Tweet テサロニケの使徒への第1の手紙1章1-10節 「神様の恵みを振り返ってみると」“Looking back at the Grace of God” 皆さん、テサロニケという名前の都市を聞いたことがありますか?この都市は地中海のギリシャの北にある都市で有名な漁港のあるところです。イエス様の使徒として伝道に励んだパウロはこのアジアとヨーロッパの境にあるテサロニケを2回尋ねました。そこでパウロはイエス様の福音を群集に語ったのです。そして3週間ほど滞在して次の都市へと伝道に励んだのです。その後パウロは彼の弟子であるテモテをテサロニケに送り、このまだ若い教会でクリスチャンがどのように育っているかを調べたのです。 今日のテサロニケの信徒への手紙はパウロがユダヤの土地の外のクリスチャンとなったテサロニケの人々への初めての手紙、それ以上にパウロの一番古い書簡です。新約聖書の21の書簡の内の7つの書簡はパウロによって書かれたものですから、キリスト教がユダヤの地を出て、地中海をめぐる外国の地の中でどのようにキリストによる神の国の到来を宣べ伝えたか、またどのようにしてイエス様の福音がユダヤ人だけでなく全ての世界の人たちに広まって行ったかを知る大切な手紙の文章です。 牧師さんは誰でもその人が一番最初に招聘された教会のことを忘れません。それは私にとって1979年から1983年にかけて牧会に携わったフィラデルフィアの教会です。今でも毎年クリスマスにはまだ手紙のやり取りをする人たちがいます。パウロはテサロニケでイエス・キリストについて語りました。イエス・キリストの愛とイエス様を信じる信仰による救いです。 皆さんパウロのことを知っていると思いますが、この人はユダヤ人で、パリサイ派という宗教団体の熱心なリーダーでした。また彼はイエス様を神の御子であると信じたクリスチャンを虐待した男です。多くのクリスチャンがこのパウロによって殺害されたのです。しかしこのパウロが、ダマスカスという町でイエス様に出会ったのです。イエス様の弟子を見つけ出したら、男女かまわず、縛り上げ、エルサレムに連行するという恐ろしいとこを行っているとき、彼は天からの光に照らされ、目が見えなくなり、「イエス様の声、それは、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」でした。イエス様の敵であったサウロはイエス様に出会うことにより回心を経験し、180度変わって今度はイエス様とイエス様の愛を宣べ伝える宣教師として一生を捧げたのです。今の時代のように電話はありません、E-mail もありません。手紙といっても郵便局がある訳でもない。誰かに頼んで持っていってもらった手紙は何ヶ月もかかって到着したのです。手紙の内容は「主に従うものとは」、「テサロニケでのパウロの宣教」、「神に喜ばれる生活」、「主の再臨」そして結びの言葉は「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という励ましの言葉です。この書簡がパウロによって書かれた最初の物ということを念頭の置いて初めの一章の言葉を読んでみましょう。「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」。さてこの言葉どこかで聞いたことがあるのを思い出しましたか? これはパウロ独自の手紙のはじめに書く挨拶です。その言葉を借りて私も説教の前に皆さんに挨拶するのです。そして、兄弟たち、あなた方のことをいつも神に感謝せずにいられません。特にあなた方の信仰による働き、愛による行動、希望の確信です。 パウロはいつも教会のことを神様に感謝しています。私たちも祈りの中で、私たちの教会を祈ってくださっていますか?教会とは建物ではなくその中にいる私たちのことです。神様の言葉を聴き、神様に従い、神様の愛を私たちの行動、私たちの言葉の中で実行すること、また感謝することです。神様の想像されたこの素晴らしい世界に住むことができること、私たちが神様からいただいている自由の精神、家族と友達、特に教会では私たちはすべて神様の兄弟、姉妹です。特に私たち、故郷の国から離れて、両親、自分の肉親の兄弟、姉妹と共に生活できないものにとって、お互いを、輝子さん、愛子さん、し倭文子さん、広子さん、誠史さんと一人一人、愛情を込めて呼ぶことのできることは大切です。考えてみると、私たちの中にお互いを日本にいた時から知っていたという人いますか?私はこの国に来てもう36年になりますが、高塚先生が日本のルーテル教会よりこの復活ルーテル教会に宣教師として派遣されたその翌年の1989年に新しい伝道の主事として南カリフォルニアに来たとき今ここにいる何人かの教会員にあったはずです。 なぜ宣教師が日本からアメリカに送られてきたか、またなぜこの復活教会が日本人の伝道の場として選べられたのかというと今主任牧師として働いているZimmerman 先生の前任者Foster 先生が是非ここで日本人伝道をしてください、私たちはそのために場所と経費を提供しますからとの熱心なお願いがルーテル教会のNew York の本部に出たからです。この先生は日本人贔屓であったことは確かです。家族を連れてきた高塚先生も燃えていました。あそこに日本人がいるよといわれるとそこに飛んでいった。Irvine のConcordia 大学に、アナハイムの聖書学院(LBI)に日本人の留学生がいるよと聞くとそこに行って学生さんたちを連れてきた。企業の日本人も今より多くいた。そこで日本人の礼拝を今の保育園の一部屋から初めたのです。日本人がラスベガスにいると聞いて、そこまで行って聖書を学ぶ時を持知Stewart道子さんが授洗されたとも聞いています。また、ある時は、日本人伝道を復活教会からどこかに移そうという動きもありました。しかし、先生の奥さんが癌で苦しんでいた事もあり、それが先生の苦しみとなって現れた時もあります。高塚先生の任期が終わり、田中先生が奥さんと共に宣教師として送られたとき、日本人の伝道は英語の復活教会とどのような関係を持っているのかとの問いが出され、それまで日本人伝道として、特別伝道費という自分たちの比較的大きなアカウントを持っていたものが、英語、日本語の一つの教会として一つのアカウントにするべきだという声が英語と日本語の会員から出されたのです。 田中先生は「それは一つにするべき」とはっきり言われ、それ以後、復活教会は二つの言葉を話す礼拝のある教会、しかし教会としては一つ。私達の教会はこのEvengelical Lutheran Church in America という名前の私たちの伝統を宗教改革を1517年に始めたマルチン・ルターの系統を受け継ぐ「キリストのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」の3つの信仰の基礎を土台とした福音派の教会です。ルーテル教会はプロテスタント教会で一番古い教会です。田中先生の次に宣教師としてここで働いた先生は、伊藤先生です。伊藤先生はロスアンジェルスに近いトーレンスというところでのルーテル教会で宣教師として働いていましたので、二つの教会の掛け持ちでしたが、エネルギッシュな方であった事は皆さん存知でしょう。伊藤先生はイースターの前の出来事であるPassover, それは過ぎ越しの祭りをこの教会で守ることを指導してくださったのです。ユダヤ人が、エジプトで奴隷として働かされていたときに出たモーセのリーダーシップによるエジプトからの脱出、そして遂にユダヤ人が自分たちの故郷、イスラエルの地に戻ったことについてのお祭りです。 それをイエス様は十字架にかかる前、12使徒ともに祝い、またこの儀式を今私たちの受け取るキリストの体とキリストの血による、私たちの贖いの儀式として下さったのです。 伊藤先生が2009年の11月に日本に帰ることになり、その時から宣教師が日本から送られるという形が終わりました。ここでの日本語での牧師はアメリカの中で育った日本語と英語のBilingual の牧師にやってもらうと言うことになり、そこで私が2010年の1月からここで牧会を始めるようになったのです。 はっきり言って私は日本語での伝道をしたことがなかった。30年に亘っての牧会は英語の教会でしたので、はじめは戸惑いました。私の家族は日本語が出来ません。私の日本語も、皆さんから「先生の日本語は時々おかしいですね」と、しかし頑張って行きましょうという皆さんの支えで、ここまで来たのです。 さて、教会の中でのトラブルがない教会はありません。それは教会も人によって運営されているOrganization である限り、人と人の意見の違いによって分裂するときもあれば、その反対に、いろいろな意見のある中で、主イエス・キリストが本当に私たちの救い主であると言う私たちの信仰告白をお互いが認める時、そこに聖霊の働きが加わって今まで分裂していた教会が一つの教会の組織になることがあるのです。 教会が、イエス様の理想とする信仰の場であって欲しいと考えるのはクリスチャンであるなら皆さんはそれは当たり前と考えるでしょうが、教会も神様の聖霊に満たされていないと争いの場になるのです。 イエス様が十字架にかかり死んだ。葬られた。しかし生き返られた。これは2千年前も今も多くの人にとって、信じがたい、信じられない出来事です。しかしそれを信じられない私たちの上に聖霊が下され、その聖霊の力の働きで、私たちはイエス様を神を信じることができるのです。神様を信じることができる、出来るようになったとは不思議なことですが、それは神様が私たちの心の中に入ってきてくださったからです。 ある人は言います。私たちはいい子にならないと神様から愛されないと。では、きかんぼうの子供、又は,放蕩息子というような者は神様から愛されないのですか? そこで質問があります。皆さんは今まで自分をきかん坊で年をとっても駄々をこねる人間と思っていますか? はっきり言って59歳の二人の成人の子供のいる、Looks like respectable person と皆さんから見られている岸野豊という、これは皆さんも今では馴染みのある牧師さんですが、その牧師さんともあろう人も、駄々をこねる、きかんぼうの子供になることが時々あるのです。(イヤ、時々じゃないよ、いつもだよ)と皆さんから言われてしまうかもしれません。牧師らしくしてくださいと言われても,でんでんむしが危険を感じると自分の殻の中に閉じこもってでて来ない時があるのです。最も皆さんはそんなことないでしょうが? しかし私たちすべては、所詮問題を持った人間です。そんな問題を持った人間同士の、人間ぐさい、罪をかぶった私、私たちの為にイエス様はこの世界に来てくださったのです。わたしたちの惨めさ、愛されるべきでない私、私たちの為に甦ったイエス様は、「心配しないでいいよ。私があなたの不完全なすべてを私の十字架の上で取り除いてあげたんだから、ほんとだよ,心配しないでいいよ。その代わりに、私の愛を皆さんにわけ与えてくださいね。それが、私の弟子としてのあなたの務めですよ」と言ってくださっているのです。 来月11月で、宣教23年目になります。私たちが一緒になって、心を一つにして神様に祈る時、そこに神様が、イエス様としていらっしゃるのです。本当です。それはが神様の私たちに下さった信仰のプレゼントです。神様が私と、私たちと共に何時もいるんです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
October 17th, 2011
2011年10月16日聖霊降臨後第18聖餐礼拝説教「神様の恵みを振り返ってみると」”Looking Back the Grace of God”岸野豊牧師
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Tweet 週報通算#1184(日本語) 2011 10 9W Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2011 10 Calendar C Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2011年9月25日は何回もお知らせして居ります通り {召天者記念礼拝」を行います。 週報#1182日本語 2011 9 25W 週報#1182WE Sunday English Bulletin(Memorial for All People) 1182E英語 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 聖霊降臨後第15主日召天者記念礼拝を行いますので この礼拝に是非ご参加戴きたくお案内申し上げます。 2011 9 25召天者記念礼拝招待状 召天者礼拝案内状2011English Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日曜日の礼拝が始まる時、聖壇の蝋燭に火を点す奉仕を毎週し続けた盧さん(ローさん、と私達は呼んでいた)が入院したと聞いたのは3週間程前だった。一時体調を崩されて礼拝を休んでいたが、元気になって息子さんと一緒に礼拝に出席し、再び蝋燭に火を点してくれていたのに、と皆で心配していた。 「盧」という名前からもわかるように、盧さんは日本人ではない。私達は日本語で礼拝をしている日本語部だが、典型的な多民族(Multicultural) 教会なので、私のように日本生まれの中国人や、台湾から来られた方や、最近ではまったく日本語のわからないハワイから来たサモワンの親子も礼拝に来ていた。盧さんも韓国人でありながら、全く違和感なく日本語部の礼拝に来られていた。ご家族は韓国の教会に行かれているということで、私達は後に盧さんと一緒に来られた次男のDanさん以外の方にはお会いした事がなかった。盧さんの病院がわかり、岸野先生が何度か病院に盧さんを訪ね、ご家族の皆さんとも話す機会が与えられたことは幸いであった。8月14日の日曜日の礼拝に突然盧さんの奥様が見えた。礼拝が始まって少し経ってから入って来られたので、どなたかわからなかったが、その日受付だった愛子さんが、「盧さんの奥様が来られています」と聖餐式が始まる時に教えてくれたので、即岸野先生に伝えた。岸野先生は礼拝の後、皆さんに盧さんの奥様、エスターさんを紹介された。エスターさんは日本語が解らないけれど、皆さんの親切にお礼を述べたくて来ました、と頭を下げられた。そして数日後岸野先生と大橋さんが盧さんをお見舞いに行った際、病院から出てくるエスターさんと偶然に会い、盧さんが病院からホームに移ったという事を聞いた。そして後日ホームの方にお見舞いに行きますと話したばかりなのに、盧さんはその日天に召された。8月18日の夜か、19日の未明だったそうだ。あっけなく逝ってしまった。 メモリアルサービスを即行いたいという家族の依頼を受け、8月22日の月曜日、午後12時から、先ずは日本語のメモリアルサービスをし、その後韓国語で行うという事が岸野先生とご家族の中で話し合われた。盧さんがイベントの度に皆さんの写真を撮っていたのを覚えているが、盧さんの写真は見た事がない。私はメモリアルサービスのプログラムに盧さんの写真を載せたくて、2年程前に教会の住所録を写真入りで作成したのを思い出した。その写真をカメラで写して愛子さんにも送った。9月25日に行われる召天者記念礼拝の時にもこの写真を使いたかったので、愛子さんに印刷してもらうためである。土曜日の夜遅く、メモリアルサービスの原稿を受け取った私は、どうにか日曜日の朝早く教会に行ってプログラムを完成したいと考えた。Publisherというプログラムを持っている愛子さんに、真夜中で申し訳ないとは思いつつ、とにかく岸野先生から原稿をそのプログラムに入れて教会のコンピューターに送るように依頼した。日曜日の朝、8時半からプログラムの作成をし、10時半には讃美歌の折り込みもきちんと入って、全ての準備が整った。一安心である。盧さんのメモリアルサービスはきっと盧さんが喜んでくれる素晴らしい礼拝になると思った。 月曜日の朝、10時過ぎに教会に着いたが、お花はまだ届いていないようだ。11時までに届かなければ電話しなくては、と思っていると民さんが来た。忙しくなる前に何か食べてこようと二人で簡単な食事にでかけ、11時過ぎに教会に戻ってみると、祥子さん、安松さん、愛子さん、小夜子さんがすでに来ていて、お花も届いていた。祥子さんがてきぱきと礼拝堂の入り口のテーブルに白のテーブルクロスを掛け、聖壇の前に献花用のテーブルも用意された。盧さんの写真入りのプログラムもきちんとテーブルに並べられた。 11時半には Viewingの為に盧さんのご遺体が運ばれ、ご家族の皆さんが盧さんの写真と、メモリアルサービスのサイン帳を持って来られる事になっている。11時45分頃、連絡を受けた盧さんの旧友、また日本語部のメンバーが一人一人礼拝堂に入って来られた。祥子さんとプログラムを手渡しながら、「まだご家族の方はお見えになっていませんので、サイン帳はありませんが、どうぞ中にお入り下さい」とご挨拶をし、お互いに顔を見合わせながら「どうしたんでしょう?」と首を傾げ合った。もうすぐ12時という時に、岸野先生がエスターさんの携帯に電話を入れた。誰も出ないと言う。いよいよどうにかしなくてはと思った私は、祥子さんに受付を預け、礼拝堂の中に座っている愛子さんの所に足早に行き、「愛子さん、盧さんの写真をプリントしてくれた時に、大きいサイズもプリントしたと言ってたけれど、それはまだある?」と聞くと「日本語部の机の上に置いてあるけど」と答えた。よかったー、写真があった。愛子さんが「でも額に入っていないけど」と言う、それはどうにかなる、写真さえあれば、と私は思った。実は愛子さんに写真を送った時、愛子さんは召天者用の5X6の写真と、もひとつ大きなレターサイズの写真も印刷して来てくれたのだ。ご家族の方が大きな写真を用意されるという事だったので、印刷したレターサイズの写真はそのままになっていた。礼拝堂の入り口に戻ると、ちょうど岸野先生の携帯が鳴った。教会の住所を聞かれているらしいが、どうも様子がおかしい。とにかく今やらなければと思い。日本語部のオフィスに走った。階段をものすごい勢いで駆け上り、オフィスの鍵を開け、机の上に置かれた書類の中から盧さんの写真を見つけ、オフィスの中を一回り見回して、これだと思う黒枠の額を見つけた私は、机の上に飛び乗りそれを外し、盧さんの写真をその額のガラスの上に貼った。これでメモリアルサービスが始められる!額を抱えて礼拝堂に戻ると、岸野先生の顔が全てを語っていた。私と祥子さんが心配していた通り、ご家族は葬儀場で私たちを待っていたとのことなのだ。そして韓国語の礼拝はそちらで行うらしい。私達参加者だけで、家族無しのメモリアルサービスを始めるよりほかしかたない。 何事も無かったように、私は盧さんの写真を貼った額を抱え、静かに聖壇に向かって歩いて行った。三脚に盧さんの写真を静かにのせ、聖壇の前に献花のテーブルを置き、「岸野先生、始めましょう」と落ち着いて言う。神様、どうぞ導いてください、このメモリアルサービスが盧さんを偲ぶ良い礼拝となるよう、あなたが私たちの心を整えてください、と祈りながら。 始めに盧さんへの献花をしていただく。お一人お一人に花を渡す時に涙をこらえるのが辛かった。そして礼拝が始まった。心を合わせて盧さんを思い、讃美歌を歌った。岸野先生が、盧さんがいつも蝋燭点火の奉仕をされていたこと、食事の交わりの時に、いつも悪ふざけをして、皆から「盧さんだめよ」と言われていた事、などを話した。確かにいつも盧さんは私のお皿から食べ物を取ったり、毎月最終日曜日に行うお誕生日会では、「今月のお誕生日の方、手を挙げて下さい」というと一番先に、毎月手を挙げていた。とにかく冗談がすきな盧さん、悪ふざけが好きな盧さんだった。礼拝の後は全員で盧さんの写真を囲んで記念写真を撮り、参加者の皆さんにサインをしていただいた。その後、ご家族の方が既に行かれているレストランへと、何人かが日本語部を代表して参加された。 私と祥子さんは後片付けもあるので、レストランでの集まりはご遠慮させていただいた。礼拝堂の片付けをし、私は最後に入り口の鍵をかけ、盧さんの写真の貼った額を胸に抱えて日本語部のオフィスへとゆっくりと歩いて行った。盧さんの顔を見ながら、「盧さん、最後まで悪ふざけはないよ、今日の冗談はちょっときつかったよ。」と言うと、まるで盧さんが、「私は何もしていませんよ」といつものように含み笑いをしながら私を見ているように思えた。急におかしくて、おかしくて、笑いがこみ上げて来た。盧さん、最後の最後まで私を笑わせてくれて、本当にありがとう。天国ではあまり悪ふざけはしないようにね。全く私達が計画した通りには行かなかった今日のメモリアルサービスだったが、全てが神様に守られ、全てに神様のみ力とお導きがあってこそ、行う事ができたメモリアルサービスであったことは、参加者の全てが感じたことであろう。泣いたり笑ったり、岸野先生にとっては冷や汗だった今日のメモリアルサービス、きっと誰よりも、いたずら好きの盧さんが一番喜んでくれているに違いない。 2011年 8月22日 芙美 Liang 記 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace