Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet マタイによる福音書17章1-9節 「山上での経験」  “Mountain Top Experience”  私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。  今日は来週で終る顕現節から、来週から始まる受難節の間に来る変容主日です。イエス様が弟子のぺテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登り、そこでイエス様の顔が太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。叉、イエス様は旧約聖書の時代のユダヤ人のリーダーのモーセ、偉大な預言者エリアとともに語り合ったという記事です。 ところで変容という言葉、私たちは日常の生活の中であまり聞かない言葉ですが、それは何を意味しているのでしょうか?この言葉を聞いて私の思うのは昆虫の幼虫が在る時さなぎになり、それがしばらくすると蝶と変身していくことです。蛙の卵がおたまじゃくしになり、おたまじゃくしの尻尾がなくなって今度は蛙になるのです。 息子のAndrewが小学校のころ彼の一番好きなおもちゃはTransformer というもので、それは外見トラックなのですが、それをいじくっているうちにロボットに変わってしまうのです。そう言えば、昔白黒のテレビで見たDaily Planet という新聞記者のクラーク・ケントも事件のあるたびに、正義の味方のスーパー・マンに変身した男でした。 マタイの福音書の中で言われているイエス様の変容、Transfiguration とは、いったい何を示すのでしょうか? 旧約聖書の中で、今日のイエス様の変容とよく似た話があります。それはモーセがシナイ山に登った話。その山頂で神様はモーセに10の戒め、つまり10戒を与えた話しを皆さん覚えているでしょう。 このモーセの話によると、モーセがシナイ山に登る前の6日間雲によって囲まれたとあります。イエス様の変容の記事も6日の後というこの6日と言う言葉に第一の共通点があります。モーセもイエス様も山に登ったのです。聖書には山に登るということが神秘的な意味を持っていて山頂で神様の声を聞いた、神様の聖霊を受けたと言うことが沢山書かれています。 私の知っている一人の韓国人の牧師さんはアメリカの教会で按手礼をうけた後、韓国に10日戻り、その内の殆どを山にこもって祈り続けて彼は神様との会話の時を持ったのです。ただし、そこは同じように山にこもって祈りをしていた牧師さん達でいっぱいだったとも聞きました。これは韓国人の牧師さんには人生の中で一回はしなければならない修行だそうです。 私は富士山に高校生の時一回、そして叉10年ほど前、息子のアンドリュウを連れて登りました。山の8合目で一泊して朝の3時、まだ暗いうちにおきて、フラッシュ・ライトを照らして山頂まで日の出になる前に寒さに震えながら登ったのです。山頂の鳥居の所で、雲の下から出てきたまぶしいほどのご来光を息子と一緒に経験しました。そこで神様の作られた自然の神秘さを心を中に感じました。 アポロ宇宙船に乗って地球を遠く月から見ることのできた宇宙飛行士の多くも、山上とは言わないまでも、神様の作られた素晴らしい地球を見て神様の霊に触れたとも聞いています。人間はこのように神様、あるいは神様の創造された偉大な何かを見ることで心を動かされるのではないでしょうか? さて、元に戻ってイエス様が3人の弟子を連れて山に登った記事とモーセがシナイ山に登った話に戻ります。確かにイエス様は弟子の、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登りました。モーセもアロン、ナダブ、アビフをつれてシナイ山に登りました。モーセはこの山で神様と出会った時から顔が光り輝き、山を降りた時、恐れうろたえた人々のためにベールを顔にかぶったと聖書に書いてあります。 同じように今日のマタイによる福音書の記事にペトロ、ヤコブ、ヨハネは山上でイエス様と一緒にいた時、イエス様の顔が太陽の光りのようになり、着ていたものが真っ白に輝いたと書いています。 ユダヤ人は子どもの時からこのモーセのシナイ山の経験を会堂でのラビの説教の中で何回も、何回も聞いていたはずです。イエスに従ってきた人たちの多くも始めはユダヤ人でしたから、山上でイエス様の顔が太陽のように光り輝いたと聞いたときイエス様の経験をとモーセの経験がなんとなく同じようなものと思ったに違いありません。然しこの二人の顔が輝いた、そこに少し違う輝きさがあるのです。 モーセは神様と共にいることで神様の光りを吸収して光ったのに比べ、イエス様が光り輝いたのはイエス様が神様の栄光を自分のうちにすでに持っていたからです。つまりイエス様は父である神様と一体なのです。イエス様は神様からおくられた者、いやそれ以上にイエス様こそ私たちの救い主であることをこの出来事をこの光り輝くイエス様の姿、叉そこに、旧約聖書のヒーローとも呼ばれるモーセと偉大なるエリヤと呼ばれた預言者と共に現れたことで、イエス様こそ本当の救い主ですとこの福音書を書いたマタイは宣言しているのです。 このように神様自身が私たちの日常の生活の中に現れる、そこに神様の霊を感じるということは多くの人が経験しています。神様の霊を心の中に感じたそのとき神様はここで私達と共に生きている、それ以上に私たち一人ひとりに神様のみ心にかなうことができるよう力と精神を与えてくれるのです。 私たち、日本語の教会は礼拝出席は25人ほど、数からしたら小さい群れです。然し、私たちは、ここに集う一人ひとりを主にあっての兄弟、姉妹として大切に接していく仲間です。そこに今日の変容とは言わないまでも、英語で言うTransfigulation と言う心の動きを私たちは人生の中で感じているのです。 その一つの例は3月2日に神様の元に帰られた静子Genewichさん、 私がここに来るようになって一年半がたちますが、小栗さん、Susie Bacon さん、淀川さん、中内さん, Mark Porterさんと先に此の世から神様の元に戻った信仰の先輩を覚える時、悲しくなるのは人間として当たり前のことですが、それ以上に私たちも心の中で何時かは、私たち一人ひとりも神様の所に帰っていくのだと言う希望を育てているのです。 人生のうち起こる疑問、悲しみからイエス・キリストを信じる信仰によって、いや、イエス様自身が私たちに下さった信仰によって私たちはTransform, Transfigure されつつあるのです。 ですから、信仰を持っている人は幸福です。神様が人生のどんな時でも一緒にいてくださるこことを知っているからです。祈りましょう。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet         マタイによる福音書5章13節 「あなたはこの世の塩」”You Are The Salt of The Earth” アメリカで有名な新聞に出るコミックにスヌーピーとう犬の漫画があります。この漫画の中での主人公であるCharlie Brown は或る日、女友達のPeppermint Patty からこう言われました。「私ね昨日クラスの授業中に先生から態度が悪いと言われて、校長先生のところに呼ばれたの。それってあなたの所為よ。」「何で僕の所為なの」とCharlie Brown。「だってCharlie Brown, あなたは、私にいい影響を与えていないからよ。」 さて、それは理屈ぽい言い方かも知れませんが、確かに私たち一人ひとりはこの世の中で他の人によい影響をもたらす者になってゆくことを求められているのです。 今日の福音書はイエス様に従う者はこの世の塩となりなさいと言う忠告です。これは イエス様自身が説教なされた山上の垂訓から出てきた言葉です。イエス様は彼に従ってゆく人たち、イエスさまの弟子といわれる者は、みんなの中でPositiveな影響を他の人々に与える者となりなさいと言うことです。 その福音書の言葉をもう一度聞いてください。「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれ、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」 私たちイエス様に「あなたは此の世で塩となりなさい」と言われる理由はなんででしょうか? 塩が大切なものであることは皆が知っています。塩は色々な使い道がありますが、イエス様の時代に、塩はまず最初にお金の代わりに使われていたことを知ってください。ローマの兵隊たちは給料をある時はコインで、ある時には塩で受け取っていたのです。英語で給料はSalary ですが、その言葉の語源はラテン語のsalarium、つまり塩です。塩がお金の代わりに使われていたのです。いまでこそ塩はどこでも手に入いるし、塩はそん塩と言えば、食卓に置いてある小さなガラスのシェイカーが目に浮かびますが、ごく当たり前の必需品であり私たちはあまり塩のことを毎日考えることはありません。然し私たちの生活は塩なしでは成り立ちません。考えてみてください。日本で終戦直後、食べ物が無くてひもじい思いに駆られたこと覚えている方、この中に何人もいるはずです。 私の父の家族は東京で終戦直前に落とされた焼夷弾で1945年に家が全焼しました。それは父の家だけでなく東京の1/3が焼け野原になってしまったのです。お米なんてそんな贅沢なものは無い。やっとかぼちゃを育てて、その茎まで食べた時代です。何を食べても味が無かった。せめて塩があったらなと思ったと、そんな話しを母から小さい時よく聞きました。 私は塩holicであまり塩分を取りすぎると血圧が上がるよと何時も注意されていますが、子供の時からご飯に醤油をかけて食べるのが大好きです。ところで、最近、Wendy というハンバーガーのお店で、ハンバーガーとフレンチ・フライを食べた時、これまたいつもと変わってすごくおいしかった。その理由はそのお店で使っている塩が海水から作った塩で、これがまた美味しいのです。 塩は食べ物を保存する力を持っていることは皆さんのご存知のとおりです。冷蔵庫の無かった時代には肉や魚に塩を振りかけておくと腐らない、あるいは腐りにくいと言うことです。桃屋の江戸紫、梅干のおにぎり、塩気の多いものですが、思っているだけでよだれが出てきます。 クリスチャンは長い歴史の中でこの世の塩であるといわれます。それは何かと言うと世界の至る処で、イエス様に従うわたしたちはこの世の中でPositiveな影響を与えてきたからです。 その一番とも言われるキリスト教の貢献、contribution は一人ひとりの人間の命の尊重です。孤児院、老人ホーム、病院、赤十字という施設はキリスト教の中から出てきたものが沢山あります。例をあげて言うならば、東京にある聖路加病院は英語で、St. Luke Hospital ですがこれはキリスト教の精神を持って始まった有名な病院です。 同じようにキリスト教は人間教育、人格育成をイエス様の愛に根ざした学校、大学の設立に力を入れたのです。この国で、叉日本でも、長い歴史をもった多くの私立の大学はクリスチャンUniversityが多いのです。Harvard University は Unitarian 教会の中で、Princeton University もPresbiterian 教会によって設立されました。聞きところによるとアメリカの私立の大学の 65%も、その歴史が教会によって始められたといわれています。Los Angeles で有名な USC, (University of Southern California) もメソジスト教会によった始められた大学です。この大学のマスコットはいまこそTrojan (トロイの勇士)ですが、昔はFighting Methodist (戦うメソジストの勇士)だったのです。 日本でもキリスト教の精神に基ずいて始められ大学がProtestant派の教会の中で56校、カトリック派の中で20校あります。其れがどんな大学であるか、例を挙げるなら、同志社大学、明治学院、九州ルーテル学院、ルーテル学院、国際基督教大学、玉川大学、青山学院、聖心女子大学、東京女子大学、津田塾大学、西南学院です。皆さんのほかに知っている日本のキリスト教学校、特に其れが皆様の母校でありましたなら、今教えて下さい。私の両親は私にキリスト教の精神を持った立教大学、そして弟の高志に青山学院に入れたことを神様に感謝したとよく言ってました。 ところでアメリカの教会が一番燃えていた時代はいつだったか知ってますか?それは第二次世界大戦の後1946年から1970年にかけてです。アメリカの中で今ある教会の40%がこの時代に築かれたのです。このLutheran Church of Resurrection も1956年に始まったのです。同じ1946年から1970年にかけて、アメリカの教会は世界中の国々に宣教師を送り出したのです。私の両親もイエス様を救い主として受けルーテル教会のメンバーとなったもこの時です。私の人生の中に神様を愛する牧師先生、宣教師の方々、両親の信仰、それらが此の世の塩となって私を導いてくれたと信じます。 皆さんの中にも皆さんをイエス様への信仰に導いた何かの経験、福音の言葉、あなたを温かく見守ってくれた信仰の友、信仰の先輩がいるはずです。それら全ての人はイエス様の愛の心を持ってあなた達に人を愛する、人に愛される喜びを教えてくださったのです。 イエス様に従う、塩と呼ばれたわたし達は私たちの思い、行い、祈りを持ってまだイエス様の愛を知らない人に、神様の福音を分かち合うことが必要です。 私たちはイエス様から戴いた恵みによって生かされている喜びを、まだイエス様を知らない人たちに言葉で語ることだけでなく、私たちの生活の態度の中で現して行くのです。 最後に皆さんの中で聴いたことがある、Mahatma Ganhdhi 、50年も前のインドの首相が行った言葉を紹介しましょう。 インドに宣教師として宣教していた人がGanhdhi に聞きました。「キリスト教がインド人になじめない一番の理由はなんでしょうか?」Ganhdhi さんはこう答えました。「その理由はクリスチャンです。私は聖書を素晴らしい人生の教科書、人間の精神を高める神様からの本だと信じますが、その教えを守らないクリスチャンがあまりにも多すぎる。クリスチャンがクリスチャンであることはその人の態度で表される」と答えたそうです。 それに私はアーメンと答えます。クリスチャンだと言いながら、イエス様の精神、イエス様の人を愛する精神が人生の基本になっていなければ、私たちも塩気のなくなった人間になってしまいます。 もうひとこと言います。イエス様は「わたしたちは皆、地の塩となることができる。」あるいは「あなたたちは地の塩であるべきである」と言っているのではありません。イエス様は今ここで「あなたは地の塩である」と宣言されているのです。そのことを心にこめて私たちの毎日の生活が神様の御心にかなうものとなりますように祈ります。 アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace