Tweet 2014年3月9日LCR日本語週報通算第1297号 (日本語) 3月5日の灰の水曜日には、沢山の方が6時からのスープサパー、そして7時からの礼拝に来られ、四旬節の始めに相応しい時が与えられた事を感謝致します。この日から始まる40日間の受難節を、特に苦難の中にある方々、病と戦っている方々を覚え、一日も早く平安が訪れますようお祈り致します。 2014年3月9日の週報 March 9, 2014 First Sunday in Lent (English Bulletin) Sunday English Bulletin 1297E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週読む詩編は51編。この詩編は有名でよく読まれる。伝統的には、四旬節がはじまる時にも、読む箇所となっている。四旬節とは、四十日間のこと。イエスキリストが十字架に架かって復活するイースターからさかのぼって、四十日前から四旬節が始る。ただし、日曜日は四十日に含めない。従って、1週間を6日と考えて、イースターの6週間前(合計36日)とさらにその四日前の水曜から四旬節がはじまる。 日本語では、四旬節のことを、受難節と呼ぶこともある。それはイエスキリストが受難、つまり苦しみにあわれたことを覚える期間でもある。 また、英語では、”Lent”(レント)という言葉が使われる。このレントはもともとはラテン語で、「だんだん長くなる」という意味がある。つまり、北半球にいる場合が前提になってしまうが、春が近づいてきて、だんだん日が長くなっていく時期だから、そのような名称で呼ばれるようになったのではないかと思う。 ではとにかく詩編51編を、何回か読もう。 詩編 / 51編 1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】 3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 この詩編は昨年9月はじめにもとりあげられて読んだ。その時「罪」という言葉にやや詳しく触れた。3節、4節にある「背きの罪」と「咎」と「罪」という言葉は、それぞれ、原語であるヘブル語ではニュアンスが異なってくる。昨年9月の繰り返しになるが、今一度書いておきたい。 最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現す言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 さて、四旬節のはじまりにあたりこの詩編51編を読み、この罪という言葉について考える時、どんなことを覚えておられるだろうか。 四旬節のはじめの水曜を、「灰の水曜日」という。 灰の水曜日には、礼拝のある教会が多い。 私は昨日の午前11時半に教区の事務所で、灰の水曜日の礼拝があり、そして、夜7時からは復活ルーテルでの礼拝があった。全員が、額に灰で十字架の印をつけられる。自分たちが、普段は、神の御心とすることをできないでいる、神の御心から外れたことを行なったり、話している現実を覚える、そして、イエスキリストが十字架に架かってくださったことを覚えることになる。 そして、四十日間は、なにかをがまんする習慣がある。私の祖母は、この四旬節の期間は、お肉を一切食べなかったことを思い出す。 現代でも、甘いものを食べないようにするとか、お酒を控えるとか、たばこを控えるとか、いろいろと控えることにチャレンジするキリスト教徒も多い。 今年の四旬節、ぜひ、神の御心から外れてしまうことと思うことは避け、そして避けるだけではなく、その代わりに、神の御心に近いことを実行できますように。それは、なにかをしない代わりに、神に「祈る」ということもとても大切なことだと思う。この四旬節、十字架を担いで歩まれたイエスとの関係が、また新たにされ、深まって、そして、隣人を大切にすることができますように。アーメン。 牧師 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マタイ17:1-9 牧師:安達均 主イエスキリストの恵みと平安が、ここに集まった兄弟姉妹の上に豊かに注がれますように! ここのところいかがお過ごしだろうか?今年の幕開けはセンセーショナルな幕開けだったと思う。長年日本語部をサポートしてくださっているJさんの召天のニュースがあったかと思うと、突然のFさんの召天。 先月は突然、Mさんが倒れた。意識を失ったが一命を取り止めた。一昨日には、退院予定とのことだったが、かぜをひき、結局まだ入院しており、明日退院予定。復活ルーテル教会日本語部の中で、さまざまな苦しみを体験している兄弟姉妹は多い。 健康上の事ばかりではなく、最近交通事故にあってしまったり、あるいは私生活の面でなにか悩み事があるという方もたくさんおられるのが現実だ。言うなれば人生の谷間を歩んでいる状況の方々が多い。 そのような私たちに、本日与えられた主の変容日の聖書箇所は、ちょっと怖いような箇所でもあるが、逆に、世の不安からは守られる箇所のように思う。 主の変貌が起こる少し前のことから説明したい。 マタイ17章は「6日の後」という言葉で始っているが、6日前に何があったのだろうか?16章で、この世的な栄光、ローマに対するイスラエルの勝利をもたらすイエスのリーダとしての手腕を願う弟子たちの姿があった。それに反して、イエスは、「ユダヤの指導者から苦しみを受け、殺され、三日後には復活することになっている。」と話し始めた。 リーダ格で目立ちたがりやのペテロは、イエスを「そんなことがあってはなりません。」といって、いさめはじめてしまった。ペテロに対して、イエスは、「悪魔よさがれ。邪魔者。お前は神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われる。 この人こそイスラエルの本当の指導者であり主だと思って従ってきたイエス様に、悪魔だとか邪魔者と言われてしまったペトロはどんなに落ち込んだことだろう。 頭が真っ白になって、何を言われてもよくわからない状況になってしまったのではないかと思う。 そのような会話があって6日後、さきほど読んだ主の変貌ということがおこる。落ち込んでいたペテロとさらに他の二人の弟子を連れて、イエスは山に登る。山の頂上に来るとイエスの姿が目の前で変わる。 イエスの顔は太陽のように輝き、服は真っ白となる。 イエスの姿が変わるばかりではなく、そこに、紀元前1200年前とか800年前にこの世にいたモーセとエリヤも、その場に顕われ、イエスと語りあう姿を目撃する。ペトロと二人の弟子は、とんでもない光景を目撃してしまう。 ペテロはまた口をはさんでしゃべりだしてしまう。「主よ、あなたがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、小屋を三つ建てましょう。」しかしその直後には、雲に覆われて、何も見えなくなってしまう。 すると天からの声が聞こえる。 「これは私の愛する子。私の心にかなう者。これに聞け。」 山に登ってただでさえ怖かったのに、そのような光景を見たかと思ったら雲に覆われ何も見えなくなって、天からの声が聞こえたことは、もう怖くてしょうがない。天の声は、「おだまんなさい。」と言われたような感覚もあったのではないだろうか。 そして、こわくて震えて、地面にひれ伏していた3人の弟子たちに手を触れて、イエスが「起きなさい。恐れることはない。」と言われる。 今週、水曜からの受難節を前に、今日の主の変貌日を迎えている。この主の変貌は、イエスキリストの苦しみ・受難、十字架上の死、そして復活の前触れのような要素があると言われる。私もそう思う。 ただ、今年の主の変貌の様子を読むと、たとえ私たちがどんな暗い谷間を歩くことになっていようが、あるいは恐くてしょうがない崖っぷちに立つようなことがあろうが、そこに、主イエスによる絶対的な擁護が与えられていることを確信できると思う。 私は洗礼を受けた後、何年かしたころだった。大黒柱であった父は、出張も多く、そのころは勤めていた会社の技術者としてソ連の仕事をしていてモスクワによく出張していた時期だった。出張に行ってない時は、帰りが遅く、いっしょに食事をすることは稀だった。しかし、ある晩、早く帰ってきて、母と子供たち全員に話があるという。 10歳位の私は、父の気持ちは、家族をとても大切に思っているということと、経済的にはよくない状況でこれから家族はたいへんだということはわかった。 しかし、父の会社のビジネスが具体的にどういうことになっているかはよくわからなかった。 あとから考えると、ソ連の仕事はなんども行ったがあまりうまくいってなくて、利益は出ないし、その時の会社の状態も良い状況ではないということだったのだと思う。 つまり、経済的にはどうなっちゃうかわからない。 母はひたすら節約を心がけたのだと思う。兄二人は私立の中学に行っていたが、私は近くの公立中学に行くことになるのかとも思った。 私は、毎晩祈る習慣はあった。その晩も、洗礼を受けたときに司教からいただいたイエス様のイコンの前で祈った。簡単に、「今日もありがとうございました。よく眠れますように。父と子と聖霊の御名によって。」と祈ることで、ゆっくり眠ることができた。 その時、主イエスが「恐がらなくていいんだよ。」と言って、どんな中学に行こうが、どんなたいへんなことがあろうが、主イエスが守ってくださる、だいじょうぶ、と思えた。経済的な困難にしても、病気にしても、この世の困難は恐くはない。そういう確信を得たように思う。それは言うなれば、主の変貌の体験だったように思う。 本日与えられた御言葉により、私たちは、全員、主の「恐れることはない。」という言葉を聞いている。 別に今日でなくても、みなさんにも何か主の変貌の体験をお持ちの方はいるかもしれない。 それが主の変貌だったと気がつかなかったとしても、後から考えると、この世の困難の真っ只中イエスが来てくださり、触れてくださり、「私の言葉を聞きなさい。怖がることは無い。」と言ってくださっていたことに気づくことがあるのだと思う。 水曜からはじまる四旬節(受難節)の期間、イエスキリストの存在と主の加護を認識する機会となり、四旬節の最後には恵み豊かな受難週(聖週間)と憐れみ深いイースターを迎えることができますように。 アーメン “Do Not Be Afraid” March 2, 2014 Matthew 17: 1-9 Pr. Hitoshi Adachi May God’s Grace and Peace pour into the hearts of our brothers and sisters gathered here in this sanctuary! How are you doing these days? Where did the past 60 days go? This year started with bittersweet occurrences here at Resurrection Lutheran Church. Mr. S. went to his eternal home, Mr. F. went there, too. Just a week ago (from last Saturday), Mrs. M. passed away and we had her memorial service yesterday. During last month, Mr. M. lost consciousness and went to the ER, then he was transferred to the ICU and now he is at a rehabilitation center. Among our brothers and sisters, many of us are experiencing health issues. People are not only experiencing health related issues, but there are people who had traffic accidents or are people in the midst of life troubles. In other words, there are many at Resurrection who are going through valleys in their lives. The text read today is the transfiguration of our Lord, which makes us fear and wonder, but, I also think, it gives us God’s protection in the midst of many challenges. Let me explain some background regarding the text. Matthew 17 starts with the words, “Six days later,” what happened six days before that? According to the end of Matthew 16, we could interpret…