Archive for October, 2014

Tweet すでに26日の日曜日に宗教改革記念礼拝を守ったが、宗教改革の最大のきっかけは1517年10月31日に当時カトリック教会の司祭だったマルチンルターがドイツのウィッテンベルブにある教会の扉に当時のカトリック教会の慣習に、聖書に従っていない部分を指摘し、張り紙をしたことだといえる。そのマルチンルターにとって大きな影響を与えた一つの詩編に43編もあるように思う。いつものように詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編43編  1: 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。 2: あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。 3: あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。 4: 神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。 5: なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は1節にある、「慈しみを知らぬ民。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。それぞれの詩編が書かれた時期を特定することはむずかしい。しかし、簡単に歴史を振り返り、この詩編43編がどのような時代に書かれたか想像したい。 紀元前10世紀ごろにダビデが宗教上も政治上も、イスラエル12部族の民、地域をみごとに治めることができた時代があった。 しかし、王位が継承されていく中で、北のイスラエルと南のユダに分かれていってしまい、それぞれの多くの指導者が、旧約聖書の最初の五書であるモーセ五書に書かれていた掟に従わない時代になっていく。紀元前8世紀終盤には、イスラエル国は陥落する。またユダ国も紀元前6世紀中にペルシャに支配され、民は数十年間バビロンに捕囚される時代も来る。私はそのような時代背景の中で、信仰深い詩編作者たちが、モーセ五書の掟と葛藤し、そして、その教えに従わない多くの民を嘆き、それでも信仰を捨てず、神を賛美して、礼拝で詠われる詩編を次々に作詩していったように思う。特にこの詩編43編については、3節の言葉の中に、本来礼拝を行なう場所から遠く離れたところに詩編作者はおかれていて、いずれは、また聖なる神殿に導かれることを願い祈る言葉が書かれていることから、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代に作詩されたと想像する。そのような仮定のもと、各節ごと読んでいきたい。 神の慈しみを理解できない民、神の道を歩まず、横道にそれている者たちの中から私を救ってください。私の代わりに彼等と争い、神の裁きがありますように(1節)。 あなたこそ私の神で、罪深いものたちから私を守ってくださる砦です。しかし、なぜ、私を見放しておられるのでしょう。なぜ私はユダヤの指導部にもペルシャの民からも虐げられて、嘆きつつ、バビロンに連れて来られなければならないのでしょうか(2節)。あなたの輝きと真理をここに遣わしてください。あなたの輝きと真理は、わたしを導いて、また聖なる山、あなたのおられる神殿へと連れていってくれることでしょう(3節)。 そして神殿で、祭壇に私は近づき、喜び賛美し、「神よ、私の神よ」と琴を奏でて感謝の歌をうたうことでしょう(4節)。 しかし、現実は神殿から遠く離れていて、うなだれてしまい、私の魂が呻いてしまいます。 それでも、神を待ち望もう。私は告白します。主の御顔こそ、私の救いで、私の神です(5節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 497年前の10月31日が宗教改革の発端だったとされる。当時のカトリック教会の指導部には、御心に従っていない部分もあったのだと思う。それをマルティンルターが指摘した。そのマルティンルターの思いと詩編43編の作者の気持ちには、相通じる要素もあるように思う。さらに500年近くたった今、世界中には、悔い改めの中で圧倒的な勢力のあるローマカトリック教会が存在し、また1世紀の初代教会のころから守られてきている東方正教会群が世界に点在しており、またこの500年間には、その数は三万とも言われるプロテスタント教会群があるといわれる。宗教改革が発端となって、多くのプロテスタント教会が誕生し、伝道は飛躍的に進んだともいえるのかもしれない。しかし、まだまだ真の神の慈しみ、イエスキリストの愛をわからないまま生きている民が多い現実がある。またキリスト教と名乗っていながら、宗派を問わず、戒律ばかりが重視されてしまう教会指導者が出ていることも否めない。そのような時代にあって、十字架に架かって殺され、墓に葬られても、復活し、この地球上の民を赦し生かしてくださっている、主なる神、イエスキリストが、ただしき道へと導いてくださるように祈る。アーメン 安達均  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ8:31-36 主イエスがわたしたちの中に宿ってくださり、安らぎが豊かに与えられますように! あなたの人生に自由はありますか。特に子育て中方々、あるいは息子さん娘さんが子育ての真っ最中の方、いろいろなことがあってたいへんなのだと思う。 育っていく子が、将来、ちゃんとした仕事につけるように、社会に迷惑をかけない大人になってくれるように、本当にいろいろなことに気を配っていると思う。 おけいこごと、サッカー、ピアノ、めまぐるしいいそがしさ。それにもちろん学校の勉強、さらに、日本語家庭では、こどもに日本語を覚えておくようにするため、日本語補修校への送り迎えをしている方々もいる。 子育ては一つの例であり、子供たちのことばかりではなく、自分の将来、あるいは自分の老後を心配していろいろ悩む現実があるのだと思う。「神様、いったい私の将来どうなっちゃうのでしょうか? 私の将来のために、何をすれば良いのでしょうか?」と悩む。 その悩みをやわらげるために、生命保険を検討したり、老後の健康保険はどのような選択肢があるのかとあれやこれやと悩む。ひとつひとつの選択肢を検討することは、たしかに重要な決断になってくることではある。 しかし、あれをしなけらばこれをしなければと考えを巡らしすぎ、疲れ果ててしまうようなことは、本当に将来を保証するのだろうか? 与えられている聖書は、イエスのことを本当は信じられずにいるユダヤ教のリーダたちと、イエスの会話。イエスは、「私の言葉にとどまるもの、真に私の弟子となり、その真理があなたたちを自由にする。」と語る。 ユダヤ教のリーダたちは、律法を守ることが義とされるとする考え方であったため、イエスが偏狭の中にある人々を奇跡的に癒し、救っていたため、困っていた。 イエスを殺そうとたくらむことすらしていた。そして、毛頭、イエスの言葉にとどまる余裕はない。そもそもイエスの言葉にとどまるという意味も、イエスの言う真理がなんなのかもわかりえない。 そして、的のはずれた質問をする。「私たちユダヤ人はもう自由のない奴隷なんかではない、アブラハムの子孫は1500年前はエジプトで奴隷となったが、もう解放されて、とっくに自由の身だ。なんで、「わたしたちを自由にする。」ということを言うのか?」  それに対するイエスの応答は、およそ以下のようなものだった。「たしかにあなたたちは、アブラハムの子孫で肉体的には自由で、いろいろ自由に考えることもできる。しかし、私の言葉を受け入れていないこと、それは、真理なる神の言われることを認めようとしないこと。それは罪である。罪というのは、神なる方に向いて人生を歩まず、自分の判断で方向を決め歩んでしまうこと。そして、それは、罪の奴隷となってしまっている。あなたがたは、さまざまな戒律に従うことこそ、信仰生活だと勘違いしている。真の神とそのひとり子がここに存在しているのに、その子の話す言葉を受け入れていない。その話す言葉こそ、つまり私自身こそ真理であり、その真理をあなたの中に受け入れることこそ、さまざまな束縛から解放され、真の自由が与えられる。」 このようなイエスとユダヤ教のリーダたちの会話が交わされている。今日、宗教改革記念日曜礼拝に与えられている言葉、宗教改革から500年後に生きている私たちに何を語っているのだろうか?今日ここに集まっている会衆は、すくなくとも、主の御言葉を聞きに来られたすばらしい方々。 しかし、世の中全体をみまわすと、本当にいそがしい方々がたくさんいてカリフォルニアの礼拝参加者はわずか7%ともいわれる。 教会に来たって、将来のためにならないと勘違いされてしまい、礼拝に出ることはせず生活している方々が多い。しかし、今一度、イエスの語った言葉を思い起こしたい。2000年前にこの世に生まれたイエスこそ、神の子。それは神の御言葉であり、真理。イエス自身が真理。 パウロはコロサイ3章3節で「あなたがたの命はキリストと共にいる神のうちに隠されている。」と書き、4節では、キリストがあなたがたの命である。とも言っている。つまりイエスが私たちの人生であるということ。1500年後には、ルターは人間の人生を馬車にたとえて、あなたがたは馬車を操るように、自分の人生を操って生きていると思っているかもしれない。しかし、本当に操っているのは、主なる神イエスであり、わたしたちはイエスが操る馬だというたとえをして説明している。私は、それこそ福音の再発見だと思っている。 主なる神であるキリストは、私たちの命であり、私たちの中にいてくださる方。みなさん、キリストはわたしたちを愛してくださっている。たしかにその通り。わたしちの罪をゆるすために十字架にて死に、葬られ、しかし、復活した。それもその通り。 ただ、今日新たにすごいことを学んでいる。主なる神、イエスが、真理そのものが、私たちの命で、私たちの中に生きてくださっている。私たち人間の命とは、主イエスの命である。この教え、2000年前の教えをあらたに思い起こそう。  今週、みなさんにぜひ実行していただきたいと思うことがある。 将来のために、あれもしなければ、これもしなければと思うのは、横におき、休息のときを持とう。 しっかり、神が自分の中にいることを実感するときを持とう。 そして神への語りかけは、「私の将来の命のためにどうしたらいいのすか?」ではなく、「私の中にいてくださるあなたの命のため、私はどうしたらいいのでしょうか?」という問いかけ、祈りの時間を持とう。主なるイエスが、真理が、私たちの人生にどんなにかすばらしい計画を持っておられ、歩むべき道へと導いてくださっているか、祈り、黙想しよう。 あれやこれやと悩み苦しむ人、神から背いてしまい日々を歩んでしまう私たちに、主イエスキリスト、真理が、ささまざまな悩みを解消してくださる。 アーメン 安達均 “The Truth Will Set You Free From Your Troubles” John 8:31-36 May Jesus Christ be present among us and within us, and May the Peace of our Lord be poured into our hearts! Amen. Do you feel a sense of freedom in your lives? Those of you who are raising children or helping your children to raise your grandchildren may love your family but do not necessarily feel free. For the future of the children or grandchildren, parents spend and time and money to try and ensure a better life for them, and many parents are tired. Taking children to soccer, piano lessons, art classes, and taking them to school (in addition, some parents take their children to Japanese school) is time consuming, as such, being a parent can be exhausting. Parents’ busyness because they’re thinking about their children’s/grandchildren’s future is just an example. People are not only concerned about their children’s future; they’re often concerned about their own futures. People wonder, “Oh God, what I should do for my future?” When people reflect on their lives, they consider life insurance and healthcare options, make dietary changes, and exercise more. Each one of these life decisions are important things to think about. However, does overthinking about these things help guarantee a better life? The Gospel text today is the conversation between Jewish religious leaders and Jesus. He mentioned to the leaders, “If you continue in my word,…

Tweet 11月は日本語部の26周年記念礼拝が第一日曜日にあります。LCRの総会、プリスクールのファンドレーザーや感謝祭と、教会の行事が続きます。教会カレンダーを見えるところに貼って、大切な行事を忘れないようにしましょう。 2014年11月カレンダー・聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2014年10月26日LCR日本語週報通算第1328号 2014年10月26日【宗教改革主日)の週報 October 26, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1328E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週は先月9月4日に引き続き、詩編119編から41-48節を読む。詩編119編は22文字あるヘブル語アルファベットの各文字ではじまる22の詩が集められている。41節はヘブル語の”v”の文字ではじまる言葉が最初に位置されている詩。新共同訳聖書には、41節の前に(ワウ)と書かれていて、これがなぜ”v”なのかと思われるかもしれない。「ワウ」を「ヴァウ」という英語のv、ヴイ、の音に近いと思っていただければ、vとの関係を想像していただけるのではないかと思う。いずれにしろ、いつものように詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編119編  (ワウ) 41:主よ、あなたの慈しみと救いが/仰せのとおり、わたしを訪れますように。 42:わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。 43:真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。 44:わたしがあなたの律法を守る者でありますように/常に、そしてとこしえに。 45:広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。 46:わたしは王たちの前であなたの定めを告げ/決して恥とすることはないでしょう。 47:わたしはあなたの戒めを愛し/それを楽しみとします。 48:わたしはあなたの戒めを愛し/それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は42節にある、「わたしは御言葉に依り頼んでいます。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。詩編作者の状況を想像する上で、やはり42節にある言葉だが、「わたしを辱めた者に答えさせてください。」と書かれている部分に大きなヒントがあると思う。詩編作者は、何者かによって、「辱め」つまりあざけられたり、痛烈な批判を受けたりしたのだと思う。したがって、詩編作者は心の閉塞感を覚えながら、この詩を作ったように思う。一節づつ、読んでいきたい。主よ、あなたが約束してくださっていたように、あなたの慈しみと救いが、わたしを訪れますように(41節)。わたしを痛烈に批判したものに対して返答できるようにしてください。わたしはあなたの御言葉を信頼しています(42節)。 わたしの口から真実が語られるようにして、あなたの裁き(わたし辱めた者への)を待ち望んでいます(43節)。私を、どのような状況でも常にあなたの律法を永遠に守る者としてください(44節)。私の語るべき言葉を命令してください、そして(今の心の塞がった状況から)、広々とした状況に導いてください(45節)。わたしは(裁判所で)、王やほかの政治家たちのいる前で、あなたの定めを述べ、決して辱められたままにはならないでしょう(46節)。わたしはあなたの戒めを愛して、楽しみ(楽しい歌)にさえしています(47節)。わたしはあなたの戒めを愛して、手を上げて、あなたの掟を(音楽にあわせて)歌っています。  この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 10月26日の礼拝の中で読まれる福音書は、宗教改革記念礼拝でヨハネ福音書8章の御言葉になるが、聖書日課で与えられている福音書は、マタイ22章後半の「最も重要な掟」の箇所。イエスが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神なる主を愛する」ことと、「隣人を自分のように愛する」こと、この二つの掟が最も重要であるという話をされた。 今日読んでいる詩編が作られたのは、イエスが最も重要な掟の話をされるより、数百年さかのぼる。しかし、主なる神の思いが働いて、神が最も重要な掟として与える掟のことを想像しながら、この詩編は作成され、歌われるようになってきたのかと思う。どのような時代が来ようが、あるいは、信仰者であるがゆえに、非難されたり、嘲笑を受けるようなことすらありうることもある。にもかかわらず、主が与えてくださった最重要な二つの掟、その御言葉に頼り、確信し実践しつつ、主をいつも賛美する信仰生活を歩めますように。アーメン  安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイ 22:15-22 御言葉を通して主イエスキリストの恵みと平安が、聴衆/読者の心の中に豊かに染み渡りますように! 神さまからいっぱいいただいている恵みに対して、どのように応答したらよいか? それはクリスチャンが少なくとも一回は考えることだと思う。サンデースクールで小さい子供とこんな会話があった。  ここに10個のりんごがある。「この10個のりんごは神様からくださったもの。」として子供に渡す。その時、「でも神様が0個になっちゃうから、いくつかは神様にお返ししましょう。」と言う。たいていの子供は、5個とか3個とか返そうとする。 でも聖書には、10個もらったら一個、神様にお返しするように、書いてあるという話をして、1個だけ残してあとは子供に返す。そうするとびっくりする。「えっ、神さまに返すのはたった一個だけでいいの? Pastor の言うことはなんか間違っているのじゃないの?」しかし、先生は9個はもってなさいという。  本日与えられている聖書に書かれている出来事、当時の政治情勢を説明する必要があると思う。イスラエルは、政治的にはローマ帝国に占領されてしまった状態だった。 さらに、イエスキリストという御方が現れ、革新的な教え、また偏狭の状態にある病人や悩める人を奇跡的に救われることがおこった。  さまざまな律法を守ることによって、人間は正しいとされるユダヤの指導者にとって、イエスの存在はじゃまものだった。そこで、ユダヤの指導者はなんとかイエスの言葉じりをとらえて、イエスを死刑に追い込みたかった。  そこで、「皇帝への税金」という問題を持ち込んで、ユダヤ教の指導者たちが、「ローマ皇帝に税金を払うことはユダヤの法律にかなっていて正しいことなのでしょうか?」という質問をしている。なんでこんな質問をしたのかというと、、、 イエスが「税金を皇帝に払うべきではない」と言ってくれれば、ローマ皇帝から白い目でみられて、ローマの軍隊がイエスを死刑にするのではないか。 また、逆に、皇帝への税金を払わないといけないというならば、それは神に背くものという理由で、イエスを追求していけると考えていたのだろう。  イエスは質問に答える前に、銀貨を見せるように言われ、「だれの肖像と銘が刻まれているか?」と話され、逆にイエスがファリサイ派指導者に質問をする。そこにはローマ皇帝の肖像と銀貨が皇帝発行のものであることが刻まれていたので、指導者は、「皇帝のものです。」と応える。 そして、イエスは「皇帝のものは皇帝に」という答えをまず出す。 それは皇帝に税金を払えばよいということはおっしゃる。 しかし、それだけでは終わらない。 さらに「神のものは神に返しなさい。」と言われる。  この質疑応答の中には、イエスの深い知恵が含まれていて、いろいろなことを教えられると思う。 ひとつは、ユダヤの指導者のたくらみを見事にかわしている。 ローマ皇帝へ税金を納めることの大切さだけを話したわけではなく、それとは別に、ユダヤ教における、献げる大切さを述べられ、ローマの政治をつかさどるものも、宗教リーダも、これではイエスを追求できない。 さらに、この聖書の言葉から、よく問題になる、政教分離の大切さを教えられているという解釈もできるのかもしれない。 しかし、私は、このイエスの最後に言われた、「神のものは神に返しなさい。」というこの一言には、人類の根源的かつ普遍的、また全宇宙をも包括してしまうような大きなメッセージが含まれていると思う。 「神のものは神に返しなさい。」と言われた人類は、「神のものって一体何なの?」という質問を自問自答する必要があるのだろう。 考えてみてほしい。 今日、日曜の朝がみなさんに来た。ここにいる全員にまちがいなくきた。 この朝はだれのものでしょう。 このすばらしい日ようの朝というものは、人間が努力して創りだすことができるものではない。あるいは時間というもの。 私たち人間は何をするにしても、時間の経過とともに、人生を歩んでいるが、この時間というものだって、人間が作りだしているものではない。 「時間をつくって宿題しなさい。」と子供にいうことがあったとしても、それは、与えられた時間の中で、人間は何々をしよう。といって行動しているわけだ。  では、自分の地位だとか、収入とか、友人や家族、安定した暮らしとかを考えたとき、その裏には、みなさんがそれぞれに努力した結果であるということはいえると思う。しかし、努力するにいたって、この世の生きるという時間、両親や先祖がこの世に命を与えられ、その中で自分が生きる時代、命が与えられ、それなりの健康が与えられた、守られている人生があったから、地位も収入も友人も家族もそれなりに安定した暮らしがあるのだと思う。 いっさいのことが、神との関係なしにはなりたたなかった。。。すべてのものが神に帰属している。イエスは今日新たに、私たちに「神のものは神にお返しするように。」教えられた。  最初の子供たちへの話に戻りたいと思う。 子供の考えは正しいのだと思います。 10個与えられたら、1個どころではなく、もっともっと神様にお返しする。 私たちのいだだく時間でも健康でも、家族のことでも、すべてが神様の思いに従うように、神様に祈り、神のために働き、神に返していくということがとても大切。アーメン 安達均    What Should We Give Back to God? Matt. 22: 15-22 May God let the words spoken in the sanctuary abide with your will, and through the Word may your grace and peace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! What should we give back to God to adequately thank him for abundant grace that he has provided us? This is an important question in our lives. I think teachers or parents should talk to children about this. The following is an example a pastor discussed with Sunday school children. The pastor placed 10 apples on the altar and gave one to each child. The children were very pleased, but the pastor asked, since there is nothing on the altar, should you give back some apples to God? The kids gave back 5 apples. Then pastor said, in the Bible, we are taught to tithe, which means to give back one out of ten. Then the pastor gives four apples back to a child and leaves one on the altar. The kid says with wonderful smile, “Are you sure, God wants only one and can I keep nine? Pastor, there’s something wrong. Are the nine apples really mine to keep?” Pastor says, it is OK keep the nine apples. When discussing the gospel text today, I believe some background information is necessary. In Israel, 2000 years ago, the region…

Tweet 2014年10月19日LCR日本語部週報通算第1327号 2014年10月19日の週報 October 19, 2014 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1327E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 特伝チラシ2014#2 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2014年10月16日 詩編を読もう:新しい歌 (詩編96:1-9) 今週は詩編96編の1 節から9節を読む。いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編 96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 気になった節や言葉はどこだろう? 私の場合は、1節にある「新しい歌」という言葉と、「諸国の民」という言葉が3節、5節、7節と3箇所に登場していること。  詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたいが、まず、簡単に3節ごとにその要旨をまとめてみたい。 1-3節では、すべての国の人々に新しい歌を歌って、主を賛美するように、呼びかけている。 4-6節では、主が天を造られたという、主を賛美する最大の理由が詠われていると思う。 7-9節では、だから主にひれ伏し崇拝するように。 1節ごとに読んでいきたい。詩編作者は、すべての人々に新しい歌を主に向かって歌うように呼びかける(1節)。主に向かって、主の御名をほめたたえるように。毎日毎日、主の救いの吉報を告げ知らせよう(2節)。すべての国々に、主の栄光と、その驚くべき御業を語り伝えよう(3節)。 主は大いなる方で大いに賛美される、(諸国の人々がそれぞれに描いてきた様々な)神々を超越しており、もっとも畏れおおい方(4節)。 主は天を造られた方であり、諸国の民の思い描いてきた神々はむなしい存在(5節)。主の御前には栄光と輝きがあって、聖所は力があり光輝いている(6節)。だから諸国の民よ、皆、主に帰するように。栄光と力は主のもの(7節)。御名の栄光を主に帰するために、供え物を持って神殿の中庭に入り(8節)、聖なる輝きに満ちた主の前にひれ伏せ。すべての民よ、主の前におののくように(9節)。 この詩編箇所を通して、主なる神は現代の私たちに何を語っておられるのだろうか? 以下、三点ほど気づいたことを書いておきたい。 一つ目は、10月19日に与えられている福音書、マタイ22:15-22の中で、イエスは「神のものは神に返しなさい。」と言われる。この言葉は「神のものは神に帰(き)しなさい。」と書いても良いと思う。与えられた詩編の6-9節と大いに重なってくる部分があり、私たちの身の回り、すべては神が創られたもので、私たちも、神に創られたもの。だから、私たち自身を礼拝で捧げるという気持ちに導かれる。 二つ目は、「新しい歌」という言葉に、大きな響きを感じる。というのは、復活ルーテル日本語部のメンバーは、今年の12月14日に予定されているクリスマスコンサートで、英語部の聖歌隊に加わるよう招かれている。多くのメンバーにとって、まさに新しい歌となる。10月19日、朝10時から日本語部メンバー向けに特訓がはじまる。 三つ目として、詩編96編は昨年5月にも取り上げているが、今年は10月半ばのクリスマスの準備を始める時にこの詩編を読むと、有名な讃美歌「諸人(もろびと)こぞりて」を口ずさみたくなる面もある。「諸国の民」という言葉を繰り返し詠う今週の詩編は、まさに「諸人ごぞりて」だと思う。 クリスマスまでには、10月26日の宗教改革記念礼拝があり、11月2日の復活ルーテル教会における日本語宣教26周年特別記念礼拝もあり、11月末にはサンクスギビングの時を迎える。 それぞれの時、諸人に、また、病で苦しんでいる者、仕事や家庭の悩みをかかえる者、家族や親友を亡くし深い悲しみの中にある者の心に中に、主イエスキリストの癒し、慰め、慈しみが、しみ込み、喜びの扉が開かれるように祈る。アーメン    安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet LCRは今年50周年を迎えます。そして日本語部がLCRで日本語伝道を始めて26年になりました。この機会に、日本語部の最大支持者であるLCRの主任牧師、Zimmermann牧師に特別メッセージを御願い致しました。  Zimmermann 牧師は、LCRの主任牧師を務められて今年で20年になります。日本語部の宣教記念礼拝で説教をされるのは今回が始めてです。私達が、アジア人として、これからどのような伝道のヴィジョンを描いて行くのか、神様はどのようなご計画を用意されているのでしょうか。ご一緒に原点の戻り、神様のみ声に全身全霊を注いで聞きませんか? Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]