Tweet 日本語は右をクリック2016 04 17 LCR Eng edit Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本語2016 04 03 LCR Jpn English2016 04 03 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 3月20日「わたしもそこにいた」2016 03 20 LCR Jpn and Eng 3月27日「復活ローラーコースター」2016 03 27 LCR Jpn March 27 “Resurrection Roller Coaster” 2016 03 27 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本語 2016 03 13 LCR Jpn English Sermon 2016 03 13 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2016 03 06 LCR Jpn 2016 03 06 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 使徒 6:1-7 ヨハネ 14:12-18 恵みと平安が会衆の心に豊かにそそがれますように! 1月に紹介されたように、復活ルーテル教会は、ステファノミニストリーの教会として登録され、Kathy McGriff と私は2月始めにリーダシップの研修会に参加してきた。その時学んだことをとくにこのメッセージの後半で述べたい。 始めて教会の門をくぐったときの経験覚えておられるだろうか? 親が教会に行っていたから、ついて行き、なんの抵抗もなく子供のときから教会に来ておられる方もいる。 しかし、みなさんの中には、たいへんな思いをして、なにかつらくてしょうがないことがあって、教会の門をくぐったという方は必ずいると思う。 この復活ルーテル教会においても、人生のさまざまな困難を経験しておられる方々のことを毎週祈っている。 それに加え、カール牧師と私は、はじめて教会に来られた方々をWelcomeし、なるべく話をするように心がけているが、重荷を負って、この教会にはじめて来られたという方々は決して少なくない。 さて、与えられた聖書の箇所に触れていきたい。 今日は、聖書日課の福音書ではなく、まず使徒言行録6章1節から7節に書かれた内容に触れたい。 キリストの初代教会において、苦情と言うものが出たという:)。 現代の教会とも似ている状況があるのかと思う。 私はもし、苦情が出ない教会があったら、それこそ教えていただきたい。 もっとも苦情という言葉はニュアンスがただしく伝わっていないかもしれない。 不満だけではなく、心の悩みや、意気消沈してしまうようなことも含まれていたのかと思う。 そのようなことを言い出したのは、未亡人の方々だった。 しかも、おそらくヘブライ語を話すユダヤ人中心の初代教会にあって、ギリシャ語を話す未亡人、つまり、とてつもない心の痛手をおった方々の悩みが聞こえてきたのだ。 それに対して、使徒たちは、真剣に対応しようとしている。 12人の使徒たちは、弟子たち全員あつめて、話あっている。 使徒たちは、御言葉の奉仕がまずは一番なので、それをおろそかにして、苦情対処にあたるわけにはいかないと考えたが、かといって愛と正義の奉仕をおろそかにもできなかった。 そして、食事の世話となっているが、食べ物の割りあてだけではなく、苦情以上のなにかがあったのだと思う。 悩みの解消、心の安定のために、愛と正義の奉仕にあたる、霊に満ちた弟子、ステファノを先頭に7人が選ばれた。 この7人は、ただ、食事の世話以上の、霊的なケア、癒し、を実現したのだと思う。 結果として、ただでさえ初代教会は、弟子の数が増えていたが、ますます弟子の数が増え、それまではユダヤ教の司祭だった聖職者たちも、悔い改めて、キリストの信仰に改宗する者もどんどん出てきた。 さて、初代教会で起こったことから、現代の教会は何を学んでいるのだろか。 実は、このようなステファン他の、働きに注目して、ルーテル教会の牧師だった、ケネスハーグ牧師という方が、信徒たちにSOSを求めた。 1970年代の半ば、ケネス牧師は、17名の方々のパストラルケアをする状況に見舞われていた。 17名の家なり病院なりを訪問するだけでもくたくたになる。 その上に、もちろん御言葉を告知する奉仕も、教壇から行なった。 しかし、その時のことを思うと、とても17名のかたがたに、自分が良いケアをできたとは思えなかったと振り返る。 そして、教会の信徒の方々で、霊に満ちた方々、9名にお願いして、パストラルケアの基礎について数日間教えたそうだ。 そして、彼等のことを、「ステファンミニスター」と呼んだ。 学びを終えた9名には、それぞれ、訪問してこころのケアを必要としている人々を指名した。 すると、ケネス牧師は、信徒の方々が、いかにすばらしケアをしてくるかに驚いた。 そればかりではなく、信徒がケアをするなかで、そこにイエスが働いてくださり、ケアを受ける方が癒され希望を持てるということがわかり、ケアをする側もたいへんな喜びをを実感できるということもわかった。 それから数年後には、ケネス牧師は、自分の教会だけではなく、近隣の教会にも、このステファンミニスターを育てるシステムを導入してはどうかと思い、他の教会では、ステファンミニスターを教える人を育て始ることにした。 これが、ステファンミニストリーの始りだった。 それが、今、全米、カナダ、中国も、合計で12000もの教会がステファンミニストリーを導入した。 だれがだれをケアしているかなどは一切、個人情報なので、公開はしないため、ステファンミニスターは、無言のヒーローとか、静かな聖人とさえ呼ばれることもある。 そのステファンミニスターの数は、過去40年に60万人にも増え、ケアを受けた方は、150万人以上もの方がケアを受けた。 我々の人生、突然、どうしようもない状況がやってくる。 真っ暗闇で先は見えない、トンネルを抜けたと思っても、やはり真っ暗闇ということだってあり、光が全く見えないことだってある。 そのような状況に置かれている人々に、イエスキリストの体である教会が対応するように、神が招いている。 それは、教会員のメンバーだけに対応するということではなく、普段は教会に来られていない方々に対しても、対応を迫られているのではないだろうか。 ステファンミニスターになるということは決して簡単なことではない。 まず50時間の授業を受ける。 そして、週一時間は、ケアを必要としている方に個別に会うようにする。 一月、4時間は実際のケアにあたる。 そしてまた、ステファンミニスター同志で5-7人で集まって、一回2.5時間程度の、月二回のケーススタディのようなことも行なう。ケアをされている方々の名前は出さずに行なわれる。 いいたいことは、50時間の訓練を受けたあとも、月10時間ちかくの時間を、さらに捧げて、ケアを必要とする方々に無償で奉仕をする。 とても、私はそのようなことはできないと思われるかもしれない。 しかし、みなさんのなかに、ステファンミニスターとしての賜物を持っている方は必ずいる。 あるいは、ステファンミニスターにならなくても、さまざまな形でミニストリーをささえるリーダになれる可能性だってある。決して、ワンマンショーではなく、ティームワークである。 大切なことは、神の招きに応じて、この復活ルーテル教会が、人々を通して、人々に、キリストのケアを届けること。 そして、そのケアのなかに、主イエスが必ず共に居てくださることを覚えて。 アーメン 安達均 The Effects of Stephen Acts 6:1-7 and John 14:12-18 May Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! As it was announced in the Temple Talk in January, our congregation is now registered as a Stephen Ministry Congregation affirmed by Church Council, Mission Endowment Fund Committee, and of course supported by Pastor Carl and I. A few weeks ago, Kathy McGriff and I attended the Stephen Ministry Leadership training. I would like to touch on that experience later in this message. Do you remember what caused you to come to church for the first time? Of course, whatever the reason, I believe that the Holy Spirit brought you to a sanctuary, but if you look back at the details, there must be many unique individual stories. For example, some kids are lead to come to church as part of the family and that naturally grows into a conscious decision to continue coming to church. But I know, without a doubt, that there are people who came to church for the first time with heavy burdens; They might have no idea what would come of tomorrow due to a financial crisis, sudden unemployment, divorce, his/her chronic disease, a death of a loved one, etc. Such stories also exist in the Bible, where people looked to Jesus Christ when…
Tweet 日本語説教2016 02 14 LCR Jpn Sermon (English)2016 02 14 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 日本語説教は、録音したものを掲載する予定です。。。。乞うご期待! Being Professionals By Rev. Kazuhiro Sekino Christianity sometimes says that our life is like a journey on a boat. In the Bible a boat is symbol of a journey of faith. Baby Moses was put in the small boat and left to float down the river. Noah survived through the flood with the Ark. Jesus walked on the water and he went in a boat with the disciples many times. Baptism also is a symbol of a journey of faith. We the Christian go through the baptismal water and are born again as a Christian. It sounds nice, however it is easy to listen the Gospel but actually doing what it says is so difficult. Today’ Gospel is also story about a boat. One night the disciples went out fishing all night but they could not catch any fish. They were disappointed with this result. Then the resurrected Christ came to them and told them “Throw your net out again to the right side of your boat!” This story symbolizes our journey as a Christian. We the Christian listen to the living Gospel of Christ than go out to start a new weak. But our life is savvier. At church we hear the living gospel. We hear the answers to, “who am I?” and “how can I live?” However after listening we seldom follow what we heard. Today’s Gospel story tells us that many people were there to listen to the words of God, but Peter and the other fishermen didn’t care for…
Tweet My Thoughts and Jesus’ Thoughts Luke 4:22-30 May the Word of Jesus Christ be revealed to us with the Holy Spirit and may your grace be poured into the hearts of the people in this Spirit–filled sanctuary! Amen. I would like to start with by posing a few questions… just listen to the questions and quietly reflect upon your answers. Okay, the first question: Do you think that you are truly a Lutheran? Obviously there are people whose background is not Lutheran, so perhaps a better question would be: Do you think that you are deeply rooted in Christianity? Let me ask the second question. Do you think that you are a deeply–rooted Japanese, American or a certain ethnicity? Even more specifically…do you think you are deeply–rooted in a certain city or state? For example do you consider yourself an Angelino, a Californian, a Texan, a Bostonian or any sort of specific identity? Please keep the thought of which identity you have in your mind, meanwhile, I would like to dive into the Gospel text. Two weeks ago, I attended the Dr. Martin Luther King Jr service and have been reflecting on his life’s work (of racial equality) and death. When I think about what is happening in this country, Racism is still prevalent across the United States and people of all races, regardless of identity, are struggling with racism. I believe, these issues are directly related to the Gospel text that we are reading today. The region of Galilee was originally where Gentiles…
Tweet ルカ 4:14-21 今日、主のの御言葉が、聖霊の力をおびて、人々の心に豊かに浸み込みますように! 本日の説教タイトル、「今日(きょう)実現した」となっている。 「きょう」っていったいいつのこと? 西暦2015年1月24日の午前0時から午後11時59分59秒の24時間だけをいっているのだろうか? 日本語では、「今日、わたしがあるのは、あなたのおかげです。」といったりすることがある。 このときの今日には、どういう意味が含まれているだろうか? 日本語では、「きょう」と書かれた漢字、これを、「こんにち」とも読むが、すこしニュアンスはちがってくる。 今の時代ということを意味してくる。 もう少し言うなら、新約聖書が書かれたのは、約2000年前からいままでの時間は、私たちが、生きる時間80年とかに比べれば、すごい長い期間のように思われる。 しかし、神の目からみて、この地球とか自然が存在している期間は50億年ともいわれ、そのような単位から見れば、2000年は、ほんの一瞬にすぎないこと。だからこの2000年を指して、今日ということだってできるのかもしれない。 さて、本日与えられた福音書の背景を説明したい。福音書記者ルカによると、イエスは荒野で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあとは、40日間は荒野で誘惑を受けられた。 ちょっと話しはそれるかもしれないが、私たちの受ける洗礼も、すぐに信仰生活に導かれるというよりか、40日だったり、40年だったり、すごいよりみちをしてしまうことがある。 イエスの場合は、荒野で誘惑を受けたあと、40日たって、聖霊の力を受けて、ガリラヤ地方での伝道を開始する。 ガリラヤ地方は、イエスが生まれ育ったナザレという町を含む、ガリラヤ湖の西側、東西に約40キロ、南北やはり約40キロくらい地域にある、ユダヤ教の会堂を回って、イエスは教えをひろめはじめた。 そして、自分の生まれ育った町、ナザレの会堂も訪れた。 キリスト教の礼拝は、もともとユダヤ教の礼拝の形式を引き継いでいる。 したがって、聖書を読む時がある。 イエスは聖霊に満たされて、旧約聖書を読む。 といっても今のように、聖書が印刷されて本になっているわけではなく、巻物になっており、そこに手書きでイザヤの語った言葉が書かれているものがイエスに渡された。 イザヤ書の中から、イエスの目がとまったところ、それは、まさに聖霊に満たされて、おこったことだが、イザヤ書61章、1-2節の言葉が読まれる。 「主の霊がわたしの上におられる」という言葉ではじまった。イザヤ書の預言は次のような内容だ。 「その霊で満たされた私は、貧しいもの、経済的な理由で貧しいだけではなく、心貧しきもの、あるいは体の具合が悪いものも含め、さまざまな状況に束縛されている者に、解放をあたえる良き知らせを告げる。そして、主の恵みの年を告げる。」 このようなイザヤの預言を読み、イエスは一度は席に座る。しかし、そこには、聖霊が満たされ、集まっていたものが、イエスに注目した。 そして、イエスは、現代のキリスト教会でも聖書朗読のあとの、牧師の説教があるように、イエスは、拝読したイザヤ書に関して、「この聖書の言葉が、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」と話しはじめられた。 今日与えられた福音書箇所は、2600年前から残されている旧約聖書の中のイザヤの預言に、2000年前にイエスが加えた、「今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」という言葉が、新約聖書に書かれ、ずっとキリスト教会は、この言葉をくりかえしくりかえし、世に伝えてきている。 これはすごいことである。 そして、今、この言葉を耳にしている、この礼拝堂にいる私たちにとっても「今日」のことであるはず。それは今という時でもあるし、人類にとって2000年間ずっと続いてきていること。 しかし、私たちは、聖書の言葉をそこまで真剣に、意識をもって読んでいるだろうか? そこまで聖霊の働きを受け止めて、聖書の言葉を聞いているだろうか? 今日聞いている御言葉は、2000年前にイエスの言葉を直接聞いた人々に、聖霊の力が働き、その言葉をおぼえ、後世に伝えなければという意識をもち、印刷技術もなく、インタネットもない時代に、貴重なイエスの言葉を、2600年前のイザヤの言葉とその時のイエスの言葉を、手書きで書きとめ、それが、伝えられた、神の言葉。 主なる神が、新しい約束の言葉として、つまり新約聖書に顕された、神の言葉。 今日、この礼拝堂で聞いた福音書の言葉は、けっして、2000年前の過去の言葉だけではなく、今日も同じ意味をもった言葉だ。 なぜなら、イエスがこの世に来てくださったり、聖霊が働き続けているから。主イエスのおかげで、今の私たちがあり、たとえどんな困難、悩みがあるような状況があろうが、今日、解放をもたらしてくださっているお方がいる。 今日、新しくはじまった1週間、私たちは、聖霊の力を受け取り、日々の糧として、御言葉を聞いて生きることができますように。 主イエスの力を伴う御言葉は、読んだ時に、わたしたちをあらゆる困難から解放する。 そして、私たちは、その御言葉のすばらしさ、イエスの愛を喜んで分かちあえますように。 その愛の分ち合いが、わたしたちの生き様。 Today Fulfilled! Luke 4: 14-21 May the Word together with the Holy Spirit be poured into the hearts of the people in this sanctuary! The title of today’s message is “Today Fulfilled.” What does “Today” mean? Is it just 24 hours after 12 a.m. midnight until 11:59 p.m.? In Japanese, there is a phrase “Today I am here is because of you.” In this case today doesn’t mean just the 24 hours of that day. Even in English, we can interpret today as “this age” or current time period…it does not necessarily mean a 24 hour period. Let me further explain, the New Testament was written about 2000 years ago… This is of course a much longer time period compared to our average earthly lifespan of about 80 years. However, from eternal God, the Bible says 1000 years is like a day… or considering the Earth was created 5 billion years ago. 2000 years is almost just one second compared to that lengthy timespan. Let’s dive into the Gospel text today and let me give you some background detail. According to Luke, after Jesus was baptized by John the Baptist, he was in the wilderness for 40 days and was tested by the evil one during that period. Although this is a little bit off track, but Jesus did not mission right after he was baptized. In our faith community, there are some people who happen to…