3月20日「わたしもそこにいた」2016 03 20 LCR Jpn and Eng

3月27日「復活ローラーコースター」2016 03 27 LCR Jpn

March 27 “Resurrection Roller Coaster” 2016 03 27 LCR Eng

2016年3月20日LCR日本語部週報通算第1392号

2016年3月20日の週報

March 20, 2016 LCR Japanese Ministry Sunday Bulletin

Passion Sunday English Bulletin 1392E

受難節もあと、一週間と少々。聖週間を前に、今週の木曜から、枝の主日(受難主日)の日曜まで、与えられている詩編は31編の新共同訳聖書では10節から17節。 いつものように、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編31編を通して今日私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。

詩編31編
10:主よ、憐れんでください/わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも/苦悩のゆえに衰えていきます。
11:命は嘆きのうちに/年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ/骨は衰えていきます。
12:わたしの敵は皆、わたしを嘲り/隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き/外で会えば避けて通ります。
13:人の心はわたしを死者のように葬り去り/壊れた器と見なします。
14:ひそかな声が周囲に聞こえ/脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし/命を奪おうとたくらんでいます。
15:主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/「あなたこそわたしの神」と申します。
16:わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
17:あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

気になる言葉やインパクトのある節はどこだろう? 私の場合は、15節の「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し」という言葉。 

詩編作者の気持ちを覚えつつ各自、1節づつ読んでいただきたいが、参考までに、1節に【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】となっている。 10節から17 節を読むだけだと、とても賛歌には、思えないかもしれないが、18節から最後を読むなかで、賛歌らしくなっていく。 また与えられた、10-17節のだけを読むなかでも、10-14節では、本当にどん底という感じがするが、15-17節には、主にある希望が詠われていると思う。ダビデも他の旧約聖書時代に生きた人々も、人生が急激に降下していくような感覚を味わうことがあったかと思う。そして、なにもかもうまくいかない。 しかし、そのような時にこそ、詩編作者には、主にある希望に頼るしかなく、事実、その主が導いてくださったことを体験して、喜びと変わっていったのかと思う。
  
さて、上記詩編が、現代に生きるわたしたちに何を語っているのだろうか。 冒頭にも述べたように、来週は受難週をむかえる。 イエスが十字架に架かってしまう週だ。この詩編は、イエスがこの世に人の子として登場した2000年前よりさらに何百年もさかのぼって詠われはじめたものだ。 しかし、まさに受難のなかにあるイエスが詠われている。 十字架刑を受ける数日前に、イエスがエルサレムに入ってくるときは、たいへんな歓待を受けるが、数日後に、事態は急変し、たいへんな虐待を受けることになる。 人生まっさかさまというところだろうか。 私たちの人生も、ジェットコースターが急降下するような体験をすることを否定できない。 突然のレイオフ、家族の死、信頼していた友人・知人からのうらぎり、等々。 そのインパクトは大きい。 しかし、ジェットコースターでは、その急降下の最中に絶対に、コースターから降りるようなことをしてはならないように、わたしたちも信仰から離れてはならないのだと思う。 詩編作者が、「なお、あなたに信頼し」と詠っているように。 そのような時こそ、主の希望、慰め、癒し、そして復活体験の前触れを感じ取れるのだろう。 どんな困難、みじめた体験、恥ずかしいことがあろうが、主の愛がわたしたちを離れてしまうことはない。 アーメン
安達均