Archive for May, 2015

Tweet ヨハネ3:1-17 三位一体なる主の恵みと平安が人々の心に豊かに浸み込むように! 今日は、スクリーンに現われた絵を見て欲しい。 何に見えるだろうか? 「あひる」に見える方? うさぎに見える方?  このような絵を見た経験はあると思う。 見方によってはあひるだし、見方よってはうさぎ。 これは、あひるの頭が50%描かれているのではなく、うさぎの頭が50%描かれているわけではない。 あえていうなら、あひるの頭が100%描かれているし、うさぎの頭が100%描かれている。 三位一体主日に与えられた福音書の最後には、ヨハネ3:16、:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という有名な箇所が出てくる。 よく車のステッカーに、「John3:16」と貼ってあるのを見ることもある。 ヨハネ3:16だけを読んでも、聖書の結論ともいえる、「主われを愛す」がよく現われている。しかし、なぜこの言葉が三位一体主日に読まれているのだろうか。  この言葉がイエスが語られた背景をもうすこし注意深く読むことによって、イエスキリストがどういう方であるかがわかってくるように思う。  ヨハネ3章は、「イエスが神のもとから来た”教師”である」ことはわかるというファリサイ人の議員ニコデモが、イエスの元にきて、イエスと会話をしている。 イエスは「はっきりいっておく」という重要なことを語るぞ、という前置きのあと、「人はあらたに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と話す。 そこで、ニコデモは「この世に一度生まれたものが、母親の胎内に入ってあらたに生まれるなんていうことができるのか?」と質問し、イエスの話す意味はわからずにいる。 そこで、イエスは、二回目の、「はっきりいっておく」という言葉を述べたあと、「だれでも水と霊をもって、新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と語る。 それでも「どうしてそんなことがありえるのか」と質問するニコデモに、3回目の「はっきりいっておく」という言葉を述べて、神がこの世のすべての人々を愛しており、神から送られた自分自身が十字架にかかり、捧げ物となることを示唆する。 そして、この自分が神から送られた超本人であり、十字架にかかる自分を信じる世界中の人々が、一人も滅びることなく永遠の命を得られるように、している。 現代、イエスは神なる救い主としてみるより、イエスは人間の一人にしか過ぎないと見る人々が増えている。 とくに現代は、イエスは「神が送った預言者の一人に過ぎない」、あるいは、「教師」に過ぎないというイスラム教勢力が圧倒的に伸びている現実がある。 イエスは過去の教師では終わっておらず、また過去に生きたただの預言者ではないのだが。。。  数十年後には、イスラム教徒はキリスト教徒を上回るともいわれる。 このような状況の中で、今日あたえられているヨハネ3章のイエスの言葉は、現代の世界中のキリスト教徒にも、また世界中の「イエスは預言者」あるいはただの人間の教師だったとする人々に、「もう一度、真剣にイエスのことを見るように」と言われているようだ。 現代を生きる、キリスト教徒にもイスラム教徒々に対しても、イエスをどう見るかによって人生が大きく変わりますよ、といわれているように感じる。 神の一人子が、十字架にかかって葬られたが、復活した、そして聖霊としてこの世に存在されている。そのイエスをもう一度、見上げるようにと言われているように思える。 私自身の反省もあるが、今までの三位一体主日に「三位一体」は、むずかしいから、説教では、三位一体の話を置き去りにしてしまう傾向があったことはいなめない。 だからこそ、今日の箇所から三位一体について、話すように聖霊が働き、今日の礼拝で私たちは三位一体なるお方に少しでも近づくように導かれている。 一昨年の修養会で私は、神を太陽に例える話をした。とくに打ち合わせをしたわけではなかったが、昨年の修養会でキム先生も、話されたことで、少々復習したい。 三位一体を簡単に話すなら、父なる神は、地球から遠くに存在している太陽みたいなもの。 地球から遠いといっても、しっかりと、光となって、太陽光は地球に届いている。 その太陽光がイエスキリスト。 神から放たれて地球に生まれたイエス様である。 そして、その光はこの地球上を覆っていて、熱となって、暖かくしてくださっている。 その熱こそ聖なる霊。聖なる霊が地球を覆うという状況は、イザヤの預言で、聖なる万軍の主、主の栄光がこの地を覆うという状況とも似ている。 太陽、光、熱はわたしたちがまさに見ることもでき感じることもできるもの。 そこに、父、子、聖霊なる三位一体なる主を見出すことができるのではないだろうか。  太陽は太陽ひとつで100%の太陽。 しかし、太陽から光となって100パーセントの光にもなるし、それが熱として存在するとき、100%熱だ。 33%が太陽で、光が33パーセントで、33%が熱ではない。同じように、イエス様は100%神であり、100%人間であり、100%聖霊で、300パーセントなる御方ともいえるのではないだろうか。このような三位一体なるお方について、私たちは世の人々とシェアするように導かれているのではないだろうか。よ人類がイエスをどう見るかによって、私たちの世界は大きく変わるのだと思う。アーメン 安達均 “Your Life Depends on How You Look at Things” John 3:1-17 May the Lord, Holy Trinity, pour the grace and peace into hearts of the people in this world! Please look at the screen. What is pictured? Do you see a rabbit’s head or do you see a duck’s head? Many of you are probably familiar with this type of image. You can see the duck’s head and the rabbit’s head at the same time. This drawing is not 50% a duck’s head and not 50% a rabbit’s head. Both heads are perceived 100% respectively. The Gospel text today includes John 3:16. It reads, “For God so loved the world that he gave his only Son, so that everyone who believes in him may not perish but may have eternal life.” This is one of most famous verses in the Bible. Many of you have seen “John 3:16” stickers on cars. The reason the verse is so popular is that a central tenet of the Bible is expressed in it: God so loves the world. God loves each one of us. However, why was this text chosen for the Holy Trinity text? I believe that understanding the contextual background of John 3:16’s text leads us to a better understanding of who Jesus is. In other words, reading the verses before 3:16 helps us better understand Jesus’ character. Chapter 3 begins with the description of…

Tweet 6月13日土曜日の10時から行われます修養会に是非ご参加ください。 修養会招待状2015 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 6月は13日に修養会が午前10時から午後3時半まで、サンタナにあるパシフィカ教区のオフィスで行われます。忘れずに申し込みましょう。 2015年6月カレンダー&聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2015年5月31日LCR日本語部週報通算第1354号 2015年5月31日(三位一体主日)の週報 May 31, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin (The Holy Trinity)1354E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今週は、三位一体主日の翌日6月1日から3日の聖書日課に与えられている詩編20編を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編20編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編20編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:苦難の日に主があなたに答え/ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 3:聖所から助けを遣わし/シオンからあなたを支えてくださるように。 4:あなたの供え物をことごとく心に留め/あなたのいけにえを快く受け入れ〔セラ 5:あなたの心の願いをかなえ/あなたの計らいを実現させてくださるように。 6:我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ/我らの神の御名によって/旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを/すべて実現させてくださるように。 7:今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。 8:戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。 9:彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。 10:主よ、王に勝利を与え/呼び求める我らに答えてください。 インパクトのある言葉として、7節の「今、わたしは知った。」 詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編を振り返ろう。1節にはダビデの詩となっているが、おそらくダビデ王にしたがっていたイスラエルの民のための礼拝で詠う賛歌なのだと思う。2節以降で「あなた」となっているところは「ダビデ」におきかえても良いのだろう。2-4節では、苦難を経験しているダビデとその民だが、ダビデが支えられ、ダビデの神への供え物が受け入れられますようにと祈る。セラとなっているので、休止符か間奏が入る。そして5節にはいっても、祈りは6節まで続く。ダビデの願い、計画が実現するように。ダビデの勝利によって私たちは喜びの声をあげ、神の御名によって、勝利の旗を掲げることができるように。主がダビデの求めることをすべて実現してください。7節で「今、私は知った」と詠いはじめ、曲想はガラッと変わるようだ。主は油注がれたダビデに勝利を与え、救いの力を示される。戦力を誇るものがあるが、ダビデの民である我らは、主の御名を誇りたたえる。戦力を誇るものは倒れ、我らは主の力に満ちて、立ち上がることができる。10節では、再び、祈りの詩に戻り、ダビデに勝利を与え、呼び求めている我らに答えてください。 21世紀の現代にある私たちが、この詩編20編を読むとき、「あなた」はイエスに置き換えて、イエスに従うキリスト者たちの賛歌にもなるのだと思う。紀元前の世界と紀元後の世界で、人類が体験する苦難は同じように訪れる。しかし、「あなたの供え物・いけにえ」である十字架に供えられたイエス自身により、神が救いの力をさずけてくださっている救い主イエスが、イスラエルの民ばかりでなく、全世界の民に与えられている。イスラエルからしてみれば異邦人である私たちにも、勝利・救いがある。たとえ、イスラエルから東方の地の果てのような日本の民にも、また西方の地の果てのようなカリフォルニアにおいても、同じ救いがある。神とイエスが一体でさらに、神とイエスと一体である聖霊が、神の息が、世界中に吹き込まれている。私たちは、どんな苦難や困難や失敗を体験することがあっても、イエスの信仰を通して与えられる聖霊の力によって立ち上がる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ 15:26-27, 16:4-15 主の慈しみ深い愛が、集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 復活節をどのように過ごされただろうか? 4月5日がイースターだった。 多くの方々がこの礼拝堂に集まり、またイースターの祝会をしたのを覚えているだろうか?  それからまるまる7週間が過ぎ、今日で復活節は終わり、今、聖霊降臨を祝う時。 それぞれ、どんな気持ちでこの礼拝の時を迎えられただろうか?  いろいろな方々がいると思う。 家族も自分も健康良好、経済的にも今は安定している、良いイースターを経験したと振り返る方もいると思う。あるいは、自分は病気になる、あるいは事故にあった、怪我をした、あるいは家族がピンチに追い込まれている等々の状況にある方もおられると思う。 は「神も仏も無い。」という本が結構、日本で売れているようだ。 自分の人生まっさかさま、「神も仏も無い」といいたくなってしまう感覚はわからないでもないが、本当に「神はいないのだろうか。」  聖霊降臨日にあたって、さきほど使徒言行録2章を読んだ。 聖霊降臨の場面だ。 聖霊降臨というできごとが起きる前、弟子たちはどんな気持ちだったのだろうか。 それこそ、イエスの十字架の死は大ショックだった。 しかし、イエスは復活して、40日間、弟子たちに顕われてくださって、弟子たちを赦しかろうじて弟子たちの気持ちはつながっていた。 復活後40日目には、天に上っていってしまって、またリーダーがいなくなってしまうわけで、途方にくれるような状況になりかねなかった。 ただ、イエスは昇天前には「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなた方は力を受ける。そして、地の果てに到るまで、わたしの証人となる。」 証人とは、イエスが神であるという証人になるという意味でとらえてよいと思う。  そして、今日使徒言行録2章で読んだように、聖霊降臨が起こり、信じられないようなことが起こる。異なる言語を話せるようになって、違う地域から集まってきた人々が通じ合えるようなことがおこる。 しかし、この聖霊が降りてきた事で、弟子たちはさらにどういう働きをするようになるのだろか?実際問題、彼らも迫害にあってたいへんなことになってしまう。 しかし 神の言葉に頼って、教会ができて、喜びををもって主イエスの福音を伝えることができた。そもそも聖霊って何者なのだろうか?   この聖霊が弟子たちにどう働くかを、より深く考える上では、イエスが十字架に架かる前に、語っていたことを振り返る必要があるのだと思う。 与えられたヨハネ福音書。 聖木曜日の晩にイエスは長い説教と祈りの言葉を述べる中で、弟子たちに聖霊が送られる約束をのべている。 さきほど読んだが、その中で、イエスは、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 となっていたが、ギリシャ語から直訳するなら、「聖霊があなたがたを真理そのものに導く」と考えることができる。 ただ、イエスは聖霊という言葉は使わずに、「真理の霊」という言葉で聖霊のことを語っていたのは、とても重要。  真理の霊っていったいなんだろうか? 霊はよくいわれることだが、ヘブライ語やギリシャ語では、空気の流れ、風、息。 ただ、日本語で「真理」という言葉、英語だったら、”Truth”だが、イエスが伝えたかった言葉と同じ意味でわたしたちが理解できるか、ちょっと難しいものがあるのだと思う。  ヘブライ語では、「エメト」という言葉が使われていて、私たちは「アーメン」という言葉をよく使っているが、その意味は「その通り確かなことです。」という意味。 エメトとアーメンはもともと同じ言葉だそうで、エメトは確かに頼ることができるという意味。このような語源から考えてきて、真理の霊とは、本当に確かで本質なる神の息吹という意味。   お葬式などで読まれる有名な聖書箇所、ヨハネ14章6節には、イエス自身が、「私は道であり真理であり、命である。」といわれている。 真理とはイエスであるといえる。 イエスの語られていた、真理の霊があなたがたを真理を悟らせる、真理に導くというのは、聖霊によって、イエスの弟子たちが、イエスご自身に近づけるということ。 この地球にいるイエスの弟子たち、クリスチャンに、今も主なる神は、本当に頼ることのできる確かな神の息吹を送ってくださっている。 そして、その息吹は、イエスの弟子たちを、今日も真理なるイエスに近づけてくださっている。 イエスは徹底的に自分を低くし、自分を空にして、すべてを父なる神に捧げられた。そのようなイエスに、好むと好まざるに関係なく、近づいている。 復活節の過去、7週間、どんなだったかということを振り返る時、この世的には、いろいろたいへんなことがおこったということがあるかもしれない。 しかし、そのような中で、聖霊は確かに、一人一人に働いており、私たちを真理なるお方へと近づけている。 そこには、どんな苦しいことがあっても、真理なるたしかに頼ることができるものがそこにあり、喜び、希望を抱ける。 決してその苦しみが無駄になるわけではなく、すべてが良きにされる時がくる。 今日からは聖霊降臨後の季節が続く。11月の終わりまで、約6ヶ月もの間。 さらに次の6ヶ月を思うと、いろいろ不安を抱く方も多いと思う。 しかし、どんなことがあろうが、聖霊の力を信じているだけで、それで十分なのである。 主イエスの愛をいっぱいに受けて、聖霊の力により、主を愛し、隣人を愛する人に創られて、本当の喜びあふれる人生を歩んでいこう。  聖霊の働きにより、イエスの喜びと愛が集まった会衆の心の中にゆたかに注がれますように!アーメン 安達均 What is the Spirit of Truth? John 15:26-27, 16:4-15 May the Gracious Love of our Lord be poured into the people in this sanctuary! How was your Easter season? Do many of you, that attended Easter Sunday worship and luncheon, still remember what the sanctuary looked like? And how have you been since then? 7 weeks have passed since Easter and today we are celebrating Pentecost. How do you feel today, when reflecting upon the last 7 weeks? Each situation is different. Some might be very thankful for their good health and financial stability, and feel that it was a good Easter season. But I am sure there are people who became sick, had accidents, were injured, or are facing financial difficulties. If you’re included in the later group, your Easter didn’t go as well as hoped. In Japan, there is a book called “Kami mo Hotoke mo Nai” which means there is no God and no Buddha. Even though I am a pastor, I understand that we, as human beings, sometimes want to say these words. On this Pentecost Sunday, we read Acts Chapter 2. The scene in which the Holy Spirit came down like doves came down as tongues of fire, and came down as strong wind. However, let’s reflect upon how the disciples were feeling before Pentecost. Right before Easter, they could not prevent Jesus’ crucifixion and they were…

Tweet 本日は礼拝後に5月の誕生祝いがありました。来週の礼拝は、礼拝後の軽食と交わりの時がありません。ご了承ください。 2015年5月24日LCR日本語部週報通算第1353号 2015年5月24日(聖霊降臨祭)の週報 May 24, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin (Pentecost)1353E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 今年は5月24日が聖霊降臨祭。ペンテコステとも言われる。クリスマスやイースターのように、非宗教的な世界でもお祝いするような面があるお祭りと異なり、聖霊降臨祭はキリスト教会独自のお祝いなのかと思う。といっても、ペンテコステという言葉自体は、50日目という意味で、ユダヤ教ではイスラエルの民が奴隷としてエジプトで仕えてきた時代が終わるきっかけとなる過越祭から数えて50日目にエジプトからイスラエルに旅をするリーダだったモーセにシナイ山で律法が与えられるという記念の日でもある。さてそのようなことも覚えながら、与えられた詩編104編後半を読んでいきたい。 いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの復活節にあって現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編104編 24:主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。 25:同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 26:舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。 27:彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 28:あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。 29:御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。 30:あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。 31:どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。 32:主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。 33:命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。 34:どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。 35b:わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。 気になる言葉としては、24節にすべての創造が「知恵によって成し遂げられた。」と書いてある。神のお考えの中で、すべての創造が続いていることを覚える。 詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編箇所を振り返りたい。 24節から26節では、いかに主の御業がすばらしいことか、地も海も、地上に住むものも、海の中に住むものも、すべて主の知恵、つまり神の考えによって創造された。27節から30節では、すべての生物の創造は今も続いており、創造されたものは主に望みを置き、主から与えられるもので満たされる。主が見渡してくださらなかったら恐れが生じ、生物の存続は、主なる神の息を注いでくださるかどうか次第である。 30節から最後までは、その息によって、地は新たにされる。主が見渡せば、地は震え、主が地を触れると噴煙もあがる。主の栄光が続くように、主のお考えが喜び祝われるように。だから私も生きる限り、主を賛美しよう。 以上振り返る中で、与えられた詩編箇所での詩編作者の大きなポイントは、神の知恵があって、地も海もそこに住むものも創造された。その知恵は現代の言葉でいえば、エコシステムとも言うべきものなのかもしれない。またユダヤ教のペンテコステを思う時、そのエコシステムには、イスラエルの民に与えられた戒め(律法)も含まれているように思う。 さらに、与えられた詩編箇所が21世紀に生きるわたしたちに何を語っているのか思いをめぐらせたい。 現代の言葉でいうエコシステムが神の知恵であることを書いた。そして来る日曜日には、キリスト教会では聖霊降臨日を控えている時に、そのエコシステムの中に、絶対に欠かすことができない、神の息、聖霊の存在を覚える。この詩編は紀元前数百年前に詠われはじめたものだが、ユダヤ教の伝統、そしてそれを引き継ぎキリスト教の伝統の中で、現代の21世紀にも詠われる。主なる神の息の大切さを思い出させてくれる。 私たちの目にははっきりとは見えるものではないが、主なる神の知恵、考えが秘められている、聖霊の働きについて、聖霊降臨日に向けてさらに思いを巡らせていきたい。 この時期、復活ルーテル教会の信仰者たち、またその家族や友人でも、病の中にある者が多い。ICUに入っている者も私の知るだけで二人いる。 聖霊の働き、癒し、励ましが注がれるように祈りつつ。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet ヨハネ17:6-19 聖霊の働きにより、イエスの喜びと愛が集まった会衆の心の中にゆたかに注がれますように! 洗礼を受けて、クリスチャンになるということは、天国に行く列車の切符を手にすることなんです。 という方がいる。そのような比喩は、たしかにそういう面はあると思う。しかし、二点ほど付け加えないと思うことがある。 第一点は、洗濯してなくなったりしないように、切符は紙ではできていないこと。洗礼をうけ、聖なるものとされ、キリストの十字架のしるしを受けることそのものが、切符である。   第二点目は、これから説教でお話することすべてが第二点目ということになってくる。 洗礼を受けた者は、ただ列車に乗って何もせずに天国に行くわけではない。じゃ、どんな列車なのだろうか?  1970年代、私はまだ日本で中学生だったが、日本でも大ヒットしたディスコでよくかかった The O’ Jaysというソウル3人組が歌ったLove Train という曲があるが、最初の1分程度だけでもそれをちょっと見ていただけたらと思う。 踊りたくなってしまうかもしらないが、どうぞおけがのないように。 今ご覧いただいたビデオに出ていた、列車が走っているイメージと子供たちのイメージがオーバーラップしていたのが、とても面白いと思った。 そして、この説教がどういう方向に話が展開するのか、もうわかってしまった方もいるかもしれないが、この列車のことはまた説教の後半で話したい。そして、与えられた福音書の内容に入っていきたい。ヨハネ17章はイエスの長い祈りで、苦しみを受ける前日の晩、弟子の一人に裏切られ、他の弟子たちからも見放される前に、弟子たちのために祈った祈り。その祈りは確実に聞かれ、当時の弟子たちにとっては現実のものとなり、現在の弟子たちにも現実になりつづけている。 イエスの17章の祈りには、6点もしくはそれ以上の要点があると思う。 しかし、私は、11節から16節の中のポイント、3点だけにしぼって、お話ししたい。 その第一番目のポイントは、イエスが十字架刑に架かる前に、弟子たちが、守られるようにとにかく祈ったところ。そしてすべての弟子たちが神とともにひとつになるようにと祈られたこと。  ヨハネ福音書は90年代に記載されたというのが世界中の一般的な見方だが、当時すでにキリスト教徒たちはたいへんな迫害にあっていた。そのような時代背景の中で、福音書記者ヨハネは、イエスが激しく祈られたことを強調しているようにも見える。イエスの祈りはすさまじい。たとえ、弟子たちが迫害され殺されてしまうようなことがあったとしても、イエス自身が父なる神によって守られ父なる神と一体で、永遠の命を得ていたように、弟子たちも一体となり、神から守られ永遠の命にあることを祈られたのだと思う。 第二番目のポイントは、弟子たちがイエスの喜びで満たされるようにと祈っている。その喜びとは、たとえ翌日十字架刑にかかろうが、イエスに喜びが満ちていること。それは、新幹線でグリーン車の切符を手にするような喜びとは全く種類の異なる喜び。 イエスが父なる神と一体で、父から喜びを与えられているように、弟子たちも一体で同じ喜びで満たされるように祈っている。そして、弟子たちとは、当時イエスといっしょにいた弟子たちだけではなく、後の弟子たちをも含めて、つまり私たちも含めて、喜びで満たされるようイエスは祈ってくださった。  最後のポイントは、世に遣わされる弟子たちを聖なるものとしてくださいと祈られたこと。イエスは翌日には、十字架にかかる、そして3日後には、復活して40日間は弟子たちの間に姿を現されたが、復活後40日目、天に昇っていかれる。そのように、父なる神と一体なる聖なるイエスは、この世にいなくなる。しかし、その聖なるイエスが存在し続けるがごとくに、弟子たちも、聖なるものとしてくださるように、そして世に派遣されるように祈られた。派遣されるということは、隣人たちへ仕えるようにと祈られた。  さて、キリスト教徒、イエスの弟子になるとはどういう意味か今一度振り返りたい。洗礼を受けて、聖なるものとなり、国籍は天にあるものとされる。それは、天国行きの切符が保証されるともいえる。かといって、なにもせずに天国に行けるということではない。 イエスが当時の弟子たちにまた将来の弟子たちに祈られたように、私たちは皆、世に遣わされ、人々に仕える僕とされていく。  この列車の比喩は、受動的な列車ではなく、むしろ積極的な列車である。 キリスト教徒たちは、列車に乗っているというより、むしろ列車そのものがキリスト教徒たちというべきなのだと思う。 この列車の比喩は、マルティンルターの馬車の比喩を思い出される。ルターいわく、あなたがたは、キリスト者の生活は馬に引かれたワゴンにのって、その馬を操るようなものだと思っているかもしれない。 しかし、実際は、キリストが馬を操り、私たちは馬だと。神が方向性を定め、私たちが、愛をもって、自分を捨てて人に尽くすように仕向けている。 私はCCN、カウンセルのミーティングに出たり、また、最近ではストラテジックプランにMeaningful Program and Ministry の会議にも出たりしているが、教会のため、世のため人のために尽くしている方々を見るにつけ、どれほど私も喜びで満たされるか。また今、この毎週の礼拝そのものが、神の喜びと愛で満たされイエスが私たち一人一人に仕えてくださっているように、私たちが礼拝に出ていること事態が、人々に仕えあっていることを示している。  これはイスラエルからしてみれば、地の果てとも思えるようなハンティントンビーチで、また世界中の各地で、おこっている。それはもともと2000年前に、弟子たちが守られ、喜びで満たされ、聖なるものとされ、人々に仕える者となって世に派遣されるようにと、イエスが祈られたことが、現実のものとなっている。このように聖霊が、私たちを世の人々のために仕える者となるようにしてくださっている。  May We Live for Others John 17: 11-19 May the Holy Spirit, Joy, and Love come to the hearts of the people gathered in this sanctuary! There are people who say, “To be a Christian is something like getting a train ticket to heaven.” It might be true, but I would like to add two more things to that metaphor. Number 1: That ticket isn’t made of paper so you cannot lose it by putting it in the washing machine. The ticket is like an e-ticket, being baptized, sanctified, and marked with the cross of Jesus Christ is the ticket, so you do not need to show your driver’s license or passport to claim it. The second point I would like to talk about is actually the content of the rest of my sermon. These people, baptized people marked with the cross of Jesus Christ, are not just boarding a train that goes to heaven. So what kind of train are we talking about? In the early 1970s, during my middle school years, there was a great hit song called “Love Train,” sung by R&B group The O’ Jays. I would like to show a little bit of a YouTube video for that song. Some people might want to dance, please feel free to do so in your seat. HERE: SHOW THE YOUTUBE VIDEO I think the images we…

Tweet 2015年5月17日LCR日本語部週報通算第1352号 2015年5月17日(復活後第7)週報 May 17, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1352E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]