Tweet “神の招待:私のところに来なさい” イザヤ 55:1-9, ルカ13:1-9 イエス・キリストの恵みと平安が豊かにありますように。 二つの質問をしたい:あなたをだれが教会に誘っただろうか? 親、配偶者、あるいは、友人? 次の質問は、だれかを教会に誘った経験はあるだろうか? だれが誘ったにしても、あるいはだれかを誘ったにしても、どちらの場合も、神の誘い。 神を礼拝することに、神がだれをも招待している。 だれかを誘うということは、その方との、より意味のある深い関係を持ちたいという気持ちもおこるが、教会に誘うということの最大の目的は、より深い神との関係をその方が持つようになってもらう事。それぞれがより深い神との関係を持つとき、神を介して、その方とすばらしい関係を持つようになってくる。 今日与えられた旧約聖書の言葉から、神がどのように預言者イザヤを通して、人々を誘っているか考えてみたい。 お金があることこそ一番大切、お金がないから、もう自分はだめだと思ってしまうようなわたしたちに、お金がなくたって、もっと大切なことがあるよ、「私のところに来るがよい。」といって神は招いている。 あるいは、お金がある人々に対しても、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは自分の投資は間違っていないかどうか悩んだり、さらに何に投資をしようかと思っている人々にも、もっと大切なことがあるよ。。。「私のところに来なさい、魂の命を得なさい」と招待してくださっている。 お金があろうがなかろうが、資産を持っていようが持ってなかろうが、神はすべての人々を愛してくださっており、私たちは、神の創造された大切な人間。 そして、神は、一人一人を礼拝に来るように、そして、神の慈しみを得るようにと招いている。 イザヤは、神のとてつもなく高価な招待を述べ伝えるよう任命された神の預言者の一人で、彼の言葉は聖書に記された。 このようなイザヤの言葉を聞いたあと、今日は、イエスのたとえ話で、実のならないイチジクの木の話を聞いた。 いったいなぜこの話を聞いているのだろうか?今日のイザヤの言葉、神の招待とどんな関係があるのだろうか? 実を結ばないイチジクの木はなにを象徴しているのだろうか? いったい誰がイチジクの木の持ち主なのだろうか? いったい、園丁、つまり庭師は、だれなのだろうか? イチジクの木はいったい誰だろうか? 私には、このたとえ話は、私たちに必要な悔い改めへの誘い、そして神の愛への誘いに思える。 このたとえ話は、すべて神についてのことであり、イチジクの持ち主は神、庭師はイエス・キリスト、そしてイチジクの木は、神の教会。 特に、現代にあって、このイチジクの木は、アメリカにあるすべてのメインラインプロテスタント教会ではないかと思う。 もうちょっと考えるなら、われわれルーテル教会のようなメインラインのプロテスタント教会に限らず、すべてのプロテスタント教会、カトリック教会、そして正教会も含めてよいと思う。 なぜなら、ごく一部のプロテスタント教会や、カトリックや正教会のある部分は伸びていても、多くのイチジクの木々は、実を結べずに、維持が難しくなっているので。 アメリカ全体で見るとき、誘惑に負け、神の存在から離れようとして、実を結べない神の教会の存在をそのまま放置してしまっているようなところがある。 しかし、神の慈しみと恵みにあって、希望がある。 園丁であるイエス・キリストは、イチジクの持ち主なる神に言う、「お願いだからもう一年待ってください。 もっと肥料、栄養をイチジクの木にあげてみますから。」 さて、私たちは、いったい何なのでしょう? この礼拝堂に集まっている私たちは? 私たちは、教会の一部。 私たちは、このイチジクの木の一部だ。 さて、イエス・キリストが何をなさるかご存知だろうか?イチジクの枝枝である私たちを愛するがゆえに何をなさるのか、ちょっと、ここで時間をとりたい。 とくに3週間後に、受難週というイエス・キリストが十字架に架かる週を迎えるときに、よく考えてみたい。 イエスはイチジクをとてつもなく愛しておられる。 私たちイチジクの木である私たちだけでなく、これからイチジクの木の一部になる人々も愛しておられる。 それゆえ、彼自身は、イチジクの木を救うためにイチジクの木の肥料、栄養になってしまわれる。 イエスはイチジクの木の中にいつも活き、栄養を与え、イチジクが花開き、実を結ぶようにしてくださる。 この礼拝の後半では、私は皆さんが喜んで、その栄養である、イエス・キリストの体と血をいただけることを宣言する。 しかし、そのパンとぶどう酒をいただく前に、按手を受けた牧師として、いま一度、イザヤの言葉に戻りたい。 イザヤは、「魂の命を得るために、私のところに来るが良い」という神の招待を伝えた一人の預言者だった。 しかし、21世紀にあって、お金では買えない、とても高価な、イエス・キリストの招待を、いったいだれが伝えるのだろうか? 現代にあって、預言者はいったいだれなのだろうか? 私の祈りは、すくなくともこの礼拝に出ているお一人お一人が、イエス・キリストの栄養をいただくことで、現代のイザヤの一人となり、イエス・キリストの高価な招待を、周りの人々に伝えるように祈る。 そして、イチジクが切られてしまうことなく、豊かな実を結べるように。 “God’s Invitation: Come to Me” Isaiah 55:1-9, Luke 13:1-9 Grace and Peace to you in the name of our Lord and Savior, Jesus Christ! I would like to ask you two questions. Who invited you to come to church? Was it your parents, your spouse, or your friend? I believe someone initially invited you to church. The next question is: have you ever invited someone to come to church? Whoever invited you to church or whomever you invited to church? Both situations, I strongly believe, are ultimately God’s invitation. As with all opportunities to worship, God invites everyone. Between you and whomever you invited to church, there might be a desire for you to have a more in-depth, meaningful relationship with that person, but ultimately the purpose of the invitation is for someone to have an in-depth loving relationship between that person and God. If a person has an in-depth, loving relationship with God; all other relationships are deepened and strengthened as well. Based on the words of Isaiah, which was read a short time ago, I would like to share with you how God invites people to come to church through the prophet. In this world, some people think the most important thing is money and if you do not have it, that it is the end of the story. There are people who have no money and feel the end…. However…
March 9th, 2013
2013年3月3日四旬節第3主日聖餐礼拝説教「神の招待:わたしのもとに来るがよい」”God’s Invitation:Come to Me”安達均牧師
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Tweet 3月7日 詩編を読もう: 幸せとは? (詩編 32) 「幸せ」ってなんだろう? ちょっと考えてみて欲しい。 いろいろな解釈があると思う。 人によっても違う。 また同じ人でも、小さい頃に思い描いた事、少年時代の思い、また成人してから考える事、いろいろ変化する。 実は、聖書の中でも「幸せとは」ということについて、いろいろ書いてある。 時間のある時に、詩篇1編、41編、112編、119編、127編、128編など読み比べてみるのも良いかもしれない。 あるいは新約のマタイ5章3節も。。。 本日は、詩篇32編に集中したい。32編には普遍的な幸せについて書いてあると思う。いつものように繰り返し、できれば声に出して、詩歌を詠うようなつもりで読んでみよう。 1:【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。 2:いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。 3:わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。 4:御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ 5:わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ 6:あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。 7:あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ 8:わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。 9:分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。 10:神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。 11:神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。 1-2節に、いきなり、幸せとは何かについて、すこし答えが書いてある。それは、罪を赦されること。 しかし、罪っていったい何だろう? ヘブル語の原語の意味を紹介すると、「的をはずしていること。」 つまり、一番大切なことを心得ずに、つまり神の思いからはずれて生きていること。 そのように生きてきてしまったことが、赦されるのが、幸せということになってくる。しかし、赦しには、プロセスがある。 3節以降を見ていこう。3-4節には、この世の快楽を夢見て、自分の思い通りになると思って行動し生活していたら、それがとんでもない的外れであり、精神的に打ちのめされた気分になってしまっている様子が書かれている。 そして5節、的外れに生きてきた自分をさらけだし、絶対的な神である主に、「私は的外れに生きてきて、申し訳けありませんでした。」という告白をする。 この告白、悔い改めが、言うなればプロセスで、とても大切。 主に背いて過って生きて来ましたという者を、主は大喜びで赦してくださる。 6節以降は、苦難から守られ、次に進むべき道が示され、さらに主に在って、大きな喜びの声をあげる様子。 さて、32編の結論を一言で言うなら、「幸せとは、悔い改めること。」といっても過言ではない。この悔い改めが、赦しと大きな喜びへと導いている。 さて、今日の最初の質問に対して、各人が自分なりに考えた「幸せとは何か?」と、この32編の結論「悔い改めること」を比べてみて欲しい。 似ていただろうか?似ても似つかぬものだったか? いろいろな、試みに遭遇している方々を覚え祈りつつ。 また次週礼拝において、礼拝に集まる者、皆が悔い改め、そして、神の赦しが礼拝を通して与えられ、幸せを実感し喜び合うことができますように。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace