Archive for July, 2013

Tweet 聖霊はもっと良いもの  ルカ 11:1-13 安達 均 主イエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように!アーメン 皆さんお祈りしてるだろうか。私が日本語部の牧師となったのが2月。最初の5回の説教では、1)神のラブレター・聖書を読もう、2)神とお話するつまりお祈りしよう、3)神の礼拝を休んでしまうのはもったいないので休まないようにしよう、4)神がすべての人を誘っているのだから友人を教会に誘おう、そして、5)神からいただいている恵みへの応答として喜んで奉仕し献金しよう、と話した。  あれから6ヶ月、また、今日は祈ることに関してお話ししたい。いろいろな願い事をされているのではないかと思う。 もちろん、週報に載っている方々のことを覚え祈っておれられることはすばらしいこと。  兄弟姉妹だけではなく、個人的にもいろいろ神様にお願いしていることはあって当然。 そのようなことを、本当に祈っておられることが大切だと思う。 でも、お祈りしろって言われたって、また教会に長年来ていても、どうもお祈りは苦手という方もいると思う。 しかし、口に出して祈らないまでも、頭のなかで、「神様、何々云々こういうふうにしてください。」と真剣に祈られたことがあると思う。 しかし、結果がその通りにはならなかった。 そういう経験はおありだろうか? そのようなことに対して、私たちクリスチャンは、どのように考えたらいいのだろうか?  聖書には祈りに触れている箇所がたくさんあり、イエスもたくさん祈っているが、イエスが祈りを具体的に教えた主の祈りは、今日の聖書箇所ルカ11章と、もうひとつはマタイ6章だけに記載されている。  どちらの箇所においても、最初の2-3項目の祈りは、個人的な祈願ではなく、神が求めておられること。主の祈りで教えられている最初の祈りは、「み名があがめられますように、み国がきますように、み心が天になるように、地でも実現しますように。」と祈る。 イエス・キリストは、わたしたちの希望とか意志について祈るより、神の意思が実現するように教えておられる。しかし、もちろん、自分の希望や意志が実現するように祈ってはいけないということでもない。 主の祈りの後半は、「今日の糧を与えてください、罪を赦してください、試練にあわないで、悪から救い出してください。」と祈るように勧めてくださっている。   今日の聖書箇所では、主の祈りだけで終っておらず、「求めれば与えられ、捜せば見つかり、ドアをノックすれば開かれる。」ということまで書いてある。 こられの言葉は、私たち人間がこうなって欲しいと思うことを神に祈って願いごとをする際、元気付けられる箇所だ。 しかし、私たち人間は、この聖書から、私たちが、サンタクロースに願いごとのリストを渡して、サンタクロースがそのリストに書かれたものを全部持ってきてくださるように、神に願い事をすれば、それらがすべてかなえられるように理解されてしまうかもしれない。神は、理想的なサンタクロースなのだろか? イエスは、あなたが望むものは、すべてそのまま与えられるということを私たちに教えているのだろうか? 本日の福音書箇所の最後の二節に書かれていたことを要約して、いっしょに考えてみたい。 魚やゆで卵を欲している子供に、父親が蛇やさそりを上げたりしないように、天の父なる神は、あなたが必要としていないものを上げるようなことはしない。 しかし、父はもっと良いものをくださる。。 聖霊をくださる。言葉を変えていうなら、天の父なる神は、私たちが欲するそのままのものは下さらないかもしれないが、もっともっと良いもの、もっともっと断然良いもの、聖霊をくださる。  皆様がたの中にも、最初に述べたように、真剣に祈ったのに、その通りにならなかったという経験をお持ちの方、必ずいるはず。 今日の質問は、そのような事態に対して、私たちはどう理解したらよいか? ということだった。  自分の願いどおりには祈りが叶えられなかったという経験をお持ちの方々の中に、それでも、その経験を通して自分は良い方向に変えられたと思われている方々が必ずいる。  ある意味、自分の思い通りに事が運ばなかったから、自分はもっと神に近づくことができたと思っている方がいる。私は、そのような方が、神により聖霊が与えられていたことに気がついておられるように祈る。   本日のメッセージをしめくくるにあたり、イエスが十字架に架かる前のゲッセマネでの祈りの言葉を読みたい。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 最初に願ったことは、できることなら十字架の死を防いで欲しいという願いだったが、次にイエスは変更している。 彼の願いを祈るのではなく、神の御心が実現されるように祈っている。 イエスは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 イエスは死にて葬られたが、三日目の日曜に復活された。 そして、我々が気づいているか気づいていないかに関わらず、実は、すべての人々に聖霊の愛、神の愛が与えられている。 神のひとり子イエスの十字架の死、三日後の復活、五十日後の聖霊降臨の出来事は、ひとり子の十字架の死が事前に回避されるより、良い結果となった。  私たち、もっともっと、神の意思が実現するように祈ろう。その祈りによって、聖霊がますます我々の間に働き、もっと多くの人々の命が変えられるように。洗礼を受け、命のパンとぶどう酒をいっしょに食し、永遠の命へと導かれるように、多いに祈りたい。 そのような多くの人々の命の変化は、わたしたちの思いというより、神の思いだ。 アーメン。 The Holy Spirit, Better By Far。 Luke 11:1-13 Grace and Peace to you in the name of Jesus Christ, our Lord and Savior! Do you pray regularly? Earlier this year, I preached the first five messages according to five practices of Christian life. 1) Reading the Bible, is reading a love letter from God. 2) Pray regularly, it is the best way to communicate with God, as Jesus himself prayed regularly. 3) Come to worship every week, it is a kind of waste if you miss services. 4) Bring your friends to church and help them connect to God, it is serving. 5) Contribute your time, talent, and treasure as a response to God’s grace and gifts to you. Six months have passed; I would like to focus on prayer again. I believe each one of you pray for many different things. Of course it is good to pray for the people listed in the prayer chain in our weekly bulletin. Not only praying for others, but I also believe that each one of you has specific prayers for yourself…. I think it is natural. I understand that there are people who feel that “I am not a good prayer person.” That is OK…. Even if you feel that you are not good at praying by speaking words aloud, you probably pray in your mind, seriously asking God for such and such things to happen….

Tweet 2013年8月 Calendar       聖書日課 Calendar 8 2013 聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1267号(日本語) 2013年7月28日の週報 週報通算1267E号(英語) Sunday English Bulletin 1267E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet となりの芝生 ルカ10:38-42   イエスキリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! アーメン 私の家はRed Hill Avenueに面している。通りとの間には、歩道があり、また緑地帯もあるが、その緑地帯は芝生が植わっているだけで、うるさいと思うことがある。 その点、南隣の家は、その緑地帯には、高さ5メールくらいの木や竹が植わっている。 車の音が緩和されるだろうし、「おとなりはいいな。」とついついうらやましく思ってしまう。 「となりの芝生は青い。」という言葉がある。英語では、”The grass is always greener on the other side of the fence.” 文字通りこの言葉を解釈して、「おとなりさんは良くて、自分の家はだめだ。」ということになってしまう。しかし、それは本当のこの言葉の解釈ではない。  本日与えられた聖書箇所、マルタとマリアの話。この話を題材に、いろいろな解釈ができる。 ただ一度読んだだけだと、ついつい、マルタ型つまりよく気がついて働きまわるのはだめで、マリア型の、じっくりイエスの話に聞き入るタイプの人間の方が良いという解釈をしてしまいがちだ。  そもそも、イエスだって、マルタの作った食事を食べたことだろうし、食事をする前には、最後の晩餐のときのように、感謝して食べたことだろう。 よく働いていたマルタには、「ありがとう。」とか「おいしかった。」という言葉が、帰りがけには、あったのではないかと思う。 しかし、ルカの伝えたマルタとマリアの話は、実に5節だけの短い部分。 イエスの意図していたことは、本当に、マルタ型ではなくマリア型の人間になりなさいということなのだろうか? もし、そのように解釈してしまうと、それは、「The Grass is always greener on the other side of the fence.」を文字通り「となりの芝生は青い」と訳してしまっているのと同じで、私は神のみ心を学びとっていないように思う。聖書に書かれた状況から推察して、マルタは一度にたくさんのお客さんに対応できる、てきぱきしたすばらしい方だ。 しかし、マルタには、どうしてもがまんできないことがあった。 それは、自分とマリアを比べていて、マルタにしてみれば、自分は本当にてきぱき働いているのに、マリアがぼけっと、イエスの話を聞いているだけ。 マリアだって、自分と同じように働きながら、話が聞けるはず。 そこには、マルタの優越感があったように思う。 ところが、マリアはイエスの近くにすわり込んで、イエスと弟子たちの仲間に入り込み、しかも、イエスと弟子たちからは、女性だからちやほやされていたような面もあったのではないかと思う。 そこには、本来、マルタの方が仕事ができる人間なのに、イエスや弟子たちからはマリアの方が上に見られているようで、劣等感を感じていたのではないだろうか?そして、マルタはイエスに文句を言う。マリアにもっと働いてくれるように言ってください。イエスは、「マルタ、マルタ。」と二度も名前を呼び、それは愛情あふれる呼びかけであり、そして、「あなたは多くのことに悩み、心を乱している。」と言われる。  マルタの願っていた通りの言動を、イエスはしてくださらなかった。少々、耳が痛くなるようなものでもあった。しかし、その言葉は、マルタがマリアと比較して思い悩んでいることを、ずばり言い当てていた。  このイエスの言葉は、悩まなくよいことまで気になってしまっていたマルタに対し、必要のないことまで悩まなくていいんだよという解放のメッセージを、イエスは与えてくださったように思う。  イエスがマルタに語ってくださった「あなたは多くのことに悩み、心を乱している。」と言われた言葉は、今、私たちも聞いている。 ついつい、他者と比較してしまい、優越感あるいは劣等感で思い悩んでしまう私たちを解き放ってくださる、イエスの愛情あふれる言葉だと思う。  先日、私の南隣の家の主人と話をしたら、「お宅はいいですね。緑地帯は芝生だけで。うちの木は全部切ってもらおうと思っているんです。」と話してくれた。私は先方の家の植木をうらやましいと思っていたのに、先方は私の家の芝生がうらやましいと思っていた。 実にとなりの芝生はよく見えてしまうということなのだろう。  ついつい、だれかと比べて、うらやましくなってしまい、自分に劣等感を覚えたり、逆に優越感を覚えたり、結果、どうでもよいことにまどわされてしまう私たち。 主イエスが、そのような私たちを憐れんでくださって、私たちに語ってくださっていることを覚えたい。 イエスは、私たちの必要のない悩みから解き放ってくださる。 アーメン。  “Neighbor’s Lawn” – Worried and Distracted by Many Things – July 21, 2013 Luke 10: 38-42 Pastor Hitoshi Adachi Grace and Peace to you in the name of our Lord, Jesus Christ! My house is directly facing Red Hill Avenue. Although we are closer to the north end in Tustin and the traffic is not very busy, sometimes the traffic is noisy. There is a sidewalk between our house and the street and then there is a narrow green belt. On that belt, we only have a lawn. Our south side neighbor, also facing to Red Hill, has trees on that green belt. The trees are 10 to 15 feet high and I am sure that the trees mitigate the noise from the street to the house. Therefore, we often envy our neighbor. There is a saying “The grass is always greener on the other side of the fence.” If you literally interpret this sentence it is, “Our neighbor’s grass is better than ours.” But that is not the correct understanding of the saying. The text today may be understood many ways…if you read this text only once and literally, you might have an impression that Martha works very hard but is distracted by unnecessary details and Mary listens to Jesus and realizes what is truly important. However, Luke’s…

Tweet 7月25日 詩編を読もう:心を尽くして 感謝 (詩編138) 牧師:安達均 今週読む詩編は138編。比較的短いので、読む時間があれば3回ほど読んでみよう。あるいは、毎日一回づつ3日間で3回読むのも良いと思う。 1:【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。 2:聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。 3:呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。 4:地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。 5:主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。 6:主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。 7:わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。 8:主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。 1-3節、4-6節、そして7-8節の3箇所に分けて、それぞれポイントとなることを書いていきたい。 1-3節-心を尽くして感謝:1節にまず、「心を尽くして感謝して神の御前でほめ歌をうたいます」という詩編作者のこの詩を詠い始めるにあたっての神への意思表示が書かれている。この1節の言葉、ヘブル語では、「神々の前で」という複数形の言葉が入っていて、人々が拝んでいる他の神々もいっしょに含まれていて、さらに、詩編作者が信仰している対象である神が別格でおられるようなイメージが浮かんでくる。2節に入っても「御名に感謝」となって感謝という言葉が再び登場し、また「すべての御名にまさって」という表現もあり、そこには、1節に続いて「他の神々にまさって」というイメージが伝わってくる。 さらに3節では、感謝する理由として、神が自分の呼び求めに応じ、魂に力を与え、さらに解き放ってくださったことが書かれている。  グローバルな神: 4-6節は、その構成は1-3節を引き継いでいて、「神への感謝」の意思が4節にも書かれているが、主語は詩編作者だけが感謝するのではなく、地上の王すべてとなり、その時点では他の多くの神々に奉仕している者も含めて感謝をささげるという将来のグローバルなイメージを表現しているのではないだろうか。5節では、やや具体的にすべての地上の王がどのように感謝の歌を詠うのか、また6節ではやはり感謝を捧げる理由が書かれている。 二種類の祈願:7-8節は願い事の祈りになってくる。7節では「苦難の中にある時でも、私を救い出して命を得させてください。」とあり、自分がそうなって欲しいと思う内容の祈願。しかし8節に入って、主体が自分から主に移って、主の思いが遂行され、主の慈しみ・業が永遠に続くようにという祈りになってくる。   さて、短い138編のいくつかのポイントを書いてみたが、さまざまな思いを皆さん思い巡らしておられるのではないだろうか? 以下にさらに二点ほど私の感想を書いておきたい。 1) 日本語の聖書では表現されておらず残念だが、ヘブル語や英語では1節に出てくる「神々の前で」という複数形の言葉が興味深い。詩編作者が神々を拝んでしまう人々に対する裁きを書くのではなく、尊敬の念が現われているように思う。この旧約聖書を聖典としているイスラム教もユダヤ教もキリスト教も一神教だが、その一人の神は、人々が抱き、拝んでしまう神々の存在を、十分理解しておられるように思う。 2) 5節の「主の道」という言葉の中に、イエス・キリストが十字架に向かって歩まれる道を思いだしている。そして、7節8節の二つの祈りは、ゲッセマネでのイエスの祈り「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39より) と共通しているように思う。 28日の日曜に与えられている聖書の箇所は、ルカ11章の主の祈りの箇所。私たちは、自分にしてみればこのようになって欲しいという「何々してください。」とか「このような状態になりますように。」という具体的な内容を祈る。それはそれで良い事だと思うが、しかし、「御心が天になるごとく地にもなさせ給え。」という祈りを常に覚えていると良い。自分の思い通りにはならなくても、自分の思っていたことよりももっと良いものを、主は与えてくださる。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 週報通算#1266号 (日本語) 2013年7月21日の週報 週報通算#1266E号(英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

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Tweet 今週読む詩編は15編。5節だけの短い詩編。まずは声に出して読んでみよう。  詩編 15 編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。 4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。 5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。 どのような感想をお持ちだろうか? ご自分の生活や行動基準に何か影響を与えることが出てくるだろうか? 短いので、一節一節、解説を書いていきたいと思うが、その前に2点ほど記しておきたい。 1) 私はこの詩編を読んで、子供の時に正教会の礼拝堂に入る時のことを思い出している。子供ながら、必ず、礼拝堂に入る前には、胸の前で十字架を切って入っていた。  2) この詩編は、あくまで、当時のユダヤ教の話であり、しかも、当時の時代背景を理解する必要を感じる。 さて、この2点を書いた上で、15編にはどのようなことが書いてあったかふり返ろう。 1節に描かれていることは、この詩編がイスラエルの神殿に巡礼に来た人々の典礼歌ともいうべきもので、巡礼者の問いかけが1節に書かれている。 それは、神殿の主に、いったいどのような者がイスラエルの神殿に入ることができるのでしょうか? という入場資格を質問している。 2節以下に、その入場資格が書かれている。 5節の前半までが、入場資格だが、2節と4節にそれぞれ、包括的な倫理規定とも言える言葉が書かれていて、3節と5節前半に、具体的な行動規定とも言える言葉が書かれている。 2節には、完全な道を歩き、正しいことを行い、心には真実の言葉がある人と書いてあるが、とても抽象的な表現。ともすると完璧な人格者だけが神殿に入れるのかと思われるかもしれないが、たぶん人格者とか道徳的な面で完璧な人という意味ではないようだ。問いかけ自体が、神殿の主体たる神への問いかけであり、神との関係をしっかり保って、人生を歩み、行動し、語るような人と理解したらよいかと思う。  3節では、2節に書かれていた内容の具体例が書かれている。その内容は、神との関係をしっかり保つがゆえに、隣人との関係も大切にすることが書かれているように思う。具体的には、うっかり舌をすべらせて隣人を傷つけたりせず、親しい人なのにその人のことを軽蔑し悪い噂がたってしまうようなことを言って災いをもたらすようなことをしない人。  4節ではまた抽象的な表現になってくるが、やはり2節にあったように、神との関係に重きが置かれている。 主の目から見て正しくないとされるものをしりぞけ、主を畏れる人を尊び、そして、神との関係を無視して悪い事をしない人。  5節では、また、人間関係に戻って、より具体的な行動基準になっている。お金を貸しても利息をとらないということが書かれているが、当時のユダヤ社会では、そもそもお金を貸して利息をとることが禁じられていた背景がある。ポイントは、貧困者の困窮を利用して己の利を得るような行為はしない人。また、賄賂を受け取ることは、高い地位にあるものがそれを乱用することで社会が乱れることであり、そのような事はしない人。 そして、5節後半に書かれている結びは、このような人は動揺せず人生に破局が来ることなく、また礼拝堂に入るのにふさわしい人ということになるのだろう。  さて、どのようなことを思われるだろうか? これらのことはとても意味のあることであり、とくに3節に書かれている内容などは、私たちの生活で特に律するべきことのように思う。 しかし、かといって、この詩編15編に書かれていた内容に、完全に従っているという人は現実問題、いないのではないかとも思う。だからこそ、礼拝堂に入る前の心構えとして、心の中で十字架を切って神の赦しを乞い、礼拝堂に一歩二歩と、主を畏れつつ入って行く気持ちが大切だと思う。  最後にイエスの言葉を書いておきたい。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイ11:28より     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 気づかないうちに善いサマリア人に Luke 10: 25-37     集まった会衆の上に、主の恵みと平安が豊かに与えられますように。  本日の聖書箇所、イエスの語った良きサマリア人の話。 盗賊に半殺しにされてしまったユダヤ人に対して、そのそばを通る3人の人々の対応。 一人は祭司、よけて通り過ぎる。 次はレビ人、やはり、祭司と同じようによけて通る。 最後は、サマリア人。 このサマリア人は、半殺しにされてしまったユダヤ人にしてみれば、大嫌いな人。 また、サマリア人は、このユダヤ人から自分は嫌われていることは十分わかっていた。 しかし、このサマリア人は、このユダヤ人を憐れに思い、介抱する。 先週、聖書は鏡にたとえられ、聖書の中に描かれた状況の中に自分自身を見出すことになる話をした。 さて、今週のイエスの譬え話で、みなさん、お一人お一人、どこにおられるだろう? 祭司やレビ人のような存在だろうか? 或いは、サマリア人だろうか? 私は神学教育を受けていたとき、ある授業でこの聖書の箇所がとりあげられた。 そして、6人一組になって、この場面の劇をするという課題が与えられた。6人というのは、祭司役、レビ人役、サマリア人役、以外に、この場面では、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしている途中に半殺しにされてしまうユダヤ人役、半殺しにする強盗役、そして、宿屋の主人が必要になる。 はじめてグループで集まった時、「均、何の役をやるか?」と始まった。 私は消去法で考えて、祭司役、レビ人役はやりたくなかったし、かといって、サマリア人も不相応、強盗役や宿屋役も性にあわない。 結局、旅をしていたユダヤ人をかって出た。 劇を進めるなかで、半殺しにされる場面では悲鳴を上げ、やられっぱなしになり、倒れ込み、すべてを盗まれてしまう場面を演じた。 さらに、祭司役やレビ人が通りすぎて行く時には、譬え話には出てこないが、「彼らは忙しい人々なのだから、彼らを恨まず、赦そう。」という独り言をつぶやいた覚えがある。 その後、善きサマリア人役に助けられ、担がれ、宿屋に連れていかれる。 宿屋では、サマリア人役が宿屋に何泊もできるような金額を宿の主人に託してくれた。 そのサマリア人の恵みの大きさを実感した。 善きサマリア人の話を初めて聞いた時は、私たちは、3人の中では祭司かレビ人のように言われているのかと思う方も多いのではないだろうか。 しかし、神は、私たちを祭司やレビ人のようだといって非難していない。  実は、現実社会のなかで、強盗に半殺しにまでされないまでも、社会を生き抜いていく中で、心を傷つけあい、ぼろぼろになって、生きている私たちの姿があるのではないだろうか。自分が気にしていることに関して、ひどい事を言われて傷つけられる場合もあるし、また気がつかないうちにある方を傷つけていて、それにも拘わらず、大変な恵みをくださる。 生きるのに必要な、家、着物、食べ物という物理的なものだけではなく、もっとも大切な心の糧を与えてくださる方がいる。 このサマリア人の中に、神なるイエス・キリストの姿を見る思いがある。  譬え話の後は、イエスと律法学者の会話になるが、イエスは律法学者に向かって、このサマリア人のようになりなさいといわれる。 それは、イエスが普段からサマリア人のようなことをなさっておられたから、この律法学者にも、「そのような人であるように。」と指示できるのだと思う。  私たち、一人一人は、よく心がぼろぼろになってしまうが、イエスの恵みにより、生き返る。 そして、生き返った私たちは、今度は逆に、キリストの共同体の一部となり、全体でキリストの体を形成し、サマリア人のような働きをしている。 心を傷つけあい、半分死んでしまったような人間が、キリストの愛に生かされ、こんどは逆にキリストの体の一部となり、世に遣えていくことは実際に起こっている。 私たちの現実では、それはどういうことなのだろうか? アメリカ福音ルーテル教会全体そしては、善きサマリア人として活動をしている。 ELCAの教会の中でも、Good Samaritan Lutheran Churchという教会はいくつかある。しかし、名前の問題ではなく、ELCAは世界の飢餓と貧困のために真剣に闘ってきており、善きサマリア人となって活動している。 その活動の一環として、毎月一回だが、通常献金とは別枠で、献金をお願いしている。 そして、全米の一万の教会のなかで、トップクラスの金額をLCRから貢献している。 つまり、復活ルーテル教会の活動に参加していることで、復活ルーテル教会がELCAの一部として世界飢餓、貧困撲滅に向け働いて、善きサマリア人としての活動をしていることも覚えておこう。アーメン。 “Being a Good Samaritan without Realizing It” Luke 10: 26-37 May the Lord make the words that I speak acceptable to you and shower us with tremendous grace here in this sanctuary, we pray, in the name of our risen Lord our savior, Jesus Christ! Today’s text is the parable of the Good Samaritan. There was a Jew who was traveling from Jerusalem to Jericho, he was beaten, robbed of all his possessions and he was left half dead on a road. There were three people who encountered the Jew one by one. The first two, a Jewish priest and a Levite avoided the half dead man. The third person, a Samaritan, tended the man’s wounds, took him to an inn, looked after him, paid for the man’s continued care, and said he would return to check on the injured man. Last week, I talked about two metaphors of the Bible. One of them was a mirror, which means that you see yourself in a situation that was described in the Bible. I would like to ask each one of you to think about the following question: if you see this text as a mirror, where do you see yourself in the scene of this story? Are you one of the three, the priest, the Levite, or the Samaritan? Or are you someone else? When I was a seminary student, one of projects we did was a play…

Tweet 今年の修養会は、7月13日土曜日の午前10時より、サンタアナの教区会堂で行われた。 講師にKenneth Dale (ケネス・デール)先生をお招きし、「神とは?」というテーマが与えられた。 司会の芙美Liangから、「神とは?」という漠然としたテーマではあるが、本日の修養会を通して、私達一人一人がそれぞれの神との関係を何らかの形で心に見えて来るような学びの一時であるように、と始めの挨拶があり、プログラムが始まった。               始めに均先生が詩篇63章1ー9節を読み、開会の祈りがあった。その後、全員で讃美歌21, 351番「聖なる聖なる、聖なるかな」を歌い、均先生がデール先生の紹介をされた。紹介文は 修養会プログラムにも載っているが、その他にも、均先生が個人的にデール先生が45年間も 日本伝道に携わり、またその後、アメリカに帰国されてからも素晴らしい働きを続けられた事等、均先生が個人的に感じている事、またデール先生に牧師になる時の始めのインタビューを受けた事等を語られた。 午前の部のデール先生のお話し *キリスト教の基本的問題に取り組む − 丁度今の時期が三位一体とペンテコステの季節 であるという事で、本日の修養会では、神様について考え、話しあいたいと考えている。 神の存在を思うことは、信仰の出発点で有り、終わりでもある。私達の生活の中心である神はどこに存在しているのか、その事をいつも心に留めていたい。神を求める姿勢を持つ事が、信仰の基本である真実の神は、神秘的な存在。誰も見たことがない。しかしながら、ほとんどの文化、歴史を見ても、人間はいつも、神を探し求めて来た。しかし、面白い事に、この「神」という言葉は色々に使われている事もあるので、注意しなくてはならない。良い例が、ある本からの引用だが、戦後の日本では、「キリスト」という言葉を使ってはいけないが「神」という言葉は使っても良かったと記されている。それは、どういうことだろうか? 日本文化の中で、「神」という言葉を「八百万の神」、として理解して来ている人達が沢山いる。この「神」という言葉の使い方によって、どれ程うやむやになってしまうことか。500年前に日本に「キリスト教」が入って来たとき、「神」をラテン語の「神」、デウス(Deus) 、またカトリック教会が使う「天主」と呼んでいた事も明らかである。このように、 歴史的背景から見ても、人類は常に「神」を追い求めている事は確かである。この「全能の神」を私達キリスト者がどのように考えるか。現在言われている環境保護の観点から見ても、「創造主である神」が創造されたこの地球を守ることがキリスト者として考える姿勢なのだろうが、原理主義者(Fundamentalist)的になってしまうと、絶対的概念を人に押し付けることになってしまい、それは神様の御心ではないと思う。このような事を考えていると、私達の神様は、本当に神秘的な存在である事が再確認されるようだ。神様が解って来たと思うと、まだまだ解らない事が沢山出て来る。 本当に神様は神秘的で、もし完全に解ってしまえば、それは神様ではなくなってしまうだろう。 さて、ここで、神様の本質を理解する為にいろいろ考えてみたい。 先ず始めに他の宗教には無いのが「三位一体」である。 ** 三位一体 − この事をどう理解するか。三位は、英語では three persons である。という事は、3つの異なるものから1つとなっている。1つは「父なる神」、2つは「神様の子として人間の姿で表われたイエス」、3つは「霊なる神−聖霊」である。説明すると、1つは「創造主」、2つは 「救い主」、3つは「いつも私達と共にいる存在」である。これが三位一体の神と呼ばれる。 ** 神の概念を明確にするために大切な4つの言葉 1.Hidden God 神の存在は常に比喩を使って表現されているように (「光」であるとか)  大切な部分は常に隠されている。  Monothieism:一神論 ただ唯一の神、旧約聖書が一番偶像崇拝を否定し、一神論をはっき  り述べ伝えている。  Panentheism- 万有内在神論。全ての物に神が存在するという考え。  Pantheism – 汎神論。 地球が神の身体、宇宙全体が神の身体という考え。 2.Revealed God: 顕されている神。キリストは人間の身体で人類の目の前に現れた。  これはどういうことか?それはキリストが私達の知りうる所だけを示して下さったという事である。   それは神の本質であり、哀れみであり、愛である。一番大切なのは、「十字架の愛」である。  なぜならそれは自己犠牲の愛だからである。ここで考えてみたい現在の問題は、キリスト教が  どのように他の宗教と交わっていくかということである。このイエス様が身を以て示して下さった  「十字架の愛」は、キリスト教だけのものか、他宗教の人々にも示されているのか、考えてみよう。 3. Transcendence God: 超越する神、万能の神。詩篇40章12-17を読む。  宇宙を創造された偉大なる神を私達は解らない。人間の理性の力をはるかに超える小さな力    が、宇宙を作っている。 現在、一番小さな分子と呼ばれているのがGod Particle (神の粒子)。   神秘に包まれた、超越する神に、沈黙を持って従う。神の超越する力は、常に何らかの形でこ   の世の中で働いている。イザヤ書40: 28-31を読む。  しかし、この「超越する神」が存在するのなら、歴史も神が支配するはずであるのに、何故歴史    上で様々な悲惨な出来事が起こったのか。また、全能の神が愛の神であれば、何故津波等の  悲しい出来事が起こるのか? 悲劇が起こるのは神がいないからと思う人がいる。  デール先生の答えは、神様は私達の日々の生活の全てをコントロールされてはいない。この世  で自然に起きる悲劇は神のみ言葉とは関係無しに必ず起きる。では何故信仰を持つのか、  それは、神の霊は心の中で必ず働いていて、必ず共にいて助けて下さるからなのである。これ  は十字架の神学である。正にイエス様は十字架にかけられるという悲劇の中で、神様は決して  イエス様を見捨てた訳ではない。起こった悲しみに耐えることによりそこから忍耐が生まれ、  希望が与えられる。 4. Immanence-内在する神ー聖霊。 内在ということと、自分の感情を決して一緒にしてはいけな  いが、神が常に自分の内に一緒にいる存在であること。 あり得ないところに神は存在する。   神が人格を持っているとすれば、父なる神であるから、親子関係のように自分と親しい存在。  この神秘的「神」を私達は崇めるべきである。 デール先生のお話の後、全員が中庭で記念写真を撮り、小休憩の後、グループ別の話し合が 始まった。約45分に亘り、プログラムの4ページに書かれてある質問参考項目に沿って話し合ったグループもあり、項目には沿わなくても、「神とは?」のテーマで話し合ったグループもあった。それぞれのグループの話し合いが終わったあと、昼食と交わりの時を迎えた。交わりの時に 自己紹介をし、その後ラッフルティケットが行われた。 午後の部修養会 *信仰の新しい表現法 デール先生は、午前中はあまりに「言葉、言葉」の修養会だったので、午後からは言葉を使わないで、どのように信仰を表現するか、を様々な形で示して下さった。 Verbal- 言葉による。 Non-verbal−言葉無しのcommunication. もっとも大切な事は、神様の愛を行動で示す事である。 ** 太極拳: 全員が立って、デール先生の行う太極拳の呼吸をしてみる。この時に感じる事は、 祈りの境地。深く息を吸いながら手を上に挙げて行きながら神を讃美する境地になる。手を前にあわせて上に挙げて行くときは感謝の気持ちになる、等、身体で信仰の表現ができる。 ** 芸術: デール先生の描かれた絵から、何を感じるか? 個展を間近に控えたデール先生が、ご自分の幾つかの作品を用いて、皆さんに何を感じるか、感想を聞かれた。 この後、各グループの報告があった。それぞれの報告書は、日本語部のオフィスにファイルされる。 とても有意義な話し合いがそれぞれのグループで出来た事が、リーダーの報告からよく 理解された。 ** 音楽: グループ別の報告の後、デール先生が最後に音楽を用いての信仰の表現として、 ジャズ風にアレンジされた讃美歌の幾つかをピアノで弾かれた。 最後に閉会礼拝の中で、均先生が詩篇の19章1節から10節まで読まれ、「神とは?」のテーマで短くメッセージを語られた。その後全員で最後の讃美歌「輝く日をあおぐとき」を歌い、デール先生の閉会の祈りによって、修養会は幕締めとなった。 修養会を終えて感じたことは、先ず内容が盛りだくさんだったという事だ。論理あり、歴史あり、芸術あり、様々な角度から私達はこの「神とは?」というテーマにチャレンジする事ができたと思う。 86歳のデール先生が、私達の修養会の為に、時間をかけて準備をされ、遠くから運転して来て下さった事は、私達にとって大きな恵みである。先生がおっしゃったように、「神とは?」の答えがはっきりと定義づけられる事は決してない。私達の神様は神秘であり、私達が理解できたと思った途端に、理解できない事がまた現れて来る。だからクリスチャンは一生その答えを求めて行く者とならなければいけない。先生は自ら「求道者」として私達の前に立たれた。私は、先生のそんな姿から、言葉にならない教えを頂く事ができた幸いに心から感謝している。先生から溢れ出る「求道者たる姿勢」が、私達に「求道者」として生きる事こそ、神様が私達一人一人に望まれている事なのだ、と無言で語りかけていた。                            芙美 Liang 記録 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace