Archive for June, 2013

Tweet 修養会招待状2013 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet Calendar 7, 2013 & 聖書日課 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 週報通算#1263号(日本語) 2013年6月30日の週報 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 佳代子バルサーさんのメモリアルサービスは、6月23日日曜日午後1時から行われた。沢山の美しい花に囲まれて、ご主人のDonさんが用意された佳代子さんの写真が、本当に嬉しそうに私達に微笑みかけているような、穏やかなメモリアルサービスだった。 私達の愛する友、佳代子さんは去年の7月までは元気に一緒に太鼓を叩いていた。彼女は何でも一生懸命するタイプだった。ラインダンスも、ゆうかりコーラスも、英会話クラスも、シニア太鼓も、いつも全力を尽くして頑張っていた姿を、まるで昨日の事のように思い出す。8月頃から身体の不調が原因で、礼拝やその他のクラスをお休みするようになった。私達は心配して電話をしたり、手紙をかいたり、メールを出したりしていたが、その度に彼女は「皆さんにご心配おかけしてすみません。メールの返信とか、返事はなかなか書けないので、申し訳ないです。」と、却って気を遣わせてしまった。私達は結局何もできずに、心を合わせてお祈りをし続けた一年だった。誰もがお祈りをしながら、きっと元気になって、また家庭集会や礼拝に出席できる日が来るに違いない、そう信じていた。だから、6月2日の礼拝も、均先生が特別に佳代子さんの事を祈り、私達も祈った。誰もが、まさか6月1日の土曜日に佳代子さんが天に召されたとは夢にも思わずに。 メモリアルサービスの準備の為に、何度か佳代子さんのご主人にお会いし、いろいろなお話をお聞きした。二人が知り合った時の事、病気になった後の佳代子さんの様子、佳代子さんの大好きだった様々な事柄、家族を思いやる佳代子さんの気持ち、一言一言語るご主人の言葉から、佳代子さんを思う気持ちが溢れ出るかのようだった。 メモリアルサービスは、ご主人の準備した思い出の写真集がスクリーンに流れ、花々に囲まれて和やかに笑っている佳代子さんの写真が飾られた中で始まった。ご主人は「彼女は最後まで戦った、あきらめずに頑張った。」と、最後の挨拶で語られた。Justin とMaikoさんは、佳代子さんがこよなく愛したお子さん達だ。お二人ともメモリアルサービスの中で思い出を語られた。お母様との思い出話を語るJustin とMaikoちゃんを見ながら、佳代子さんはなんと素晴らしい家族を築かれたのだろうか、と心から感動した。そして、お二人とも、佳代子さんのような、家族を一番に考える素晴らしい母親を持つ事ができて、本当に幸せだったと話された。天国で佳代子さんは涙ながらに聞いているにちがいない。佳代子さんがメンバーだったゆうかりコーラスの皆さんが、特別に「Believe」を歌い、日本語で歌っているのに、日本語が解らないと思える皆さんも一緒に涙していたのが印象的だった。私達は佳代子さんが好きだった讃美歌を沢山歌い、最後にご家族の後に続き、参列者一人一人が献花をして礼拝を終えた。 メモリアルのレセプションでは、何人かが佳代子さんとの思い出を語り、全員で佳代子さんを偲びながら、温かな交わりの時を持つ事ができた。メモリアルサービスが終わって5日目に、ご主人から感謝のカードが届いた。 開くと、中にプリントされていた絵は、佳代子さんが生前に孫達と一緒にお絵描きをしていた時に書いた絵だった。このカーネーションの絵は、ご主人が私にメールして下さったので、メモリアルサービスのプログラムに挿入した絵だった。私はそのカードを手にしながら、涙が止まらなかった。あんなに元気だった人が、 あんなに明るく、自分の事はいつも後回しにして他人の事ばかり考えてくれた人が、なんでこんなに早く天に召されたのか、神様のご計画は私達には解らない。しかし、私に解る事は、神様が私達の人生に送って下さった佳代子さんと言う素晴らしい友と、僅かの間だったが一緒に過ごせた事に感謝し、その思い出を大切にして行く事だ。佳代子さんの残して行った明るい笑い声を、いつも思い出しながら、私達の間で佳代子さんのイメージがいつまでも消える事が無いようにと 願って止まない。 佳代子さん、又逢う日まで、天国から私達を和やかな笑顔で見ていて下さい。 佳代子さんの絵 Kayoko was born in Kobe, Japan on April 29, 1944. She was a caring daughter and a dedicated big sister to her younger brother Koichiro. In high school in Tokyo Kayoko showed exceptional talent for music and art. She had a beautiful soprano singing voice. And she drew and painted in a vibrant, carefree style. Kayoko came to America in 1970. I met her in New York. She was beautiful. We shared a love of music and art…and a love for each other. We were married in Saint Luke’s Lutheran Church on Long Island on April 24, 1971. On December 7, 1975 Kayoko gave birth to our two wonderful children, Justin and Maiko. Kayoko was a loving, devoted and tireless mother. Years later she would bring those same qualities to her role as grandmother to our five grandchildren: Mia, Ryan, Nathan, Alayna and Emily. Family and friends were the most important things in Kayoko’s life. She loved family get-togethers and would spend countless hours decorating and preparing elaborate meals. Church was a special source of spiritual comfort and friendship for Kayoko. Kayoko lived her life with sincerity and a kind, pure heart. She was sunshine on a cloudy day. Don Balser Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 2013年6月27日 詩編を読もう:救いの確信 (詩編140)  今週読む詩編は140編。例によって、3回読もう。1回目を読み終わったときに、気になった箇所や言葉を書き留め、2回目は、自分自身にいったい神は何を語りかけているか、そして、3回目には、いったい神は自分の所属する何かのコミュニティ(家族だったり、復活ルーテル教会だったり、あるいは、全人類だったり)に何を語られているかを考えてみよう。    詩編 140 編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、さいなむ者からわたしを助け出し/不法の者から救い出してください。 3:彼らは心に悪事を謀り/絶え間なく戦いを挑んできます。 4:舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。〔セラ 5:主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください/わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。 6:傲慢な者がわたしに罠を仕掛け/綱や網を張りめぐらし/わたしの行く道に落とし穴を掘っています。〔セラ 7:主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 8:主よ、わたしの神よ、救いの力よ/わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。 9:主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。〔セラ 10:わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。 11:火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。 12:舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。 13:わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。 14:主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。 どのような言葉を、書き留められただろうか? ご自分に、またコミュニティに神は何を語りかけてると思われただろうか?  それぞれ考えられたことが、さらに、発展することを願い、以下、詩編140編の構成を振り返ってみたい: 2-6節は主への懇願とその理由:2節および5節で、詩編作者を苦しめ、主に従わずに挑んでくる者から、助け出し、守り、そして救い出してくださるようにという主への懇願の繰り返し。 3-4節および6節は、どのような状況であるかを描写し、救い出されたい切実さを訴えている。 7-9節はさらなる懇願の繰り返し:すべての節、最後の言葉は「ください」で終っていて、さらなる懇願の繰り返し。 7節では、主が願いを聞いてくださるように。8節では主が前に立って守ってくださるように。9節では、主に逆らう者の欲望やたくらみが達成されることなく誇ることがないように。 10-12節で主に従わない者の行く末:詩編作者であるダビデを包囲する者たちが、いったいどうなってしまうかが記述されている。 13-14節で主に従う者の確信: 貧しい者、乏しい者を主が助け出し、主に従う者たちが主と共に存在できることを確信している。  さて、みなさんはどんなことを考えておられるだろうか?  私は、この詩編で5節および9節に出てきている「主に逆らう者」という言葉が気になってしかたがない。そして10-12節の描写も気になる。 復活ルーテル教会では、23日の日曜日には佳代子さんのメモリアルサービスを行い、信仰者たちのコミュニティの中で生活されていた彼女は、今も主イエス・キリストと平安の中にあるということを確信できる。しかし、現在の世の中、特に戦後日本の文化に慣れ親しんだ方々の中に、いっさいの宗教を否定し、さらには神の存在を認めないと言われる方々がいる。実は、メモリアルサービスの当日、「うちは無宗教です。」という方針の方が亡くなっていたことを知った。残念ながらその方とは、キリストの話をする機会が訪れないままだったが、詩編140編を繰り返し読むなかで、「主に逆らう」という強い表現はしないまでも、神の存在を否定して生きておられる方々と、対話の機会をもち、神の恵みについて分かち合い、救いの確信をそれぞれの方が持てるように、導かれているように感じている。 亡くなった一家のお父様とご家族の上に主の慰めを願い、この願いも主が聞いてくださいますように。   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 6月20日 詩編を読もう: すべての人が主を認め(詩編22) 今週読む詩編は22編。いつもだったら、3回読まれますようにと書いている。しかし、今週は少々長い詩編の一部だけを読み、その前後関係も説明してから、また読んでいただきたい。なので、まずは以下の箇所、一回だけ読んでみよう:   詩編 22編 20:主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。 21:わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。 22:獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。 23:わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 24:主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 25:主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。 26:それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 27:貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。 28:地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。 29:王権は主にあり、主は国々を治められます。 一回読んで、どんな感想を持たれただろうか? 21節や22節に描写された状況を思うと、何故そのようなことになってしまったのか想像しがたい面もある。 そこで、この詩編箇所の前後について少々説明したい。 1) この詩編22編のはじめ、2節になるが、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉ではじまっている。 これはイエス・キリストが十字架に架かる前の晩、ゲッセマネで祈られた言葉。 2) またこの詩編の最後は、30節から32節になるが、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」 さて、22編の最初と最後の言葉をよく読んだ上で、あと2回でも3回でも20節から29節を読んでみてはどうだろうか。 私には、この詩編で詠われていた内容は、イエス・キリストが絶対絶命のピンチにおかれ、死に追いやられてしまう事、さらに復活する事も、紀元前数百年前の預言であったように思う。 また、26節と27節に書かれているようなことを実感し、毎週日曜日に集会(礼拝)に集い賛美している民が世界中にいる。 そして、28節にあるような、この世のすべての国、すべての民が、主に立ち返り、集会で主イエス・キリストを讃え、賛美するような時に向かって、歴史は歩んでいるように思う。つまりこの詩編箇所に書かれたことが、さらに何百年、何千年かかるのかわからないが、現実となる。 その主の司っておられる歴史の過程において、信仰生活を歩むようになった私たちは、この同じ時代に生まれている方々、それはこの世の人生の終点近くを歩まれている方々、人生のさまざまな通過点にある方々、この世の人生の始点に立った赤ちゃんたち、また、これから生まれてくる世代に向かっても、主イエスの恵みの御業を述べ伝える。  特に今、復活ルーテル教会で、信仰生活を送り、人生の終点を迎えた方とそのご家族への主の慈しみと慰めを祈り、また、あたらしい命を授かったご家族のことも思い、主の祝福があるように。 そして、復活ルーテル教会に集う方々、まだ洗礼を受けられていない方々も含め、そのすべての民に、主の豊かな祝福が注がれ続けられますように。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet “いったい誰に負債が無いの” ルカ 7:36-8:3 主イエスの恵みと福音が豊かにありますように! 今から私がする質問に手を挙げていただく必要はない。負債が無いという方おられるだろうか? 借金が無いという方いらっしゃると思う。  少々言葉を変えて質問したい。十戒、さらには、イエスが語ったもっとも重要な掟、「神を愛し隣人を愛しなさい」と言われたことと照らし合わせ、考えてみて欲しい。 これらの戒め、掟を守るかどうかが、罪をおかすかどうか。それで質問は、私たちの中で、罪を犯さない方がいるだろうか?  二つの質問をしたが、「だれが負債をおっていないか?」と「だれが罪を犯さないか?」という質問は同じ質問。  本日与えられた福音書の内容を見ていきたい。ファリサイ人の一人、シモンがイエスを食事に招いた。ここでファリサイとは、ヘブル語の「分離する」とか「区別する」という意味の言葉が語源。 それで、ファリサイ人たちは、自分たちは罪人とは異なるとして区別していた人々といえる。  シモンがイエスを食事に招いた理由は、イエスは神が送った預言者かどうかを区別するためだった。 食事の時がきたら、なぜか罪深い女が現れた。彼女はイエスの後ろから、イエスの足に接吻し、泣きながら涙でイエスの足をぬらし、そして、髪の毛で拭い、そして香油を塗った。  シモンは罪深い女がするままにするイエスをみて、とても、神が送った預言者などではないと判断した。  するとイエスはたとえ話をシモンに話しはじめる。 「一人の金貸しから二人の人が金を借りていた。一人は500万円借りていた。 もう一人は50万円借りていた。 しかし、どちらも借金を返すことができないため、金貸しはどちらも借金を帳消しにする。」 ここで金貸しとは、父なる神で、二人の借金をした人は、一人は罪深い女であり、もう一人は、シモンをあらわしている。 ここで、罪という言葉と負債という言葉に触れてみたい。 マタイ6章でイエスは主の祈りを私たちに教えてくださっているが、そのなかで、「私たちに罪をおかす者を私たちが赦すように、私たちの罪をも赦してください。」と普段私たちは祈っている。ここで罪という言葉になっている言葉は、ギリシャ語では、オフェイレマダという言葉が使われていて、それは、そもそも、負債のこと。   今週の福音書箇所に出ているたとえ話では、イエスは、財務上の負債を問題にしているのではなく、罪を問題にしている。 罪とは、十戒やイエスのもっとも大切な掟に表された指針から、外れたことを考えたり、行ったりしてしまうわれわれの現実を問題にしている。  イエスの足元に来た女は、彼女の負債、罪に対してどうすることもできなかった。彼女はその負債をとても返すことができなかった。神は、彼女を拒否することなく、受け入れ、愛され、赦され、そして生きる希望を与えてくださる。この話は、父なる神と子なるイエスキリストからの、赦しのストーリであり、これは現実の話。 神は、ご自分の創造されたこの世の人類が、自分たちではどうすることもできない罪を告白し、赦され、神との関係を回復し、強いては、兄弟姉妹との関係も回復することを望んでいる。ファリサイ人のように、自分たちは罪人ではないと区別するのではなく、自分たちも同じ罪人であることに気づいて同じ神の子供達、兄弟姉妹の関係を回復を願っている。 私たちは、神に対して大変な負債を負っている。 しかし、そのひとり子、イエス・キリストの十字架の死により、私たちの負債は免除され、私たちは買い戻されている。 最高のニュースは、われわれの負債は、今日また新たに、赦されたこと。  そして、イエスキリストが復活して、私たちの間に生きてくださることにより、私たちも希望と喜びを持って生きることができる。   今日は父の日。 日本語では、雷親父という言葉がある。 雷は恐怖を思い起こさせる。つまり、雷親父とは、「恐怖の父親。」 しかし、「かみなり」は同じ発音で、「神なり」とも書ける。 つまり「かみ(神)なりおやじ」という言葉の意味にとれないわけではない。   本日のメッセージの中心は、我々の罪を赦される父なる神が中心。どうかこの世の父親たちに告げたい。恐怖の男でいたいか、赦す男でいたいか。鍵となる質問は、「いったいだに負債が無いの?」「いったい誰が罪を犯さないの?」 みなさん、幸せな良き父の日を過ごされるように。 “Who Does Not Have Any Debt?” Luke 7:36-8:3 at LCR Grace and Peace to you in the name of Jesus Christ! You do not need to raise your hands to the questions I am going to ask now… Who, among us, does not have debt? I believe there are people who do not have any financial debt. Let me ask the question this way… Reflect on the Ten Commandments. Or just think about the two most important commands Jesus gave us, “Love God and Love Your Neighbors” Whether or not you keep these commands clarifies whether or not you sin. Who, among us, does not commit sin? Two questions: “Who does not have debt?” and “Who does not sin?” these are the same question. Let us look at the Gospel Text. Simon, a Pharisee invited Jesus to dinner. The word “Pharisee” comes from the word in Hebrew “perusium” which means to separate. So, the Pharisees, separated themselves from sinners. The reason why Simon invited Jesus was to see if Jesus is a real prophet that God had sent into this world.   When dinner time came, a sinful women appeared. She knelt behind Jesus at his feet, weeping. Her tears fell on his feet, and she wiped them off with her hair. Then she kept kissing his feet and putting perfume on them. When Simon saw what was happening and who the…

Tweet 週報通算#1262号(日本語) 2013年6月16日の週報 週報通算#1262E号(英語) Sunday English Bulletin 1262E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 6月13日 詩編を読もう: 深い淵の底に望みが (詩編130)  月曜には芙美さんのご主人デイビットさんの父上のお葬式があり、昨日は日本から来て結婚式を挙げたカップルがあり、その夕方には稲村ご夫妻に待望の赤ちゃん、蓮(Len)君の誕生、そして十日後には佳代子さんのメモリアルサービスを控えている。 この世の人生の始点、通過点、終点と、信仰上も重要なポイントを過ごしている方々とご家族の上に、神の祝福、励まし、慰めを祈りつつ。  今週読む詩編は130編。まずはとにかく3回読まれますように:   詩編 130編 1:【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 2:主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 3:主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。 4:しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。 5:わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。 6:わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。 7:イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。 8:主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。どんなことを考えられているだろうか? ざっとポイントを書くと、1-2節は、深い淵の底というどうしようもない状況に陥っている中、主を呼び求めいる。 3-4節は主が赦してくださらない限り、いったい誰が主を敬うかという訴え。 5-6節は主を待ち望む強い意思表明。 7-8節には主が救い出してくださることの確信。 日本で、第二次世界大戦以後に形成されていった文化は、赤ちゃんが生まれて神社には行くし、また年の初めには初詣も行く。結婚式となればキリスト教会かホテルで牧師か神父にお願いして式を挙げる。さらに、亡くなったらお坊さんにお願いして葬式をしてもらう。あくまで形だけの儀式的な宗教との関わりだけ、逆に言えば宗教とはあまり深く関わらない方が良いという考え方が主流のように思う。そのような文化の中で、20世紀後半に大半の人生を送ったという世代は、宗教にはあまり深入りしないという考えを持っていて、ある意味当然だと思う。しかし、いくら、宗教と距離は置いていても、自分や家族の人生のさまざまな節目に、どうしようもない状況は訪れる。 仏教で良く言われる「生老病死」という言葉に代表されるように、それはだれにでも訪れる通過点がある。それぞれに大変さがある。生まれるときの母子の大変さ、子供達が結婚するなりして子育てを終了した時などに感じる老い、また子供がいるいないに関わらず老いていく過程でさまざまな悩みやどうしようもない不安の訪れ、またこんなに苦しい思いをするものだったのかと感じる病にもなる。そしてこの世の人生の終点はかならずだれにでもやってくる。 生きていく過程で、どうしようもない状況に追い込まれた時に、この詩編130編の言葉は、とても参考になるのではないかと思う。いくら宗教から距離を置いて生きていこうとしても、神の存在を意識することは多いにある。 そして、人間の思いに関わらず、ずっと神の方から人間を愛してくださっている。  新約聖書に記された手紙のかなりの部分は、パウロによって書かれているが、パウロもそれをよく承知していた。パウロが記したローマ人の手紙8章35節から39節の言葉も記載しておきたい。  「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 詩編130編の言葉、さらにローマ信徒への手紙8章の言葉を読むことは、大いに、父なる神と子なるイエスキリストにおける希望と喜びを感じる。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]

Tweet 「医療の進歩にも神への感謝を」 ルカ7:11-17 牧師 安達均 江戸時代の平均寿命は何歳位だったかご存知だろうか??? 20歳代だった。25歳くらいとも言われている。 5歳までに亡くなる乳幼児死亡率が高く、40%とか50%とも言われており、その結果、現代に比べ平均寿命は極端に短かった。  江戸時代の終わりから明治時代にかけて、1850年から1900年の間、いわゆる西洋医療の導入に伴い、乳幼児死亡率は激減していった。 40%位だったものが10%程度にまでなってきた。 従って1880年代には、平均寿命は30歳代を超え、1990年には40代を超えるということが起こっていった。 つまり明治時代において、大変な医療の進歩が起こりはじめた。  みなさんの中に、5歳未満で大病したことのある方、或いは大病になるところだったという方が沢山いると思う。 といっても良い治療を受けるなり、予防接種などで、大病にならないで、済んだ方が殆どだと思う。私の場合は、祖父が結核で1960年に亡くなって、私は2歳で結核になっていたようだが、良い医療のおかげで、大事にはいたらなかった。  さて今日の聖書箇所、イエスが弟子たちと多くの群集とともに、ナインという町に入って行こうとした。 すると、ある未亡人が一人息子を失い、そのお棺が担ぎ出されるところで、大勢の人がそこに付き添っていた。  聖書によれば、その未亡人は信仰深い人だったとは書いていないが、イエスはその未亡人を見て、「憐れに思った、」と書いてある。 この憐れという言葉にちょっと注目してみたいと思う。 「憐れに思う」ってどういうことだろう?  日本語で簡単に言うなら、「かわいそうに思う。」ということかもしれない。 しかし、かわいそうに思うと言ってしまうと、「頭の中だけでそう思う。」という感覚に近いのではないだろうか? 憐れむという言葉は、ギリシャ語では、「スプランクニゾマイ」という言葉が使われている。 スプランクというのは、内臓のこと。 ニゾマイという言葉がついて動詞になり、不憫に思って内臓がちくちく痛んでくるということ。 イエスはその一人息子を亡くした未亡人を見て、憐れんだということは、内臓がちくちく痛むくらいかわいそうに思うという状況になり、イエスは心の底から、その未亡人のことをなんとかしてあげたいという気持ちになったということ。  そこで、そのまますれ違わずに、イエスはお棺に触って、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われ、その通り、若者は起き上がって、さらに話し始めた。  イエスが起こした奇跡のひとつが今日の聖書箇所に記述されている。 イエスはこのような奇跡をほかの場面でも起こしているが、実は、弟子たちも、後に、イエスと同じようなことを出来るようになる。 イエスの死と復活後、聖霊降臨後に、弟子たちが、起こした奇跡は、聖書に記述されている。   聖書に書かれたこのような話は、現代の私たちに何を語っているのだろうか? 私は、日本において、赤ちゃんが生まれても、5歳までの間に40%も亡くなってしまう状況は、イエスは不憫に思われていたのではないかと思う。そして、イエス・キリストの体を成すクリスチャンが、日本にも奇跡を持たらしたように思う。 明治時代に、多くの人々が医者になり、また、クリスチャンになっていった。 10年前に大正生まれの医師と話していたら、彼は明治時代の医者のことをよく知っており、彼が若かったころ、明治時代に医者になった人々を知る限り、半分くらいはクリスチャンでもあったと言っていた。  そのような医者たちの努力、祈り、神の憐れみによって、乳幼児死亡率は40%から10%にまで激減した。 さらに乳幼児死亡率は減って、今では0.5%にまで下がってきている。 このようなことも私は奇跡なのだと思う。  冒頭で述べたように、私は2歳で結核になっているが、今では、なにもなかったように、元気に生活して、神の御言葉をこのように伝えることができる。 このようなことができる裏には、神が私の母を憐れんで、58歳だった父を亡くすだけではなく、この幼子まで命を落とすのは余りにもかわいそうだと、憐れんでくださり、結核から解放してくださったように思う。  一人一人、神の祝福をいただき、私たちは生きることができ、そして、今日もこのように礼拝に参加している。 すべての神の配慮、祝福を認識できるかどうかにかかわらず、神は私たちを憐れんでくださっている。  私たちの存在があるのは、神の憐れみが私たち一人一人に働いているからであることを覚えよう。 私たちに、精神的にも肉体にもさまざまな困難や痛みがあるとき、イエス・キリストも実はその困難や痛みを共有してくださり、解放のため、もっとも良き道へ導いてくださっている。 その困難や痛みからの解放のため、キリストの体である多くのクリスチャンがかかわってきた、生物学や医学、さらに医療の進歩という神からの恵みにも感謝を捧げ、神を賛美しよう。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace [Translate]