティのなかで、騙(だま)す人々と騙されている人々に対して、主の裁きと恵みの御業を行ってくださる。 7節では、歴史的に起こったひとつの例として、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民に対して、そのリーダであるモーセにイスラエルへ帰還できるようにその道を示し、そして、イスラエルの民、一人一人にも、主の御業を示された事実を短く詠っている。そして8節で主の慈しみが、いかに大きいかを詠っている。 最後に「慈しみ」という言葉について触れておきたい。 本日の詩編の4節と8節に出てきたし、実は、今日の詩編の9節以降を読んでいくと、11節と17節にも出てくる。 聖書を読んでいて、あるいは、キリスト教の牧師や神父たちの説教、メッセージ等々を聴いていて、「慈しみ」という言葉はよく使われる。 キリスト教ばかりではなく、仏教でも。 そもそも、「慈しみ」というのは、仏教の言葉だった。 ポルトガル語、ラテン語、英語などでキリスト教が日本に入ってきて、神の大きな愛の表現方法として、ぴったりあてはまる日本語として、仏教で使われていた「慈しみ」が近いということになったのだと思う。 しかし、この日本語に訳された「慈しみ」という言葉は、詩編が書かれたヘブル語では、そもそも何という言葉なのだろうか?  ヘブル語の詩編では、”rebem” (ヘブル語は文字が違うが、ヘブル文字をアルファベットで表記した)という言葉が使われている。 そして、この言葉はそもそも、英語でいう”womb”、母の胎、子宮のこと。 そこで、神の「慈しみ」のイメージとして、母が子宮の子に愛情を注いでいるところを思っていただければ良いのかと思う。 復活ルーテル教会に集まる人々、特に病の中にあり困難の中にある方々、そして、地球上のすべての人々に、神の慈しみが豊かにありますように。  主を賛美しつつ。    Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカ12: 49-56 集まりました会衆の上に聖霊が注がれ、豊かな恵みと平安が与えられますように! アーメン 先週、アメリカ福音ルーテル教会全体総会が行われていた。 「Always Being Made New」というテーマが掲げられたすばらしい総会だった。 テーマの言葉は、第二コリントの5章、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ること、」という言葉から来ている。 総会では、Presiding Bishopの選挙があり、12年務められたマーク・ハンソン ビショップに代わって、「Always Being Made New」という言葉にふさわしく、アメリカ福音ルーテル教会では初めて女性のPresiding Bishopが誕生した。現在オハイオ北東教区のビショップを務められているエリザベス・イートン牧師が、Presiding Bishop になられた。 選挙中の候補者のスピーチや質疑応答の場面をインターネットを介して見ていたが、刺激を受け、またいくつかの言葉に感銘を受けた。 質疑応答を聞いて、神によっていつも新しくされるということは、ある意味、人間同士で分裂や葛藤が起きるのはしょうがないという気持ちにもなっていた。    さて、本日の福音書の内容に触れていきたい。皆さん、聖書を読んで、どうしてこんな事が書いてあるか疑問を持ったことがあるだろうか。今日の福音書箇所を読んでどんな思いを持たれているだろうか? イエスご自身が、「私が来たのは、火を投じるため」とか「平和では、なくて、分裂だ」とか。イエスは何をおっしゃりたいのだろうか。このルカ福音書のこの箇所は、聖書日課に沿って3年おきに、第二次世界大戦の終戦記念日の前後に読まれることが多く、考えさせられる。  原爆を持って第二次世界大戦が終ったが、イエスを火と投じるためといっていたのは、イエスが原爆を投じるということだったのかと思われる方もいるかもしれないが、イエス様がおっしゃる火はそういうことではない。じゃ、「火を投じる」っていったい何だろう?    聖書の読み方として、ある箇所だけに集中して読む時もあるが、聖書のストーリの流れの中で読むこと。また、新約聖書のイエスの言葉は、旧約聖書や、新約聖書の福音書以外の手紙も鑑みながら読むことが重要な要素である。 第一日課の、エレミアが言葉が火であると伝えていることは多いに今日の聖書箇所と関係がある。またヘブライ人への手紙の中で、信仰が、さまざまな困難を克服するということが書かれていることも多いに考える必要があることなのだろう。 聖書のストーリの流れという点では、イエス・キリストがこの世に登場したことで、困難や分裂が起こった。事実として、救い主であるイエスの存在自体によって、ユダヤ教指導者たちとの間に分裂が起こり、よってローマ軍の指導者たちも巻き込んで、イエスを十字架に架けたという面は否めない。 そればかりではなく、イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨の後には、キリスト教信仰者たちの迫害も起こっている。しかし、そのようなこの世の分裂の中でも、キリスト教会は、聖霊降臨後ずっと続いている。聖霊降臨が大きなきっかけとなって、キリスト教会は誕生した。 聖霊降臨の時、何が起こったのだろうか。 使徒言行録の2章に描かれているが、聖霊が炎のような舌となり別れ別れになって、人々の口のなかにとどまって、言葉を語らせるような状況になる。 聖霊降臨のできごとで、聖書が伝えているとても大切なイメージは、聖霊が炎のような存在。 燃え上がっている火の存在である。 そこで、本日与えられている聖書の最初の節、火とかかれている言葉は、聖霊という言葉で置き換えて読んだら、どうなるだろうか。  「わたしが来たのは、聖霊を投ずるためである。その聖霊がすでに燃えていたらどんなに良いことかと。 しかし、私には十字架の死と復活が先に起こらなければならない。 私がきたのは平和のためだと思うか。そうではない、むしろ分裂だ。」 この21世紀にあって、イエスがおっしゃりたいことを、じっくりと考えたい。 Always Being Made New とあるように、イエスと結ばれる者が毎日現れ続け、その結果、教会、社会もいつも新しくされている。  そのような新しい状態へ、神が創造してくださっている中で、新しい組織なり人物なりに、反対する勢力も出てきてしまう。 つまり、イエスが救い主として現れたこと事態が、当時の宗教指導者たちにとってみれば、「そんな馬鹿な?」という話で対立が起こったのと、ある意味、似ていて、女性の牧師すら認めない教会がある世の中で、女性のPresiding Bishopとはとんでもないという教会の考えをしている教団がまだ世の中にはある。  そのような対立や分裂のまっただなかで、神なるイエスが投じてくださった火のような聖霊が働いてくださっている。 人間の目から見れば、起こってしまった分裂は、なかなか解決しないように見えるが、その分裂の中に聖霊が存在してくださっていて、必ず、落ち着くところに落ち着くようにしてくださる。  聖霊は、火の玉のようであり、どのような困難や分裂がある中でも、突き抜けていく。分裂がはげしいものでも、突き抜けていく聖霊によって、新しい道が与えられる。アメリカ福音ルーテル教会全体でも、この復活ルーテル教会の中でおこるさまざまな問題に対しても、また、ここに集まっている一人一人の実生活の中で起こる困難や分裂に対しても、豊かに働いてくださっている火のような聖霊の働きを信じ、新しくされて、主に遣わされて生きて行こう。 アーメン “Fire and the Holy Spirit” 2013 8 18 Luke 12: 49-56 Pr. Hitoshi Adachi May the Holy Spirit bless each individual here in this Sanctuary! Amen. During last week, the ELCA Churchwide Assembly was held in Pittsburg, Pennsylvania. The theme of the assembly was “Always Being Made New,” and it was a wonderful assembly. The theme came from the second Corinthian 5:17-18: “So if anyone is in Christ, there is a new creation: everything old has passed away; see, everything has become new! All this is from God.” During the assembly, there was a Presiding Bishop election. The current Presiding Bishop Mark Hanson was not reelected, but as “always being made new,” a female Presiding Bishop was elected for the first time in ELCA history. The Presiding Bishop-elect is Pastor Elizabeth Eaton, she is currently serving as Bishop of Northeastern Ohio. Although I could not watch everything that happened during the assembly, while I was watching the assembly via internet, on Wednesday, I was impressed and moved by the four candidates’ speeches. When I was listening to the questions and answers between the chair and candidates, I happened to think that since God is always making people new in Christ, conflicts and divisions are eventually settled. Not always according to human timelines, but God does deal with them according to His plan. Now I…

Tweet 週報通算#1270号     (日本語) 2013年8月18日の週報 週報通算#1270E号     (英語) Sunday_English_Bulletin_1270E 3 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 終戦記念日にあって黙祷の祈りを持ちつつ。 今週読む詩編は82編。今回は、まず一回読んでから、下の解説を読まれたら良いかと思う。  詩編 / 82編 1:【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。 2:「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ 3:弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。 4:弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」 5:彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。 6:わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。 7:しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。 8:神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。 一回読んでみて、どんな感想を持たれているだろうか? 1節に描かれている光景に何か違和感を覚える方もいるのではないだろうか。神聖な会議が行われている様だが、神々の間で裁きを行われる神が立っている。 とくに21世紀に生きる我々にとって、また、一神教を信じているはずの、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の聖典のなかに、このような光景があるのに、なにか疑問を持たれるかもしれない。 しかし、旧約聖書には、これと似ているイメージは描かれている。皆さんに聖書を読むときに、とかく、「現代の私たちに何を問いかけているのかを考えよう」と申し上げているが、このような光景を読む時は、いきなり現代の私たちへの状況を考えるより、どっぷりと、自分が旧約聖書時代に戻ったようなイメージの中で、2回目を読み、さらに、以下の解説を読まれたらどうだろうか。  詩編に82編2節では神が、神に逆らって不正をを働いている神々にクレームをつける。そして、「セラ」となっているので、休止符が入る。(セラについて以前にも説明したが、詠うときの休止符の意味を持つ記号のようなものと理解すればよい。)3-4節では、クレームから、アドバイスに変わる。神々に弱者、孤児、生活に困窮している人々こそ正しい人であることを認めるようにと。 5節では、そのアドバイスを受け入れる気配の無い神々が暗闇の中で行き来している様子が描かれ、そして、地の基がぐらぐらと揺れ始める様子が描かれている。     6節7節で言われていることは、「私は言った」となっていて、詩編作者の言葉のようでもあるが、むしろ、会議の中で、神が裁定を下す時の言葉のイメージで捉えて良いと思う。 「あなたがたは、神ではなく、地上に生きる人間で、いずれは死が訪れる、いや、いっせいに没落の時がやってくる。」と語られ、それは、有罪判決とともに、刑の執行が同時に起こるかのイメージが描かれている。 8節は、祈りの言葉で終っているが、今週の詩編においても先週と同じく、「嗣業」という難しい言葉が使われている。この「嗣業」という言葉を使わずに、祈りを表現するなら、「神よ、立ち上がって裁いてください。 すべての民は、元々、あなたが創られたのですから、すべての民が、あなたからの恵みを受継ぐ者としてください。」という伝道的な祈りで締めくくられていると感じる。  さて、ここで、上記のような旧約聖書時代のイメージが現代の私たちに語りかけている事は何なのだろうか。 あるいは、旧約聖書時代のイメージが現代と共通することはないだろうかと考えながら、詩編の3回目を読まれたらどうだろうか。  現代においても、孤児や弱者、生活困窮者たちはたくさんおられる。 また、社会正義の観点からは疑問を抱かざるを得ないようなリーダ、それは政治家であったり、あるいは、企業や非営利団体(宗教団体も含む)の幹部だったりする。  現代においても、地の基がぐらぐらと揺れているような事態は続いている。 社会全体が、実は、とても不安定な中にある。 だからこそ、すべての民が、この詩編にあるような言葉を読み、そして、すべての民、とくにさまざまな会社でも団体でも、リーダ一、一人一人が実は自分が神に創られたという原点に気づくようにと祈る。 ある方がロボットを開発した。ロボットは精巧に作られたがため、開発者の言う事を聞かなくなってしまった。現代の神と信仰を持たずに生きる人々の関係は、このロボット開発者とロボットの関係に似ているような面もある。(まだそのようなロボットは実在しないと思うが。。。)  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 「真の平和への備え」ルカ12:32-40 牧師 安達 均 集まりました会衆の上に、イエス・キリストの恵みと平安が豊かに注がれますように!  8月の第二あるいは第三日曜は、第二次世界大戦の終了が8月15日だったことから、日本のキリスト教会の多くは平和主日としている。  1912年から1953年まで、アメリカから宣教師として派遣されていたローラ・モークという方がいた。 第二次世界大戦が始まる中、在留していた多くのアメリカ人は帰国せざるを得なくなった。 しかし、彼女は「私は福音のため帰国しません。」と断った。結果、戦争中、日本の強制収容所に入れられた。 ある日、収容所では防空壕をほっていた。すると、彼女は「だれのためにほっているのか。」と質問した。「あなたがたのためだ。」との答えが返ってくると、ローラ宣教師は、「私のためなら防空壕は要りませんよ。私は毎晩、雨のように降ってくる爆弾を見て命が縮まる思いがします。あれは、日本人逹の上に落ち、あの下で皆さんが苦しみ、ことに幼い子供たちも死ぬかと思うと、どうか、あの爆弾が私の上に落ちてくるようにと祈らずにはいられないのです。」と言われた。 普通だったら、爆弾が自分に落ちないようにと祈るのに、自分に落ちるようにと祈る、その言葉に収容所の所長は感銘していた。 戦後、収容所の所長は家族で教会に行くようになり、洗礼を受けた。  さて、第二次世界大戦中のエピソードを紹介したが、さらに1900年さかのぼって、新約聖書が書かれた時代がどういう時代だったか考えてみたい。 ある意味、その時代のキリスト教信者たちは、第二次世界大戦中に日本に住んでいた者(日本人アメリカ人を問わず)の体験と似ているような面がある。イエスが十字架に架かるだけではなく、ユダとヨハネ以外の弟子は、殉教した。殉教とは、キリスト信仰を持つがゆえに殺された。キリストを信じるようになった者たちは、迫害される時代になっていった。そのような時代になることを、神なるイエスは、わかっておられたと思う。 イエスは、本日の聖書箇所の少し後、ルカ12章後半で、「私が来たのは平和をもたらすためではなく、火を投じるため、むしろ分裂だ。」と言われていた。 迫害の時代がやってくる中で、イエスは弟子たちに、どう生きていくようにと言われていたのだろうか。そのひとつが、今日の聖書箇所に書いてある。 それは主人が家を留守にしていても、主人がいつ帰ってきて扉をたたいても、すぐにその扉を開けられるように、目を覚まして待っているように。そのイメージは、家の中の扉の近くでじっと寝ないで待っているようにと思われるかもしれない。しかし、これは比喩であって、自分の住む物理的な家ということではなく、弟子たちがどのように考えて、行動するかを示唆していた。つまり、私たちの心を、世の中の流れにまどわされてしまわないようにして、キリストが語られたような生き方をする。それはマタイ5章のイエスの山上の垂訓にあったように、「平和を実現する人々」とか、「自分を迫害する者のために祈る。」という言葉に表れている生き方をし、イエスが再臨してくださるのを待つことを示唆していたと思う。   さて、現在2013年を生きる私たちにとって、どういう生活をしなさいということなのだろうか? 現代の歴史家や社会学者たちの多くは、しばらく厳しい時代がやって来ると予測している。 それは、歴史を振り返ると、80年から85年おきに、アメリカ合衆国では厳しい時代がやってきている。 アメリカは1940年ごろの第二次世界大戦を経験する80年前の1860年代、60万人の戦死者を出した南北戦争を経験している。 さらに80年さかのぼると、独立戦争の時代である。 ちなみに、日本では第二次世界大戦から80年さかのぼった1860年代は、江戸時代つまり徳川の時代が終わって、さまざまな戦いを経て明治時代になっている。 そのような80年周期で戦争のような時代が起こるのは、リーダになる世代の性格やパターンから80年ごとに大きな試練を体験することになっていると予測されていて、2020年代は、とても厳しい時代を迎えるのではないかと考えられている。 具体的にどのような厳しさなのかはよくわからないが、とにかくそのような時代が来るかもしれないという中で、イエスが2000年前に述べておられたことと、現代の私たちに語られていることは、変わっていないように思う。 それは、聖書の中で、イエスが私たちに命令していることは、洗礼に授かり、パンを裂き聖餐にあずかる生活をしながら、自分を迫害する者のために祈り、平和を実現する者となっていくようにと。 日本のことわざで「負けるが勝ち」という言葉もあるが、争わずに負けることが実は勝利というのは、十字架にかかられたキリストの実践されたこととも言える。 つまり、洗礼と聖餐を与り、み言葉を聴くということをしてゆくことが、平和を実現する者とされていくことになる。 つまり、礼拝に集う生活の中で、み言葉を聴き、洗礼と聖餐にある主の働きに与り、そして礼拝から押し出されて、世の中で行動して行くことがとても重要な生き様ということになる。どうか、みなさん、日曜の礼拝に継続的に参加し、どんな厳しい時代が来ようが、キリストの体であるパンを分かち合い、キリストの言葉によって、確かに平和を実現していく者となり、真の平和の訪れに向かって行動しよう。アーメン。 Preparation for the True Peace Aug. 11, 2013 Luke 12:32-40 Pr. Hitoshi Adachi May the Lord bring grace and peace over the people gathered in this sanctuary! Amen. August 15 is the anniversary of the end of the World War II for Japanese People, and many Japanese Christian Churches celebrate the second or third Sunday of August as “Peace Lord’s Day”. My parents and my mother in law were 20, 16, and 13 years old when World War II ended, so they still remember their experiences of the war, although there were some differences in their individual experiences. My mother was living in Japan during the World War II, but my father and my mother in law were in Manshu (Japanese-controlled area within China) when the war ended. Wherever they were, they understood how painful the war was and felt great hope and peace when the war was over. Therefore, they have a very strong feeling that we should never enter into war again. So far, I’ve talked about the World War II era, now let’s go back further another 1900 years. That was the age when disciples experienced severe persecutions in the late first century which was similar to hardships that many Japanese youth endured in the middle of 20th century. After Jesus was crucified and resurrected and then the Holy Spirit came upon the disciples, Christ’s followers experienced an even harder time. Not only was Jesus crucified, but many other disciples became martyrs. Most probably,…