Archive for April, 2012

Tweet 週報通算#1207号 (日本語) 2012 4 8W Easter 週報通算#1207号 (英語) Easter Sunday Bulletin 1207E   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書 16章1-8節「全てを変えた出来事」“That Changed Everything” 私たちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン。 人間の歴史の中で、あの出来事は全てを変えたと言われたものが沢山ありました。例ば、火、それはFireです。その火が稲妻から出てきたものか、あるいは火打石のような物から出てきたか分かりませんが、人間はすべての生き物の中で最初に火を起こす事を発見したのです。何万年、何千年も前、洞窟で寒い夜を過ごしていたのですが、火を起こすとによって暖かく過ごせる、また料理の仕方も変わったわけです。火の発見と使い方は私たちの生活の全てを変えたのです。時がすぎ、人間が発明した道具の一つは丸い木で出来た車輪です。車輪は、物を動かす時に便利な道具であり、それが馬車、自転車、自動車のタイヤと発展していったのです。車輪の発明は私たちの生活を変えました。仕事が楽にできるようになったからです。15世紀にはグーテンブルグという人が初めて印刷機を発明したのです。それまでは文章を出版するのは紙に手書きで書いていたのです。マルチン・ルターは宗教改革を始めた人でしたが、聖書は数が少なく、それらは皆手書きだったのです。ルターはこのグーテンブルグの印刷機を使って、初めてのドイツ語の聖書を出版したのです。それ以来、印刷機は私たちの生活の中で欠かせないものですが、世界の中で印刷機ほどCommunicationを広めたものはなかったでしょう。 私は日曜の夜から木曜日にかけて次の日曜日の説教を準備します。牧師さんの中には一晩で説教を書き上げることのできる人、また休暇をとって1ヶ月、2か月分の説教を書くことのできる牧師さんがいることを知ってますが、今私がこの説教を書いているのは4月6日の夜、9時です。これも一昔前のことですが、説教を書くにあたって初めのころは紙に書いていたのです。しかしそれを何度も読み直してみて、これは良くないと言うところがあれば、消しゴムでそれを消してその上に書き直した文章を入れたのです。 英語で文章を書く時は、タイプライターを使いましたが、日本語ではそれもなかった時代が1984年まで続きました。では1984年に何が出てきたのかと言えば、Personal Computer です。それは、Steve Jobs が Apple と言う出来立てほやほやのコンピュターの会社で発売したLisaというpersonal computer でした。IBMも負けずにPCと言う名前でPersonal Computer を出し、それ以来、私たちは今、computerなしで生活をしていくことが出来ません。 同じように、エジソンの初めて作った電球、ヘンリー・フォードの初めての自動車、ライト・ブラザーによる初めての飛行機と、世界を変えた発見、発明が私たちの生活を変えてきました。前置きが長くなりましたが、世界の中で一番、影響を与えた出来事とは何であったかと言うと、これは私の、そしてクリスチャンとしての発言ですが、それはイエス・キリストの誕生と十字架にかかって死んだ歴史的な事件です。イエス様の何が私たちの人生の歴史の中で重要なことかと言えば、十字架にかかって死んだイエス様が、甦えられたことです。 その前の金曜日にユダヤの宗教、政治家によって十字架にかかって死んだ、いや、殺されたイエス様の死体に、油と香料を塗るために婦人たちは、イエスの墓に行って見ると墓の石はすでに転がされていたのです。福音書のこの記事によると、墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いたと書いてあります。そして、そこにいた若者は言ったのです。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。もし皆さんが、その場にいたとしたらどう思ったでしょう。 「イエス様は復活された」。その言葉と出来事ほど 私たちの世界の中で大きな影響を及ぼしたものは他にないでしょう。2千年以上前に「イエス・キリスト」は死人のうちよりよみがえられたと叫ばれたその言葉は今ここでも言い継がれているのです。それは過去に起こったと言うだけではなく、今現在私たちが聖霊に導かれて宣言のできる信仰の告白です。キリスト教の信仰を一言で言うなら、「イエス様は死んで、3日目によみがえり、今生きておられるということです。今生きていらっしゃるイエス様と共に歩むことのできるわたちたちにとってこれほど勇気と希望を与えてくださるものはありません。イエス様の復活は私たちに神様は愛の神様、平和の神様、哀れみと許しをおあたえになる神様、そして、私たちを決して離れることも見捨てることもしないと約束された神様です。 この神様、イエス様はどこに住んでいるか皆さんご存知です。そうです、神様は私たちの中に住んでいらっしゃるのです。神様はどこか遠くにいる方ではなく、私たちの中、私たちの心と精神の中に住んでいるのです。また二人、三人と集まるところに、神様は私たちと共にいてくださるのです。ですから、神様は決して遠くにいる方ではなく、わたしたちのみじかなところにおられるのです。 イエス様の復活の出来事ほど世界を変えたものはありません。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。しかし、私はイエス様を信じる者のみが神様のもとにいくことができると言う言い方に抵抗を感じます。まだイエス様の愛、イエス様の愛を経験したことがないと言うひとはたくさんいます。 日本ではキリスト教を受け入れた方は人口の10%もいないのです。かといって日本人は神道か仏教かと言われても、果たしてこれらの宗教の教えをはっきり把握しているでしょうか?神様とはどんな方、神様を信じるとは、私にとってどんな利益があるのでしょうか? 過去10年、わたしは毎年日本に1週間から10日にかけて帰えります。母の様子を見に行くのが第一の目的ですが、小学校時代の友達、高校生時代の友達、大学時代の友達とも会う機会を持ちます。そこでカラオケにも行きますが、このごろはお互いの人生について語り合う、将来への希望、不安なども話し合うのです。まず、毎年最初に聞くことは80歳半ばの友達の両親の健康状態、これからどのようにして両親を見守ってゆくか、ということです。また私の友達の中には、60歳を迎えて退職し、年金で暮らしている同級生も沢山いるんです。そして前には考えられなかったことですが、話のなかに出て来ることは、お互いの残された生涯をどのように生きていったらいいだろうかと心の奥底にしまってある思いをさらけ出して語るのです。友達の一人からこう聞かれました。「おい、岸野、お前さん、牧師だろ、人の命ってどんなものか教えてくれよ。俺、若い時、会社の仲間と毎晩酒を飲んでた。肝臓を壊して、その上、糖尿病でこの頃は食事の制限までされている。3年待って退職するべきか、それとも今会社を辞めて体に楽なような生活をしようと思ってるんだけど、どう思う? かみさんと子供たちからも、「お父さん、自分の体は自分の心の持ち方から始まるんだと言われているんだ」。彼は今度は涙を流して、私の手をとり、言いました、「俺のこと、馬鹿と思われてもしょうがない。でも祈ってくれよ」。彼は今からでもいい。もう一度人生のやり直しをしたいと真剣の思っているのです。誰か神様と言う人を信じたいのです。残された人生を今までの生活からUターンしたいのです。そこで、神様と言う人生の助け、人生のガイド、喜びも、悲しみも、つらい思いを聞いてくださる方が必要になのです。 さてこのキリスト教の一番大切なイースターの日を迎えて、イエス様とはどのような方であるか、もう一度考えてみたいと思います。イエス様は偉大な教師、預言者、そして私を含めキリストに従うものにとって救い主、主なる神様です。聖書によれば、イエスは処女から生まれ、罪のない一生を送り、3年間ユダヤの民の中で暮らし、教え、ユダヤの宗教家、またローマの植民地の監督であったポンテオ・ピラトの下で十字架につけさせられ、陰府に下り、3日目に甦り、天に昇り、全能の神の右に座した方です。 聖書にはイエス様の誕生の何百年も前に、預言者たちは彼が現れることを予言していました。千五百年という長い年月にわたり、多くの著者によって書かれた旧約聖書には、3百箇所以上、イエス様に関係する預言が含まれています。奇跡的な誕生、罪のない生涯、多くの奇跡、死とその死からの開放です。それらすべての預言が真実となりました。イエス様は、自ら、罪を赦す権威があること、悪魔を追い出すことができると主張しました。さらに、自分と神は同一であると公言したのです。神であると宣言したことは、当時の宗教家や、政治指導者を激怒させるに十分でした。そして、彼らはイエス様を、十字架にはりつけにしたのです。イエスは墓に葬られ、その3日後、死から甦ったのです。 キリスト教はイエス様の復活なしには存在しません。もし死からの復活が起こらなかったのなら、キリスト教信者の信仰は嘘に基づくものとなってしまいます。永遠の命への希望は、根拠のないものとなってしまいます。しかし、復活が事実でならば、私たちはイエス様を救い主、そして神として受け入れることが出来るのです。 何世紀にもわたって、イエス様の復活の証拠を研究してきた偉大な学者のほとんどが、今でもイエス様が生きていると信じています。地上での人生と、死後永遠に続く人生は、『あなたにとってイエス・キリストとは?』と言うこの問いに、どのように答えるかによって変わってきます。どうかイエス様があなたに与えようとしている人生が何であるか、それを見出し、その中で永遠に続く神様からの祝福をください。アーメン。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコによる福音書15章1-37節 「パッション・ウイーク」とはなんですか?   私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。 今日は教会の暦で枝の日、または英語からの直訳で、棕櫚の日曜日と呼ばれています。今日から来週の復活祭にかけてクリスチャンにとっては一番大切なHoly week、あるいは、Passion week とも呼ばれています。 しかしイエス様と共に神の国の伝道に携わってきた12弟子にとってこれほど憤を感じた、希望を失った、また悲しみと絶望の思いにしたった時はなかったでしょう。かれこれ3年間、イエス様と共に行動をしてきた弟子たちはエルサレムに上り、そこで先祖が毎年守っている過ぎ越しの祭りに参加するのは当然と思っていたでしょう。イエス様は今までに群集に神様の国について語られてきました。それは一番貧しい、肩身の狭い、心の貧しい者こそが最初に神様からの愛の対象になるというのです。それて神を愛するとはお互いを神様の精神を持って会い、助け合うことだと教えられたのです。生まれがどうのこうの、どれだけ財産がある、教養もある、学歴もあるはイエス様、また神様のもとでは “So what”、大切なのは隣人を自分が自分を愛することができるように愛し合いなさいと言うことです。 12弟子の中にはまたユダヤの愛国心に燃え、ユダヤ人の国はユダヤ人で治めたいと思っていたそういう人が何人もいたはずです。それらの弟子は、熱心党という独立開放派との関係を持っていただろうし、イエス様が政治的な解放者であることを望んだのです。しかしイエス様はユダヤ人の開放は政治的より、罪からの開放、神様からの恵みに満ちた人生をお互いがお互いを助け合う中で、神様からの祝福を受けながら生きるということこそが救いであると教えられたのです。 ある人が私にこう言いました。「神様が全能の神様であるならば、何故神様の力でローマ人を追放し、ユダヤ人が将来ずっと平和で幸福な国として続けることをきめなかったのですか」。神様はそれができる方であるのですが、それでは私たちは操り人形と同じです。そうではなく、神様は私たち一人ひとりに神様の愛を心の中に育て、その愛により、世界が一つになってお互いを助け合う世界を願われているのです。 イエス様はユダヤの宗教家によって有罪の判決を受けられました。群衆もそこに加わって、Crucify him, Crucify him と叫んだのです。ユダヤ人は死刑の宣告を出すことが法律で禁じられていましたから、ユダヤの地でローマ帝国の総督であったポンテオ・ピラトの下にイエス様を有罪として処刑するように求めたのです。初め、ポンテオ・ピラトは処刑の宣告を断りましたが、それをしないあなたは私たち味方ではないと言われ、イエス様を十字架による処刑との命令を出したのです。 毎日曜日の礼拝の中で、皆さんと共に宣言する、使徒信条の中にポンテオ・ピラトの名前が出てきます。「主は聖霊によりて宿り、乙女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け、十字架につけられ、死に葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り、天に登り全能の父なる神の右に座したまえり」 はっきり言って、イエス様を十字架に送ったのはポンテオ・ピラトだけではありません。私たち一人ひとりも神様からの戒律、特に十戒の一つでも破る時、それは大きな罪でも、小さな罪でもイエス様の前では同じで、神様から裁かれるはずなのです。しかしここにキリスト教での大切な神様の愛が法律、戒律をのり越えて、私たちに与えられているのです。イエス様ご自身がすべての人間の罪を背負って死んでくださったのです。 私たちの罪を背負って死んでくださったイエス様は、私たちを赦し、救い、正しく生きるようにと聖霊に導かれて生きる人生を約束されているのです、最後に、次の言葉を聴いてください。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 イエス様は私たちに祝福された王国を約束されているのです。しかし、それは私たちが思っても見なかった姿で来るのです。その国には国境がありません。ユダヤ人とか異邦人と言う差別もありません。その王国では肌の色の違いも人の差別の対象になりません。アメリカ人、ロシア人、日本人、ドイツ人、中国人、アラビア人、ブラジル人、と世界のいたる国の人たちも皆平等です。その神様から私たちに約束されている王国は終わりがなく続く天国です。私たち一人ひとりが行き着く永遠に続く神様の国です。 この受難節の最後の週に、イエス様をめぐっての沢山の出来事があります。この週にイエス様は神殿を清めました。また、イエス様はこのユダヤの神殿が、外国人によって倒されることを予告したのです。確かに紀元後66-70年ごろにイスラエルのに建てられた2回目のエルサレムの神殿が破壊されました。この週にイエス様は弟子たちに迫害が襲い掛かることを語りました。この週にユダヤの宗教のリーダーによりイエス様が逮捕される。それは、イエスさまが、弟子の一人であるユダにより裏切られたからです。イエス様は、弟子たちと最後の過ぎ越しの祭りを祝い、その過ぎ越しの祭りの儀式をイエス様が私たちといつも共にいるという聖餐の儀式に変えてくださいました。ペテロが鶏の鳴く前に3度イエス様を知らないと言われました。 イエス様はローマの総督の命令で鞭打たれ、自分がかかる十字架を背負ってイエス様は十字架につけられる、イエス様は7回短い言葉を十字架の上から語られました。一つの言葉を見てみましょう。これは4つの福音書から出てきた言葉で、最初に、「父よ、彼らを赦してください。なぜなら、彼らは何をしていいかわからなかったからです。(ルカ23:43)死んだイエス様の死体をヨセフという人が受け取り墓に入れた。これでイエス様の生涯が終わりとなると思われたのです。 2番目の言葉は、「あなたは今日わたしと共にパラダイスにいます。」(ルカ23:43)しかしこれがイエス様の最後でないことは皆さんが御存知のとおりです。来週の日曜日はキリスト教会で一番大切なイエス様の復活日です。その前の金曜日はイエス様が十字架にかかってなくなった日でした。しかし全能の父なる神はイエス様を甦えらしてくださったのです。アーメン。 3番目の言葉は、「そこにあなたの子がいます」「そこにあなたの母がいます」(ヨハネ19:26-27)の言葉で、イエス様が、弟子のヨハネにはマリヤを支えることを依頼したのです。これによりヨハネがマリヤを引き受けることになったのです。 4番目の言葉は「わが神、わが神、どうして私をみすてられるのですか」(マルコ15:34)これは、罪人の裁きを受けたことを表す叫びの声です。 5番目の言葉は、「私は乾いている」 (ヨハネ19:28節)で、イエス様は、これを言ったことで、聖書の言葉を成就したのです。 6番目の言葉は、7番目の言葉はイエス様が「すべてが終わった」と言って、イエス様が旧約の言葉に従って死によるすべての信仰者に罪を赦す技を完成させたと言う意味です。 そして最後の7番目の言葉は、「父よ、私の霊をあなたのみ手に任せます」と言って息を引き取ったのです。 イエス様の遺体はアリマタヤのヨセフと言う人がポンテオ・ピラトの元に行き、死体を要求し、岩を掘って作られた墓に収め、墓の入り口に石を転がして閉じたのです。 この時点でイエス様の甦りを信じていた人たちはどれだけいたでしょうか。しかしこれも旧約聖書の中にすでに予言されていたのです。 3日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座したまえり。イエス様の甦りがなくては私たちの信仰もむなしいものです。しかし聖霊によりて私たちは神様から信じることができる霊、Spiritを受け継ぐことができるのです。アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace