Archive for February, 2015

Tweet 2月1日は、日本語部のメンバーはそれぞれ英語の礼拝に出られ豊かな礼拝の時が与えられたことを祈ります。 以下、先週の日曜、1月25日に姉妹教会である大江教会でのメッセージの内容です。 主の平安を祈りつつ。 安達 均 マルコ1:14-20 主イエスの恵みと平安が、主の呼びかけに応じて集まった一人一人の心の中に豊かに注がれますように! 現在はアメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区にある復活ルーテル教会から招聘を受けている僕(しもべ)が、本日、熊本県にある日本福音ルーテル教会九州教区の大江教会の礼拝に招かれ、主の御言葉を取り次ぐ奉仕の任に預かり、感謝するとともに、パシフィカ教区のビショップ フィンクおよび、サウスカロライナ教区のビショップ ヨースも、今回の訪問を覚え祈っていることを報告したい。 私は、熊本に来るのは今回で二回目のこと。一回目は1991年夏、普賢岳の噴火の被害がまだ生々しい頃、当時勤めていた、日本光電という会社のエンジニアとして、開発し発売したばかりの心臓カテーテル検査装置の納品説明。ちなみに天草半島の先端近くだったと思う。さらに熊本市内にある二つの病院への販売促進応援だったと思う。 「思う」というのは、仕事でどこの病院に行ったかという記憶はあいまいで、実はもっと忘れられない事件が起こった。羽田空港発、朝一番の熊本行きのANAに乗って来たが、私は窓際から二番目の席に座っていて、窓側には、32才だった私と同世代かやや年上と思われる女性が座っていた。月並みの挨拶をした後、世間話がはじまったが、私の悪い癖というか、ついついキリスト教会の話をしていた。彼女は熊本の方だったが、東京までわざわざいったのは、幸福の科学を信じており、大川隆法さんの講演を聴きに言ったという話をしてくださった。 熊本空港着陸間際に、突然彼女が、私の左手をぎゅっと握ってこられた。当時二人の子供がいて、私の妻は三人目を妊娠中だった私にとって、ちょっとまずい。しかし、もちろん彼女が突然、私の手を握ったのには理由があって、近づきつつあった台風のため、飛行機が大揺れに揺れ、飛行機が何十メーターか突然落とされるように揺れて、怖くなったから手を掴んだということだとわかった。彼女は、すぐに「あっ、ごめんなさい、」と言い、私の手をぱっと放した。その後、飛行機はすぐに着陸し、もちろんそれっきりであるが、彼女にキリストの愛が働いていることを祈っている。   さて、福音書はマルコ1章14節から20節。たった7節だけの箇所だが、大切なことが凝縮している。イエスの宣教の前触れとして、「悔い改めよ」といって登場した、ヨハネは、イエスの宣教がはじまるときには、逮捕されてしまい牢獄にいれられた。しかし、今度はイエスが、ヨハネと同じように、「悔い改めよ」といって宣教をはじめており、あらためて、「悔い改め」の大切さを覚える。  そして、宣教には、弟子造りが、とても大切で、宣教開始と同時に、イエスは今日の場面でいっきに四人の漁師を弟子にしている。なぜ、漁師なのか。当時、ガリラヤ湖の漁の技術がどんどんあがって、一人の漁師あたり捕獲できる魚の漁が増えすぎて、漁師の数が減ったほうがよかったのか、ということもあったのかもしれない。 ちなみに、私はそもそも大学は電気工学科だったが、電子回路のことを学んで、ハードウェアのエンジニアの卵となった。日本光電という会社に就職して、電子医療機器設計のハードウェアエンジニアとして就職した。 しかし、ハードウェアエンジニアは、最初てがけた製品は5人に対して1人がソフトウェアのエンジニアだった。しかし、私が二機種目を担当したときは、ハードとソフト一対一、そして三機種目を担当したときは、一人のハードウェアの設計者に対して、ソフトは5-6人ものマンパワーが必要になっていった。 そんな経験もしているもので、2000年前、ガリラヤ湖に漁師がたくさんあまるようになったということを想像してしまう。しかし、もっと大切な背景があったのではないかと思う。主なる神が、弟子を必要としていた。悔い改めて福音を述べ伝える人々が、もっともっと必要になっていく時代になって行くのが神の計画だったということではないだろうか。 現代においても、どんな職業をしていたとしても、あるいは大学でどんな専門教育を学んだとしても、宣教の業につくということは、大切に握っていたものを、思いっきりぱっと手放す必要も出てくるという現実があるのではないか。アンデレにしてもシモンにしても、漁師をしていて、魚を取る網がとても大切だった。  しかし弟子たちは、一生懸命、大切にして、メインテナンスしていた、握りしめていた網を、ぱっと放して、イエスに従った。   魚をとる網は、たしかにもういらない、しかし、イエスは弟子たちに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。  本日与えられている福音書箇所から、私たちは何を学んでいるのだろうか? いったい神は私たちにどうしろと語っておられるのだろうか? 今一度、イエスの話された「人間をとる漁師にしよう。」と言われたことをしっかり、耳を澄まして聞き取りたい。 弟子たちは、たしかに、網を捨てて、イエスに従ったことが聖書に書かれているが、イエスのほうからもう網はいらないということは一言もいっていない。魚を取るためのハードウェアの網はもう、手放して間違いはなかったのだと思う。 しかし、人間をとる漁師としては、やはり漁師時代に知り得た網のコンセプトはとても大切なのではないだろうか。いわゆるネットワーク構築。魚が網の中に入りやすくするような工夫があったはずだが、似たように、人々がネットワークに入りやすくなるような工夫があってしかるべき。  もともとは聖霊降臨、ペンテコステをもってはじまったひとつの教会が、多くの教会になって、ネットワークを構築しており、またそのネットワークをメインテナンスするということがとても大切であることを学んでいるのではないだろうか? 復活ルーテルは、26年の歴史の中で、主の慈しみとああわれみ、赦しの中で数々の復活ルーテル教会で受洗者を生んだ。近年では2013年から2014年で8人の受洗者が出た。しかし、それだけではない。神の不思議な導きの中で、日本福音ルーテル教会においても、日本とアメリカのルーテル教会のネットワークにひっかかり、復活ルーテルの伝道がなければこの方たちの受洗はなかったという洗礼者が、私の知るだけで、2014年は3人いた。イエスの弟子たちが一時はじっと握りしめいっしょうけんめい手入をしていたが、手放した魚を取る網。ハードウェアとしては異なるが、ソフトウェアとしては同じコンセプトのネット構築が、イエスの御心の中で、いまも起こっている。  本日のメッセージをしめくくるにあたり、ひとつの質問を持って終わりたい。おひとりおひとりにとって、「網」はなんでしょうか? つまり、握ったもの、掴んだもの、大切にしている形あるものが、それぞれあるのだと思う。 しかし、それは宣教、伝道する上で必要なのだろうか? 実は必要ではなくなったものものも多いのではないだろうか? ただし、その大切にしたものから、必ず学んだことがあるのではないだろうか? あるいは、みなさんのなかには、これから洗礼を受ける方々がいることも覚える。 いままでの人生で握り締めたもの大切だと思ったものが、これから洗礼を受けて、信仰生活を送るようになるとしたら、必要なくなるものがあるのではないだろうか? しかし、その大切だと思っていたものから、学んだことはなんなのか? 学んだことが信仰生活を歩む上で、決して無駄ではなかったことがあるのではないか?これらの質問に思い巡らしてもらいたい。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace