Tweet ルカ 21:25-36 主の慈しみと平安が会衆の心に与えられますように! 1991年の10月に次男が生まれ、Kanという名前をつけた。 偶然だったが、その年の終わり、レコード大賞は、Kanという名前の歌手がとった。 何という曲だったか覚えているだろうか? そう、今日の説教タイトル「愛は勝つ」。91年の大晦日に、レコード大賞のテレビ放送を見ていて、「信じることさ、必ず最後に愛は勝つ」とくりかえされるこの曲が歌っていることが、聖書のイエスのメッセージと同じだなと思った。 そして、レコード大賞をとってから25年たっているが、この曲はくりかえしくりかえし、日本では流れているようだ。 2011年にYoutubeにアップされたものは180万回もアクセスされている。 教会暦では新しい年で、福音書としてはルカ福音書が中心でたまに、ヨハネ福音書が読まれる年となった。 そしてその第一日目の聖日は、ルカ21章は、先々週とりあげられたマルコ13章とくりかえしのような部分。信仰者として生きる間に、良い箇所、重要な箇所は、箇所は、くりかえされるのだと思う。 さきほど読んだ聖書の箇所には、「地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」 というなんとも不気味な言葉がある。 しかし、イエスの言葉は、決して人々を怖がらせることが目的ではない。 今日の箇所は、人々が不安に陥って、あるいは何もできなくなってしまうようなことがあっても、そのような束縛から解放されるという、希望と愛に満ちているメッセージがあるのだと思う。 それは、イエスが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われていることに、世の人々に希望を与えるメッセージがある。 わたしの言葉とは、イエス自身のことであり、またイエスご自身が神の子であり、神は愛に満ちた方。 ヨハネの手紙では、「神は愛である」と書いている。 「決して滅びない」とは、決して負けないということ。 必ず勝つという言い方もできる。 ヨハネ14章から16章には、イエスが十字架にかかる前の晩に話された、長い講和が載っているが、その最後の言葉で、イエスが「私はすでに世に勝っている。」と話されている。 冒頭に話した、「愛は勝つ」を歌っていたKanさんは、小さいころ教会に通っていて、讃美歌をよくうたっていたそうだ。 私が、この曲が、聖書のイエスのメッセージと同じであるということ、わかっていただけるだろうか。 しかし、今日のメッセージは、一歌謡曲が、聖書のメッセージと同じだということだけを伝えたいのではない。第一アドベントに与えられた「愛は勝つ」というこの言葉が、みなさんにどう影響するかということを申し上げたい。 実は、この世の中、また世に生きる一人、一人が、イエスのいわれる通り、現代においても、さまざまな不安に陥って、束縛されてしまう現実がある。 どういうことに束縛されているだろうか? ご承知のとおり、世界中のどこでテロが起こってもおかしくない時代、そして、各国が持つ核軍事力により、いつかは、この世が滅びるのではないかという不安に縛られている方もいる。 あるいは、個人的には、いつか訪れる、自分の死に恐れている方もいる。 あるいは、「学校に行くのが怖くてしょうがない、不登校になってしまった。」 そういう本人、また、そのようなお子さんを抱える、おや、あるいはおじいちゃんおばあちゃんもいると思う。 それゆえに、家庭が束縛されてしまっている家族もいることだろう。 しかし、神の愛は、そのような中に、いっしょになって、入ってきてくださっている。 自分はその愛を受け取るだけでいい。 それさえあれば、神が私たちの束縛から解放してくださる。 「愛は勝つ」のYoutubeの書き込みに、以下のような事を書いていた”Harukana”というニックネームの方がいて、紹介したい。 「小学生の時、不登校児だった私。先生が迎えに来てくれた車の中で先生はずっとこれを流していた。 一年生だったから全然意味わからなかったけど、あれから数十年、、、その時の先生と同じ年になりました。なぜか先生といわれる仕事につきました。子どもも生まれて小学生だけどなんと私と同じ道をたどっています。 今なら先生の気持ちが痛いほどわかります。 先生あの時はごめんなさい。そしてありがとうございました。今度は私が子どもに伝えていきます。」 どのような時代が来ようが、そのような家庭生活となろうが、どのような人生であろうが、どのような困難を受けているかもしれない。 しかし、今日あるいは、少なくともこの待降節の間に、それらから逃れて、すべてに勝つことができる神の愛に向き合う道を永遠に歩めますように。 アーメン 安達均 “Love Wins” Luke 21:25-36 May the Grace and Peace of the Lord be poured into the people’s hearts in this sanctuary! In October 1991, our second son, Kan was born. Coincidently, in 1991, a singer-songwriter with the same first name Kan received the Japan Record Award called “Record Taisho”. Does anyone remember the name of the song? Yes, the tile of the song is the same as today’s sermon title, “Ai wa Katsu” which means “Love Wins.” When I was listening to the song in the New Year’s Eve of 1991, I thought that the meaning of the song is really the same as what Jesus said as written in the Bible. Even 25 years after the song was awarded “Record Taisho”, this song is often heard in public. I checked YouTube and found that a video of the song, posted 2011, was accessed 1.8 million times. Well, let’s talk about the Gospel text today. Today is the first Advent Sunday. The new year just started in our Church Calendar. This year, on Sundays, Luke (or John several times) will be read as Gospel. However the content will often be the same text as Mark or Matthew. Actually, the text today is again very similar to what we read two weeks ago in Mark 13. The good and important message is read again and again during our Christian lives. In the…
Tweet 2015年11月22日LCR日本語部週報通算第1378号 2015年11月29日主日の週報 November 29, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1378E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 11月26日、木曜は、11月の第四木曜日で感謝祭。 そして、教会の暦では、新しい年を迎えた。今週木曜日から、新しい年の最初の聖日(降誕節第一主日)まで与えられている詩編は25編の1-10節。 気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編25編を通して今日私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編25編 1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み 2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。 3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。 6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。 7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。 8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。 9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。 10:その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。 気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 4節にある「あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。」 詩編作者の気持ちを覚えつつ1節づつ読んでいきたい。1節に【ダビデの詩。】となっており、詩編作者は、特に2節後半の言葉から、ダビデが敵に囲まれ危機的状況にあった時のことを想像しながら、この詩を詠ったのかと思う。この詩編の言葉は、1)神との信頼を宣言する箇所、2)神への要望を述べる箇所、3)詩編作者が教訓を述べる箇所のどれかに属する言葉が並べられて構成されているようだ。そこで、そのどれに属するかを考えつつ、一節づつ振り返りたい。 私の魂はあなたに望みを置いています、神よ、あなたを信頼してお願いします(1節と2節前半:信頼)。私が恥を受けることがないように、また敵が誇ることのないようにしてください(2節:要望)。あなたに望みを置くものは恥を受けることがなく、人を欺く者が恥を受ける(3節:教訓)。主よあなたの道を示して、あなたに従う道を教えてください、あなたの真理に私を導いてください(4節、5節前半:要望)。あなたは私の救いの神で、あなたに永遠の望みをおいています(5節後半:信頼)。主よ、あなたの永遠なる憐れみと慈しみを思いだしてください、わたしの若き日の罪や背きを思い出すことなく、主の慈しみと恵みの中に私を留めてください(6-7節:要望)。主は恵み深くて正しく、罪人にも道を示してくださる、主は謙(へりくだ)る者を認め、主の道を教えてくださる、約束を守る者にとって、主の道は慈しみと真理である(8-10節:教訓)。 教会暦で新年度に入る中、また感謝祭の時に、この詩編を通して、神は私たちに、次の三点を授けているように思う。1)しっかり神との信頼の中で、新しい年も神の招きに応じて礼拝に仕える。2)過去の起こった様々なことから教訓を思い出し、神の恵みを数える。3)新しい年を迎えるにあたって、私たちの歩む道が、主の御心にかなった進路になるように祈る。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ18章 33-37節 主イエスの恵み、憐れみ、そして平安が集まった会衆の心に豊かに染み渡りますように! 北の国からという北海道の富良野を舞台にして、視聴率抜群だったテレビドラマがある。 その主題歌を作詩作曲したのは、シンガーソングライターのさだまさしさん。 「北の国から」が大人気だったため、この曲も本当に有名になった。作詞作曲は、さだまさしと申し上げたが、どんな歌詞だったか覚えている方はいるだろうか? 「あーあー」「んーんー」「らーらー」「むーむー」という言葉だけが出てくる。 そもそも、さだまさしさんは、北海道が出身ではなく、長崎の出身だ。だから、北海道の様子は作詞できずに、ただ、「あーあー」とか「んーんー」とか言って歌ったのかもしれない。 ちょっと、歌ってもよいが、おそらく、一昨日で三ヶ月になったOOOくんも歌ってくれるのではないだろうか? 北の国からのドラマの中では、東京に住んでいた黒板五郎・玲子夫婦、長男・純、長女・蛍の4人家族がいた。しかし、玲子の不倫をきっかけに、東京を離れ、五郎、純、蛍は五郎の郷里の北海道、富良野の大地、すばらしい大自然の中で生活をはじまる。ふるさとのすばらしさを訴えるこのドラマは、富良野を有名にした。東京に住む多くの人々に、自分も故郷で、生活しようという思いにもしたのではないかと思う。 さて、今日の福音書の話に入りたい。 ひとことでいってしまえば、今日の話は、イエスのふるさとの話ともいえるかもしれない。ということは、ナザレの話か、それともクリスマスも近づいてきたから、ベツレヘムの話なのかと思う方もいるかもしれないが、私はナザレもベツレヘムも話をするわけではない。どういうことが書いてあったか、その一部を振り返ってみたい。 今日の場面は、イエスが十字架にかけられることが決定する寸前の、ローマ側の総督ピラトと、ユダヤ社会から罪人とされたイエスのやりとりだ。当時のユダヤは独立国ではなく、ローマ帝国の管理下にあった。ピラトはローマに任命されたユダヤ管理の責任者だった。 ユダヤがローマの直轄下にあっては、決してユダヤに王などいてはならなかった。そこで、総督ピラトは、「お前はユダヤの王なのか」と質問する。それはとても大切な質問だった。 ユダヤの教理上は、死刑などにはできないユダヤ教の指導者たちは、イエスを死刑においこみたかった。そこで、イエスが「ユダヤの王だ」という罪状をつけて、総督ピラトの手に渡せば、ローマ帝国派遣の責任者として、イエスを死罪と決めるであろうというもくろみがあった。 総督ピラトのイエスへの質問、「お前はユダヤの王なのか」という質問に対して、イエスは、「私の国はこの世に属していない。」と言われた。原語であるギリシャ語からその意味をつきつめると、「私はこの世から来たのではなく、父なる神の国から来た。」という意味にとることができる。 「神の国から」それは、イエスのふるさとは、父なる神の国であって、決して、この世がふるさとではない。そこには、神の国が本当にすばらしいところであって、神の子としてこの世に一時的にきている状況なのだ、と話しているともとれる。 そして、イエスがこの世においては、たとえどんな苦しいことが起ころうが、十字架に架けられ死刑になろうが、神の国から来たイエスは復活した。神の国にその根本があるイエスは、揺らぐことがなく、人類への赦し、憐れみ、愛を示し、イエスは永遠に生きる存在であることを示された。 冒頭で、「北の国から」のドラマの話をしたが、わたしは、自分のふるさとはどこなのか、ということを考えさせられる。私は、横浜生まれ横浜育ちで、富良野にみられるような大自然のふるさとがあるという感覚はない。自然の中に自分を置くことは大好きだが、北の国からに表現されたような、大規模な大自然のあるふるさとを持たない自分は、さだまさしではないが、北海道をふるさとだと想像しても、「あー、うー」と言う言葉が出てくるだけかもしれない。 しかし、小さいころにキリスト教に導かれ、キリストの名によって洗礼を受けた私にとっては、ふるさとは、私も神の国がふるさとで、私の根は神の国にはっているのだと思う。それゆえ、この世の生活にいつか終わりが来ても、世の命は一時的であって、神の国へ凱旋し、永遠に生きる存在であると信じている。洗礼を受けた時点で、私たちの永遠の命ははじまっている。 キリスト者として生きるとは、神の国からきたイエスと同じところを、心のふるさととして生きることだといえる。それゆえ、この世の生活のなかで、1週間の間に、なにかつらいことでも、うれしいことでも、なにがおころうが、日曜には、神の憐れみを仰ぎ、赦されて、御言葉を聞き、恵みをいただく。 毎週里帰りをしているようなものだと思う。それは、物理的なふるさとに里帰りをすることとは異なって、不思議な力、希望と喜びをいただける。キリスト信仰者は、十字架の死と復活を通して示された、キリストの愛の中に生きており、すでに神の国における永遠の命に生きている。アーメン 安達均 From the Kingdom of God John 18:33-37 May the Grace, Mercy, and Peace of the Lord, our Jesus Christ be poured into the hearts of the people! There was a very famous TV drama called “Kita no Kuni Kara”, featured people living their lives in Hokkaido. The literal translation of the title is “From the Kingdom of the North.” The theme song of “From the Kingdom of the North” became very popular also. It was composed by famous singer, songwriter Masashi Sada. Although I said, songwriter, is there anyone who remembers the lyrics of the theme song? The lyrics only consisted of these sounds “Ah, Ah, Nh, Nh, Lah, Lah, Muh, Muh.” Some of you might know that Mr. Masashi Sada was not born on Hokkaido, the north island of Japan, but was born on Kyushu, the south island of Japan. Therefore, he might not know Hokkaido well and his song is only “Ah Ah” “Nh Nh”… anyway why don’t we all sing it together, including Hayato-kun, who turned three-months old just this past Friday. In the drama, a family of 4 was living in Tokyo: Goro, the father, Reiko, the mother, Jun, the son, and Hotaru, the daughter. Goro and Reiko eventually divorced, then Goro, Jun, and Hotaru returned to Goro’s hometown, a place called “Furano” in Hokkaido. They began a sometimes difficult but wonderful life in the beautiful town of Furano. The drama showcased the…
Tweet 2015年11月22日LCR日本語部週報通算第1377号 2015年11月22日主日の週報 November 22, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1377E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年11月19日:揺らがない (詩編93編) 聖書日課で今週木曜19日から22日の聖日まで与えられている93編を読もう。22日の聖日は、Christ the King 日本語では、「王なるキリスト」と呼ばれる主日となる。福音書は、ヨハネ18章33-37節で、イエスが十字架に架けられる前の、総督ピラトとイエスの対話の箇所が読まれる。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編93 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編93編 1:主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 2:御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。 3:主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。 4:大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。 5:主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。 インパクトのある言葉として、「主こそ王」 できるだけ詩編作者の気持ちを思い浮かべながら、詩編93編がどういうことを詠っているか考えたい。詩編93編は、全部で150編ある詩編の中で、7編存在する(47 編、93編、95編から99編) 「即位の詩編」と呼ばれる。 即位の詩編とは、詩編が作られた時代のユダヤ教国家は君主制。代々君主が即位し、宗教的にも政治的にも国家を統治しようとした。 しかし、実際問題は、さまざまな問題に遭遇する。 そのような、荒波の中でも、新たに王が即位し、その戴冠式のような事が行なわれる時に、即位の詩編が詠われる必要があったのかと想像する。戴冠式に合わせて詩編作者も93編を作詞したのかと思う。 93編に詠われている内容は、国王の座に着くものが、主なる神を顕す存在。1節では、人間的な要素ではなく、絶対的な主なる神の力、威厳を持つ者と詠う。また統治される世界も固く据えられ、揺らがない。2節には、主なる神が時を越えて昔から存在していたのだと。3節―4節では様々な荒波も起こるが、それらの荒波よりさらに強く、また高い主の存在。5節では主なる神が定め、即位する王が、確かな存在であり、日の続く限り(王が生きている限りという意味かと思う)この神殿にふさわしく即位が続く。 神が、詩編93編を通して、また「王なるキリスト」という教会暦では年間最終主日に読まれるヨハネ福音書も通して、現代の私たちに、何を語ろうとしているか思いをめぐらせたい。。。。 先週の詩編を読もうを書いた翌日に、パリでは多発テロが起こり、テロリストたちが潜伏していると思われる地域での銃撃戦が起こっている。次はどこでテロが起きるのではないか、世界の多くの都市では緊迫した状況が続いている。 詩編93編1節後半に書かれたような、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。」という状況とは、ほど遠いような、現代世界を感じる。。。。。 しかし、私たち一人一人、キリスト者として、堅固な世界など存在せず、本当に心が動揺してしまっているだろうか? この質問は、総督ピラトがイエスに向かって、「お前がユダヤ人の王なのか」と質問したが、つきつめていくと、私たちが「主イエスを、世界の王と信じているか?」という質問を、わたしたちは、問われているように思う。 何を言いたいかというと、3-4節にあるような、大海は大揺れに揺れて、破壊されるような状況も起こるが、その真っ只中で、主イエスが、災難、困難をともに体験しながらも、まったく動じない確固たる主イエスという方がおられることを覚える。たとえテロリストが、どんな破壊活動をしようが、主イエスの憐れみ、主イエスの愛、信仰が礎となり、キリスト者が動じずに、存在することができるように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコによる福音書 13章:1-8節 聖霊が豊かに会衆の心に注がれ、主イエスとともに生きる永遠の命を確信し、希望と喜びに満たされますように! 先週、どんな気持ちで過ごされていただろうか? 教会の暦では、年末に入ってきた。 一年を振り替えさせる事件がおきたように思う。 週末には悲惨なテロのニュースでメディアは明け暮れた。その少し前、中東では、ロシアがシリアで爆撃をくりかえし、アメリカはアメリカで、的をしぼった、無人機からの爆撃をしていた。 後藤氏と湯川氏や他の人々を人質とし、日本政府や他の国々の政府にも対応をせまっていたビデオに登場していた男性を覚えているだろうか? その男、Jihadi Johnを殺害したと、11月12日に、アメリカ国防総省は、発表していた。 今年の終盤にはいってきて、今年はじめにおこっていた日本人殺害のニュースを思い出していた。 そして、昨今の状況を見るにつけ、イエスが言われた通り、民は民に、国は国に敵対するということが、世の定めということなのだろうか。 与えられた福音書、今年はとくにマルコ福音書が中心に読まれてきた。来週は、聖霊降臨後最終主日あるいは王なるキリストの主日と言って、教会の暦では、最後の主日となる。 その日に与えられる福音書はヨハネが読まれるため、聖日にマルコを読むのは、今年最後。 はっきりいって、マルコ8章から後の、福音書は、つらい箇所が多かったように思う。 そして、今年最後に与えられているマルコは13章が与えられている。難しい箇所ではあるが、じっくりよーく読むと、希望にあふれ喜びを体験できる聖書箇所だと思う。 さきほど、その1節から8節を拝読したが、ユダヤ教の総本山ともいうべき、エルサレムに、イエスと弟子たちがやってきた様子からはじまっている。 その様相は、神殿の豪華さ、立派さに、一目ぼれしている弟子がいる。 しかし、それに対するイエスの反応は、弟子といっしょになって、石の上に石が積み上げられたおおきな神殿の豪華さに見とれているのではなく、どんな石も崩されずに他の石に載ったままでいることはないと言われる。 イエスはいったい何をおっしゃりたかったのだろうか? 歴史的な事実として、たしかに神殿は紀元後70年には崩壊する。 そのことをただ、神殿の崩壊として予告したということなのだろか? 私には、現代を生きる私たち、というかいつの時代を生きる人類に対しても、もっと普遍的な教えを述べられていると感じる。 それは、どんな石もほかの石の上に載っていることはなくなるというのは、土台と思っていたものが土台ではなくなってしまう。 マルコ13章後半であきらかになるが、イエスは「天地は滅びる。」とまで言われる。 「しかし私の言葉は決して滅びない。」と言われる。 イエスがおっしゃりたいことは、目に見えるものはすべて滅びる、私たちの目に見える身近なものばかりではなく、天地さえ滅びる しかし、イエスの御言葉は決して滅びないということを、普遍の教えとして伝授したかったのではないだろうか? 私たちは、目に見えるものや、与えられた地球環境に、振り回されるように生活している。 車に乗っていれば、道路をしっかりみて、周りの車をしっかり見て、また暗くなればライトをつけるし、雨が降ってくれば、より慎重に運転する(カリフォルニアに住む多くの州民を除いてと言いたくなることもあるが:) )、そのような生活をしている。 イエスさまは、そういう生活をするのはやめなさいということではないと思う。 しかし、目に見えるものも、天候だとかも、いずれはすべて滅びてしまうときが来る。 だから、根本のところでは、目に見えるものを土台にする人生ではだめですよ。 という警告をされるとともに、もっとしっかりした土台がありますよ、とおっしゃってくださっている。 それは、イエス様の御言葉。その御言葉は、決して滅びない。 イエスさまご自身、イエスの愛と慈しみは、世の中で、民が民に敵対し、国が国と戦争をし、さらに、天変地異がおころうが、天地が滅びようが決して、イエスの愛は、終わらない、永遠である、そのことを生きる土台として生きてまいりたい。その土台に希望・喜びがある。 2015年の教会暦は、終盤にきた。 Thanksgivingは新しい年の聖書日課となり、Thanksgivingの週末の日曜からはアドベントとなる。 この教会暦の年の変わり目に、家族と会ったり、自然探索などをして、見えるものをしっかり見て、目の保養をすることは巣晴らしと思う。 しかし、同時に、自分の土台はなんなのか、考えてはいかがだろうか。ヨハネ福音書は「はじめに言葉があった」とはじまっている。マルコ福音書では「わたしの言葉はけっして滅びない」とイエスの十字架に架かる前の遺言のような言葉を述べた。その御言葉、主の憐れみ・愛を土台にして生きる生活を、年の変わり目を迎えていく時期に新たにしよう。アーメン 安達均 Foundation of Our Lives Mark 13:1-8 May the Holy Spirit come to the hearts of the people in this sanctuary and make us certain about our eternal lives walking with Jesus Christ! How did you feel last week? It is actually getting close to the end of the Church Calendar year. I think there is an incident that made us reflect upon the beginning of the year. In the Middle East, Russian is bombing locations in Syria. The US is raiding certain areas using unmanned aircraft. Early this year we saw news video of Mr. Kenji Goto and Mr. Haruna Yukawa as hostages; they were later killed. In that video there was a man called Jihadi John who was demanding the Japanese Government pay a substantial ransom…last week, the US Department of Defense announced that Jihadi John was killed during one of the raids. While getting close to the end of this year, the news made me reflect upon the beginning of the year. It is sad but I am acknowledging the reality that nation rise against nation, and kingdom against kingdom, as Jesus said. This year we have been reading the Gospel of Mark. To be honest, especially after Chapter 8, there were difficult verses. Next week, it will be the last Sunday after Pentecost, and we will read the Gospel of John. Therefore, the reading of Mark is the last…
Tweet 2015年11月8日LCR日本語部週報通算第1376号 2015年11月15日主日の週報 November 15, 2015 Japanese Ministry English Bulletin English Bulletin 1376E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 聖書日課で今週木曜12日から15日の聖日まで与えられている16編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編16 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編16編 1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。 2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。 4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」 5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。 7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、5節にある「主はわたしに与えられた分」という箇所。これはいったいどういう意味だろう? 詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したい。最初に【ミクタム。ダビデの詩。】となっているが、このミクタムという言葉の意味はよくわかっていないので、ヘブライ語で使われる発音にもっとも近いカタカナで表現されている。ミクタムという言葉は、詩編16編のほかに、詩編56編から60編で使われいる。私は、これらの詩編が格言的なことを詠っているので、ミクタムには格言という意味があるのではないかと思っている。さて詩編の内容に入るが、全体としては、ユダヤの礼拝で詠われた讃美歌であり、1節から4節は神への祈願で、5節から11節は、ダビデの体験でありまた後の信仰者たちの体験、証を詠っているように思える。 神よ、あなたを砦とする私を守ってください(1節)。あなた以外には私の幸いはありません(2節)。 この地の聖なる人々、愛する人々に、「あなた以外の神を求めると悲しみが増してしまうので、彼らの祭りは行なわず、彼らの神の名は唱えなません」と言うようにします。(3-4節)。 主は私の一部分になってくださっていて、喜びの杯をくださり、私のすべての礎になってくださっている方(5節)。麗しい境界が示され、私にすばらしい土地を与えてくださった(6節)。 私を励まし、夜には私を諭してくださる主を賛美します(7節)。常に主がともにいてくださるので、私は動揺しません(8節)。だから喜びがあり、魂は踊り、望みをいだきつつ体は憩うことができる(9節)。聖なる主は決して、私の魂を死者の世界に送ってしまうことはなく、墓穴を見させず(10節)、命の道を示してくださる。あなたの存在により喜び満ち、あなたの右の手から永遠の喜びをいただきます(11節)。 さて詩編16編は、今日、私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三点ほど、気付かされたことを書いておきたい。 一点目は、上記に5節の「主はわたしに与えられた分」とは、どういう意味か?と書いたが、つきつめていくと、「主が私の一部になってくださっている。」ということを、気付かされた。二点目は、私の友人で、特にキリスト教信者だとは本人は宣言していないが、キリスト教の大学を出て聖書の話しなども聞いていたのだと思う。その方は、起業して活躍しているが、自分が歩む道、仕事がうまく行くときも、困難なときも、自分の横に、もう一人の自分がいる。そのもう一人の自分がいるおかげで、自分は前に進んでいくことができる、と言われる。私には、「もう一人の自分」とは、自分の一部になってくださっている、主なるお方で、詩編16編の後半の証と同じことを語っているように思える。三点目は、そのお方、いつの時代になっても、私たち人間一人一人に、付き添ってくださっている方に感謝し、主を称賛し、いっしょに歩む人生を生きる中で、喜劇的なこと、悲劇的なこと、世の不条理をも味わうことがあろうが、喜びの人生の道を歩むことができる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年11月8日LCR日本語部週報通算第1375号 2015年11月8日主日の週報 November 8, 2015 Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1375E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace