Tweet 大晦日、そして年末年始を過ごす時期である。 聖書日課では、大晦日と元旦は詩編8編が与えられているが、さらに大晦日に与えられている旧約聖書箇所、コヘレトの言葉3章1-13節も読んで、各自、2015年あるいは過去を振り返り、2016 年そして将来を展望し、観想の機会を持っていただければと思う。 コヘレトの言葉3章 1:何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 2:生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 3:殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 4:泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 5:石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 6:求める時、失う時/保つ時、放つ時 7:裂く時、縫う時/黙する時、語る時 8:愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。 9:人が労苦してみたところで何になろう。 10:わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。 11:神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 12:わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と 13:人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。 すべてに時があるという話。年末年始にあってじっくり読まれると良いと思う。有名な箇所なので、過去に聖書で読まれたことがあるか、何かで引用されたのを聞くなり読むなりされたことがあると思う。自分でこの箇所をじっくり読んでいかがだろうか。 私が中学生のとき、幾何学の先生が、一枚の紙を空中になげて、落ちてくる様子を生徒に見せて、「何がおこっているかわかるか?」と質問した。 答えに困って、全員、だまっていた。 すると、「何事が起こるにしても、すべて、時間の経過の中で起こっている。」という話をされた。 詩編8編 1:【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 上記のコヘレトと詩編を読みつつ、時と永遠ということを考えさせられた。人間は、この世に生きている時間と、それを超えた永遠の中に生きている。 それは、復活の命、永遠の命。 今という年末年始の時を感謝し、そして永遠の命に感謝し、主の御名を讃えつつ! 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ルカ2:41-52 主の慈しみと愛が集まった会衆の上に豊かに与えられますように! 今日のメッセージ、私自身の告白からはじめたい。 妻のさと子は、結婚前に、スキーの準指導員の資格まで取得するほどにスキーを好んでいる。私も自然に親しむという意味では山に行きスキーを楽しむことは大好きで、結婚後、ぽこぽこ子供たちが与えられたが、子供たちがスキーに行きたい行きたくないに関係なく、毎年、何回かは家族でスキーに出かけていた。 7歳5歳3歳の子供たちを連れてスキーに行くには、だれかの協力が必須だった。 さと子の両親がまだ60歳前後のとき、我が家の5人、さと子の両親で、義理の父の持つ、8人乗りのバンに乗って、日帰りスキーに出かけた時だった。 夜遅く11時ごろだったが、私の運転で、妻の実家に着き、その晩は、さと子の両親の家にそのまま泊まることにした。 ぞろぞろ、大人も子供も車から降り、外の車を停車したところの横の玄関から、家に入り、疲れていたため、すぐに眠りについた。 すると、明け方3時半ごろになって、玄関をどんどんどんどんと激しくたたく音がする。 いったいだれかと思い、玄関にいくと、外から、3歳だった息子の寛の声がする。 玄関をあけると、寛が飛び込んで入ってきて、なんら文句も言わず泣きもせず、すぐに布団に直行し、寝てしまった。 冬の夜、東京という極寒地ではないにしろ、三番目の子供が車にまだ寝ていたのにもかかわらず、置き去りにしてしまったことに、なんど考えても、運転していて、最後の搭乗者が降りるのをたしかめなかった自分が、本当に情けなく思う。 また、あきらかに、乗車していたほかの家族も寛が後ろで寝ていることに気をとめず、当然いっしょに降りたものと思ってしまっていた。。。。。。 今日与えられた福音書箇所の内容に移りたい。イエスは両親や親戚とともに、毎年過越祭のためにエルサレムまで旅をした。 ナザレとエルサレムは150キロメートルくらい離れており、当時の交通事情からして、徒歩での往路復路には、それぞれ数日かけて、エルサレムに出向いていたのだと思う。 ある年、ヨセフとマリアは、息子イエスが当然、彼等についてきているものだと思って、エルサレムからナザレへの帰路についていた。 ところが、エルサレムを出て、丸一日たった時、長男イエスがいないことに気付く。 自分たちの子供がいないのに気付かないまま、一日も進んでしまうとは、いったいどういう家庭なのかと思うかもしれない。 とくにカトリック教会では、今日の聖書箇所は、聖家族の主日の箇所としているが、聖家族の両親とはいったい何なのかと考えさせる。 聖書をさらに読むと、ヨセフとマリアは、イエスが群れの中にはいないので、なにはともあれ、エルサレムに引き返すことにする。 エルサレムに戻る途中も、イエスは見つからなかった。 ヨセフとマリアはどんなにか、不安に陥ったかたと思う。 しかし、イエスと分かれてから、三日後、彼らは神殿で学者たちと会話を交わしているイエスを見つけることになる。 そして、マリアがイエスに語った言葉は、「なんでこんなことをしてくれたのです。父と私はどんなにか心配して捜していたことか。」との言葉だった。 それに対するイエスの反応は、少なくとも、息子を置き去りにしたまま、ナザレに向かったことを批判するものではなかった。 それより、「なぜ捜したのですか?」と言う。 さらに、日本語では「私が父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか?」と訳されている。 この「当たり前だ」としている言葉は、ギリシャ語では「dei」という言葉があり、イエスが受難予告をした時、「必ず多くの苦しみを受ける」とか「三日後に復活することになっている。」などと語った時に使われている言葉と同じである。 そこには、イエスが神殿の境内にいたのは、神の定めたことで、必ず、私は神殿にいなければならなかった。という意味が含まれている。 三日間にわたる、ヨセフとマリアの家庭に起こった、長男イエスの迷子事件が今日の聖書箇所だった。その発端はヨセフとマリアの親として、不注意があったように思えてしまうような面がある。あるいは、少年イエスの受け答えを理解できない親の話であったような面もある。 それは、どこの家庭でも起こりがちな、反抗期とか、親子の断絶の問題にも似ているのかもしれない。 聖書が教えている家族の意味を考えるとき、たとえイエスの生まれた聖家族と呼ばれる家族でも、決して完璧ではない。どんな家族でも完璧ではないのだ。しかし、すべての完璧ではない家族、問題のある家族の真っ只中に、神が家族の一員となってくださっているという事がクリスマスのメッセージなのではないだろうか。 クリスマスが過ぎ、今週後半は、New Years Eve そして、新年を迎える。 家族で過ごす方も多いだろう。 また、家族とはいっしょにいられずに一人で過ごす方もいる。 いずれにしろ、家族ということを考えさせる時だと思う。 その真っ只中に、イエスが来てくださっていることを覚えることができれば、あなたも聖家族の一員となるのだと思う。 安達均 What Does the Holy Family Mean? 2015 12 27 Luke 2:41-52 May the Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior, Jesus Christ! Amen. I would like to begin today’s message with my confession as a parent…my wife loves skiing and I also love skiing, especially experiencing nature while skiing down snowy mountains. Therefore, when we got married, even though we were blessed with 3 children, we often went skiing, as a family, regardless of whether or not our kids wanted to go skiing. Think about going skiing with a 7, 5, and 3 year old children…the reality is it not possible without help. Since Satoko’s parents were still relatively young, around 60 years old at the time, they helped us greatly. One day, using Satoko’s father’s 8 passenger van, Satoko and I and our three children went skiing with her parents. We came back late at night after 11 p.m. That night, we decided to sleep at the in-law’s. I was driving the van and parked in the garage next to the house. The adults and children exited the car, entered the house, and everyone immediately went to bed. The next day, very early in the morning, like 3:30 a.m., there was a loud knocking at the front door. Both Satoko and I got up and went to the door. Then I heard Kan’s voice. I believe…
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Tweet ルカ 1:39-45 祈り:待誕節第四主日に礼拝に集められ感謝します。語られる言葉が主の思いに適うものでありますように。 井戸端会議という言葉がある、どういう意味で使われているだろうか?あまり良い意味に使われていないような気もする。 もともとは、水道がなかった時代に、井戸に水を汲みにきた女性たちが、長い時間にわたって、うわさ話をしたり、女性同士でいやみをいうこともあったのだろう。 そのような会話をするということで、たとえ井戸がなくても井戸端会議という言葉がいまだに使われている。 しかし、本当に、井戸の周りに集まって、あるいは現代であれば、街角やスーパーでいろいろな話をすることは、好ましくないことなのだろうか? 現実問題、この復活ルーテル教会の礼拝に集まる方々は女性が多いが、教会に集って、礼拝の前後にぺちゃくちゃ話しをする。 現実問題として、そのような会話の中には、「あんなこと話さなければよかった。」と反省する方がよくおられる。 しかし、良い話もいっぱいあるのだと思う。 そのような会話の中で、元気づけられて、今の自分がある。 本当にどん底にいたけど、あの時、希望が持てた。 等々、たくさんあるのだと思う。 井戸端会議で、今日のメッセージをはじめたが、聖書の世界において、井戸はとても大切な場所だ。現代でこそ、都会ではほとんどみなくなった。 しかし、聖書の世界では、人々は、水を得るのに、井戸にでかけて行った。 そして、実際、聖書の時代にも井戸端会議はあったのだろう。 旧約聖書、新約聖書と通して、水を汲みにいくのは、女性の役割だったといってよいだろう。 だから、ヨハネ4章で、サマリアの女性とユダヤ人の男性イエスが出会って話をするのは、異例中の異例だった。過去に5回も離婚してしまったサマリアの女性は、多くの人々が水を汲みにくる朝夕の時間帯を避けて、水を汲みにきている。そこには、いわば井戸端会議に参加したくない、井戸端会議でいやみを言われるようになりたくないという気持ちがあったのだろう。 さきほど読んだ聖書箇所、女性同士の会話だ。与えられた聖書箇所の少し前には、天使ガブリエルから、結婚をしていないマリアが、神の子をさずかることを聞く話が書かれている。 ここで、マリアはとても複雑な思いもあったであろう。 世間からは、いいなずけのヨセフがいるのに、他の男性と交わったとして、殺されるかもしれない。 あるいは、逆に、世界最高の宝くじがあたったようにも思えたかもしれない。 そのようなマリアは、ガブリエルから教わった不妊の女といわれたが身ごもることができた親戚のエリザベトを訪ねる。 エリザベトは結婚していた。 ただ、もう子供はできない、50半ばをすぎたような年齢まで子供ができなかった女性だった。しかし子供が生まれることになったという意味では、異常ともいえる話なのだろう。 しかし、ガブリエルの語った「神にできないことはない。」という言葉に、マリアは多いに力づけられたのだろう。 そのような状況の中で、マリアは三ヶ月間、エリザベトの家に滞在する。 かなり長い期間だ。 この女性同士は、当時の生活様式から考えて、いっしょに、井戸に水を汲みに行くというようなことも当然あったと思われる。 しかし、彼女たちの会話は、現代、私たちが 使っている井戸端会議のような会話ではなかった。 エリザベトは「結婚もしてないのに、妊娠なんかして、いったいどうなんてんのよ。」というような話はしていない。あるいは、マリアが神の子をさずかるという話から、私は祭司ザカリアとの間に何年もかかって妊娠できだが、マリアは神の子をいきなり妊娠したわけで、そこに嫉妬心をいだいたりするようなこともなかった。 マリアの話を聞き、自分のおなかの赤ちゃん踊るのがわかったエリザベトは聖霊に満たされて、「マリア、あなたは女性の中で最も祝福された方」(41節)と声たからかに言う。 また、「主がおっしゃったことを必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と話す。 そこには、エリザベトもマリアも、ガブリエルを通して与えられた神の言葉を信じ、神の約束が自分たちに起ころうとしていることを分かち会うということが、ともに井戸に水を汲みにいったり、食事をする中で、起こったことを聖書は伝えているのだと思う。 そこには、神の言葉を信じる者の、分ち合いの根本が描かれている。 そして、それは現代の教会で起こる会話の根本でもあるのだと思う。 与えられた聖書の御言葉、マリアとエリザベトの話は、現代の私たちの教会生活にも密着しているような話だと思う。 私たちは、人間が肉体的に生きていくのに、水が必要なように、精神的・霊的に満たされていくには、命の水、命の源となる神の言葉が必要だ。 だから人々が井戸に出かけるように、わたしたちも、命の水が湧き出る、つまり聖霊とともに、神の言葉が湧き出る、礼拝に集う。 そして、教会に集まって、神の言葉を聞き、その言葉を信じる者同士が、自分たちに起ころうとしている神の約束をわかちあうということがおこっている。 その一連の、神の言葉を聞き、分ち合いをするなかで、たとえ悲しいくつらい体験だったり、あるいは恥ずかしい体験をした1週間だったとしても、御言葉を聞き分かち合いをするなかで、新しい1週間に向けて、希望と喜びを持って、歩みだせる。 今日、みなさんは、この礼拝堂という、命の水が湧き出る井戸、泉のようなところに来られた。 そして、神の言葉をいただき、聖霊に満たされた。 クリスマスイブ、そしてクリスマスを迎える、この1週間、神がそれぞれに、どのようなことを実現しようとしているのか、思いをめぐらせていただきたい。 12月24日のクリスマスイブに、また、12月27日の日曜日で、元気をいただけるこの礼拝堂で会いたい。 Not Just Chatting Beside a Well Luke 1:39-45 Let’s pray: Dear Lord, thank you for gathering us together on this Fourth Sunday of Advent. We pray that my meditation and spoken words are filled with the Holy Spirit and guided by your will. In Jesus’ name we pray, Amen. There is a phrase “Idobata Kaigi” which literally means “A meeting beside a well” or “Chatting beside a well.” However, for Japanese people, what impression do you have about “Idobata Kaigi?” Most probably, you have a negative impression about this phrase. Historically, women gathered around a well and chattied with each other for many minutes…or even sometimes for hours. The conversation could become “gossip” or sometimes they criticized each other. Therefore, “Idobata Kaigi” is translated as gossiping in English. However, is it always a bad thing for people, or women, to chat or speak with each other beside a figurative well? Are those conversations most often about negative matters?…or can they be positive? At Resurrection Lutheran Church, Japanese ministry, we have more women than men. And many women chat with each other before and after worship. I know that there are several people who confessed that they repent about inappropriate comments in the past and wish they could take them back. I think there are many good conversations though, too. By having conversations, somebody thinks that because of the words Mrs. A said, they are truly encouraged, or…
Tweet 2015年12月20日主日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アドベント、待降節、の最終日がクリスマスイブ。聖書日課では、クリスマスイブに詩編96編が与えられている。 今年のアドベントの最後の主日を迎えるにあたって、詩編箇所96編をじっくり読もう。 そしていつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編96編 1:新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。 2:主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。 3:国々に主の栄光を語り伝えよ/諸国の民にその驚くべき御業を。 4:大いなる主、大いに賛美される主/神々を超えて、最も畏るべき方。 5:諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 6:御前には栄光と輝きがあり/聖所には力と光輝がある。 7:諸国の民よ、こぞって主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。 8:御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り 9:聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。 10:国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。 11:天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ/海とそこに満ちるものよ、とどろけ 12:野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め/森の木々よ、共に喜び歌え 13:主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き/真実をもって諸国の民を裁かれる。 インパクトのある言葉として、10節から13節の言葉を挙げたい。 詩編作者の気持ちを想像しながら、詩編96編に書かれていたことを簡単にまとめたい。 1-3節では、すべての国の人々に新しい歌を歌って、主を賛美するように、呼びかけている。 4-6節では、主が天を造られたという、主を賛美する最大の理由が詠われていると思う。 7-9節では、だから主にひれ伏し崇拝するように。 以上9節までは、過去にも「詩編を読もう」でとりあげており、過去の記録を参考にして9節までのまとめを上記に再び書いた。10節以降は、「詩編を読もう」でははじめてとりあげているが、ドキッとすることを詠っている。すべての国々の王である主が、公平に裁くために来られる。だから天も地も、海とそこに住むものも、野とそこに存在するものも、すべて喜んで歌え! 主が来られて、世界を、そして諸国の民を、正しく真実をもって裁かれるのだから!! さて、この詩編96編を通して、主なる神は現代を生きている私たちに、今日、何を語っているだろうか? 表題に「戦争なんかやめて喜び歌え」と書いた。キリスト教徒にとって、本日クリスマスイブを迎えている。世界中では残念ながら国々が戦争をしてしまっている、あるいは民族が民族に敵対してしまっている、そのような状況にある。その中で、全知全能で、全宇宙を治められる主なるお方が、ご自分の創造してものすべてに対して、戦争なんかしている場合ではなくて、救い主の到来を覚えて、喜び、歌うように語っておられる。 第二次世界大戦中の実話として、クリスマスに際して、世界各地の戦場で、戦争を休止したということがあったと聞く。 しかし、与えられている詩編は、クリスマスだから、あるいは12月24日のイブだから、戦争をやめるようにとは詠っていない。キリスト教の教えるクリスマスとは、たしかに、神のみ子は、この世に来られたが、まだこれからも来られる、第二の到来があるから、それに備えるようにという意味も含んでいる。だから、今日以降ずっと、キリストの第二に到来に備えて、戦争なんかしている場合ではなくて、常に喜び歌っているように、詩編は導いているのではないだろうか? ミネソタ管弦楽団でチェリストとして活躍している磯村幸哉さんという方がいる。私は、セントポールにあるルーサー神学校在学中、磯村ご夫妻にはお世話になり感謝している。幸哉さんのお父様という方は、第二次世界大戦の体験から、子供たちには、武器など担いで世界に行って欲しくない。そして武器の代わりに楽器を担いで、世界に羽ばたくように、と教えたそうだ。幸哉さんのお兄様、和英氏は、東京カルテット(ニューヨークにある室内管弦楽団)の創設メンバーの一人でヴィオラ奏者。 またもう一人の兄弟が、ヨーロッパで音楽家として活動していると聞く。磯村ご兄弟の父上に、詩編96編の作者の思い、神の思いが、働いていたように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アドベント、待降節、あっという間に第四主日になる感じがする。今年のアドベントの最後の主日を迎えるにあたって、17日から20日までに与えられている詩編箇所80編1-8節をじっくり読もう。 そしていつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編80編 1: 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】 2:イスラエルを養う方/ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ/御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください 3:エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。目覚めて御力を振るい/わたしたちを救うために来てください。 4:神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 5:万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。 6:あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ/なお、三倍の涙を飲ませられます。 7:わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ/敵はそれを嘲笑います。 8:万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、アドベントにあって、2節3節に使われている「顕現してください」と「来てください」とい言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつ詩編80編を振り返りたい。1節に、< 「ゆり」に合わせて。> と書いてあり、ユダヤ教でゆりの花を飾った礼拝があったのかと思う。80編以外にも、45編、60編、69編でこの言葉が使われている。1節の最後には、「賛歌。アサフの詩。」となっている。アサフとはダビデの時代に音楽隊の中に出てくる名前(歴代上15章16-24節参照)。 ダビデの時代に生きていたアサフが詩編80編を残したのかもしれない。アサフの詩は、詩編の中に12編ある。2節から8節の詩の内容から、時代背景を想像したい。 上述したように、アサフはダビデの時代に生きていた。 ダビデの功績のひとつは、南北イスラエルの統一とよく言われる。イスラエルの民が、南のユダ国と、北のイスラエル国にわかれていたが、それが統一されていったという。 3節には、「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」とあり、これらは、北のイスラエル国に属する部族である。7節の言葉を読むと、「わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ」ということが書かれており、南北間で別れていたばかりではなく、同じ北イスラエルに属していた、エフライム、ベニヤミン、マナセのそれぞれの部族が、近隣の民の間で、対立しあっていたことも想像できる。アサフは、ダビデの指導力が発揮される前の時代から、部族間のいさかいも、また南北統一に向けても、信仰深く、神の力を信じ、顕現してください(2節)、来てください(3節)、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください(4、8節)と祈って、この詩編を歌ったのだろう。 さて、この詩編80編1-8節を通して、主なる神は21世紀を生きている私たちに、今日何を語っているだろうか? 私は、待降節にあって、「顕現してください。」「来てください。」と祈るこの詩編はとても、キリスト教の暦のなかで、ふさわしいと、もちろん思う。 そして、神はお考えがあって、この詩編を現代を生きる民に、しっかり読み、詠い、祈るように導いておられるのだと思う。 現代を振り返ると、この地球上で、さまざまな争いが起こってしまっているのは、多くのメディアが伝えるとおり。 中東で、東南アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、またアメリカでも、戦争にしろ、テロにしろ、あるいは家族内でのさまざまないざこざにしても。 このような時代に、落ち着いて、「顕現してください。」「来てください。」と主の到来を祈る、いろいろな意味で、私たち人類が壊してしまっている、この地球上の混沌とした破壊的ともいえるような状況から、この人類を救いだしてください。と祈ることが大切なのだろう。 その信仰が、すべての源にあるのではないだろうか? クリスマスの意味をしっかり覚える時となりますように! 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今年のアドベント、待降節は、第二週から第三週に向かいつつある。駆け足で過ぎていくような感じがする。日本語で十二月は「師走」と言い、普段は落ち着いている師匠すらも走るという季節なのかと思う。 しかし、この時期、立ち止まって、しっかり、御言葉に聴き入る時間を持つことをお勧めしたい。 今週も聖書日課では、通常は詩編を読むところで、詩編ではない箇所が読まれる。今週はイザヤ書が与えられた。12章を読むが、たった6節だけの短い章。 いつもの詩編を読むように、このイザヤ書12章でも、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、イザヤが預言した時の気持ちになってどのようなことを語っているか、よく考える。そして神はこのイザヤ12章を通して今日私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 1:その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 2:見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」 3:あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。 4:その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。 5:主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。 6:シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」 気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 私にとって、インパクトがある言葉は、1節と4節にある「その日には」という言葉。 預言者イザヤの気持ちを覚えつつ何を語っているか読んでいきたい。イザヤ書は66章からなり、一人のイザヤという預言者だけではなく、複数の預言者によって記されたと思われる。 66章のうち、最初の39章は第一イザヤと呼ばれ、神に背を向けてしまう紀元前8世紀ごろの指導者や民に向けて、辛口の預言がなされている。 そこには、人間の傲慢、神ではない人間の高ぶりが、大きなテーマとなっている。 しかし、「その日には」という言葉ではじまる12章では、そのようなイスラエルの民に、大きな変革の時代が来ることを、イザヤは預言している。1-2節では、イスラエルの民は、神は救い主であることがわかり、その神に感謝する時代が来ることを語る(1-2節)。 そして、枯渇した、いわば瀕死と思われるような状況に陥った民が、喜びのうちに救いの泉から水を汲むことができるようになると述べる(3節)。さらに、イスラエルの民は、その神を賛美し、世界の民に、神の救いを述べ伝えるようになる(4-6節)。 さて、このイザヤ12章を通して、主なる神は21世紀を生きている私たちに、今日何を語っているだろうか? 1節、4節にある「その日には」というその日とはいつのことを言っているのだろうか? 私は、紀元前から紀元後になる、イエスキリストの誕生以降の時代のことを言っているのだと思う。 一人の人間の誕生が、それは救い主の誕生だったが、2000年経っても、祝われ続けている。 それも、イスラエルからはじまって、西にも東にも、救い主降誕の知らせはひろまった。 さらに南半球にも、ひろまっていって、世界中で救い主降誕を祝う時代になっている。 人々は、神とは救い主、イエスであったことに気がつき、喜んでほめ歌を歌い、そして、さらに救い主がこの世に顕われたことを告げ続けている。 クリスマスである。 しかし、現実には、クリスマスを祝う人々は、世界中にひろまり、クリスチャンは25億人と言われても、とてもイエスキリストが救い主だとは信じられない人々、45 億人が世界中にいる。またとくに日本語を話す人々の中では、イエスを神と信じられる人の割合は圧倒的に少ない。主イエスの体である教会に集い、そのイエスの体の一部となっている一人一人のキリスト教徒が、全世界の民に、聖書の御言葉を伝え、クリスマスキャロルを歌い、主イエスの御業・主の憐れみと愛を、示し続けるように、このイザヤ12章を介して、神は導いておられると思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet アドベント、待降節、にはいり、最初の週の後半は、通常の聖書日課であれば詩編を読むところに、ルカ1章68節から79節が与えられている。 イエスの従兄ともいえるヨハネが誕生した時、その父がザカリアが賛美、預言した箇所だ。 旧約聖書の詩編ではないが、とても意味のある賛歌であり、預言である。 アドベントにあって、じっくり味わっていただければと思う。 68: 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 69:我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 70:昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 71:それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 72:主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 73:これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 74:敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 75:生涯、主の御前に清く正しく。 76:幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 77:主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 78:これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 79:暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace