Archive for September, 2013

Tweet 2013年9月5日 詩編を読もう:主の教えを口ずさむ人々の幸せ (詩編1) 牧師:安達均 今週読む詩編は1編。 150編ある詩編の一番最初に書かれている詩編。短くまた美しい詩編なので、3回は読まれたらよいかと思う。そしていつものように一回目は気になる言葉は何だったか? 二回目は自分に何を語りかけられたか? また三回目はコミュニティに何を語りかけられているか? 思いを巡らせてみてはどうだろうか。 詩編 1編 1:いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2:主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3:その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 4:神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 5:神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 6:神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。 詩編1編は、過去に何度も読んだが、新たに読むとき、新しいことに気づかされる。今日、新たに思い巡らしたことを書いておきたい。 気になる言葉: 口ずさむ人 詩編は「いかに幸いなことか」という言葉から始まっているので、その後に書かれていることは、「幸せとは何か」について書かれていると思われ、大きな興味が沸いてくるような面がある。先週の詩編112編にも、同じような展開があって、「幸せな人とは主を畏れる人」というのが結論だったのかと思う。 詩編1編でも、その線に近いことが書いてある。 ただ、表現方法として、「いかに幸いなことか」という最初のフレーズではじまった1節は、2節の最後の「口ずさむ人。」という言葉で終わっている。 この「口ずさむ人」という表現は、とても情緒的で、この詩に美しい花を添えているような表現に思える。 ただ、この「口ずさむ」という表現は英語でも同じような情緒的な表現があるのかと思い調べると、”meditate” (New Revised Standard Version)という言葉が使われていて、「瞑想する」とか「黙想する」というような意味になっており、イメージが少々異なっている。さらに、元々のヘブル語ではなんと言う言葉だったかを調べると、”hagah”という言葉が使われていて、これは「うなる」というおもしろい意味がある。  自分に何を語りかけているか: 日本語に訳された聖書を読む楽しみ 私は、「口ずさむ」と書かれた日本語聖書の表現はとても楽しい感じがして、心がウキウキするような面もあり、ありがたい。 ちなみに、新改訳聖書でも同じ、「口ずさむ」という表現が使われていたが、口語訳聖書では、ただ「思う」というどちらかというと英語の”meditate”に近い表現かと思う。いずれにしろ、私たちが普段読む聖書は、訳されたものを読んでいるのであり、そこには訳者たちの解釈が入っている。 また、この詩編1編の最初の節の言葉は、ヘブル語のアルファベットのAにあたる文字で始まっていて、最後の節の最初の言葉はヘブル語のアルファベットの最後の文字で始まる言葉が使われていたり、ヘブル語独特の詩の楽しみがあるが、訳されているものだけを読んでいると、その辺の楽しみは訳しようがない。訳されたものを読むなかで、本来の言語の楽しみとは、違った楽しみが表現されるように思う。しかし、やはり、訳されたものを読んでいるということは、大きく意味が変わってくることもありうるので、注意が必要だ。 コミュニティに何を語りかけているか: 神に従う者たちのうなり コミュニティということを考えると、2節は「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」と日本語では単数形のようだが、「口ずさむ人々」という複数形で捉えても良い。少なくとも英語では複数形で表現されている。複数で考えると、いろいろなイメージがわいてくる。たとえば、今という瞬間でも、世界中のどこかで、聖書研究会なりをしていて聖書の言葉を読んでいる人々がいる。また朝起きて聖書を読んでいる人もいれば、就寝前に聖書を読んでいる人々もいる。世界中のどこかでは平日にも礼拝をしているところもあり、その中で、皆で聖書を読んでいる所もあるだろう。それらのすべての声が聞こえてきたらどういう風に聞こえるだろうか。一台の車が通る音を聞くのと、交通量の激しいフリーウェーの近くで聞こえる音の違いを考えてみるとわかりやすいかと思う。一人一人が、いくら楽しい声で口ずさんでいたとしても、それが何万人もの方が口ずさんでいたとしたら、それは、「うなる人々」の声になってくるような気もする。 たとえ、それが全体では「うなる」ような感じかもしれないが、主なる神は、多くの人々が主の教えを口ずさむのを喜ばれていて、口ずさんでいる一人一人に幸せ、喜びがある。今日健康を与えられている人、病の中にある方、あるいは、悲しみの中にある方も、何かの主の教え、ただ単に「神を愛し、隣人を愛せよ。」だけでも良いので、口ずさんで心の幸せが与えられますように。 アーメン   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 主が喜ばれるパーティ ルカ14:1, 7-14 主の恵みと福音が集まりました会衆の上に豊かにありますように! さて、今日はイエスの語られたパーティの話。何かのパーティに招かれたとして、どこに座りたいか? あなたが、食事会を催すことにしたとして、だれを招きたいか?  私は、実は、苦いしかも恥ずかしい経験がある。しかし、そのぶざまな体験を通して、神は私に語りかけていたと思う。 神学校のある教授の引退披露パーティがモントレーパークであった。 私は、当時インターンだったが、その披露宴に出席することになった。中華料理屋で行なわれたが、私は会場に入ってすぐドア近くのテーブルに座った。すると数分後、引退する教授が来られ、私の座っていたテーブルのすぐ隣のテーブルに座られた。そして、他の教授と思われる方々やシカゴから来られた方々がその教授のテーブルと私のテーブルに座り始めた。 入り口に近い席が、通常末席というのが日本の常識だが、そんなことは通用しない。 そして、まだ教授をよく知る方々でスピーチ予定の方々が私の座ったテーブルに座るとのことで、主催者の方から他のテーブルに行って欲しいと言われ、奥の方のテーブルに移動した。まさにイエスの語られていた恥ずかしい経験をすることになった。しかし、私に言わせれば上座なる奥の方の席について、となりに座った方は、シカゴから来られた牧師で、しかも、足も胴体も不自由な方。 私は始めてその方とお会いしたが、とても不思議な経験だった。彼の育った教会が、今は周辺にアフリカから移民してきた貧困層の方々が住むようになり、アフリカからの移民の方々を招いている教会になっているという話しを聞きとても有意義な会話となった。 引退披露バーティでの一連の出来事は、このルカ福音書の14章に書かれていることと、何かダブルで共通していると思った。   本日の福音書では、イエスは結婚披露宴に招かれたら末席に座るように、昼食会や夕食会を開く場合は、兄弟や、親戚、あるいは近所の金持ちを呼ぶのではなく、貧しい方や体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くようにと言われる。なぜなら、彼等からはお返しを受けないので幸せであり、義なる者が復活するときその報いを受けるから。 それにしても、このたとえ話、イエスは当時の人々、さらに、現代を生きる私たちに何を語っているのだろうか?この数ヶ月間読んできているルカ福音書には、ひとつの一貫したテーマがある。それはイエスが神の国はどういうところかを教えてくださっている。今日の福音書では、神の国の状況を宴会や食事会にたとえて話しておられる。あなたは神の国の宴会に招かれているのであり、また同じような宴会を主催して、その神の国の良き知らせをシェアするように教えられているように思う。神の国にあっては、全員が徹底的にへりくだっており、謙虚であり、どんな体の不自由さも差別されることなく、金持ちも貧乏もなく、人種差別もなく、主のもとに全員が同じ扱いを受ける。神の国では、貧しい方や体の不自由な方々がじゃま者扱いされることはなく、むしろ、彼らが正しいとされる。 そして、イエスはそのような神の国がこの世においても実現するようにと教えておられる。そして、私たちが真に楽しい宴会、そこにイエスもいっしょに座ってくださる喜び溢れる宴会を催す、つまり社会作りをするように導いておられる。 この世において、日本人は日本人だけの社会とか、あるいは、裕福な人々は裕福な人々だけでコミュニティを形成しようとする傾向がある。そのような社会的な風潮があっても、イエスは、私たちに、だれかがだれかよりも価値が高いなどということが無いような社会になるように、徹底的に謙虚に生きるように導いておられる。 先週ある記事を読んでいて、たいへんに残念に思ったことがある。最近日本では、考え方が同じではない外国人は出ていってくれ、と考える方々が多くなっているという話を聞いた。日本は古い歴史にさかのぼると、そもそも、他民族国家なのだと思う。 しかし、鎖国などの時代を経て、いつのまにか単一民族のような印象を受け、そして、また自然と他民族であることに気づく時代が近づいており、いってみれば神が喜ばれる社会になっていくのではないかと私が期待していたが、どうもそれを歓迎していない動き、風潮があるようだ。そのような風潮は究極的に喜ばしい社会形成になるのだろうか。ぎすぎすした社会、国際関係になってしまうのではないだろうか。 そもそも、そのような風潮を見て、イエスはどう思われるだろうか。  神の国においてだけではなく、この世においても、へりくだって生きること、そして、文化の異なる人々も、貧しい人々も、あるいは体の不自由な方々も、神が創造してくださった同じ人間として、いっしょに生活する。そのような行動こそが、最もいつくしみあふれるイエスが主催してくださる宴会の席に着くことであり、そこに真の主イエスの喜びがあり、私たちも大きな喜びが与えられることになる。アーメン  Party that the Lord Enjoys Luke 14:1,7-14 May the Grace and Peace of Christ be with you all! The theme of today’s message is the party that Jesus discussed. When you are invited to a party, where are you going to sit? When you host a party, whom are you going to invite? I had a bit of a bitter and shameful experience at a party…however, from that awkward experience; I felt that God was speaking to me. Five or six years ago, a theology professor’s retirement party was held in Monterrey Park and I happened to be there. During this time I was just an intern. It was held at a Chinese restaurant, in their banquet hall, I entered the venue and sat at a table near the entrance. Then the professor came a few minutes later and sat next to the table where I was seated. Then several other VIPs arrived and started sitting at either his table or my table. Although, I thought that the table I was sitting at would be far from the main guest table, this was not the case. Later on, a few more people arrived (i.e. guest speakers) and I was asked to change my seat by a pastor who coordinated the party…it was a shameful social experience as Jesus discussed in his parable. I moved to a different table and the person seated next to me was a pastor who came from Chicago. He is a…

Tweet 召天者記念礼拝招待状 2013 召天者礼拝案内状2013English Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace