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Tweet 2016年1月31日LCR日本語部週報通算第1386号 2016年1月31日の週報 Sunday English Bulletin 1386E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、聖書日課では、2月1日から3 日に与えられている詩編72編に耳を傾けたい。 少々長いが、各自で読み、また、自分で聞き、いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編72編 1: 【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。 2:王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。 3:山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。 4:王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。 5:王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。 6:王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。 7:生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。 8:王が海から海まで/大河から地の果てまで、支配しますように。 9:砂漠に住む者が彼の前に身を屈め/敵が塵をなめますように。 10:タルシシュや島々の王が献げ物を/シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。 11:すべての王が彼の前にひれ伏し/すべての国が彼に仕えますように。 12:王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。 13:弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い 14:不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。 15:王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り/絶え間なく彼を祝福しますように。 16:この地には、一面に麦が育ち/山々の頂にまで波打ち/その実りはレバノンのように豊かで/町には人が地の青草ほどにも茂りますように。 17:王の名がとこしえに続き/太陽のある限り、その名が栄えますように。国々の民は皆、彼によって祝福を受け/彼を幸いな人と呼びますように。 18:主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。 19:栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。 20:エッサイの子ダビデの祈りの終り。 インパクトのあった言葉として、「助けるものもない貧しい人を救いますように」との言葉。 詩編作者の気持ちを想像しつつ、この詩編が何を詠っているのか、考えたい。 この詩編は、「王がーーーますように」という言葉が繰り返し出てきている。この詩編は、王の即位式などで詠われてきたのだろう。 はじめに、「ソロモンの詩」となっており、最後は「ダビデの祈りの終わり」となっているが、ここに詠われている「王」はダビデでもソロモンでもなく、いわば理想的な王の姿を詠っているようだ。 つきつめていくと、その王とはだれなのか。。。 ユダヤの歴史の中で、後に顕われる、救い主を詠った歌ともとれる。 さて、この詩編が、現代の私たちに何を語りかけているのだろうか? 詩編を読もうの記事でも、また説教でも、話したが、私は今年の1月5日に昼食をいっしょに楽しんだ友人が、翌日の6日の朝、それは奇しくもキリスト教会の顕現日だったが、自宅ではしごから落ちて亡くなるという境遇を味わっている。 おいしかった昼食とは比較しようもない、全然、おいしくない味わいで、思い出す度に、悲しく、空しい思いが襲ってきていた。 彼は、奥様が、当時は日本からアメリカに戻ってくる飛行機の中におり、息子さん二人はそれぞれ日本と中国に居住しており、自宅には、ひとりでいた。3匹の犬もいっしょにはいたが。。。 はしごから落ちたときには、だれも助ける人は、近くにいなかった。急救車を呼ぶ人もなく、頭からかなりの出血があった。検死の結果では、ほとんど即死に近い状況との話しも聞いた。しかし、今日の詩編を読んで、2500年前には、「助けるものもない貧しい人を救いますように。」という祈りが捧げられ、その祈りの通りに、2000年前から、この世のすべての人はだれも助けることができないような状況の中でも、そこに顕われて、救われる王がいるということをキリスト教徒は学んだのだという思い、神の愛に、今満たされてきている。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ルカ 4:14-21 今日、主のの御言葉が、聖霊の力をおびて、人々の心に豊かに浸み込みますように! 本日の説教タイトル、「今日(きょう)実現した」となっている。 「きょう」っていったいいつのこと? 西暦2015年1月24日の午前0時から午後11時59分59秒の24時間だけをいっているのだろうか? 日本語では、「今日、わたしがあるのは、あなたのおかげです。」といったりすることがある。 このときの今日には、どういう意味が含まれているだろうか? 日本語では、「きょう」と書かれた漢字、これを、「こんにち」とも読むが、すこしニュアンスはちがってくる。 今の時代ということを意味してくる。 もう少し言うなら、新約聖書が書かれたのは、約2000年前からいままでの時間は、私たちが、生きる時間80年とかに比べれば、すごい長い期間のように思われる。 しかし、神の目からみて、この地球とか自然が存在している期間は50億年ともいわれ、そのような単位から見れば、2000年は、ほんの一瞬にすぎないこと。だからこの2000年を指して、今日ということだってできるのかもしれない。 さて、本日与えられた福音書の背景を説明したい。福音書記者ルカによると、イエスは荒野で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあとは、40日間は荒野で誘惑を受けられた。 ちょっと話しはそれるかもしれないが、私たちの受ける洗礼も、すぐに信仰生活に導かれるというよりか、40日だったり、40年だったり、すごいよりみちをしてしまうことがある。 イエスの場合は、荒野で誘惑を受けたあと、40日たって、聖霊の力を受けて、ガリラヤ地方での伝道を開始する。 ガリラヤ地方は、イエスが生まれ育ったナザレという町を含む、ガリラヤ湖の西側、東西に約40キロ、南北やはり約40キロくらい地域にある、ユダヤ教の会堂を回って、イエスは教えをひろめはじめた。 そして、自分の生まれ育った町、ナザレの会堂も訪れた。 キリスト教の礼拝は、もともとユダヤ教の礼拝の形式を引き継いでいる。 したがって、聖書を読む時がある。 イエスは聖霊に満たされて、旧約聖書を読む。 といっても今のように、聖書が印刷されて本になっているわけではなく、巻物になっており、そこに手書きでイザヤの語った言葉が書かれているものがイエスに渡された。 イザヤ書の中から、イエスの目がとまったところ、それは、まさに聖霊に満たされて、おこったことだが、イザヤ書61章、1-2節の言葉が読まれる。 「主の霊がわたしの上におられる」という言葉ではじまった。イザヤ書の預言は次のような内容だ。 「その霊で満たされた私は、貧しいもの、経済的な理由で貧しいだけではなく、心貧しきもの、あるいは体の具合が悪いものも含め、さまざまな状況に束縛されている者に、解放をあたえる良き知らせを告げる。そして、主の恵みの年を告げる。」 このようなイザヤの預言を読み、イエスは一度は席に座る。しかし、そこには、聖霊が満たされ、集まっていたものが、イエスに注目した。 そして、イエスは、現代のキリスト教会でも聖書朗読のあとの、牧師の説教があるように、イエスは、拝読したイザヤ書に関して、「この聖書の言葉が、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」と話しはじめられた。 今日与えられた福音書箇所は、2600年前から残されている旧約聖書の中のイザヤの預言に、2000年前にイエスが加えた、「今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」という言葉が、新約聖書に書かれ、ずっとキリスト教会は、この言葉をくりかえしくりかえし、世に伝えてきている。 これはすごいことである。 そして、今、この言葉を耳にしている、この礼拝堂にいる私たちにとっても「今日」のことであるはず。それは今という時でもあるし、人類にとって2000年間ずっと続いてきていること。 しかし、私たちは、聖書の言葉をそこまで真剣に、意識をもって読んでいるだろうか? そこまで聖霊の働きを受け止めて、聖書の言葉を聞いているだろうか? 今日聞いている御言葉は、2000年前にイエスの言葉を直接聞いた人々に、聖霊の力が働き、その言葉をおぼえ、後世に伝えなければという意識をもち、印刷技術もなく、インタネットもない時代に、貴重なイエスの言葉を、2600年前のイザヤの言葉とその時のイエスの言葉を、手書きで書きとめ、それが、伝えられた、神の言葉。 主なる神が、新しい約束の言葉として、つまり新約聖書に顕された、神の言葉。 今日、この礼拝堂で聞いた福音書の言葉は、けっして、2000年前の過去の言葉だけではなく、今日も同じ意味をもった言葉だ。 なぜなら、イエスがこの世に来てくださったり、聖霊が働き続けているから。主イエスのおかげで、今の私たちがあり、たとえどんな困難、悩みがあるような状況があろうが、今日、解放をもたらしてくださっているお方がいる。 今日、新しくはじまった1週間、私たちは、聖霊の力を受け取り、日々の糧として、御言葉を聞いて生きることができますように。 主イエスの力を伴う御言葉は、読んだ時に、わたしたちをあらゆる困難から解放する。 そして、私たちは、その御言葉のすばらしさ、イエスの愛を喜んで分かちあえますように。 その愛の分ち合いが、わたしたちの生き様。 Today Fulfilled! Luke 4: 14-21 May the Word together with the Holy Spirit be poured into the hearts of the people in this sanctuary! The title of today’s message is “Today Fulfilled.” What does “Today” mean? Is it just 24 hours after 12 a.m. midnight until 11:59 p.m.? In Japanese, there is a phrase “Today I am here is because of you.” In this case today doesn’t mean just the 24 hours of that day. Even in English, we can interpret today as “this age” or current time period…it does not necessarily mean a 24 hour period. Let me further explain, the New Testament was written about 2000 years ago… This is of course a much longer time period compared to our average earthly lifespan of about 80 years. However, from eternal God, the Bible says 1000 years is like a day… or considering the Earth was created 5 billion years ago. 2000 years is almost just one second compared to that lengthy timespan. Let’s dive into the Gospel text today and let me give you some background detail. According to Luke, after Jesus was baptized by John the Baptist, he was in the wilderness for 40 days and was tested by the evil one during that period. Although this is a little bit off track, but Jesus did not mission right after he was baptized. In our faith community, there are some people who happen to…
Tweet 関野牧師が2月7日のゲストスピーカーです。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2016年1月24日LCR日本語部週報通算第1385 2016年1月24日の週報 Sunday English Bulletin 1385E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は、聖書日課から、25日から27 日に与えられている詩編、119編89-96節を読もう。詩編119編は、176節もある、もっとも長い詩編だが、一段落が平均8節程度からなる22の段落により成り立っている。それぞれの段落の最初の文字はヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっている。今週は、その中でも、ラメド(ヘブライ語のL)の段落を読む。今週もとても短い箇所なので、是非、何回か、繰り返し読むことをお勧めしたい。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編119編 89:主よ、とこしえに/御言葉は天に確立しています。 90:あなたへの信仰は代々に続き/あなたが固く立てられた地は堪えます。 91:この日に至るまで/あなたの裁きにつき従って来た人々は/すべてあなたの僕です。 92:あなたの律法を楽しみとしていなければ/この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。 93:わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません/それによって命を得させてくださったのですから。 94:わたしはあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。 95:神に逆らう者はわたしを滅ぼそうと望んでいます。わたしはあなたの定めに英知を得ます。 96:何事にも終りと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、92 節にある「律法を楽しみとしている」という表現。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。最初の89節にある「とこしえに御言葉は天に確立している」に始まり、最後の96節にある「広大なのはあなたの戒め」で締めくくっている。 それは、時間的にも空間的にも、主の御言葉・戒めに満たされていることを見事に詠っており、とても情緒的な詩編作者の一面を見る。 情緒的と書いてしまうと、詩編作者がとてもリラックスした雰囲気の中で、この詩編を綴ったかというと、決してそうではなく、波乱万丈の人生の中で、それも、大きなピンチの中で、「助けてください」と叫んでいる様子が浮かんでくる。 一節づつ、振り返りつつ、解釈してみたい。 永遠という時間のなかで、主の御言葉が続いている(89節)。あなたが固く立てた地の上に、あなたへの信仰が代々続く(90節)。あなたの裁きに従ってきた人々はすべてあなたの僕(91節)。私もあなたの律法を楽しみとして生きてきたおかげで、苦しみに耐え、滅ぶことなく歩めた(92節)。あなたの命令によって命が永らえたのだから、私はあなたの命令を永遠に忘れない(93節)。私はあなたのものですから、どうか救ってください、今、あなたの命令を教えてください(94節)。あなたの命令に聞き従わないものが私を滅ぼそうとしているが、わたしはあなたの命令に英知を得る(95節)。この世のすべてには終わり、果てがくるが、あなたの戒めには、終わりも果てもない(96節)。 神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? この詩編を通して、神に逆らうものから命を狙われるような状況でも、主の命令に従うことが、永遠という単位で命が救われる、だから命令にしたがっている私を助けてください、と祈ることの大切さを教えているのだろか? それにしても、命令とはいったいなんなのか? 与えられた短い詩編箇所のなかで、御言葉、律法、命令、定め、戒め等の言葉が出てくる。 これらの言葉の意味を、旧約・新約聖書を通して、振りかえろうとする時、主イエスの教えてくださった、「神と人を愛する」という言葉が浮かんでくる。 しかし、人を愛するという事は、本当に難しいと思う現実に出会う。たとえば、極端な例としては、何人もの子供たちの命を奪った凶悪犯罪人を愛することができるか? もっと身近な問題としては、日本のキリスト教小説では、大作家とも評して良いと思うが、三浦綾子さんは、最初、教会に集まっている人々を見て、この人たちは自分たちを精神的な貴族だと思っている、というような表現をしていた。 そこには、身近にいる教会に集まる人々を、すぐに愛する気持ちにはなれない現実の一例を見る。 今日読んでいる詩編箇所には、「律法を楽しみとする。」という表現が出ているが、その難しさも、楽しみとして、とらえ、歩めますように:) 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ2:1-11 主の愛と慈しみが集まった兄弟姉妹に、またこの場に集まれない方々にも豊かにそそがれますように! カナの婚礼の話。 さきほど、読んだ通り、イエスが水をぶどう酒にするというすごい奇跡をしてくださった。 この話いったいどういう意味があるのか? 私はこの結婚式が、いったいだれの結婚式であるかを仮定、推測次第で、神は実にいろんなことを私たちに語りかけていると思う。 たとえば、この婚礼会場において、マリアは最初から会場にいたが、イエスと弟子たちは、婚礼に招かれたとあった。 これはには母マリアにとって甥とか姪に相当するような親戚の結婚式。 しかし、イエスはいとこかまたいとこ、親戚としての招待だったのかもしれない。 いずれにしろ、この描写からは、イエスの母は、事実上、婚礼を仕切って、給仕の者たちに対してリーダシップをとっていたような気がする。そのような立場のマリアにとっては、ぶどう酒がなくなってしまうというパニックに陥った。 しかし、たとえ心ではパニックと思えるようなことがおこっても、それを外に出さずに、イエスだけに相談する。イエスとの会話はちょっと冷たい感じもしなくもないが、それでもイエスを信頼する。そして、給仕の人々には、イエスに従うようにと告げる。 つまり、マリアの姿勢から、心はパニックでも信仰をもって対処することが、大切なリーダーシップの要素の一つであること教えているという話であるともいえる。 しかし、このカナの婚礼は、本当に、だれの結婚式だか書いていないのだ。 花婿はこの話には登場するが、花嫁は登場していない。 20世紀、21世紀を生きている私たちは、婚礼というと、だれが一番大切だろうか? もちろん司式をする神父や牧師であると思っている人はいないだろう。。。 花嫁が中心人物なわけだが、花嫁がだれかは、まったく書かれていない。 この話が、私たちに語りかけていることは、一体なんなのだろう。 水を最高級ぶどう酒にできるというのは、もちろん魅力的な話で、もし、それが簡単にできるなら、ぶどう酒をお好きな方は、家計も助かるだろうし、それどころか、ぶどう酒ビジネスで教会にすごい献金もできるし、自分の御殿もたつかもしれない。 しかし、問題はそういうことでもなさそうだ。 結婚式というと、カップル誕生のひとつの門出であり、それから家庭生活を築いていく上での、人生の大きなゲートを通ることだ。 そして、この話の中で、だれの婚礼だかが、特定されていないことは、実は、人類のだれの結婚式にも当てはまることを、聖書は語っているのではないかと思う。 それは、主なる神が常に、ともにいてくださるということ。 私は、これまでの牧師生活の中で、お葬式は、いろいろな形で関わってきて、両方の指では数え切れないお葬式の司式している。 しかし、結婚式は、片手の指の本数で数えられるほどの経験しかないが、いつもきまって話すことがある。 それは、結婚式は、いつも二人が結婚するものだが、決して二人だけではなく、絶対的な存在、二人を結びつけて、主なる神が、いつも存在している。 それはたいていの台所には、いつもある玉ねぎの存在のように、実は二人につきそってくださる全知全能なる神がいてくださる。 その神への感謝と賛美を忘れずに、二人で家庭生活を築けますように。 さて、カナの婚礼の話は、実は、同じことをいっているのではないかと思えてくる。 誰の結婚式であろうが、そこに、とても信じられないようなことを起こしてくださる主なる神が、また、励ましを与えてくださる、また苦難をともに体験してくださる、主なる神様が、これからの結婚生活、家庭生活にいつもいてくださることを暗示しているようでもある。 最後に、もっとすごい話をしたいと思う。 私の友人で、40代で妻を亡くした方がいる。 その告別式に際し、彼は、結婚するということは、どんな結婚にも別れも必ず来るということを実感したという。 たしかに、その通りなのかもしれない。 カナの婚礼の話しをしていたのに、葬儀の話になってしまったが、この世の命の終わりというのは、この世に生をもったものには、だれでも来る、間違いのないもの。 そして、そのこの世の最後は、人が扉のこちら側から向こう側に行くとき。 神に会えるとき。 そして、すべての先に召した方々に会えるとき。 旧約聖書、そして、新約聖書にも、神を花婿、夫にたとえ、人類は花嫁、妻にたとえた描写がいっぱい出てくる。 実は先週の後半は聖書日課では、エレミヤ書が読まれ、神が夫、人類が妻のたとえがあった。 本日のイザヤ書では、花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる、とある。 本日与えられた福音書、だれが花嫁だか特定されていないカナでの婚礼は、だれであっても、かならずやってくるこの世の死が、実は、神を花婿として、亡くなったものを花嫁とする結婚式であるという要素も生まれてくる。 その時には、私たちが全く想像しえないすばらしい、神の奇跡があり、花婿である神との真の出会いとともに、先に召されたものとの再会も起こる。 安達均 “Whose Wedding?” Gospel John 2:1 -11 May the Love and Mercy of Jesus Christ be shared with the people in this sanctuary as well as people in the world! Our Gospel today is the wedding in Cana. As I read a short time ago. Jesus did an unbelievable miracle. What does this story mean? I think depending on who the bride and groom are, we may interpret it so many different ways. In the beginning part of today’s Gospel, Mary was already there, but Jesus and disciples were invited. It seems Mary was like a mother or aunt and taking on an important host role; said another way Mary was taking on leadership role of all the servants on behalf of the guests. So as the host if there was no wine left, she most likely panic. Even though she was anxious in her heart, she did not show her emotions to the guests and just reported the fact to his son Jesus. Then, even though the conversation with Jesus was somewhat cold, she just trusted him and then told the servants “Do whatever Jesus tells you.” From this story you might learn an important leadership skill that even in a pinch is helpful, just being quiet and trusting the Lord. Of the wedding’s details, we do not know whose wedding it was… There is no clear description. Although the groom appeared in this story, it did not…
Tweet 今週は、聖書日課から、14日から17 日に与えられている詩編、36編6-10節を読もう。先週、いっしょに食事をしていた友人が、翌朝には、自宅ではしごから落ちて事故で亡くなるということが起こったこともあり、奥様や家族のことを思い、自分も気持ちを表現しえない状況にある。状況は異なるが、先日10日の日曜朝10時のみ言葉の学びでは、カトリック教会が、今年を「いつくしみの特別聖年」としており、教皇フランシスコが書かれた、「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」という小冊子をよみはじめた。そのような時期にあって、詩編36編のしかも6-10節だけを、今週読むことには、おおきな意味を感じている。 短い箇所なので、是非、何回か、繰り返し読むことをお勧めしたい。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 36編 6:主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。 7:恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。 8:神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ 9:あなたの家に滴る恵みに潤い/あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 10:命の泉はあなたにあり/あなたの光に、わたしたちは光を見る。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節と8節にある、「慈しみ」という言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。詩編作者といつも書いているが、詩編を著した一個人というより、モーセ五書に著された旧約聖書の最初の5巻、そしてイスラエルの信仰の歴史の中で、多くの預言者たちを通じて、神の言葉が著されていく中で、イスラエルの信仰共同体として、この詩編36編にある、「いつくしみ」に関わる描写が著されていると思う。 さて、1節づつ、振り返りたい。 「主よ」という呼びかけではじまった6節は、7節の前半まで、主のいつくしみを、大自然にたとえて表現している。 慈しみは天にあり、その主の真実は大空に満ちている(6節)。 恵みのみ業は神の山々のようにそびえており、主の裁きはどん底のような深い淵のようである(7節前半)。7節後半から10節までは、やはり、「主よ」という呼びかけからはじまり、神と人のふるまいを、見事に表現している。 (慈しみゆえに)あなたは人も獣も救われる(7節後半)。 神よ、慈しみは本来ありえないような貴いことで、(罪深い、被創造物であるにもかかわらず) 親鳥が自分の翼に子鳥をかばうように、神のもとに、人々は身を寄せ、神はかばってくださる(8節)。 あなたの家(神を崇拝する礼拝所と考えてよいのだと思う)には、豊かな恵みがあふれ、また礼拝に漂う甘美な流れのゆえに、霊的な渇きは、癒される(9節)。 命の源泉は、主なる神、あなたにあり、あなたは光となり、わたしたちはその光を見る(10節)。 神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? ずばり、神は、私たち一人一人がどのような境遇にあろうが、そこに憐れんで、恵みを与え、癒してくださる、「主のいつくしみ」を覚えるように導いているような気がしてならない。 冒頭に、先日の10日の日曜日より、10時のみ言葉の学びで、「父のいつくしみのみ顔」という小冊子を読み始めたことに触れた。 その冒頭には、「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。」とあった。その学びの中では、集まった兄弟姉妹で「いつくしみって何だろう?」ということを分かちあった。いろいろな表現があったが、「人間にはとてもできないような、神からの愛、神の憐れみ、恵み」、「母親が自分の赤ちゃんをいとおしく見つめるまなざし」、「すぐそばに存在してくださる神からの励み」等々の言葉をわかちあった。 イエスキリスト生誕以来、主イエスを通して、さらにイエスキリストの体である、教会を通して、神が具体的に神のいつくしみを人々に顕されるようになっていることを感じる。教会に集まる者たち、洗礼という不思議な信仰生活のはじまりがある。 それは復活の命のはじまりであり、さまざま人生体験、老い、病、この世の死を過ぎこしていくとき、永遠の命を確かなものとする信仰がある。 その過程で、詩編36編の6-10節にあるようないつくしみや、私たちが上記に表現したような主のいつくしみの体験をし、永遠という中におられる神と、数字で表現してもピントこない何百億年ともいわれる全宇宙・自然と、そして、全人類との信仰体験をあじわう。 冒頭に書いた友人の葬儀のため、これからダウンタウンのお寺に向かう。 彼との交わりは、主の慈しみの介在によって、私にとっても、家族、友人にとっても永遠の記憶となるのだと思う。 葬儀に向かう前に、このようなすばらしい詩編36編が与えられたことを覚え、感謝しつつ。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ルカ 3:15-18, 21-21 主の恵みと平安が、集まった会衆の心の中に、豊かに注がれますように! カトリックの教会には、よくあるが、礼拝堂に入る前に、小さなお皿のようなものがあって、そこに、水が入っている。 カトリックの信者には、礼拝堂に入る前に、その水にちょっと手をつけて、そして十字架をきってから礼拝堂に入る方がいる。 私の学んだミネソタ州セントポールのルーサーセミナリーの礼拝堂は、礼拝堂に入ったところに大きな洗礼盤が設置されていて、洗礼盤には水がはってある。 また、アーバインのコンコーディア大学のCUセンターというコンサートをよく行なうところだが、礼拝堂だ。 そこも正面の入り口から入ってすぐに、洗礼盤があり水が入っている。 さて、この礼拝堂は、どうなっているだろうか。 入り口には洗礼盤はないものの、聖餐式を受けるときに、聖壇にくるが、聖壇の前に、なるべく洗礼盤をおくようにしている。 それには、どういう意味があるのだろうか。 教会の礼拝堂に入る、あるいは、聖餐を受けるというときに、自分の受けた洗礼を思い出すということが、とても意味があること。 あるいは、まだ、洗礼を受けていないが、礼拝堂に入る、あるいは、聖壇の周りに集まるという事実のなかに、洗礼へと近づいていることが起こっているのだと思う。 与えられた福音書の箇所に入っていきたい。 ルカ3章、15-17節では、ヨハネの話が出ている。 ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことで、もともとは、イエスの幼なじみのヨハネで、6ヶ月年上。 マリアの妊娠が、天使につげられたとき、すぐに、エリザベトを訪ねたのを覚えているだろうか? そのエリザベトのおなかの中にいた赤ちゃんが、後の洗礼者ヨハネである。 ヨハネは、イエスを証するために生まれていたといっても良い。 荒れ野で、毛皮の衣を着て、野みつやイナゴを食べて生活していたらしい。 それは、世の注目をひいた。 いまでも現代風ヨハネはいます。 人々は、ヨハネが救い主かもしれないと思い、ヨルダン流域の荒れ野にやってきて、ヨハネから「悔い改め」の洗礼を受けていた。 しかし、ヨハネは、決して、自分が救い主だとはいわなかった。 私より後から来られる方こそ、すごい方で、私はその方の靴ひもさえ、結ぶ価値のない人間だとして、謙り、後に来られる方に注目するように民衆の心を仕向けた。 洗礼者ヨハネは、後にくるイエスは、聖霊と火で、あなたがたに洗礼を授けるであろうと預言していた。 そこに、まさに、イエスが顕われる。 しかし、すぐにはイエスがヨハネの言った通りに聖霊と火で洗礼をさずけるおということは、起こらなかった。逆に、イエスが謙り、ヨハネから洗礼を受ける。 ひとりの民衆と同じように、洗礼を受ける。すると、たいへんなことがおこる。そのたいへんなこととは三つの特徴的なこと。 今日の福音書の後半にそのことが書いてあった。その一つ目は、まず天が開けてしまう。 これって、どういうことかよくわからない。 しかし、天の上におられる神が、この世界に介入してくる様子を伝えているのだと思う。 二番目は、聖霊がはとが舞い降りてくるように、目に見える姿で、イエスにくだった。 聖霊とは、はとのようでも、それは、とても力のあるもの。 聖壇横にかかげたバーナーを見てほしい。復活後のイエスが、天に上って行かれたあと、降ってきた聖霊は、聖書の使徒言行録二章に記述されていたように、炎のようだった。 だから聖霊にすごいパワーがある。 さらに三番目、天から「あなたは私に愛する子」という声が聞こえてきた。 この声は、ここでは、天からイエスに告げられている。 現代の私たちが、イエスの生涯を振り返る時、そのイエスは十字架につけられ、殺されたが、三日目に復活し、復活後40日目に、ご自分が天に昇られ神のところに行く前に、弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように」と言われて、天に昇っていかれた。いわゆる宣教命令というもので、その洗礼を、キリスト教会は代々、2000年間さずけつづけてきている。 なにがいいたいかと言うと、私たちの受けた洗礼(あるいはこれから受ける洗礼)で、神がイエスを愛していると言われたように、私たち一人一人にも、必ずしも物理的に聞こえたり、見えたりするものではないが、「あなたは私の愛する子ですよ。」と宣言してくださっている。 そして、炎のような力ある聖霊が、洗礼を受けたものに、与えられて、その聖霊が力となって人生をささえてくださる。 私たちの人生、いやなこと、困難なこと、いろいろある。 先週振り返っても、それぞれにつらいことがあったりしたのではないかと思う。 私は、火曜にいっしょに昼食をとっていた方が、自宅に帰られて、はしごから落ちて、頭を強打して突然亡くなった、と水曜日に連絡を受けた。同じ時期、水曜に日本から連絡が入ったが、父は横浜で転び、頭に14針も縫うケガをした。 ショックであり、自分はどうしたらいいんだろう、と思うことがやってくる。 しかし、本当にどうしたらよいのかと思う境遇に置かれたとき、完全に放心してしまった時でさえ、かならず「あなたは私の愛する子」と言われる神が、主イエスがいっしょにいてくださる。聖霊が困難、苦難の中で、支えとなってくださる。 その信仰者の生き様のなかに、神が介入してくださっていて、信仰者自体の存在が、イエスの愛を顕す存在となる。なぜなら火のような聖霊がささえてくださるから。だから、「あなたは私が愛する子」と言われ、聖霊がくだった洗礼を受けた事実は、重要であり、その洗礼を、礼拝堂に来る度に、また聖餐を受けるたびに思い出す信仰生活には、とても重要だ。火のような聖霊が、私たちを強めてくださり、どんなにか苦難の中にあっても、偉大なる神の慈しみの業を成してくださる。 安達均 “Life Supported by the Holy Spirit and Fire” Luke 3: 15-18, 21-22 May the Grace and Peace of our Lord be poured into the hearts of the people in this sanctuary! When you go to Catholic Church, you often see water in a small plate at the narthex of the sanctuary…Catholic Christians often dip his or her fingertip into the water and then make a cross on one’s chest before entering the sanctuary. The sanctuary at the Luther Seminary, where I studied, has a big baptismal font right after when you enter the sanctuary. Some of you have probably visited CU center at Concordia University in Irvine, there is also a big baptismal font right after entering the CU center. How about this sanctuary? Although there is no baptismal font at the entrance, we usually put the font here before the service. What does this mean? When entering the sanctuary or before you receive the sacrament of communion, it is very meaningful to remember your baptism. Or if you are not baptized yet, it is meaningful to think about your future baptism… The Gospel today is Luke 3:15-17 and 21-22. The first portion is about how John, was 6 month older than Jesus, foretold about Jesus. John is John the Baptist, who was in Elizabeth’s womb when Mary was told that she would be pregnant. We may say that the purpose of John’s life…