Archive for February, 2014

Tweet 2014年3月2日LCR日本語部週報通算第1296号 今年は3月5日に灰の水曜日を迎えます。この日は6時からスープサパーそして、7時から礼拝があります。スープサパーに参加される方は、8人分位のスープを持参の上6時までにバーコーホールにお出で下さい。2014年3月2日の週報 March 2, 2014 LCR Japanese Ministry Bulletin Transfiguration of Our Lord #1296ESunday English Bulletin 1296E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 来る日曜日は主の変貌日となる。山上で三人の弟子たちを前に、主イエスの姿が真っ白に輝き、数百年前の預言者、モーセとエリヤがその場に顕われるという奇跡が起こる。その変貌主日の三日前から与えられている詩編は2編となる。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちで考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 2編 1: なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。 2:なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか 3:「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。 4:天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り 5:憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。 6:「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」 7:主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。 8:求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。 9:お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」 10:すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。 11:畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。 12:子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて どんな事に思いを巡らせているだろうか? 私は気になることばとして、12節の「子に口づけせよ。」「子」とはだれだろうか。以下に書くことになると思うが、主イエスキリストのことだと思う。そのしきたりが今も守られているかどうかはさだかではないが、ロシア正教会の礼拝では、最後に参拝者が前に出て行って神父の持つ十字架にキスをするということが行なわれていたことを思い出す。  詩編2編の作者を特定することはできないが、神の言葉を預かった預言者の一人なのだと思う。 神の言葉がたくさん引用され、インパクトのある言葉が詠いこまれている。 1-3節では、世の政治家のような者になることのむなしさが詠われている。 唯一の神への信仰を持たずに政治活動に一生懸命になり、自分たちで勝手な法律を決め、国の領土を定めようとすることのむなしさ、主に従わないことへの嘆きが詠われている。4節から6節では、あたかも詩編作者が天を王座とする神と出会い、世のむなしい政治家たちを嘲り笑い、憤って、宣言される。「わたしは、このシオンにおいて、自ら王を即位させた。」その王とはだれか?ダビデだろうか? 私は、すでに主イエスのことが詠われているように思う。 7節から9節では、預言者が主から語られた言葉をそのまま詠う様子が思い浮かぶ。「お前(即位させた王)は私の子である。私が生んだ。私に尋ね求めよ。私はすべての国々をお前の受け継ぐべき土地、領土とする。」 そして10節から12節では、世の政治家たちに、またその国々を支配している気持ちになっている王たち、統治者たちに、その主を畏れ敬って、主に仕え、喜び踊るがよい。 その主にキスせよ。 主が憤って怒るようなことがないように。そして、12節の最後に「いかに幸いなことか、主を避けどころとする者はすべて。」という詩編1編の最初の言葉と同じ「いかに幸いなことか」が詠われて終わる。  この詩編を通して、神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? とくに日本的あるいはアジアの文化や宗教観を考えると気づかされることがある。村や地域をとりしきる長なる人々、あるいは地球上に存在する多くの国々の首相とか皇族、あるいはさまざまな宗教団体の教祖とかやおよろずの神々たちに、この詩編は強く迫ってきているように思う。「お前は私の子」という言葉は、主イエスキリストの洗礼時や、また来る日曜日に祝う主の変貌日に、天から聞こえた「これは私の愛する子」という言葉と同じなのだと思う。 つまり、地球や太陽をも創られたすべての創造主なる全知全能の神が、イエスと全地球に住む統治者とかやおよろずの神々に語る「イエスは私の愛する子である。すべての国々、すべての土地をイエスの受け継ぐ領土とする」という宣言に聞こえる。それゆえ、この世に生を持ったものは、すべて、この主なるお方を畏れ、敬い、愛し、そして、その主なるお方を避けどころとすることが幸せであり、また、聖書全体に語られていることからして、主イエスを避けどころとすることが永遠の命に生きることなのだと信じる。  詩編1編と2編は詩編全体の前置きで、詩編150編全体の鍵となる事が詰まっている。また詩編150編全体には、聖書全体のエッセンスがまとめられているような面がある。 また、主の変貌日の奇跡は、主の十字架の死そして復活への前触れのような面がある。 アーメン  牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイ5章38-48 牧師 安達均 主イエスの恵みが語られる言葉に現れ、あなたの平安が礼拝堂に集まりました、あなたの子供たちである兄弟姉妹の上に豊かに与えられますように! 私が小学生の時、カトリック教会に熱心に通っていた伯母が、「だれだれ神父は、本当にイエス様のようなお方なのよ。」という話をした。私は「人間がイエス様、つまり神だなんてそんな馬鹿な」と思ってその話をまともには受け取らなかった。 しかし、その言葉は私の頭から全く忘れることはなく、今日ここで話をしている。もっとも伯母は今から10年以上前に亡くなったし、その神父も召されているが、いまだに伯母の言葉が私を魅了する。 他の伯父伯母たちに比べ、物静かで、大学教授と結婚して、6人の子供たち、つまり私のいとこたちを育てていた常識的な伯母だった。が、なぜ神父といえども人間が神みたいだという、言ってみれば世の常識的ではないような話をしたのか、興味深かった。  さて、さきほど読んだ福音書箇所、引き続き、山上の説教の箇所を読んでいる。 今日の箇所のイエスの結論は、群集に向かって、「完全な者となりなさい。」という言葉で終わっている。  ちょっとイエスさま、それは非常識じゃないですか?という質問をしたくなる。なぜかというと群集は、病の中にある人々や、もう看病でたいへんな生活を強いられていた人々だったから。  また、その結論の前には、世の常識からすると、「えっ?」と思われるような話があった。「右の頬を打つものがいたら、左の頬をも向けよ。」 「シャツやアロハを奪おうとする者がいたら、ジャケットやセータまでも与えよ。」 「1マイル先まで荷物を運ばせるものがいたら、2マイル先まででもいっしょに運んであげなさい。」 さらに、「隣人は愛し、敵を憎む、というか自分を迫害するような者とは関係を持つな」が常識的なように思われるが、「隣人も敵も愛し、自分を迫害するもののために祈るように。」と、そして「完全な者」となるように言われる。「そんなの無理です。」とも言いたくなる。イエスは常識を覆しているようで聞いている人々は戸惑ったと思う。。 聖書の中には、神は良い行いをする者には良い報いを与え、悪い行いをする者には罰が与えられるような話も出ている。そのような神の態度は、親が子供にもすることで教育上正しく生きるには必要なことだ。しかし、罰を与えることが神の本質ではなく、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と語ったイエスの言葉の中に、本質的な神の愛がとてもよく現れている。  そして、父なる神が、完全な愛を持って人間を愛してくださっているように、あなた方もたがいに、その互いにというのは、あなたの敵、迫害する者も含めて完全な愛を実現するようにというイエスの教えが示される。 それにしても、人間は神じゃないから、そんなことはできるはずありませんと、私たちは、言いたくなる。  本日与えられている第二日課の中に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」という言葉があった。 山上の説教のはじまりは、霊的には欠乏しているもの、しかし、神の愛によって聖霊が満たされるようになる者が実は幸いなんだという神の恵みの話で始まっていた。 つまり、イエスの話を聞いている群衆が神の恵み、神の霊で満たされるという話だ。 パウロの言う、神の霊が自分たちの内に住んで、自分たちは、神の神殿となっているという比喩だが、これは実際に実現していることだと思う。  また第一日課のレビ記の言葉の中には、「あなた方は聖なる者となりなさい。私は聖なる者である。」という言葉があった。 神は大昔から聖なる者として生き続けておられ、現代においては、神に従うもの、イエスに従う者を、霊で満たし、神の恵みを十分にいただける存在としてくださっている。  さらなる神の恵みで満たされた現代のキリストに従う者たちにも、神の霊が住んでくださっており、完全な者、完全な神の愛を実現する者に変えられるということは起こっている。 冒頭に語ったように、伯母が尊敬していた神父が、イエス様みたいな方だという話は、父なる神と、その子イエスキリスト、そして、聖霊の働きにより、霊的に満たされた神父の上に、本当に起っていたことだと思う。 そればかりではなく、伯母だって、聖霊に満たされ、一生、仏教徒だった伯父をそのまま大切にし、神の愛をもって愛し続けた。  私たち、至らない人間だとは思うが、それでも一人一人の中に、神の霊が住んでくださり、キリスト者として、完璧な神の愛を実現する者へと変えられると確信し、新たな一週間を歩むことができるように。 アーメン “Can We Be Perfect?” Matthew 5: 38-48 Pr. Hitoshi Adachi May your Grace be in the words spoken from my mouth and may your Peace be present into your children, brothers and sisters in the sanctuary! When I was an elementary student, one of my aunts who faithfully attended a Catholic church, told me “The Father at my church is like Jesus.” At the time, to me it was an awkward statement. Because I thought: how can a human being be like Jesus? However, the words she said have not left my brain and I am still talking about this even 45 years later…both the Father and my aunt have passed on but her statement still fascinates me. The aunt that made the statement was a quiet person compared to other aunts and uncles but had a lot of common sense. She was married to a university professor and raised 6 wonderful children with her husband. But to me, at that time she made the statement, it was not common sense that an individual was like Jesus. The Gospel text I read a short time ago, was still a part of Sermon on the Mount, which we started to read three weeks ago. The conclusion of the text today is: Jesus said “Be Perfect” to the crowd. For the people listening, it might have been a very difficult thing, because many were sick and many…

Tweet 2014年3月LCR日本語部カレンダー Calendar 3, 2014 今年は灰の水曜日を3月5日に迎えます。この日から40日にわたり、受難節が始まります。4月20日の復活祭まで、様々な教会行事がありますので、カレンダーをご参照ください。 2014年3月LCR日本語部聖句日課 2014年3月聖書日課     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet LCR日本語部週報通算1295号(日本語) 2014年2月23日の週報 LCR日本語部週報通算1295E号(英語) Sunday English Bulletin 1295E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

February 21st, 2014

No Comments, 週報, by admin2.

Tweet LCR日本語部週報通算1295号(日本語)2014年2月23日の週報2014年2月23日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 牧師 安達均 最近は一番長い詩編119編の一部を読んでいる。今週は、33節から40節を読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちを考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 33:主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。 34:あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。 35:あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。 36:不当な利益にではなく/あなたの定めに心を傾けるようにしてください。 37:むなしいものを見ようとすることから/わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って/命を得ることができますように。 38:あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。 39:わたしの恐れる辱めが/わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。 40:御覧ください/わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって/命を得させてください。 短い8節だけの詩編箇所の中で、気になる言葉として、「道」という言葉が4回出てきている。 聖書は、人生の歩みを旅路にたとえていることが多いため、「道」という言葉がたくさん出ている。先週読んだ詩編の119編の一番最初も、また詩編1編も、そのテーマは、「幸せとは主の道を歩むこと。」だった。 ちなみに、英語の聖書(New Revised Standard Version)で”Way”という言葉が何回使われているか調べたところ、931回使われている。 さて、今日読んでいる詩編では、詩編作者が「道」に迷っているというか、どの道を歩むべきかわからないでいる様子が伺える。 そして主にいろいろ懇願している祈りを詠っている。 懇願する言葉の最後に使われる「――ください」という言葉はなんと10回も出てきている。詩なので、「ください」という言葉が、韻を踏んでいるとも言える。そして、これほど、主に繰り返し懇願するということは、道に迷うだけではなく、誤った道を歩んでしまった詩編作者の実態が見え隠れしていると思う。36節で「不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。」とか、37節では「むなしいものを見ようとすることからわたしのまなざしを移してください。」と詠っている。詩編作者が過去に、不当な利益をむさぼろうとしていた時や、主なる神ではなく、なにかの偶像に没頭してしまったような時があったのだと思う。 そして、悔い改め、つまり新たに主なる神に向き直ろうとして、この詩編を詠っているように思える。  主なる神は、この詩編を通して、現代の私たちにどのようなことを語りかけてくださっているのだろうか? 毎週水曜日は、教区事務所の礼拝堂で、午前11時半から礼拝がある。 昨日メッセージを担当した牧師は、説教の途中で集まった者たちが互いにシェアする時間を持った。 教区事務所に勤務する一人の女性職員が、道端で段ボールの紙に「ホームレス」という文字を書いている方をよく見かけるが、”I made wrong choices.” 「私は誤った選択をしました。」と書いた段ボールの紙を持って立っていた人を見たという話をしてくれた。そして、礼拝堂の中で、私も同じように、しょっちゅう誤った選択をしている人間の一人だなという感覚を持った。 ひらがなで、「あやまる」と書くと、それは「誤る」とも「謝る」という意味にも解釈できることになるが、その立っていた方の持っていた言葉のなかには、「謝り」の気持ちもあったことだろう。それは、今日与えられている詩編に見え隠れしている部分とも共通していることのように思える。 しかし、今日の詩編で強調されていることは、主なる神に向かって「あなたに従う道」に導かれるように懇願していることなのかと思う。「誤まり」を認め「謝る」ことはそれはとても重要なことだと思うが、「悔い改め」とは、「誤ったことを謝る」だけではなく、方向転換の意味があり、「主なる神に向き直る」ことが悔い改め。  たまたま昨日開いた聖書箇所、イザヤ30章21節に以下のような言葉があり、紹介しておきたい。 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。  道を誤ったが、じゃあ、どっちに行けば良いかわからない時、背後に主がおられるかもしれない。主に向き直って、主が指示される道を知り歩むことができますように。 アーメン Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 牧師:安達均 今週も119編の一部を読む。176節もある詩編の中の一番最初の段落、1節から8節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちを考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 1:いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 2:いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 3:彼らは決して不正を行わず/主の道を歩みます。 4:あなたは仰せになりました/あなたの命令を固く守るように、と。 5:わたしの道が確かになることを願います/あなたの掟を守るために。 6:そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても/恥じ入ることがないでしょう。 7:あなたの正しい裁きを学び/まっすぐな心であなたに感謝します。 8:あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください。 気になる言葉として、長い詩編119編の最初の言葉、「いかに幸いなことでしょう」がある。 英語だと”Happy are those” (New Revised Standard Version)という言葉ではじまっている。全部の詩編は150編あるが、その一番最初の詩編1編の最初の言葉も「いかに幸いなことか」、英語だと全く同じ”Happy are those”である。そして、新約聖書の中でマタイ福音書5章から7章に著された、イエスキリストの山上の説教も、新共同訳では「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されているが、文語訳では、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。」であり、ヘブライ語や英語も、実は詩編の1編や119編の最初の言葉と同じ意味になってくる。   詩編作者が1-8節全体で述べていることを簡潔に一文で書いてしまえば、「幸いとは主の道を歩むこと。」となるのかと思う。 しかし、以下に挙げるような様々な言葉を使って、主の道を歩むことがどういうことかを表現している。 「まったき道を踏む」、「主の律法に歩む」、「主の定めを守る」、「心を尽くして主の定めを尋ねる」、「決して不正を行なわない」、「あなたの命令を固く守る」、「あなたの掟を守る」、「あなたの裁きを学ぶ」、「まっすぐな心であなたに感謝する」という言葉が「これでもか、これでもか」と言わんばかりに並べられている。 そして8節は、「あなたの掟を守ります」という誓いの言葉と、「どうか、お見捨てにならないでください。」という言葉で終わっている。 なぜ、詩編作者は、この誓いの言葉と、いわば赦しを請うような言葉を詠うことになったのだろうか? おそらく詩編作者に、主の道を歩みきれないような過去があったように思える。また、6節には「どの戒めに照らしても、恥じ入ることがないでしょう」と詠っているが、詩編作者が、主の道を歩みきれないがために、自分自身が恥ずかしくてしょうがないような状況、あるいは、自分を責めるような思いに苛まれている状況が見え隠れしている。  主なる神は、この詩編を通して、現代の私たちにどのようなことを語りかけてくださっているのだろうか? 詩編でも、新約・旧約聖書全体を通しても、「幸いとはなにか」ということが一つの大きなテーマなのだと思う。そして、現代を生きる私たちも「幸せって何?」という問いかけをしている。 ニューヨークヤンキーズに入団が決まった田中投手は仙台からニューヨークに引っ越すのに、チャーター便を利用したが、チャーター便を自前で調達できるほどになることが幸せなのか? あるいは、徹底的な努力をして、何かを達成することが幸せなのか? 詩編が伝えている「主の道を歩む」には、大きなヒントがある。 チャーター便に乗ることと幸せはほとんど無縁なのだと思う。田中投手だって、世のほとんどの人々が、 チャーター便に乗らなくても幸せはあるということは認めるところだろう。 また、主の道を歩むため、徹底的に神の掟を守るということは、徹底的な努力と似ていると思うが、行為が「幸せ」なのだろうか? イエスキリストが、「心の貧しい人々は幸い」と言われていたことも、よく噛み締めたい。 心の貧しき者とはだれか? 2月2日の説教で話したことの一部を、今一度、ここに記しておきたい。 日本語では、「心の貧しい人々は幸い」となっているが、ヘブル語あるいはアラム語の語順で書くが、「幸せ、貧しい人々、霊的に。なぜなら、彼等のものだから、神の国は。」となる。 最初の言葉は、「幸せ」という言葉で、ぐっと聴いている人々の注目を集める。 さらに続く言葉は、「貧しい」という言葉。 なんで?と聴衆の注目を益々集める。皮肉を言っているわけではない。その次の言葉は、「霊的に」という言葉。霊的に貧しい、よく考えると、イエスさまがおっしゃりたいことは、「霊的にとても弱く、助けを必用としている人々」となってくると感じる。 それはすなわち、群集の多くは、病になっていて、医療ではとても直せず、霊的に満たされることがなにより大切だった。だから、幸せなのは、霊的な助けをいただける、私に従ってきているあなた方だ。そして、神の国を引き継ぐことになるからと話されているように聞こえる。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイ 5: 13-20 牧師 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が集まった兄弟姉妹の上に豊かに注がれますように! アーメン どこの教会に行っても、熱心に教会に来られている年配者がおられる。私は、日本のロシア正教会では祖母とその友人たちに、野方町教会、ルーテル日吉教会、またミネソタ神学校近くのピースルーテル教会でも、それぞれの教会で、年配者からどれだけ恵みをうけたか、学んだか計り知れない。 カリフォルニアに来る前、日本の野方町教会に通っていた80代の紳士がおられ、なんとかバスに乗ってやっと来るという健康状態だったが、必ず日曜には休まず来られていた。 そして、時々私は、帰りは家まで送って行った。何を話すというわけではなかったが、いっしょに居ることだけで、聖霊によって私には学ぶものがあったように思う。 ある年のイースター、キリスト教徒となっていた娘さんたちとイスラエル旅行に行くことを決断され、決行された。元気に帰国されたが、翌日、長女の家で、長女が仕事から戻ると、居間にあった専用のいすに腰掛け、聖書を開いた姿勢で亡くなっていた。 天国へのすばらしい凱旋だったと思う。数日後には彼の一生を祝う葬儀が営まれた。  今日の聖書箇所、イエスは集まっている人々に、「あなた方は地の塩である。」と言われる。塩は人間の食べ物の味付けに欠かせないもの。また私はよく数日にわたって食べるりんごとかキャベツを切ったりしたあと、5分10分塩水につけてから、保存する。つまり塩は腐りにくくする効果がある。また私はよく塩水でうがいをする。清める効果があるから。 イエスは、さらに、「あなた方は世の光である」とも言われる。 光は周囲を明るくする。真っ暗では、お祈りや瞑想以外、何もできないが、明るくなることで、いろいろなことができる。光は明るくするだけではない。私の家では、よくまな板を外に出して干しておくが、日光の消毒、殺菌効果があるから。光もやはりかけがえのないもの。  イエスの元に集まっていたのは、病気になってしまい社会のお荷物と感じていた人々、あるいは老いの苦しみ悩み、また介護の悩みの中にある人々、なにもやる気がでなくなったような人々もいたことだろう。そのような人々に、あなたはかけがえのない存在の地の塩であり、世の光であると言われる。 この言葉は、あなた方は、「塩になりなさい。」とか「光になりなさい。」という命令形で語られていない。あなた方は、イエスキリストに従う群衆の一人一人であり、神の霊と恵みにより、かけがえのない存在である、「地の塩である。世の光である。」というイエスの宣言だ。  イエスは「塩が塩でなくなってしまったら、捨てられてしまう。」とも言われるが、私に従い、塩とされたあなたは、もう塩ではなくなってしまうことは無いというイエスの断言にも聞こえる。 「灯火を升の下に置くものはいない」と言われるが、升とは木でできた、穀物などの量を測るもの。 使わないときは、さかさにして置いていたのではないかと思う。 つまり、灯火に升をかぶせて光を遮断してしまうようなことをする者はいない。 だから世の光であるあなた方も、隠れたりしないで、堂々と人前に出なさいと言われる。 「あなた方の立派な行い」という言葉があるが、「立派な」と訳された言葉は、ギリシャ語では「Kalos」という言葉で、ギリシャ語ではしょっちゅう使われ、「良い」という意味で、つまり「良い行い。」とも訳せる。  神の霊、恵みによってあなた方は「良い行い」をする者とされている。だから、それを見た人々も、あなたの行いをみてあなたを偉いというのではなく、その源である父なる神を讃え、あがめるようになるとイエスは言われる。 イエスキリストに招かれ、復活ルーテル教会の礼拝堂に集まっている兄弟姉妹のみなさん! 2000年前に群集に語られたイエスの言葉と同じ言葉を、今日、ここで私たちは聴いている。 実はよく考えると、ここに集まっている私たちも、「自分は世の中の役に立っていない。」とか悩む存在である。 しかし、イエスはここに集まった一人一人が神の目から「あなたはかけがえのない存在、地の塩であり世の光だ。」と宣言してくださっている。 そして、神の霊に満たされた一人一人に、恥ずかしがったり、また、隠れたりすることなく、聖なる霊に助けられ、キリストの導かれるまま、堂々と世に出て行って輝きなさいと言われている。  そして、私たち兄弟姉妹の中に神の働きを見る人々が、導かれて、神の御名をあがめる、すなわちキリストに従う者となっていくということが起こるという話を聞いている。 冒頭に話した教会はみな、毎週日曜の礼拝は、礼拝堂がいまも満杯になる教会。野方町教会におられた80歳代の兄弟の存在が、私の信仰生活を強めた話をしたが、娘さんたち、お孫さんたちもほとんどキリスト教徒となられた家系だが、さらに彼等が回りの人々に影響を与えている。お孫さんの一人は数年前に牧師になられた。 この復活ルーテル教会に集まっている兄弟姉妹の子供たち孫たち、そして友人たちも、みなさんの神の霊に満たされた信仰生活を見て、主イエスキリストなる神を讃える存在となりますように。アーメン。  Matthew 5: 13-20 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of brothers and sisters in this sanctuary! Wherever we go to church, we see elderly people. It is immeasurable how much I’ve learned from them. I learned much from my grandmother while attending a Russian Orthodox Church during childhood. I’ve also learned from elderly people at Nogatamachi Church, Hiyoshi Lutheran Church, Resurrection Lutheran Church (of course), and Peace Lutheran Church near my seminary in Minnesota. The elderly are an invaluable source of information and advice, if we choose to listen. When I was attending Nogata-machi Church in Tokyo, between 85 through 97, there was an old gentleman, over 80 years old, who came to the worship by bus every week. He was not very healthy but he regularly attended church. I often drove him home after services. He and I did not talk much but just by being with him, I learned something…through the Holy Spirit. During the Easter season of the 1990s, he and his daughters decided to go to Israel. I was surprised that he wanted to go to Israel at his age. The family had a wonderful trip and came back to Tokyo. One day after they came back, the daughter went to her school to teach. When she returned home from work, she found that her father was sitting…

Tweet 今週は119編の一部を読む。この詩編は176節もあり、詩編の中で一番長い。また聖書全体の中でもこんなに長い176節もある章はない。詩編119編は、それぞれの段落がヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっていて、22の段落によって構成されているため、こんなに長い一編になってしまったのだろう。 今週はその詩編の14段落目、105節から112節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちになって読み考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。   詩編 119編 105: あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。 106:わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。 107: わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。 108:わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。 109:わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 110:主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。 111:あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。 112:あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。 105節の言葉は、どこかで見たことがあるという方が多いと思う。あるいは暗記しているという方もいると思う。毎月の聖書日課を準備する時に、私はこの詩編の105節を空きスペースに挿入することもある。 本日新たに、この段落全部を読み通してみると、107節の「わたしは甚だしく卑しめられています。」という言葉と110節の「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。」という言葉が気になってしょうがない。 この詩編作者の立場を思うと、107節と110節の言葉からして、とんでもない人生の深いトラブルに巻き込まれている状況が想像できる。 この段落の最初、105節は人生を旅路にたとえて、詩編作者のすばらしい感性に感動するが、この段落全体からは、詩編作者が抱える根深い問題があるため、とんでもない人生の真っ暗闇を通っている様子が伺える。 まさに「お先真っ暗」ともいうような状況に遭遇している。 そしてその暗闇にありながらも、詩編作者の心に刻まれている主なる神の、「御言葉」「律法」「命令」「定め」「掟」を携えてその真っ暗闇を歩み続ける。この詩編作者の歩む人生が、どうしようもない暗闇であるがゆえに、「御言葉」が「道の光」であり「歩みを照らす灯火」であるというすばらしい比喩も生まれてきたのかと思う。それにしても、この詩編作者は旧約聖書時代の人であり、「御言葉」としているのは、旧約聖書の最初の五つ書、「モーセ五書」に記された何百もの掟のことを指しているのかと思う。尊敬の念を抱く。 さて、自分に神が何を語りかけているかということを思うと、9日の聖日に与えられているマタイ福音書箇所(マタイ5:13-22)との関連から、この詩編に詠われている内容について思いを巡らしている。上記に詩編作者に対して「尊敬の念を抱く。」と書いたが、次のような主イエスキリストの言葉があったから。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 しかし、かといって、詩編作者が暗記していたと思われる何百もの掟を覚えることが、神の御心であると言われているようには思えない。イエスが最も大切な掟として教えてくださっていた、「主なる神を愛すること」が最も大切な掟であり、それと同じ位重要な掟が「隣人を愛すること。」そして、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。と言われていたことを思い出す。西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を書き残しているが、私たちの人生でどんな暗闇の道を歩むことになろうが、日本語ではこのような文字に表された言葉が、その暗闇の中で光となって、人生の歩みを継続できる。  最後に一言。西郷隆盛は一度は自殺未遂をした人である。しかし、助かり、天がどれだけ自分のことも愛してくださったかに気付いたようだ。 私たち人間は、「敬天、つまり創造主なる神を敬う」だけでなく、ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」にあるように、主なる神が、とてつもなく、この世の人々を愛してくださっていることも、覚えよう。アーメン。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]