Archive for February, 2013

Tweet 13日は灰の水曜日だった。 この灰の水曜からイースターまでの40日間を四旬節(四旬とは四十の意味)とか受難節と呼んでいる。 キリストが伝道を開始する前に40日間、悪魔から誘惑を受けられた期間と同じ期間になる。 さて、今週与えられている詩編を読んでみよう。 詩編91編から 1:いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ 2:主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。 9:あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。 10:あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。 11:主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 12:彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。 13:あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。 14:「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 15:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。 16:生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」 2-3回、読み返してみよう。  どんな感覚を持たれるだろうか? 主、全能の神を砦として、その陰に生きることは、完璧と思えるようになるのではないだろうか?  どんな災難も疫病もない。 歩んで行く道から、いっさいの危険は遠ざけられる。 天使が運んでくれて石につまづくこともない。 また、たとえ苦難が襲うことがあっても、神を呼び求めれば、助けてもらえるばかりか、名誉まで与えられる。  しかし、ここで注意しておきたいことがある。 この詩編の箇所は、今度の日曜に与えられているルカ福音書のなかで、イエスが悪魔から誘惑を受けられたことと密接に関係している。  キリストが受けた誘惑の中のひとつに、悪魔がイエスを神殿の屋根につれて行き、神の子なら、ここから飛び降りるようにと迫る。 悪魔は、詩編91編11節12節にあった言葉を引用して、「神が天使に命令して、あなたを守り、また、天使があなたを手に乗せて運び、石にあたらないように守る。」と書いてあったではないかと、イエスをそそのかそうとする。 イエスは、「あなたの神である主を試してはならない。」ときっぱり言われる。 さて、現実の世界に戻る。 キリストが十字架に架かる道を歩んだことを覚え、受難節の始まりにあたって、この詩編はすばらしい。 全能なる主から保証された歩みが可能になる反面、なんでもかんでも自分の思い通りにしてよいということを言っているわけではないことを、しっかり認識しておきたい。  週報に名前が載っている方々を覚えて祈りましょう。 主の恵みと平安 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2013年イースター案内状Final PDFでご覧下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet  詩編を読もう:主は聖なる方(詩編99編) 今週の後半、木曜から土曜までに与えられている詩編は99編。 以下まず、声を出して読んでみよう。 1:主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。 2:主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。 3:御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。 4:力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め/ヤコブに対する裁きと恵みの御業を/御自ら、成し遂げられる。 5:我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。 6:主の祭司からはモーセとアロンが/御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと/主は彼らに答えられた。 7:神は雲の柱から語りかけ/彼らに掟と定めを賜り/彼らはそれを守った。 8:我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神/彼らの咎には報いる神であった。 9:我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。 気になった言葉、あるいは、質問したいような事が出てきていると思う。 引き続き、この詩編を2回ないし3回読んでみよう。 数回読んだあと、どんなことを思われるだろう? 「主は聖なる方」という言葉が、3回も(3節、5節、9節)出てきていること注目したい。旧約聖書に書かれている、「聖なる、聖なる」という言葉は、そもそもどういう意味なのだろう? ヘブル語の言葉では、「離れて」という言葉が元々の意味。 たしかに、「聖日」という言葉を使うと、普段の「平日」とは「異なる日」とか「離れた日」を指すことになるので、「離れた」という意味も納得できる。  「主は聖なる方」と言った場合、「主は離れたところにいる方」つまり、畏れ多くて近寄りがたいお方という意味なのだろうか?  詩編99編全体を読むなかで、「おののけ」、「民の上に高くいる」、「裁きを愛し」、「咎には報いる神」などなどの言葉の中から、畏れおおく、遠く離れた方という印象は伝わってくる。 しかし、主が畏れ多い存在であることを感じつつも、「離れて」存在されている主だけではなく、「恵みの御業」、「答えられた」、「赦す神」等々の言葉に、主の身近さも感じる。 聖書全体のストーリの中からして、主なる神は、決して離れた方では終わっていない。 むしろ、主なる神、キリストは、私たちを愛するがゆえに、人間にまでなられ、わたしたちの身近におられ、そして、「徹底的に赦す神」であることを付け足しておきたい。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ルカ4:21-30 ラブレターをもらった経験はおありだろうか? もらった事がないという方、どうぞ心配しないで欲しい。 もらった事のある方、差出人との関係はどういう関係だっただろう? 自分はその人を好きなのかどうかよくわからなかったという経験をお持ちの方がいると思う。また、そのラブレターはどんなことが書かれていただろうか? 「私はあなたを好きです。 愛してます。」みたいな、手紙をもらった経験をされたかもしれない。あるいは、ところどころ意味がよくわからないようなラブレターをもらった経験のある方もいると思う。 さて、私は、聖書を一言でいうなら、神からのラブレターと申し上げたい。 わたしたちと、その差出人である神との関係は、どういう関係なのだろう? また、聖書は、どんなラブレターなんだろうか?  今日与えられていた福音書箇所だけを読むなら、いきなり、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とある。  「この聖書の言葉」って何なのだろうか。 実は、もう少し前のほうから読まないとわからないが、イエスは、少年時代に慣れ親しんでいた会堂に来て、席を立ち会堂前方に向かい、イザヤ書から次のような言葉を読まれる:・「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。  主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 そして、席に戻ったが、さらに、イエスから次のようなインパクトのある言葉が発せられる。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」 その場にいた人々の中には、すごいと感じた方もいれば、イエスの子供のころを知る人々の中に、「何を言ってんだ?大工の息子が?」といって、イエスの言わんとすることを理解しないものもいた。  さて、2400年程前のイザヤ書の言葉と2000年前のイエスの言葉を今、聞かれて、あなたはどう思われるだろうか? 「圧迫されている人々に解放される」なんて実現していないと思われるだろうか。 なぜなら、この世の中、実に多く方々が、貧困の中にいて、貧しい現実がある。 また、世の中の動向がわからず、先が見えない。 圧迫感を感じている人々が多い。2400年間ずっと同じだ。  イエスの言葉を今日聞いているわたしたち、イエスがおっしゃりたいことは、「世の圧迫されている人々」、つまり第三者を問題にしているのだろか?  今日の聖書の箇所、最後のイエスの言葉を今一度、よく読みたい。 「あなたが耳にした時、実現した」とある。 そう、まず、あなた方、一人一人が、まず、この聖書の言葉を聞いたとき、圧迫や束縛から解放されるという現実が起こっている。 それは、イエスの言葉を聴いているここにおられるお一人お一人のこと。 その言葉というのは、私の言葉ではなく、イエスの言葉が今ここで語られている。  イエスは当時のユダヤ教の会堂の聖壇に現われただけではなく、今、礼拝という時間を持ち、そこに、イエス・キリストというお方が、この礼拝堂のスペースにいてくださり、そして、あなた自身の心のスペースにも、イエスの言葉、愛が入ってきている。  聖書には、出エジプト記25章には、神はモーセとその民に幕屋を建設して、そのなかに聖所を作るように言われ、さらにそこに、私は住むと言われている。 今日読んだエレミアでは、エレミアの口の中に、神が私の言葉を入れると書いてある。 また、新約聖書になると、第一コリントでは、3章や6章に、「あなたがたの体が神の神殿である」とのことが書かれています。   神と一体なるイエス・キリストというお方は、一人一人の創り主なるお方で、たとえ神を嫌ってイエスを殺してしまうような人間でも、愛しておられる。 だれひとりとして、「私はだれに愛されることもなく、世の中の役に立たない人間だ」ということはなく、イエス・キリストの愛はそこに来ている。   聖書は、66の書物からなっていて、それは、そのひとつひとつを読んで、特に旧約聖書のあるところだけに集中してしまうと、これは律法の書だとか、いや、人間の戦争の歴史だ、などという話になってしまう。 しかし、聖書全体のストーリとしては、神が一貫して、私たち人間ひとりひとりを、いかに大切にして、神が情熱的にわれわれを、さらに被創造物を愛しておられるかが書かれている書物。 通常、ラブレターを読むとき、この言葉おかしいとか、字が間違っている、ということを問題にするのではなく、主旨である差出した人の愛を読むものだと思う。   聖書を読むときも、神さま、イエスさまが、わたしたちを愛してくださっていて、私たちの間に、さらに私たちの心の中に言葉が入ってきて、私たちを喜びで満たしてくださる。 お一人お一人がそのような聖書の読み方をされるように祈る。    Message for Japanese Language Service Sunday, Feb. 3, 2013 “Love Letter from God” Luke 4:21-30 Pr. Hitoshi Adachi When You Read a Love Letter There are different interpretations of the Bible. Some people say it is a book of history, or a book of laws, or a book of war, or a book about the future. Some people, even, say it is a book about science! Reading certain portions of the Bible, you can interpret the Bible in many ways and I do not think those different interpretations are necessarily wrong. However, today, I would like to focus on one interpretation of the Bible, when read in its totality, as a “Love Letter from God” Have you ever read a love letter from someone? What was the relationship between you and the person who sent you the letter? What kind of love letter was it? I mean, was it a simple “I LOVE YOU.” Or was it a long one and you didn’t quite grasp its depth the first time you read it…. I said that the Bible is “Love Letter from God,” I would like to raise two questions: The first question is what is the relationship between you and God? (Is it a one-sided relationship or a mutual relationship? Does God love each one of you without question?) The second question is: What kind of love letter is it? In answering the first question,…

Tweet 2. 讃美歌21 257 「ガリラヤの風」1. 教会讃美歌213 「朝露に輝き咲ける」3. 讃美歌 21 81 「主の食卓を囲み」4. 讃美歌21 405 「すべての人に」5. 讃美歌21 「主が手をとって」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 詩編を読もう:あなたは私の希望(詩編71編1-6節)   日本語部の牧師交代に伴い、今月から毎週木曜日に教会の図書室で行われてきた「聖書を読む会」は当面控えることになりました。 その代わりに、みなさんが教会に来なくても、どこに居ても、毎週、詩編の一編ないし二編を読んで、考え、祈る時が与えられるように、このコラムをはじめます。 詩編の言葉が、おひとりおひとりの心のなかにしみこみ、皆様の信仰が深まることを願い祈ります。 聖書日課で、今週の後半と3日の聖日に与えられている詩編箇所は、詩編71編1ー6節です。 以下に転記しましたので、ぜひ、声を出して読んでみてください。 詩編 71編 1:主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 2:恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 3:常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 4:わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から/悪事を働く者、不法を働く者の手から/わたしを逃れさせてください。 5:主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 6:母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。 ぜひこの詩編、日曜日、礼拝の行われる主の日まで、何回か読まれることをおすすめします。 今週、私には、怒濤のごとくいろいろなことが訪れています。 もちろん、復活ルーテル教会で岸野牧師の後を引き継ぐことになったことは、大きな変化の訪れです。 しかし、それ以外に、私事ですが、日本に住む父方のいとこの一人が亡くなり、また母方の伯母が亡くなりました。 私の両親は、88歳と84歳で健在ですが、寒い中、年老いて横浜市の北のほうに住む両親が、鎌倉と名古屋で行われた2回の葬儀にあいついで出向いたわけで、とても悲しい思いをしたのではないかと想像しています。 そのような、悲しみが続くときに、今週与えられている詩編の中から、「主よ、あなたはわたしの希望」と詠われる箇所は、人々に大きな希望を与えていると思う。 それは、最初の数百年間はユダヤの人々だけが対象だったかもしれないが、キリストが降誕した2000年前からは、どんどん伝道され、世界の国々で、どれだけ多くの方々が主に希望をいだくようになったかはかりしれない。  この詩編記者は、もうかなり年配者だったかもしれません。 しかし、生まれる前からの神と自分の関係をふりかえり、神に感謝し、賛美する詩の中に、同じ神によって、21世紀を生きるわたしたちの上にも、同じ恵みと信仰が与えられ、強められると思います。 急に寒くなったり、暖かくなったりする天候の激しい変化の時期に、亡くなったり、また病になったりする方々が多いと思います。 そのような悲しみ、困難に直面している方々またご家族の上に主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられていますように。 ぜひ、週報に書かれている方々、また、2月1日には、英語のResurrection Timesがemail配信されてますが、最終ページに書かれた方々のことを覚え、祈りましょう。 さらに、次週の礼拝に向けてお祈りしましょう。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace