Tweet 今週は7月30 日から8月2日の聖書日課に与えられている詩編78編23-29節を読もう。8月2日の聖日には、ヨハネの福音書6:24-35が与えられており、あわせて読むと良い。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編78編 23:それでもなお、神は上から雲に命じ/天の扉を開き 24:彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 25:人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。 26:神は東風を天から送り/御力をもって南風を起こし 27:彼らの上に肉を塵のように降らせ/翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ 28:彼らの陣営の中に/宿る所の周りに落としてくださった。 29:彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。 気になった言葉としては、「翼ある鳥を海辺の砂のように降らせ」という言葉。またインパクトのある言葉として、「神は彼らの欲望を満たしてくださった。」 72節もある長い詩編78編をとりあげるのは初めてのこと。その23-29節だけを詩編作者の気持ちになって読んで行くまえに、78編の全体像をつかむ必要を感じ、簡単に全体のポイントを4つに分けて書いておきたい。1-4節は、詩編78編の前文のような部分で、次世代の子供たちへ、主がなさってくださったこと(歴史)を教えていくと詠っている。5-11節では、神の御業・神との契約をことごとく忘れてしまった世代があったが、そのような頑固で反抗の世代となってしまわないようにと詠う。12-66節は、イスラエルの民が過去から当時(紀元前数百年前)までに学んだ教訓が詠われている。67節から72節では、神がユダ族(無垢な心を持つダビデ)とシオンの山を選ばれたことをもって詩編78編は詠い終わる(ひいてはダビデの子孫に希望があることを示唆しているように思われる)。以上のような全体像の中で、23-29節は、歴史上の一つの大きな出来事を詠っている。 イスラエルの民が紀元前1200年ごろに、エジプトでは奴隷となっていたが、解放されて、イスラエルへの帰路に着く。 ところが、その旅は過酷であり食べ物も貧しく、イスラエルの民はリーダのモーセに文句を言い始める。そのような民であったが、神が雲に命じて天の扉を開く(23節)。そしてイスラエルの民にマナを食べさせ、神が天からの穀物を与えられた(24節)。民は力ある方のパンを食べ、神はさらに民が飽きてしまうほどに糧を送り続けた(25節)。神の力をもって、東からも南からも、風を起こされた(26節)。 そして塵が降るように、肉を降らせ、海辺に砂が舞うかのごとく鳥を舞わせた(27節)。イスラエルの民が宿っているところに、大量の食べ物を落としてくださった(28節)。民はそれらを食べ、その欲望は満たされた(29節)。 今日、この詩編78編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。とくに与えられた23-29節を読む時、わたしは日本の第二次世界大戦後の食糧難の時代から現代の日本を思い出す。私が生まれる10数年前の話しだが、日本の民がいかに日々の食糧に困ったか、両親から子供の時によく聞かされた。その食料難の前には、両親が私たちになかなか語ることも難しい、悲惨な戦争があった。父は19歳の時、本当に仲の良かった21歳の兄が戦死している。それから70年後、国会では、安保法制の問題が大きな論点だ。「世界の平和を守るための日本の安保関連法案の整備について話し合っている」と言うと聞こえは良いが、少々きつい言い方をすれば、日本がもっと武装して何かの兆候があれば、戦争にも参加していくかどうかを話し合っているとも言える。現在の日本の民に、第二次世界大戦時の、民の痛みが本当に伝わっているのだろうか? またその後の食料難がどれほど厳しいものであったかを意識しているのだろうか? さらに、食料難時代から復興していくにあたり、どれだけの援助、その背後には神がどれだけ働かれたか、を覚える人々がどれだけいるのだろうか? 現代は飽食の時代のようでもあり、78編29節に描かれた様子と重なるような気がする。 詩編78編は、紀元前数百年前に詠われ始めた。さらに時代は進み、私たちは、イエスというお方が、この世に降りてこられ、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われ、「わたしが命のパンである。」と教えてくださったことを学んだ民である。詩編78編を読み、さらに、聖日に与えられているヨハネ福音書を読み、観想し、祈り、さらに主が私たちにどう行動するように働きかけているか、思いをめぐらせて、行動したい。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨヘネ6: 1-21 主イエスキリストの恵みと平安が、メッセージを聞く人々の心の中に豊かに与えられますように! ごはんを食べる前に、祈る方は多いと思う。祈るだけではなく、祈った後「いただきます。」という方どのくらいおられるだろうか? あるいは祈りの中に「いただきます。」という言葉が入っている方も多いのではないかと想像する。 日本人は、なぜ「いただきます」というようになったのだろうか? 最近、流行している映画で「和食ドリーム」の中では「日本の場合は、森羅万象(しんらばんしょう)のものすべてに神が宿っているという発想なんですね」というくだりがある。 たとえば、日本人は桜が満開の時に花見を楽しむが、その「さくら」という言葉の本来意味するところは、すべての花に神が宿っている、そういう意味があるということは、かつてある小学校の校長先生から学んだ。 また、どんな食べ物の中にも、神がやどっている。 それを料理して食べるということに、たいへんな畏敬の念をはらい、そして、感謝して料理し、食べるという考えが元々はあったのだと思う。 さて、本日の福音書、5000人の給食の話。先週与えられていた福音書では、弟子たちを休ませる計画で、ガリラヤ湖を船で渡って人里はなれたところまできた。 すると、まるで羊飼いのいない羊たちのような人々が5000人も、先回りしてそこにいた。 休みを返上して、イエスは、その5000人にを食べさせることにする。 弟子のフィリポには、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買ってきたら良いか?」と質問する。 ちょっと意地悪な質問にも思えてしまう、というのはパンを買いに行くとしたって、人里はなれたところに来てしまっているから。 実は、この質問に対する答えは、買いに行かなくたって、イエス自身が実はパンなのだということを、暗示していたのかと思う。 今日の福音書ではなく、来週の福音書箇所になるが「私は命のパン」と述べる箇所が出てくる。 フィリポは「イエス自身がパンである」などとは思いにも及ばないので、質問に対して、「そんなことはとても無理です。とんでもなくお金がかかります。」ということを述べている。 さらに、アンデレは「ここに5個のパンと、二匹の魚を持っている少年がいますが、とてもこれだけでは間に合わないでしょうね。」と述べる。 ここで、イエスは弟子たちに、落ち着けといわんばかりに、「人々を座らせなさい。」と言う。そして、パンをとりあげて、神に感謝の祈りを唱える。 そしてパンを座っている人々に分け与えた。 さらに、魚も同じように、分け与えた。 すると人々は満腹し、さらに、残ったパンくずを集めたら、12のかご一杯になったという。 たいへんなことが起こったわけだが、ある牧師は、イエスの行なった最大の奇跡なんだということを、述べておられた。 またある牧師は、この聖書箇所の説教では、実は奇跡なんかではなく、人々もともとは、ポケットの中に、すこしずつだったが、パンを持っていたのだ。 それをみんなが出し合って、食べあったら、おなか一杯になった。そんな説明をしてくれた牧師もいる。 私は、それぞれに、意味のある説教だったし、どちらが正解で、どちらかが正しくない、などと批判するつもりは毛頭ない。 それは聖霊が語りかけるなかで、牧師は話をしているから、批判するなんていうことは、ある意味、聖霊の働きを冒涜することになってしまう。 イエスは、どんな罪でも赦されるが、聖霊を冒涜することだけは赦されない、と言われている箇所がある。 今日の聖書箇所を通じて、今日はあらたに、イエスは、わたしたちに新しいことを、教えられているように思う。 それは、奇跡とか奇跡ではないということを、イエスは問題にしておらず、この事実をただ、2000年前の過去の事とはせず、私たちの現代の日常に、密接に関係したことで、イエスは大切なことを、私たちに教えてくださっていると思う。 冒頭に話した、「いただきます。」という言葉、よくよく考えてみると、私たちの食べ物、実はみなかつて生きていたもの。 肉、魚、卵、パン、ご飯、野菜、等など。 パンで首をかしげる方もいるかもしれないが、もともとは小麦で、生きた植物、その穂をあつめて、脱穀粉砕して小麦粉にしている。それにイースト菌がまざりパンになる。 それは、神からいただいた命、神の命が、実はすべての食材にやどっているのだと思う。だから、食事をいただくときに、イエスが、5000人の給食の際に、感謝の祈りをとなえたように、感謝の心を神に捧げることの大切さがある。 そして、イエスは今日の箇所で、「わけあたえる。」ということをされている。 これは、私たちが、食事をする中で、神の命を分かち会うことの大切さを述べている。 もちろん一人暮らしで、一人で食事をすることが多いという方もいて、「普段、わたしはわかちあって食べていない。」と言う方もいるのはわかる。 しかし、店で買ってきた、食材は、実は、同じ食材が、分けられて店にならんでいる。 だから、一人暮らしをしていても、食べているのは、だれかと分け合って、自分の食卓の前に並んでいるもの。 だから分ち合っていると考えることもできる。 さて、本日のメッセージ、ポイントは二つ。いただきます、というときに、神が与えてくださった命を感謝していただくということ、さらに、その命を私たち人類は、わかちあっていただきます。なにを食べるにしても、この2点、感謝し、わかちあって、いただきます。 そういう心をもって、食事をいただこう。 アーメン 牧師:安達均 The Heart of “Itadakimasu” John 6:1-21 May the Grace and Peace of Jesus Christ, our Lord and Savior be with you all! Most Japanese people say “Itadakimasu” before they eat. What does it mean? Why did Japanese culture start saying “Itadakimasu” before you eat. Literally, it means, “Let’s eat” but I think it has much more deeper meanings. Several months ago, a movie called “Washoku Dream” which means “Japanese Food Dream” was released. Although I saw only the preview so far, it says, “In Japan, there is a way of thinking that in everything, God is dwelling in the whole of creation.” The cherry blossom is called Sakura in Japanese, which originally meant, God is dwelling in every part of small flowers. Whatever you cook, in every ingredient there used to be or is still life that God created. In every ingredient, Japanese culture considers God is dwelling within it. When people cook and when we eat, Japanese ought to say thank you, oh Lord. Let’s dive into today’s Gospel story. It is the famous story “Feeding the Five Thousand.” According to the Gospel text last week, Jesus wanted the disciples be at a remote place and rest a while. Actually, they crossed the Galilee and came to a place far from town. However, the crowd followed along the lakeshore and came to the place even before the disciples arrived. They were like sheep…
Tweet 2015年8月のカレンダー聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年7月26日LCR日本語週報通算第1361号 2015年7月26日の週報 July 26, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1361E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月23日から26日の聖書日課に与えられている詩編145編10-18節を読もう。145編は、読んだ節は多少づれているが、「詩編を読もう」では過去3回とりあげている。26日の聖日に与えられている福音書箇所が、イエスの5000人への給食の場面で、その様子を想像しながらこの詩編を読むと、また新たな視点が与えられると思う。 いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 145編 10: 主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ 11:あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。 12:その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。 13:あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。 14:主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。 15:ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。 16:すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。 17:主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。 18:主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし インパクトのある言葉として、「ときに応じて食べ物をくださいます。」という言葉。 詩編145編は、詩編最後の139編から150編までの12編の連続している賛歌の中盤にある。その中でも20節ある145編のなかほどから後半にかけての詩編箇所。 賛歌に歌われる内容は、大きく三つに分けることができ、詩編作者が主を賛美する箇所、詩編作者が自分だけでなく人々が賛美するように願う箇所、そして、賛美する理由。 与えられた箇所は、「願い」と「理由」に分類される。そのようなことを念頭におき、一節づつ振り返る。 主が創造され主の慈しみに生きる者すべてが、あなたに感謝し主を讃えますように(10節:願い)。主権は主にあり、その栄光を告げ、力強い御業を語るように(11節:願い)。さらにその御業と栄光、主権の輝きを、次世代にも伝えますように(12節:願い)。あなたの主権は永遠であり、世々限りなく続く(13節:理由)。主はたおれそうな人を支え、うずくまっている人を起こしてくださる(14節:理由)。人々が主に目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる(15節:理由)。主は命あるものすべてに御手を開いて、望みを満足させてくださる(16節:理由)。主に従う道はずっと正しく、主の御業に慈しみが顕われている(17節:理由)。誠意をもって主の御名を呼ぶ人すべての近くに居てくださる(18節:理由)。 今日、この詩編145編10-18節を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。詩編作者は、二千数百年前の当時のユダヤ人だけではなく、この地に命を与えられたすべての人間が、後世にわたって、主を賛美するように、と歌った。 それは、当時のユダヤ教だけではなく、ユダヤ教を引き継いで世界中に浸透したキリスト教も、そしてイスラム教をも通じて、さらには、世界中にある数え切れないほどの宗教をも通じ、あるいは宗教という枠を超えて、世界中に命を賜ったさまざまな思想家や教育者をも通じて、命を与えてくださる創造主を敬い賛美するように、ということを呼びかけられているよう思える。 なぜ主を賛美するかという理由が、与えられた詩編箇所の後半に書いてあるが、この詩編が詠われ始めた後、数百年経ってから、イエスが5000人もの人々に5つのパンと二尾の魚から食物を与えたような奇跡がおこったから。しかし、それだけが奇跡ではなく、現代、この地球上に70億人もの命が生き、天の恵みを分ち合って生きていることも、奇跡的なことで、創造主が人類を愛し憐れんでくださっているからなのだと思う。 その70億人が、争うことなく、平安の中で、創造主なるお方に感謝し、賛美して生きることの大切さ、そのことを人々に言い広めるように、この詩編145編10-18節は、私たちに導いているのではないだろうか。19世紀の幕末から明治維新を生きた、日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者、そして慶應義塾の創設者でもある福沢諭吉は、アングリカンチャーチ(日本では後に聖公会)のキリスト教宣教師(慶応義塾の英語教師)たちから大きな影響を受けていたと思われるが、自分の子供たちに、「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがうべし。 ただし、ここにいふてんとうさまとは、にちりん(日輪)のことにはあらず。 西洋のことばにてごっど(GOD)といひ、にほんのことばにほんやくすれば、ぞうぶつしゃ(造物者)といふものなり。」という言葉を残している。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ 6:30-34, 53-56 主イエスキリストの恵みと平安が、人々の心の中に豊かに与えられますように! バケーションとは、vacate 、「空ける」という意味の動詞が、名詞になったもの。 つまり、家の用事をすっかりやめて、自分たちは家から出て空にして、離れたところに行って、休息するということだと思う。 みなさん、バケーションをしっかりとっておられるだろうか? 家を空けてどこかに行くというと、交通費やホテルなどお金もかかるし、そんなことは私や、私の家族はできない、と思う方もいると思う。 ただ家を空けるなら、テントを持って出て、近くでキャンプという手もあるかもしれない。 私の父はそれが好きだったが、母には不評で、結局料理を作ったりしなければならず、母への負担は大きく休息にならないということだった。 昨年の修養会の講師として来ていただいたキム牧師が日刊サンに載せておられる三味一体の記事の一部を紹介したい。キム牧師夫妻は、思いっきって、4歳のお嬢さんと1歳の双子のボーイズをつれ、家族5人で、家を空け、数週間の日本行きバケーションを5月に強行された。 それは、子供たちを幼稚園や保育園にあずけて、仕事をしている親にとって、その預ける時間無しに、子供たちの世話をし続けるわけで、かえってたいへんな日々だったようだ。 そして、よく考えると、幼稚園や保育園には、月謝を払っているのに、3人がやってこないで済む、幼稚園や保育園への先生たちへのちょっとしたバケーションであったと振り返る。(笑)バケーションで休息するつもりが、休息にはならなかったということはよくおきる事のように思う。 今日の福音書は、派遣した弟子たちが帰ってきて、たくさんの人々のために悪霊を追い出し、癒すことができた弟子たちを、イエスがねぎらう場面からはじまっている。疲れている弟子たちにイエスは「人里はなれたところで、しばらく休むが良い」と言われている。 イエスは、弟子たちにもうしばらくいろいろな家の人たちのところに入って行くのはやめて、バケーションをとりなさいということを勧めている。 そして、弟子たちは、船に乗ってガリラヤ湖の別の湖岸の本当に人里離れたところにいく。 ところが、群集が押し寄せてきてしまう。 大勢の人々が、先回りしていた。 そして休息どころではなくなってしまう。 福音書拝読では、35節から52節までを飛ばしているので、間になにが書いてあるか、簡単に述べたい。要は、5切れのパンと2匹のさかなを、奇跡的に、5000人以上もの人々にイエスと弟子たちが分け与えるという大仕事をした。その後は、こんどこそ休息の方向に向かえるかと思うが、その途中で、イエスと離れ離れになる弟子たちは船の上で怖がる。そこにはイエスが湖の上を歩くという奇跡が描写されている。 その後は、また、伝道と病を癒すための活動がひっきりなしに続く様子が、さきほど読んだ聖書の後半の内容だ。このように見てくると、いったい弟子たちの休息はどこにいってしまったのかと思う。イエスが人里離れたところに行って、しばらく休め、と言われ、たしかに、弟子たちは人里離れたところまでは移動した。 しかし、しばらく休めという、そのしばらくという意味はどういうことだったのだろうか? 病気にある人々を奇跡的に癒すことができるイエスとその弟子たちのことを知った大勢の群集が押し寄せてくることは、イエスもわかっていたのではないだろうか。 イエスは、たとえそういうことになるとわかっていても、弟子たちをねぎらうことの大切さをわかっていたように思う。 あわせて、精神的にも肉体的にも疲労困憊にある、さらに集まった群集への配慮も続けなければならないことは、重々、承知で、イエスと弟子たちで行なう奇跡はさらに続いたのだろう。 さて、今日の福音書から、父なる神と主イエスキリストから、現代に生きる私たちに語られていることはなんなのだろうか? 日本人が大好きな聖句ナンバーワンとも言われている、マタイ11章28節には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉があるが、それと似たことをイエス様は今日の聖書箇所でも言ってくださっているのだと思う。 今に生きる現代人、なんの仕事をしていようが、仕事をしていなくても、現代に生きる人で疲れていない人はいないのだと思う。 しかし、どんな忙しさ、疲れがあろうが、一時、仕事を休めて、泊りがけではなくても、家を空にして、教会にやってくることにどれだけ安らぎをえられるか、気付いているか気付いていないかに関係なく、主のなぐさめ癒しが与えられている。 私は、神学校時代に、キャンパスミニストリーをしつつ、日曜には教会の礼拝で説教もしていた多忙な牧師から、はっと、学ばされたことがある。 彼女は、平日多忙な上に、日曜の説教準備、そして実際に説教で御言葉を語り、礼拝のためのその他の準備も、たくさんのことしていた。しかし、礼拝中も多忙そうに思える彼女でも、礼拝中はくつろげるということを言っていた。 それは、主なるイエスが慰めてくださるから。礼拝中は、日頃のわずらいごと、悩みなどから、自分の心を解放し、心を空にして、ただ、神の聖霊が入ってくるのを待つ。そして、礼拝中に心が聖霊でみたされることがおこる。そこに、最高の休み、Vacationがおこるのだと思う。 そして、今、その主が与えてくださるVacationの最中に、たとえ自分ではそんなに神に認めてもらえるような人間だとは思わず罪の告白をする自分たちに、主イエスから先週はよく仕えてくれた。そして、よく日曜にもどってきてくれた。いま、私はあなたをなぐさめる。 そして、しばらく休みなさい。と言ってくださっているイエスの声が聞こえていないだろうか。 アーメン 安達均 “Come Away and Rest a While” Mark 6:30-34, 53-56 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! I heard that the root word of the word, “VACATION.” is the verb, “VACATE” meaning to leave a place or position. In other words, stop your daily routine, including your job and vacate your home, and stay somewhere else, hence the vacation. Are you really taking a vacation while on vacation, though? Some people say that they cannot afford a vacation because if they leave their home and go somewhere, transportation and hotel stays are too costly. Some other people may say just do something less costly like going to a campsite, near your home, with a tent and supplies and go camping. Some really thrifty people say, if no campsites are nearby, you can camp in your backyard. When I was growing up, my father actually liked going camping. However, my mother did not enjoy it since, in addition to taking care of the household, she had to prepare all the meals and organize everything for the trip. For her, it was several days of more work and little or no rest. Pastor Kim (speaker at last year’s retreat) and his wife decided to take a few weeks of vacation in May. They truly vacated their home and went to Japan with their four year…
Tweet 2015年7月19日LCR日本語礼拝通算第1360号 2015年7月19日の週報 July 19, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1360E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は7月16日から19日の聖書日課に与えられている詩編23編を読もう。何度もとりあげている詩編だが、19日の福音書箇所の一節、マルコ6:34に、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」という部分がある。 そのようなことも思い浮かべつつ、読んでいきたいと思う。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 私の場合は、1節の最初、「主は羊飼い」という言葉に大きなインパクトを受けている。 「詩編を読もう」では23編を過去にとりあげているし、葬儀やメモリアルサービスでも読まれることが多い。しかし、また新たに、詩編作者の気持ちになって、詩編23編を振り返る。「ダビデの詩」となっているが、ダビデ本人の詩が伝承されたものかもしれないし、数百年後に、当時のダビデのことを思って、作られた詩かもしれない。 いかに痛ましくたいへんな状況であっても、不安に陥りそうな羊に必要なものを必ず与えてくださる羊飼いのようなお方、主がおられる(1節)。疲労困憊にある私を安全な休息の場へと導いてくださる(2節)。その憩いの場において魂は生き返り、まさに主の御名にふさわしい正しい道へと導いてくださる(3節)。そして新たな道が、たとえ厳しい死の陰の谷を通るような面があったとしても、主が共に歩んでくださっており、羊飼いが手に持って歩む鞭や杖のような厳しさがあっても、それが私を力づけ、災いにあうことだって恐いことではない(4節)。 私を苦しめるものが目前に現れても、主が食べ物を与えてくださり、油を注いでくださり、ふんだんに飲み物を与えてくださる(5節)。永遠に主の恵みと慈しみが私の後をはげしく追っており、それはどこにいっても、その場が主の家でありつづける(6節)。 今日、この詩編23編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。 昨日と今日の報道記事を引用したい: [東京 15日 ロイター] - 衆院平和安全法制特別委員会は15日、集団的自衛権の行使を容認する安全保障の関連法案を与党の賛成多数で可決した。 [東京 16日 ロイター] - 安全保障関連法案が16日、衆議院本会議で可決され、9月下旬の国会会期末までに成立する公算が大きくなった。憲法上許されないとされてきた集団的自衛権の行使が可能になるほか、自衛隊による他国軍への後方支援が拡大する。国民の間で慎重論が根強いままの衆院通過で、政権支持率は一段の低下が予想される。 安全保障関連法案について阿部首相自らも、「理解は進んでいない」と認めている状況の中で、採決が行なわれてしまう状況はなんなのだろうか? 正式に法案が成立するには、参議院での話し合いがあるそうなので、平和に向けて、さらに祈りたいと思う。 19日の聖日に与えられている福音書では、イエスは群集を見て「飼い主がいない羊のような有様を深く憐れみ」とある。 この光景は、いまの多くの日本国民にも、また、世界中の民の多くにも当てはまるように思える。18日の聖書日課のなかで、旧約聖書のエレミヤ12:1-13が与えられているが、その10節に「多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし、わたしの所有地を踏みにじった。」という言葉が与えられている。 紀元前7世紀後半のエレミアに与えられた言葉だが、現代にも通じるものがあるように思う。 真の牧者、イエスは、2000年前から教え始められており、聖霊が働き主イエスの体なる教会を形成する民が、現在20億人とも言われているが、詩編23編に描かれているように、羊飼いなる主イエスの体が、世界中の民に、主の愛をもって接し、導き、主の御心に沿った道を歩むことができますように。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ6:14-29 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の心の中に染み渡るように! もう50年ほど前の話になってしまうが、悪いニュースは一切報道せずに、良いニュースだけを報道するラジオステーションが開局したそうだ。 一見、すばらしいことのようだが、ビジネスとしては数週間と続かなかったという。 スポンサーがつかなかったのだと思う。 そして、実際問題、人間は悪いニュースを欲している実情があるのだと思う。 本日与えられた福音書、イエスの幼なじみだったヨハネが、当時のヘロデ王の下、牢屋につながれていた。 ヘロデ王は、ヨハネを尊敬していた面があったが、妻のヘロディアは、殺したいと思っていた。さきほど、聞かれた通り、信じられないような経緯を経て、ヨハネは殺され、ヨハネの頭が盆に載せられてヘロディアの娘に渡される。 さらに、娘はヘロディアに渡す様子が描写されていた。 なんでこんな極悪非道ともいうべき話が、聖書の中の話なのだろうか? なぜ、イエスのおさななじみのヨハネがこんな無残な最後を遂げなければならなかったのだろうか? 私たちが、納得の行く説明をすることは難しいのかと思う。 ただ、現実問題として、私たち人間の心は矛盾に満ちている。 冒頭に話した、悪いニュースを欲している面がある。 目を覆いたくなるようなことでも、実は、指の隙間から、その悲惨な状況を見たくなるような面がある。 みなさんの記憶にも、まだ残っているかと思うが、なぜ911の飛行機がワールドトレードセンターに激突するシーンがあれほどまでに繰り返し、放映されなければならなかったのか? そこには、矛盾に満ちた人間の心、罪が、隠れているように思う。 ヘロデ一家が、ヨハネを悲惨な死に追いやっただけではなく、ユダヤ人も異邦人も凶暴してイエスを十字架刑にかけて殺してしまったのは事実で、その話を2000年間くりかえし、私たちは語り続けてきた事実がある。そして、これからもイエスの十字架は、語られ続けるであろう? なぜだろう? そこには、神の秘められた計画がある。 そして、そのイエスの死が、死では終わらなかった、死によって死は滅ぼされた事実がある。復活の力があり、復活の命により、どれだけ、人類は、慰められ、癒されているか計り知れないものがあるのだと思う。 現代においても、残念ながら、悲惨な報道、さらに映像を目撃することは続いてしまう。 それを何度も見るか見ないかが問題ではなく、できれば、見ないほうが良いのかと思うが、もっとも大切なことは、そこに秘められた神の思いを、私たちは思いめぐらすことが大切なのかと思う。 どんな困難、どんな悲惨な死と思われるようなことがおこったとしても、その真っ只中におられる主イエス、いっしょに困難を経験してくださり、慈しみと恵みに満ちた主イエスの働き、勝利を確認できますように! アーメン 安達均 “His Mysterious Plan” Mark 6:14-29 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! About 50 years ago, there was a radio station that never broadcasted bad news but only broadcasted good news. Although it seems like a good idea, businesswise, it did not last more than a few weeks. No major sponsors supported them. It seems, human beings want bad, breaking news. In Today’s gospel, John the Baptist, who was Jesus’ childhood friend and second cousin, was in jail. Although King Herod respected John, his wife Herodias did not like him and she wanted to kill him. Herod was conflicted. He respected John but swore oaths to Herodias’ daughter that she could have anything she wished. As I read the Gospel text a short time ago, John was beheaded in an unbelievably cruel way. After the beheading, his head on a tray was given to Herodias’ daughter and she, then, gave it to her mother. This scene is like something from a bloody horror movie. Why was this shocking story included in the Bible? Why was Jesus’ childhood friend, John, killed in such a cruel way and treated horribly after death? I do not think I can convincingly answer these questions. However, as this story shows, human beings’ hearts are full of conflicts. As I said earlier, human beings seem to prefer bad news. Even when people should avert their eyes, they still look at horrible events. I…
Tweet 2015年7月12日LCR日本語部週報通算第1350号 2015年7月12日の週報 July 12, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1359E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace