Archive for September, 2011

Tweet 「イエス様と一緒に無花果を食べましょう」  2011 9 30     世界的な天候異変や天候不順の為,ここ南カリフォルニアも9月も終わりになると言うのに朝からどんよりと曇っていてこの時期では当たり前の抜ける様な秋空が何処かに行ってしまった。 それでも我が家の狭い裏庭には相変わらず果物の樹が犇いており、樹々同士が息が詰まりそうだ。今年は午前中の日照時間が短い所為か果物が仲々思う様に熟さない。それでも最近やっと午後の陽射しを受けて無花果の紫色の大きな実が熟し出した。5-6年前に植えたのが背丈が屋根より伸びてしまい、先日住宅の管理組合から樹を伐る様にとの注意書きを貰ってしまった。無花果は中の種が口の中で何とも言えない感触が味わえる。こんなに甘くて美味しいものをイエス様と一緒に食べる事が出来たらどんなに幸せだろうとつくずく思う。しかし2000年もの前の無花果と現在のものとは勿論進化していて同じ味わいではないと思う。 イエス様が旅行中に空腹を覚えられ道端にあった無花果を見かけられたが実はなかった。イエス様、我が家の裏庭に来て下さい。毎朝入れ物一杯の無花果が取れます。思う存分味わって下さい。イエス様が「今から後お前には実がならない様に」と言われると木は忽ち枯れてしまった。私は聖書学者ではないので難しい解釈はわからない。つまり確固たる信仰をもっていれば山をも動かす事ができると言うのであろう。無花果が丁度そこにあったので、例えに使われたのではないか。今は飽食の時代、何も無花果を食べなくても他に美味しいものは山程ある、しかし、こんな時代でも無花果の自然の味わい,甘さは何千年前も今も人の心を幸福感に満たしてくれる。ここ南カリフォルニアは砂漠なので原産地に気候や風土が似ているのかも知れない。私が天に召される時は取り立ての大粒の無花果を篭一杯もってイエス様の処に行きましょう。何千人もの人達とも分けて食べましょう。もう少しお待ち下さい。  愛子 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 召天者記念礼拝の報告と写真を都合によりPDFで掲載致します。 2011.9.25召天者記念礼拝 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 「偏見と批判は楽しい」      Sep 26  2011     とんでもない題目だと思ったことでしょう。これは全く読者の気を引く為だけが目的でつけた題目です。  とはいえ、偏見も批判も頻繁に起っている事から考えると本当に楽なことなのでしょうね。そういえば偏見の言葉を口に出す、非難や批判をする方が早くて簡単で、わからないことを片付ける一番早い処置なのだろうと思います。解らない事を理解しようとするには時間とエネルギーがかかることでしょう。相手と心を分け合って話すとか、本を読むとか、コンピューターで検索をするとかするには、時間と努力が要ることでしょうね。 私は看護婦です。ホワイト ライと呼ばれる嘘を患者につく事はありますが常には真っ直ぐにものを話す人間です。その心でこの投稿をしています。  教会で最近、礼拝後にしばらく話がはずんでお話を聞いたり、意見の交換をしました。そして同意する事は「教会は人付き合いが難しい所だね」でした。それは確かな事だろうと思います。結婚すれば伴侶を知りその家族を少しづつ知りそのうち仲良くすることを学ぶでしょう。仕事先では、学歴も似ていて経験も似ている人が一つの目的のために働きます。県人会には同じ県の人が集まります。同窓会では同じクラスの人が集まります。でも教会は世界の色々な所から、家族、学歴、文化、趣味、経済程度、経験の違う人が集まります。価値観も人それぞれ随分異なることでしょう。そう言う色々な人が一箇所に集まるのは教会ぐらいではないでしょうか。  集まりには目的がある訳です。キリスト教会はクリスチャンがイエス様のみ言葉を聞き罪の許しを乞い、新しい力を頂きたいと教会に(私は)行きます。だから集まる目的はイエス様だと簡単に言っても良いのではないでしょうか。そのイエス様はそれまではほかの神がなさらないことをして人々を驚かせました。罪深い人を哀れに思われたことです。イエス様には人に嫌われた病人、取税人、売春婦、貧しくて少額しか寄付できない人、ユダヤ人から嫌われている異邦人、その他の嫌われて当たり前と思われた人を哀れんでお救いになりました。また自分に全く罪が無い人以外は他の人を批判して判断をくだしてはいけない。またユダヤ教のしきたりで口に入れる物に気を使わなければいけないが、毒は口から入れるものではなく口から出す言葉だといわれました。  最近ある本を手に入れて読みました。日本の事を長年住んで学んだアメリカ人が西洋人向けに日本文化を説明している(外国人が日本での失敗を少なくする目的の)本です。色々ある中に、海外帰国子女への偏見、差別、国際結婚をした女性(男性はあまり差別が無いのかな?〕への偏見、差別がはっきり書いてありました。残念な事にそのしきたりは海を越えたここアメリカでも続けて成されているようなのです。LCRは他のところよりもそういう差別は少ないからとよそから来た方から伺いました。でも全く無い訳ではないという事も聞きました。そうやって自分では考えもしないことをした人を非難したり下視する事で自分の気分が良くなる人はそういう行動を行わないと自分の心を喜ばせられないというのが解っていないのでしょうかね。解っていてもやめられない問題をかかえている人なのでしょうかね。偏見や差別は「学ぶ」事で少しづつ取り去る事が出来ます。偏見差別をする人は『自分の学びが足りないことをそういう非難や下視する言葉で示している事を知っているのでしょうか。知らないからやるのでしょうか、それとも知ってはいるけど止められないのでしょうか。  解らない事はつい自己中心に深く考えたり検索したりせずに下視したり非難したりすることで片付けでしまうのが私達の常でしょう。簡単で早いですね。 でもその行動や、言葉がどんな「毒」なのか考えないで言ってしまうのですね。私自身、売春婦の事は全く理解できませんでした。自分はお金が欲しくてもできないからです。無知がそういう人は自分の選択で行っているという自己的な考えで売春をする人を蔑んでいたと言えます。でも仕事でもっと知識が増えてくると、そういう人はわたし達が、親を選ぶことも、日本人として生まれた事も、髪が黒い事も、白人ではない事も、背の高さなども赤ちゃんのわたし達が選ぶ自由がなかったように、売春婦も自分の意思だけでなったのではなくて子供の時からの待遇、環境がそういうように作り上げ、ホモセクシャルの人が選択権がなかったと同じように人間一人の私としてはその人(達)を批判できないことを学びました。 また私は裁判官でもありませんから裁くことは神にお任せします。だから、教会はイエス様の愛と教えを学びに集まる所です。お互いを愛しましょう。「愛する」と言うのは理解しにくい翻訳ですね。むしろ「お互いに仲良くしましょう」の方が分りやすいですね。非難することよりも、非難したい時には『自分はどうしてこう思うのだろう』と自分の心の中を省みて、理解できるように学びましょう。そしてイエスさまの御心に叶う様に努めようではありませんか。それが出来て非難の言葉や差別の言葉を受けるのではないかと恐れることがなく集まる所であるように勤めようではありませんか。 民 Day Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet     2011年10月の予定   毎日曜日 キリスト教101            10AM              B.Hall 毎木曜日 聖書を読む会              10:30AM     Joyce’s Library 10/3、17 英会話教室                  12:30PM     Joyce’s Library Line Dance                                      1:45PM     B.Hall 10/11,25  アーバイン家庭集会 10:30AM     愛子G.宅 10/13、27 事務打ち合わせ        1PM               日本語部オフィス 10/15 CCN Flu Shots & Movie Night 4PM  B.Hall                                                          5PM               礼拝堂 10/22  AED Training            9AM~2PM        LCR Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2011 10 Calendar C  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1183(日本語) 2011 10 2W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet         「与えられた永遠の命を信じる者」”Joy of Believing Eternal Life” 私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 これまでに、多くの方からキリスト教の信仰の原点あるいは出発点はどこでしょうか、と聞かれた事が何回もあります。私の、そして全てのクリスチャンにとって信仰の原点、出発点とはイエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、父なる神によって復活なさったと言う事実にあります。コリントの信徒への手紙(一)15章17節にこのように書かれています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」 イエス様の十字架の死は弟子たちに大きな衝撃を与えました。その時、彼らはイエス様に失望してしまったのです。弟子たちは、このイエス様こそイスラエルをローマ帝国から開放してくださる方に違いない、そう信じてイエス様に望みをかけていたのです。ところが、三日後の日曜日、死んだはずのイエス様が弟子たちの前に現れたのです。弟子たちは、その人物がイエス様だ、とすぐには解りませんでした。しかしいろいろな場面でイエス様と出会うことによって、自分たちと共にいる方はイエス様だと解り、復活の事実が成就された事を知るのです。 復活されたイエス様を信じることができるようになったのは、ただ単に自分たちが一生懸命信じたから出来るようになったのではありません。信じられるようになったのは、神様のギフトである信仰が、弟子たちの心に聖霊の働きによって入って行ったからです。 世界の歴史を見ますと、「イエス様こそ神様です」と信じる信仰は2千年も続いているのです。例えば、私達が生まれ、成長して自分達の子供が生まれるまでの年数を25年します。すると百年で4 generation(世代), 1千年で、40 generation, 2千年で80 generation となります。今世界の中で、イエス様に従う信仰を持った者は世界の人口の3分の1です。世界のあらゆる国の中で迫害を受けてもクリスチャンは生きているのです。 旧約聖書に詩篇と言う本があります。多くの詩篇の中に書かれていることは神様との対話です。詩篇139章に、私達人間が神様、創造者に向けて語っている言葉がこのように書かれています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ,深い地の底で織りなおされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」 詩篇の言葉は難しいのですが、ここで言われていることは、私たちは神様の計画の中で生まれて来た、人生は偶然に始まるものではないと言うことです。私たちは神様によって造られ、他者とまた神様との関係の中で人生を有意義に過ごす機会を与えられているのです。私達の人生には目的と意義がある事を神様は教えてくださっているのです。 今日の召天者礼拝は、神様のご計画により、私達がこの世で時を共に過ごす事ができた私達の家族、そして友人の一人一人を偲ぶ時です。そして、この方たちが私達の人生に関わったことを覚え、それによって、私達の人生が豊かになった事に感謝をする時です。よく言われているように、人生は長いようで本当は短いものです。ついちょっと前まで赤ちゃんだと思っていた子供が、瞬く間にもう小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人へと成長して行きます。親にしてみれば、なんと時間が経つのは早いものか、の一言に尽きます。そして私たちも私たちの両親が歩んだのと同じような人生を繰り返し歩んで行くのです。 私ももうすぐ還暦を迎えます。昔と違って60歳と言ってもおじいちゃんと呼ばれるまではまだ時間があるでしょうが、物忘れはするようになったし、記憶力は確かに昔ほどありません。しかしそれだからと言って20年前の私に戻りたいとは思いません。その時はその時で苦労があった。しかしそれを乗り越える力も確かにありました。私たちは人生を再び繰り返すことができません。一度しかない私たちの人生です。その人生の中で神様は私たちに与えられた今の時を大切にしなさいと言われているのです。その一つが今の私たちを見守ってくれた人々へ感謝を捧げる事です。 私たちを愛し、愛された人たちを思い出し、その人たちに感謝をするこの召天者記念礼拝を持つことは大切なことなのです。私の父は昨年6月に、二年間に亘る病院生活から神様の御許に帰りました。そして家内の父もこの6月に神様の御許に召されました。悲しみは今でも続きます。先立ってこの世を去った人生の伴侶、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、友達、その方々は今でも私たちの心の中で生きているのです。私たちはその素晴らしい者たちに囲まれて人生を過ごすことができた、そのことを神様に感謝しましょう。 今日私が選んだ福音書はヤイロという会堂司の娘の死と復活についての話です。イエス様は、私を含めて、皆さんの人生を今のこの時まで愛を持って導いてくださっているのです。これをRock climber、登山家 の体験から話して見たいと思います。一人で山の岩場を登る人もいますが、多くの登山家は何人か一緒にグループで山を登ります。そのグループの仲間達はお互いに信頼しながら山を登るのです。グループの一人が山の峰の頂上までもう少しだ、と言う岩場で、つかんでいる岩に全身の力を注ぎ、体を上に持ちあげようとした、その時です。摑まっていた岩が、欠けたのです。この登山家は急激に落下して行きました。この登山家は、私の命もこれまでだ、と思ったかもも知れない。自分の家族の顔が目の前に現れたかもしれない。何もできない状況で目を瞑って祈りの言葉を捜していたその時、この登山家は自分がロープで宙ぶらりんになっていることに気がついたのです。地上から何キロもある空中に、仲間の二人が岩場にしっかり打ち込んであった釘とそこにしっかり結んであったロープのお陰で、この男は命拾いをしたのです。 Grand Canyon のふちに立ち下を眺めた時、私は寒気がして足がすくみました。底に飲み込まれそうな気持ちにかられたからです。これは人生の不安と同じではないでしょうか?私たちの人生は迷子になった、空っぽになった、また不安に取りつかれたような気持ちで悲しくなることがよくあります。しかしそこで思い出して欲しいことは、イエス様は岩、私たちの信頼できる岩、その岩は私たちを見放すことを決してしないということです。イエス様は私たちが信頼することのできる方です。それを信じて今日の福音書の話を聞いてください。 ヤイロというユダヤ人の会堂の責任者に12歳の娘がいました。この娘が病気になりました。ヤイロと彼の奥さんは一生懸命看病したのですが病気は悪くなるばかりでお医者さんもこの娘を元気にすることができませんでした。このままでは娘は死んでしまうかも知れないという苦しい思いの中で、ヤイロは奇跡を起こすことができるイエス様のことを知りました。イエス様は病気の人を癒す、耳の聞こえない者を聞こえるようにできる、足を引きずってやっと歩いている者を自由に歩けるようにしてくれる、目の見えない者を目が見える者にしてくれる。ヤイロは、イエス様ならきっと彼の娘の病気を治してくださるに違いない、と信じたのです。そのイエス様が今彼の町に来ているということを聞いて一目散にイエス様のところに走って行ったのです。イエス様を見つけた彼はイエス様の足元に跪き、心の底から泣いてイエス様に娘の癒しを求めたのです。「どうか私の家に来てください、私の娘が死にかけているのです」と。もし私の娘が死にかけていたならば、イエス様に同じように頼んだでしょう。皆さんも同じことをイエス様に言ったはずです。私たちにとって子供はかけがえのない宝物だからです。 ヤイロがイエス様と彼の家まで急いで走っていったのです。その途中、会堂司の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。ヤイロの目の前は真っ暗になりました。「ああ、遅すぎたか、せっかくイエス様をお連れしたのに。」ヤイロの家に着いたとき、イエス様は続けて言いました。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」イエス様は娘の手を取り「タリサクミ」「娘よ、起きなさい。」と言いました。すると娘は、その霊が戻ってきて、すぐに起き上がりました。娘の両親は非常に驚いたのです。 イエス様は神様の息子です。彼にできないことはありません。イエス様は私たちにも、永遠の命の希望を与えてくださっているのです。なぜなら、イエス様は、死の中から甦り、もう死ぬことがないからです。 今日、私たちがここに覚える天に召された家族や友人のお一人お一人は今神様の許にいます。神様と共に私たちを見守ってくれているのです。主イエス・キリストによって、そのお一人お一人と何時の日にか再会できる事が、私たちに約束されているのです。これこそ召天者礼拝の中で受ける私たちの心の平和と安らぎなのです。アーメン。       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2011年9月25日は何回もお知らせして居ります通り {召天者記念礼拝」を行います。 週報#1182日本語 2011 9 25W 週報#1182WE Sunday English Bulletin(Memorial for All People) 1182E英語     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet マタイによる福音書20章1-16節 「神の葡萄畑で愚痴る者」”Sour Grapes in God’s Vineyard” 私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 私は都会育ちですからお百姓さんの仕事とはあまり縁がありません。しかし私が神学生として4年間勉強したPennsylvania のGettysburg の産業は主に農業で、見事に実った小麦、見渡す限り全てがひまわりの畑、そして私が一番興味のあったのはだいだい色のかぼちゃ畑でした。かぼちゃは日本でもありますが、一つ違うのはその大きさです。大きさがスイカのように4ポンドドほどのものが多い中で、中にはお化けかぼちゃもあるのです。とても一人で持ち上げることのできない100ポンドほどのものもあり、なぜ神様はこんなお化けかぼちゃを創造したのかと思うこともよくありました。 アメリカのお祭りの一つにハロウインというお祭りがありますが、そのお祭りの飾り付けに必要なものはこのかぼちゃで、そのかぼちゃに彫刻をするのです。もっとも私が子供たちと作ったものは怖い顔のかぼちゃでした。ところでこのかぼちゃを畑で収穫するのは思ったより大変な仕事です。最初に働く人を探します。カリフォルニアでは出稼ぎのメキシコ人が多いようにペンシルベニアにはプエルトリコ人がこのような仕事にかりだされます。お百姓さんはトラックで街角にたむろして仕事を探している人たちをPick up して畑まで連れてゆき、そこで一日$50の約束で働いてもらうのです。一日中一つ五キロのかぼちゃを畑からトラックまで運ぶ、ろくに休憩の時間もありません。朝6時にPick up された人達は一生懸命働いていましたが、それでもこの仕事は終わりそうもないとお百姓さん、12時にまた同じ街角まで行ってそこでたむろしていた何人かの人を連れてきたのです。3時になってまた5時になって、新しい働き手がPick up され仕事に加わりました。さて6時になり最後に雇われた人が先に給料を受け取りました。50ドルです。これを受け取った人は笑顔でホクホクです。次に3時に、そして12時に雇われた人。50ドルの約束でしたが、それに何かプラスの賃金をもらえるだろうと思っていたにですが、同じ50ドルを受け取りました。その顔は不服な顔つきです。6時に雇われた人たちも同じ50ドルを受け取りましたが、この人たちはこわばった顔つきで、お百姓さんに言いました。「私たちは一日中、12時間休みもなく働いたのになぜ3時間しか働かなかったものと同じ給料なのですか。それは不公平ではありませんか。私たちはあなたから100ドル受け取るべきです」。 もちろんこの話はブドウ畑が、かぼちゃ畑に変わっただけで聖書のイエス様の話の内容と同じです。この話は会計とか、経済とか、労働ユニオン、Labor Unionの話ではありません。この話は神様の恩恵、恩寵、好意、慈悲、ギフトについての話です。This is all about the GRACE of God. 神様はすべての物の作り主、管理人なのです。神様は、神様の意思でこの恩恵、Grace を私たちに与えてくださっているのです。このGrace,恩恵は、わたしたちが神様から私たちに無償 に与えられているのです。 朝早く働きに来た者も、昼から働きに来た者も、たった3時間しか働かなかった者にも、神様は同様な恵みを与えてくださっているのです。神様はたくさん仕事をしてきた人たちにそれなりの報酬をしないのですかと質問するのは当然と思われますが、神様の私たちへの愛はすべての人に神様の見方で平等に与えられているのです。 イエス様が十字架につけられた時、その隣の十字架に犯罪人としてつけられた一人はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」それに対してのイエス様の答え覚えていまか? イエス様は答えて言いました。「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 この男は犯罪を犯した者、それがどんな者かはわかりません。しかし惨めな人生を送ってきたような男、しかしイエス様の噂は聞いていたと思います。そのイエス様の隣、それも十字架にかかった、その辛い、人生の命ももう消えようとしているその時、「あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたなら、それほど光栄なこと、それほど涙が出てくるようなすばらしい福音ではないでしょうか? この男はイエス様を知らなかった。しかし聞く話によると、イエス様は世の中で皆から嫌われているもの、罪人と言われる者達を哀れんでくださるお方だと言われている。イエス様は私たちがどんな罪人でも私たちを赦し、愛してくださるのです。神様が私たちを愛してくださると言う時、誰が一番愛されているかとの質問はいりません。何故なら、この惨めな私も、あなたも、イエス様、神様にとっては#1の愛の対象であるからです。愛に順番があるのは人間の世界だけです。神様の愛は平等です。しかし、愛さ更に言うなら、私たちの一人ひとりはイエス様の愛の対象#1であるはずです。私たち人間にとってそれはできませんが、神様、イエス様にとっては、私たちすべてが神様の愛の対象#1なのです。そして、神様はすべての人をいつかは神の国へと招いてくださるのです。 Reader’s Digest にJim Williams と言う人が書いたものを皆さんに紹介しましょう。私がある夜、規制スピードを超えてハイウエイを走っていたとき近寄ってきた車が私のすぐ後ろにつきサイレンを鳴らしました。車をハイウエイの脇に止めて窓を開けるとお巡りさんがやって来て何も言わず、フラッシュ・ライトで車の中を点検しました。最初に私の顔、そして妊娠7ヶ月目の家内、そして18ヶ月目になるベイビー・カー・シイトで眠っていた娘、そしてぐっすり眠っていた3人の息子たち、そして最後にこれ又ぐっすりねむっていた二匹の犬を見たのです。ゆっくりと、おまわりさんは私の顔にフラッシュ・ライトを向けなおし言いました。このところは英語で本のなかに書いてあったとおりに言いましょう。 “Son,” he said.  “You can’t afford a ticket.  Slow down.”  And with that, he returned to his car and drove away.お巡りさんはわたしにTicket を出して当たり前だった。しかしそれは忠告にとどめて、大切なことを言ってくれたのです。「車の中の宝物を大切にしなさい、家族の一人ひとりを守りなさい」とのお巡りさんの言葉は、まさに、私にとって神様からの言葉のようだっのです。 もう一つ伝説の中の話を紹介しましょう。お母さんとまだ幼い少年の話です。ある日少年のお母さんは病気になりました。お母さんを元気にしてあげたいとの思いで村の花屋さんにお母さんお好きなバラの花を買いに行きました。しかしお店の花はみな売切れです。ああお母さんにお花を上げたかったのに残念と心落ちして帰る途中、すばらしい庭園を見つけたのです。綺麗なばらの花が沢山咲いていました。そこにgardnerを見っけて、もしバラの花を売ってくれないかと頼んだのです。Gardnerは言いました。「この庭園は王様の持ち物で、売ることはできません」と。少年は涙を流して自分に言いました。「それでは何時かお母さんをおんぶしてここまで連れてきてあげよう。この素晴らしいバラを見たらお母さんの病気も良くなるでしょう」と。その時です。少年を呼ぶ声が庭園の中から聞こえました。それはプリンス、王様の息子の声です。「庭の花を売ることはできないけれど、その花をプレゼントすることはできますよ」と。そして両腕にいっぱいになるほどのバラを少年に与えたのです。これは神様と神様の国でも同じです。神様の国に入るメンバーシップはどんな価格でも買うことの出来るようなものではありませんが、親切で慈悲深い神様より無償で自由に与えられるのです。 これが私たちの信じる神様の恩恵、GRACEです。Graceは、数とか、ポイントとか、私たちがする善行いによって受け取るものではありません。神様が私たちに一方通行で下さる掛け替えのないギフト、賜物です。しかしある人はこの神様からのGrace と言うものが心の中に入らないのです。受け取れないのです。 畑に言って働きなさいと言われ、朝早くから働いた人たちが、お昼から働いた人たち、そしてたった短い間働いた人たちと同じ賃金をもらったことが面白くない。神様の恩恵、Graceは、この人たちの心の中で、片隅にも見つからないのです。 今日の旧約聖書の話はヨナという宣教師の話です。あの大きな魚、鯨に飲み込まれた人の話と皆さんは思い出すでしょう。ヨナは神様に呼ばれて外国に行き、そこで神様について語りなさいと言われ、いやいやながら異国の地で神様のことを語ったのです。異国人がイスラエルの神様を受け入れなかったならそれでもいい、ユダヤ人だけが救われるはずだから。ところが外国人、異邦人が、イスラエルの神様の教え、救い、神様の恩恵まで受けとった。Acceptしたのです。これは面白くない。彼は、ユダヤ人の神様を外国人が受け入れることに神様に抗議し、怒りのあまりに死にたい位ですとまで口に出して神様との会話をしたのです。救いは私と私の民族だけのもの。これがヨナの考え方でしたが、それに対しての神様の答えは、私は世のすべてのものが私を信じ、救いを受けることです。大切なことは人間である一人ひとりと神様からいただいた愛の精神で付き合うこと、一緒に生きることができるように勤めることです。 私たちの中でもイエス様に従う信仰を守ってきた先輩はたくさんいらっしゃいます。それと反対にキリスト教徒はと勉強を今始めた方もいます。信仰の長い、短いによって神様の私たちに対しての愛は変わりません。私たちはみな平等に、それは全てのキリストに従うものに同じように与えられていることを覚えてください。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

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