Archive for April, 2013

Tweet 2013.5.5子供祝福式 2013年5月5日LCR日本語部では子供祝福式礼拝を行います。 何方でもお子様、ご家族の礼拝出席を歓迎致します。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet “ A New Commandment” 「新しい掟」 ヨハネ福音書13:31-35 Rev. E. Carl Zimmermann 皆さんが使われている聖書ですが、それぞれの聖書によって、訳し方が様々異なっています。しかし平均すると、聖書は774,746の単語から書かれています。そして私が驚いたのは、「愛」という単語が646回しか出ていない事です。「愛」はキリスト教の信仰の心髄であるべきですから、私はもっとこの言葉が頻繁に使われていると思っていました。聖書のみ言葉には、沢山の異なった愛の形が述べられています。友達の間の愛(友情)とか、ロマンティクな愛、等があります。そして最大の愛とは、キリストが私達に下さった愛だと思います。その愛とは、他人を赦し、哀れみ深く、無条件の愛のことで、私たち人間の理解と思いを遥かに越えたものです。 この「愛」をテーマとしているのが今日の福音書の箇所です。イエスはこのように語られています:「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」さて、誰もこの言葉に反対する人はいないと思います。私たちの殆どは、誠の愛がどのように私達の毎日の生活を左右し、人間関係に良い影響を及ぼすか良く理解しているからです。 では、このイエスの掟をさらに深く考えて見たいと思います。その前に、最初にこの時の様子を舞台にしてみましょう。イエスがこの「互いに愛し合いなさい」という掟を与える直前の状況がどうであったか覚えていますか?イエスはこのように言われています。 「子たちよ、いましばらく、私はあなたがたと共にいる」。この言葉は、聖書の中で最も悲しい言葉だと私は思います。もうすぐ、弟子達は自分たちのリーダーであり、良き指導者であり、また友であるイエスを失ってしまうのです。多くの人の心を動かし、多くの人の人生を変えたこの方が、ただの遠い思い出の中の人物となってしまうのです。全てがめちゃくちゃで、何も機能していないかのようです。舞台の幕は、この三年間の偉大なる冒険を閉じようとしているかのようです。そして聖ヨハネは、何もかもめちゃくちゃになっていると報告しているのです。それは主が亡くなる前夜、イエスが部屋で仲間達と集り、過ぎ越しの祝いをしている時の様子です。皆は食事を終え満腹な状態でした。そしてイエスに洗ってもらった弟子達の足はまだ濡れていた事でしょう。イエスに耳元で何か囁かれたユダは、ぶつぶつとつぶやきながら部屋を出て行きます。そしてその後の何時間の間に、イエスへの裏切りと否定が起こるのです。午前中にはでっち上げられた裁判が有り、午後には木の十字架が待っていました。さあ、舞台は整えられました。もう戻る事はできません。台本を書き換える事もできません。幕閉めは間近です。 「友よ」とイエスは語りかけられます、「私がもうすぐ去って行く、そして私が行く所にあなたたちは来る事ができない。」私たちも、このような胸の張り裂けるような悲しみを知っていると思います。「もう行かなくちゃならないんだよ、一緒に来る事はできないんだ」と、4歳の娘に言ったのは、アフガニスタンへ向う飛行機に乗る兵士。「私の逝く時間が来たわ」と、悲しむ夫に言ったのは不治の病で死んで行く妻。 「暫くいなくなります」と、上司に言ったのは、6ヶ月の間リハビリに行くアルコール中毒者。 イエスは今弟子達から去ろうとしています、そして彼らはどうして良いのかわからないのです。質問などする時間もない。イエスの知恵や全ての知識を吸い込む時間もない。全てがバラバラになっているような状態の中、イエスは別れの言葉を語り始めるのです。弟子達と同じように、私達もめちゃくちゃな状態の世の中に住んでいると思います。最近起こったボストンでの爆破事件、学校で起こる射撃事件、人間売買、経済の低下、解雇、直ぐに激怒する人達、冷めた結婚生活、そしてなんでも他人のせいにしてしまう私達。しかし、このように全てがコントロールを失ってしまいめちゃくちゃになりそうな時に、イエス様は入って来られ、「愛」を主張されるのです。「愛」だけが、人類を結ぶ絆なのです。 次に書かれている4章で、イエスは弟子達がこれから必要な全てを語っています。しかし、一番大切な事は最初に示されています。「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」、とイエスは言いました。「互いに愛し合いなさい。」 2010年の1月、ルーテル神学校から何人かの学生がハイチに伝道の旅に行っていました。貧しい生活にも関わらず、人々が互いに大切にし合っている姿に、学生達は驚きました。彼らの報告によると、ハイチの人々が運転して出かける時に、知り合いの誰かが反対車線を運転してくるのに出会ったりすると、車を止めて、降りて来てお互いに抱き合いの挨拶を交わすのはよくあることだそうです。どうりで、半マイル行くのに一時間かかる訳です。そして1月12日に震度7の大地震が起こり、その後52もの大きな余震が続きました。地震は殆どの建物を破壊しましたが、それ以上に悲惨だったのは300万もの人達がこの地震の被害にあい、約22万もの人が命を失った事実です。 ルーテル神学校の学生達は勿論文字通り震え上がりました。しかし彼らがそこで見た事は、ハイチの人達が、「愛」という絆によって、この悲惨な状態がこれ以上大混乱に陥る事がないようにとお互いに支えあいながら守った有様でした。近辺にいた生徒は、そこに集った人達が賛美している声を聞いたそうです。その人達は、自分たちが助かった事を神様に感謝し讃美していたのです。ルーテル神学校の学生達はきっと怖くてこれからどうなるのか解らなかった事でしょう、でも土地の人達が彼らにこう言ったのです:「あなた達は私達の家族ですよ。私達がお世話します、お互いに助け合って行きましょう。」 これも言い方こそ違いますが「互いに愛し合いなさい」という事なのです。 もし私達がこれから何かを達成したいと願うなら、皆で一緒にやらなくてはできないのです。私達はお互いに大切にし合いどうすれば互いに愛し合えるかを学ばなくてはなりません。そして、この事を私達は真剣に考えなくてはならないのです。なぜなら、これはただの提案ではなく、「掟」だからです!                               芙美 Liang要約 “A New Commandment” -Sermon for April 28, 2013 John 13: 31-35 It varies with what translation you use, of course, but on average the Bible is made up of 774,746 words and to my surprise the word “LOVE” appears only 646 times. “LOVE” is so much at the center of our Christian faith, I thought the word would be used more often. There are many different kinds of love referred to in the scriptures. There’s the love that friends have for one another and then there is romantic love. The ultimate kind of love is the love that Christ has for us. It’s a forgiving, compassionate and unconditional love that exceeds both our expectations and understanding. This theme of LOVE is at the foundation of today’s Gospel. Jesus said: “I give you a new commandment-That you love one another.” Now, I don’t think anyone would argue with that! Most of us understand how true love can affect our day-to-day lives and have a positive impact on our relationships with others.So let’s take a closer look at this command from Jesus, but first we must set the stage. Do you remember what Jesus said immediately before giving this commandment to love one another? He said: “Little children, I am with you only a little longer. ”I think tat’s one of the saddest verses in the entire Bible. Soon, the disciples will lose their guide,…

Tweet Calendar 5, 2013&聖書日課 Calendarと同月の聖書日課2ページ目をご覧下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年4月28日の週報 週報通算#1256号 (日本語) Sunday English Bulletin 1256E 週報通算#1256E号  (英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 4月25日 詩編を読もう:いつ、なぜ、賛美? (詩編 148) 牧師:安達 均 昨晩は、またアラバマ州で爆発が起こっているようだ。現時点では事故が事件かわからない。 先週のボストンやテキサスに続いて、またか。。。 また数日前に中国四川州で大きな地震が起こっている。アメリカ中西部では洪水が各地で起こっている。 さまざまな痛みにある方々を覚えつつ。 与えられた詩編148編を、3回、声に出して読んでみよう。  詩編 / 148編 1: ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。 2:御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。 3:日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。 4:天の天よ/天の上にある水よ主を賛美せよ。 5:主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。 6:主はそれらを世々限りなく立て/越ええない掟を与えられた。 7:地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ 8:火よ、雹よ、雪よ、霧よ/御言葉を成し遂げる嵐よ 9:山々よ、すべての丘よ/実を結ぶ木よ、杉の林よ 10:野の獣よ、すべての家畜よ/地を這うものよ、翼ある鳥よ 11:地上の王よ、諸国の民よ/君主よ、地上の支配者よ 12:若者よ、おとめよ/老人よ、幼子よ。 13:主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く/威光は天地に満ちている。 14:主は御自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ。ハレルヤ。 どんなことを思われているだろうか? 世の中で起こっているさまざまな出来事に巻き込まれている方々、また復活ルーテル教会の兄弟姉妹、特にキモセラピーを続けておられる方々、を思う時、この詩編に書かれているように、「天のものも地のものも、みな主を賛美せよ。」と、大きな声で手をたたきながら讃美歌を歌う気持ちには、なりにくい。 「このような時に、なぜ、賛美するの?」という疑問が沸いてこないでもない。  この詩編148編には、「どこで、だれが、主を賛美するか?」 というような質問に対する答えは書かれているが、「いつ賛美するか?」ということが書かれていない。 いつ?という質問をされると、テサロニケの信徒への手紙第一の5章のなかに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書かれていたことを思い出す。 聖パウロが残した、このテサロニケの信徒への言葉をかみしめよう。 もうひとつの質問、「なんで主を賛美するの?」ということに関しては、上記の詩編148編の5節、6節の言葉、「主は命じられ、すべてのものは創造された、、、越ええない掟を与えられた。」という言葉に注目したい。 主が天のものも地のものも、すべてを創造してくださって、さらに、「掟」をくださったことをしっかり覚えたい。 主がくださった「掟」という言葉、4月28日の日曜日に与えられている福音書箇所は、ヨハネ13章31節から35節。 その中の34節、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を覚えたい。 旧約聖書を含めて聖書全体にさざざまな掟が書かれているが、主イエス・キリストは、「主を愛することと、互いに愛すること。」を最も重要な掟とされている。 また、主イエス・キリストが言われたことからして、この掟がすべての掟を包括している。  主イエス・キリストが十字架に架けられ死にて葬られても、復活して、十字架に架けてしまったような人々、加担した人々も含め、赦してくださり、主が私たち人間を愛し、大切にしてくださっていることを示された。 私たちもその赦された民として、神を愛し、また、神が創造してくださっている天にあるもの地にあるものすべてを愛し、互いに大切にする存在となるように、主が掟をくださっている。  たとえ、おひとりおひとりが今、どのような気持ちになっておられようが、これらの言葉をかみしめて、詩編148編ももう一度読みかえしてみよう。 日曜日には、元気に復活ルーテル教会の礼拝に加わり、そして、大きな声で讃美歌を歌い、神が創造されたものすべてを大切にし、互いに大切にしあう民、「掟」に従う民とされますように。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 十字架の死と復活による完成      ヨハネ10:22-30 主イエスキリストの恵みと平安が皆様方と共に豊かにありますように! どういう復活節の季節を送っておられるだろうか? ここに集まっている皆さんの多くは、イースターの朝、羊の肉を食べた。 おいしかっただろうか? それが今年はじめて、何かの意味があっただろうか?  先週はどんな週だっただろうか? ボストンやテキサスで相次ぐ爆発が起こった。 私たちにも、なにか似たような状況に陥る可能性だってあり恐れを覚えた方もいるだろう。   今年のイースターの季節、第四日曜日を迎えた。 3月31日が復活節第一日曜。 三回のメッセージとも、なかなかイエスの復活を信じられない弟子たちの話をしてきた。 とくに先週は、3度目にイエスに出会っても、よくわからなかったペトロの話もした。 いったいイエスという方はどういう方なのか。 クリストロジーという言葉がある。 これはキリスト学、キリストはどういう存在かということを学ぶ学問。 神学校で学ぶことの大半はこの学問。 私が学んだルーテル神学大学には、そういう科目があったわけではないが、実は、歴史、神学、旧約学、さらに新約学とか、すべてが、クリストロジに直結している。 このクリストロジーを私の場合は6年もかかって学び、神の赦しと慈しみにより、牧師にさせていただいた。  しかし、いまだに、牧師になって3年たったが、いろいろな教会で説教をしているが、同じ質問を繰り返している。 というか、20年30年も牧師経験のあるビショップとの研修のときだって、いったいキリストってどういう方なのという質問を繰り返す。 日々の生活の中で、神の働きに新たに驚かされることがしょっちゅうだからだ。 そして、神の新しい創造に気づかされ、そして、新たにされて、最近はほぼ毎週日曜、あるいは指名を受けた場所と時に、神のみ言葉を述べ伝えるメッセージに取り組んでいる。   さて、今週与えられている福音書、復活後の話ではない。 十字架に架けられてしまう数週間前。ユダヤ教の指導者たちも、いったい、イエスという男は何者なのか? という問いに悩まされていた。 ナザレで育ち、ガリラヤで数々の奇跡を起こし、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、病にある人々を次々に癒した。 ユダヤ教を信仰する人々は、救い主がこの世に来るということは預言されていたので、この人が救い主なのかと。 しかし、ユダヤの法律では、もし人間で自分が救い主であるという人が出ることは、それは石投げの刑で殺されてもよいことになっていた。  民衆の中には、イエスが救い主だと思う人々がたくさん現れていた。そして、ユダヤ教の指導者たちは、じれったくなってきた。 このような人間は、イスラエルのユダヤ社会にあって邪魔者で、殺してしまった方がユダヤ社会のために良い。 それには、イエス自身が、自分が救い主だ、つまり神だという発言をしてくれれば殺せるという話になってきた。 そこで、「自分が救い主ならはっきりそう言ったらどうか。」という質問を、ユダヤ教の指導者がイエスに投げかける。 イエスを死刑に導こうとして、このような事を質問されている事は、イエスは十分わかっていた。  そして、イエスは、救い主を羊飼い、人間を羊にたとえて、「たとえ私があなたがたの羊飼いだと言ったところで、あなたがたが、私を羊飼いだと思っていない人々には、何の意味も無い。しかし、私を羊飼いとして従ってきている羊たちには、わたしは永遠の命を与え、決して滅びることはなく、その羊たちを、羊飼いであるわたしから、奪うことはできない。 なぜなら、私と神はいったいだからである。」 ユダヤ人たちは、石投げの刑で、イエスを殺そうとしはじめるが、すぐにはイエスは石投げの刑では殺されることなくその場を逃れる。 結局は、その数週間後、ローマの政治家たちも参加して、十字架刑にされ、そして三日後に復活する。   今日の言葉の福音書の中で、イエス自身が、羊飼いであることが述べられ、さらに、「イエス自身が父なる神と一体。」という話がされた。 それは、すべての羊たちを導くことのできる完璧な羊飼いであることを示唆していた。永遠の命を与えることができる羊飼いであると。 たとえ、ユダヤ教の指導者やローマの政治家から殺されてしまう羊飼いであっても、それは完全なる神、完璧なる神と一体である羊飼いイエスは、羊たちとわかれてしまうことがない、羊たちを見捨ててしまうことのない羊飼いであると。 さて今日の最大のポイントは、イエスが語らてていたことからすると、十字架の死と復活は、私たちが死と復活を信じるとか、信じない問題ではなく、むしろ、イエス・キリストの死と復活は、必ず起こるということ、つまり必然だった。 イエスの語っていたことを完成させるために、さらに、旧約聖書の中にちりばめられていた数々の預言からして、イエスの十字架による死と復活は、必ず起こることだったということ。 それが、私たちの現代の生活でどういう意味を持ってくるのだろうか。三つのことをお話して、今日は終わりにしたい。   まず、一つ目、イエスキリストという方と天の父なる神との関係の完成。イエスは十字架に架かっても復活なさる方。 全く何も無いところから命を発生させることができる神は、たとえ、死に遭遇しても、その死をほろぼし、復活できる、父なる神と同等な方である。 つまりイエスキリストと神が一体であるというイエスの説明を完成させてくださった。   二つ目は、イエスと私たちの関係の完成。 私たちが羊で、イエスが羊飼いというたとえ話をしておられたが、実際、羊飼いが羊になってくださるような羊飼い。 神からついつい背き、行動すべき行動をしない私たちの現実がある。本来、殺されて、毛をむしられ、食べられてしまわなければならないような、羊の存在であるにもかかわらず、むしろ、羊飼いの方が羊になってしまわれ、私たちに永遠の命を保ってくださるため、また復活して羊飼いとなる。十字架と死と復活は、とんでもなく、羊を愛してくださっている羊飼いと羊の関係の説明をも完成させてくださった。 そして三つ目は、私たちとイエス・キリスト、さらには、神との関係が完成している中で、毎日を歩む私たちには、なんら恐れが無い。 災難や災いがおこらないということではない。 いや、むしろ、えっ、まさかというびっくりするようなことがある。 しかし、そこに、どんな状況からも復活できる、永遠の命をさずけてくださる、神と一体なるイエス・キリストという方が、私たちと共にいてくださる。先週末の詩編を読もうは23編だったが、今一度読み、ぜひ、復活のイエス、羊飼いがいっしょにいてくださる喜びを実感しよう。 Completion through the Death and Resurrection Psalm 23 John 10:22-30 May Grace and Peace be with you in the name of our Risen Lord, Jesus Christ! How is your Easter season so far? Most of you ate Lamb on Easter morning. Did it taste good? Was it somewhat meaningful to you? Three weeks have passed since then. How was last week for you? Terrible news from Boston…were you afraid, that a similar incident would happen locally? Today is the fourth Sunday of this Easter season. We discussed the empty tomb on Easter Sunday. The second and third Sundays, we read in the Bible how difficult it was for disciples and Jewish leaders alike to comprehend the resurrection of Jesus Christ. Understanding Christ is not an easy thing to do. Have you ever heard the term “Christology”? This is the study about who Christ is. Everything we learn in Christian seminaries is about Christology. Although the seminary I attended did not have a subject called “Christology”, whatever the subject is, like History, Theology, Old Testament, or New Testament, all subjects relate to Christology. In my case, I spent almost 6 years studying Christology during my candidacy process leading up to my ordination. However, even though I was ordained three years ago, I still ask the same question again and again, “Who is Christ?” In my daily life, I am still surprised by God, Jesus Christ, and continue…

Tweet 2013年4月21日の週報 週報通算#1255号(日本語) Sunday English Bulletin 1255E 週報通算#1255E号 (英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 4月18日 詩編を読もう:災いを恐れない  (詩編 23)  二つの悲しいニュース。月曜のボストンマラソンゴール付近で起こった爆発事件。そしてさらに、昨晩、テキサスの肥料工場でひどい爆発が起こっている。  一連の爆発が起こっている中で、その中に巻き込まれた方々、そしてご家族のために、祈る。 神の平安、慰めがありますように。 今週、そのような環境の中で、本当に感謝したくなる詩編箇所が、与えられている。読み始めるにあたって、 1) 気になる言葉や句に線をひいたり、メモをとったりする。  2) 自分にいったい神は何を語られているか。 3) 私たちのコミュニティに何を語りかけているか。 そのようなことを考えながら、例によって3回、声に出して読んでみよう。 詩編23編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2:主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3:魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4:死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5:わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6:命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 どこに線を引かれただろうか? どのようなメモを書かれたり、どのようなことを考えられただろうか?  私の場合、今週は、4節が特に迫ってきている。 12年ほど前になるが、911のテロが起こったとき、シカゴの郊外に墜落した旅客機では、次ぎのような状況だったことがわかっているようだ。  乗客の一人が、電話交換手と話し、ニューヨーク、ワシントンDCで起こっているテロのことを聞いた。そしてほかの乗客と共に、操縦していたテロリストたちと戦うことを決意し、電話の交換手といっしょに祈る。そして、詩編23編4節の「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」という言葉を唱えて、犯人たちと格闘。 結果として、飛行機はビルなどに突っ込まないで済んだ。 詩編23編は、1節に書いてあるように、ダビデの詩。 3000年前に生きたダビデの人生のなかで、このような詩が歌われるようになったのだと思う。 しかし、それは、ダビデという一個人だけではなく、とくに、イエス・キリストの死と復活というできごとを、洗礼という形で経験し、さらに、イエス・キリストの体と血をいただいているキリスト者たちに、この4節は特別な意味を持ってくるようになっていると思う。  十字架の死によって、死を滅ぼされる神、主なるイエス・キリストのことを覚える。 どのような災いをも恐れない、この詩編23編の4節は、現代を生きる私たちにも当てはまる。  今一度、ボストン、テキサスの爆発になんらかの形で巻き込まれた方々のことを祈る。そして、復活ルーテル教会の中でも、病との闘いや、さまざまな奮闘をされている方々のことも、詩編23:4節の言葉を覚えながら祈る。      Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年5月5日子供祝福式 2013年5月5日は子供の日に因んで子供祝福式礼拝を行います。 どなたでもお子さんのいらっしやる方は是非ご参加下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 使徒言行録:9:1-6 ヨハネ21:1-19 主イエス・キリストの恵みと平安が皆様方と共に豊かにありますように! 皆さんの中には、教会に通う信仰生活が長くなるにつれ、この礼拝堂の中でイエス・キリストに毎週出会っているし、普段の生活の中でも神の存在をひしひし感じているという方がいる。或は、最近キリスト教会、特にこの復活ルーテル教会の存在を知ったという方もいて、神様のことも、イエスさまのことも、聖霊のことも、いろいろな言葉で言われるけど、どうもよくわからないまま教会生活を送り始めたという方もいる。   与えられている福音書、復活のイエスがペテロたちに3回目に現れているところ。 一回目は、復活の日の夕方、なぜか鍵のかかっている部屋に登場。 そして、二回目は、その一週間後、一回目はその場にいなかったトマスもいる11人の弟子全員の前に現れる。三回目はというと、、、一回目に、弟子たちに罪を赦す権限を与えられながら、弟子たちはいったいなにをしていたのか。 弟子たちの伝道活動はまだはじまっていない。 ガリラヤ湖に戻って、また漁師をはじめていた。本当は、人間を獲る漁師になるのではなかったのか? 一番弟子だったペトロが言いだして、他に6人の弟子たちが魚獲りに追従した。やはり昔の職業に戻ったほうがよいだろうと思った。でも魚は獲れたのだろうか? 最初の晩は、ぼうず。。これは聖書の表現ではないが、日本人でつりをしたことがある人はよく使う表現。 とくに、百人一首でぼうずめくりをして遊んだことのある人々にはピンとくると思う。 要は、魚が一匹もとれないこと。。 しかし、そこにイエスが顕れる。でも、弟子たちは、またまたそれが誰だかわからない。 イエスは、言われた「船の右側に網を打てば獲れる。」するとどうだろう。 たくさん魚が獲れるではないか。。。 そして弟子の一人が、「あっ、主イエス様だ。。。」と叫ぶ。弟子の筆頭者、ペトロは、「またやっちゃった。」 イエス様がそこにいてくださるのに、イエス様のことを忘れて、自分勝手な行動をしちゃった。 そして、まずは、イエス様から隠れる。 その後、イエス様とじっくり話す機会があることが書かれている。  十二弟子の核である、ペトロという人は、いうなれば、おっちょこちょい、はやとちり、よく考えない、めだちたがりや、そういう面がたくさん聖書には書かれている。 しかし、イエスは、神は、ペトロを使って、教会、キリストの体を創られ始めた。 カトリック教会では、ペトロを初代教皇としている。 一方、キリスト教会にとって、偉大な初代異邦人伝道、世界宣教者パウロの話もしたい。 新約聖書は27の書から成っているが、その約半分は14の手紙がパウロによって書かれたとされている。 それくらい、大きな影響がある。 しかも、イエスの伝記のような書かれ方をしている新約聖書の最初の四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書かれた時代より、早く書かれたといわれている。  このパウロという人は、そもそもイエスの十二使徒の中には、含まれていない。 それもそのはず、パウロはユダヤ人だったが、エルサレムとかガリラヤ湖周辺、あるいはナザレなど、イスラエルで育ったわけではない。  今のトルコの中南部の町に生まれ育った。 ユダヤ人であり、もともとユダヤ教の信奉者。ユダヤ教のなかでも最大のグループ、ファリサイ派に所属し、それはそれは、ユダヤ教本流の信者。なので、キリスト教を迫害していた。 使徒言行録などに書かれている内容からして、キリスト信奉者を石投げの刑で殺すようなこともしていたと思われる。 しかし、そのパウロが、(若いころはサウルと呼ばれていた)さらなるキリスト者迫害のため、ダマスコという町に向かう途中、復活の主に、遭遇する。 遭遇するといっても、イエス・キリストの姿にあったわけではなく、強い光を受ける。そして、天の声を聞く。 それは、あきらかに、弟子たちがイエスの姿を見て、手のひらの傷や、わき腹の傷を確認したのとは異なる出会いがパウロには訪れた。その時、パウロは目が見えなくなってしまう経験をする。 その体験をするまでのパウロという人を記述するなら、ユダヤ、ファリサイ派の考え方を正義としてそれに従わない考えを真っ向から否定する強い考え方、暴力的、危険人物というような言葉が浮かんでくる。しかし、そのような者をイエス・キリストは用いて、偉大な伝道者とされた。 それまでの考え方を180度、方向転換して、キリストに従う者、使徒の一人として、世界伝道、といっても地中海北東沿岸伝道へと派遣し、新約聖書の半分ほどもギリシャ語で記述する者とされた。  おっちょこちょいペトロと、危険人物パウロの両者がイエス・キリストに出会い、キリスト教会の礎になったという話をしてきたが、いったい私たちに何を物語っているのだろう。 現代においても、子供のころからキリスト教の環境に育った人々、おっちょこちょいではないにしても、どちらかというとペトロ的な人もいれば、全くキリスト教のことは知らないで家は仏教だったとか日本神道だったとかその関係の諸派に育ち、危険人物とまでは言わなくても、パウロ的な環境に近かったという方々もいる。  そのような方々の中に、復活の主イエス・キリストは間違いなく働いておられ、いつか私たち自身が、主イエス・キリストの存在に気がつく。 私の個人的な体験からすれば、やはり、キリスト教会において、聖餐式をしている時というのは、今まで何度も経験しているが、聖霊の働きのなかで涙が出てきてしまう。 或は、私は、ある方が亡くなる姿のなかに、あるいは、長崎で原爆で崩された浦上天主堂のマリア像の写真だったが、それを見たときに、キリストを見る思いがある。  皆さんお一人お一人、イエス・キリストがそれぞれ異なる接し方をしている。 どのような接し方であろうが、それがペトロ型であろうがパウロ型であろうが、イエス・キリストの御言葉に耳を傾け、受け入れ、キリストを信頼し、そして、イエスキリストから遣わせられる人生を歩まれますように。アーメン。  Peter and Paul April 14, 2013 Acts 9:1-6 John 21:1-19 May Grace and Peace be with you in the name of our risen Lord, Jesus Christ! Now, in this sanctuary, there are people who were baptized many years ago and have been regularly keeping the Christian Faith. There are also people baptized many years ago but they do not attend church every week. Or, there are people who have recently come to know the Christian Faith, specifically attending Resurrection Lutheran Church, but still do not know God, Jesus, and the Holy Spirit well. However, they have started being together with brothers and sisters of Jesus Christ and fellowshipping. Welcome and wherever you are on your journey, I can say that you came to the right place. The Gospel Text today, is the scene when Jesus appeared in front of Peter and the other disciples for the third time. The first one was on the day of resurrection, in the late afternoon, to 10 disciples, since Thomas was not there, in the locked room. And the second one was, a week later, when Thomas was present. The exact timing of Jesus’ third appearance is uncertain, but it is most likely a few weeks after the resurrection. Although the disciples were given authority to forgive sins, they had not started Jesus’ mission… they still did not know what to do. Some of them went back to Lake Galilee and resumed…