Archive for August, 2015

Tweet 今週は8月6 日から8月9日の聖書日課に与えられている詩編34編1-9節を読もう。いつものように、まず気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編34編 1:【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】 2:どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 3:わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 4:わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。 5:わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。 6:主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 7:この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。 8:主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。 9:味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 今週、私にインパクトのあった言葉としては、9節「味わい、見よ、主の恵みの深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」 詩編作者の気持ちを想像しながら今週の詩編を読んでいきたい。詩編34編を「詩編を読もう」でとりあげるのは今回で2回目。 以前にも書いたが、詩編作者は、詩を綴ってゆく中で、ユダヤの礼拝を表現しているような場合があり、詩編34編はその一例。2-4節は「招きの言葉」で、5-11節では短い証(ダビデの体験談)のようなことが語られ、そして12節以降は説教(神学的示唆)が語られているような面がある。 その中で、9節までだけを読む。 どんな場合でも絶えることなく私は主を賛美する(2節)。貧しい人々よ(まだ主の恵みの深さを味わっていない人)どうか讃美を聞き、そしていっしょに喜び祝おう(3節)。共に一体となって、主の御名を崇めよう(4節)。 私が主に求めると主は答えてくださり、脅かすものからいつも救い出してくださった(5節)。主を仰ぎ見る人は輝き、たとえ失敗や間違いを犯しても恥辱を味わったままになることはない(6節)。 虐げられてしまった者が主を呼び求めると、主はそれを聞き、苦難から救い出してくださった(7節)。 主が遣わす者が苦難の中にある者の周りに集まり、畏れて主を呼び求める者を助けてくださった(8節)。主の恵みの深さを味わってみなさい、主の元に身を寄せる人は、どんなに幸いなことか(9節)。 今日、この詩編34編を通して、主なる神は、私たちに何を語っているのだろうか。ここ数週間の聖日は、ずっと福音書はヨハネ6章が与えられていて、ややしつこい位に、イエスが「わたしが命のパン」と言われた言葉にちなんだ御言葉をあじわっている。 はじめて聖餐式の様子を見る者にとって、司祭や牧師が「あなたに与えられたイエスキリストの体です。」と言いパンやウェハーを信者に渡している光景は、「なんでパンやウェハーがイエスの体なのか?」と疑問を抱き、滑稽にさえ思えてしまうかもしれない。 しかし、現代を生きる者は、この詩編の5-8節で詠われていたような、失敗や間違いをして恥辱を味わったことのある者、虐げられた経験のある者、苦難の真っ只中にある者であり、なにか絶対的なものがあるなら頼りたい、という人々が、ほとんどなのだと思う。そして、この詩編では、絶対的な存在である主の御もとに身を寄せる人が、いかに救われるかを詠っている。しかし、その絶対的な存在は、詩編に綴られた時代には目には見えなかったが、目に見える形で、神のひとり子イエスが送られた。 詩編34編9節で「味わい、見よ、主の恵みの深さを」と詠われていたこの「味わい、見よ」は、本当に味わうことができ見ることができる「わたしは命のパンである」と話すイエスの登場を示唆していたように思えてくる。 そして、イエスを通して、現代に生きる私たち、日頃の生活でさまざまな苦難に直面する者にとって、その絶対的な存在が、意識・無意識に関係なく、聖餐式の中で体験し、イエスの愛と赦し、希望、喜びを得て、新たな局面に向かう力が与えられている。  アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ 6:30-35 主イエスキリストの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、豊かに注がれますように! アーメン。 今年のヴァケーション・バイブル・スクール(VBS)のテーマは、”GO FISH”、「魚とりに行こう」だ。 その初日、明日の月曜日はマタイ4章から、次のようなことを学ぶ。 イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖で魚をとる漁師たちだった。 その漁師たちに向かって、イエスは、イエスの弟子になるにあたり、「あなたたちを人をとる漁師にしよう」と話されたことを学ぶ。 なぜそんなことを言われたのだろうか? そもそもとられた魚は、食べられてしまうわけだ。 だから、じゃ、人をとるとは、とった人を食べるということなのだろうか? おもしろいことに、VBSの三日目は旧約聖書のヨナの物語で、ヨナが魚に食べられてしまう話を学ぶ。  しかし、もちろん、イエスが人間をとる漁師にしようといわれたのは、とらわれた人間が魚や弟子に、ましてやイエスに食べられてしまうわけでもない。  教会の言葉で言うならば、洗礼を受け、信仰を告白し、キリスト教の信者になること。簡単に言えば、キリストを信じること。 それにしても、キリストを信じるとはいったいどういうことなのだろうか。 今日の聖書の箇所は、私たちに、キリスト信者の根本にせまっているところともいえる。  イエスは5000人の人々を、5個のパンと2匹の魚だけで、満腹にした。この奇跡やイエスが行なった他の奇跡によって、人々には、いろいろな思惑が生じた。 このような奇跡を行えるイエスに、病気を癒す専門家になってもらいたいと思った人もいただろうし、イスラエルという国家がローマに支配されることがないように、イスラエルの自治を確立してもらいたいと思う人もいただろう。 いっさい食べ物に困ることがないように、永遠に食物を提供してくれる人になってもらいたいという人もいた。   しかし、なぜ、神の子イエスは、人の子として人々の間に現われたのだろうか? イエスは確かに、病を癒したり、食べ物を与えたり、人々に奇跡的な業を見せられた。 しかし、その奇跡を人々が見て、人々の思惑通りにイエスを利用してしまうわけにはいかなかった。 もっともっと大きな目的が神にはあったからだ。  イエスの御業を人々が見ることで、イエスを知り、そして神を知るようになるということが、とても大切な目的だった。 神を知るというのは、知識として、神はこういう方であると理解する事とは大きく異なる事などだと思う。 私たちの思いでは理解しようがないような、神の力に頼る、イエスキリストを信じるということなのだろう。 イエスはもちろん、肉体的にも5000人の集まった民を満腹にしてあげたいと思った。 しかし、神の究極的な目的は、民が霊的に満たされることだった。 イエス自身が「わたしが天から降ってきた、命のパンである。」と言われたのは、イエス自身がすべての源ということ。また「そのパンをいただくものは、もう飢えも渇きもなくなる。」ともいわれた。霊的に満たされることは、イエスキリストだけによって可能なこと。  イエスはたとえ十字架刑にかかって、肉体的には心臓がとまることがあったとしても、神はイエスを復活させ、死をほろぼした。 そして聖霊として、ずっとこの世に生きるものとしてくださった。イエスを信じるものにとって、つまりイエスの体、命のパンをいただく者にとって、イエスの死と復活は、ただの奇跡だったとか、他人後事ではない。その命のパンといただく者は、イエスが復活し永遠の命に生きているように、私たちも、復活の命、永遠の命に生きている。  このメッセージのはじめに、漁師たちにとらわれた人々が、いったいどうなってしまうか。魚と同じように食べられてしまうのか? という話をした。その答えは、とらえられた人々は、食べられるのではなく、逆にイエスを食べる人になる。パウロは第一コリントの中で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と書いている。 そして、それから2000年経って、洗礼を受け、かつ信仰を告白する者となった私たちも、毎週イエスを食べる人々の仲間入りをしている。 そして、イエスの体、教会の一部をなし、永遠の命に生きている。  今日、新たに、キリスト者であることの深い意味を考えながら、感謝をもってイエスを皆でいただこう。これまでの自分自身の勝手な考えや、後悔、すべての罪から解放されて、永遠に生きるイエスの体の一部となって、神の思いを実現しよう。イエスにとらえられたことを喜び、そして、新たに、人々をとる漁師となろう。 アーメン 安達均 What Will Happen to Those Fished By the Disciples? John 6:30-35 May the Grace and Peace of our Lord, Jesus Christ, be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen As you know by now, the theme of this year’s Vacation Bible School is “Go Fish.” The first day, Monday tomorrow, kids will learn from Matthew Chapter 4: The first disciples were fishermen, but Jesus called them, saying “I will make you fish for people.” Why did Jesus say such a thing? Fish caught by fishermen are usually eaten by people. So what is going to happen to people caught by the disciples? Are they also going to be eaten? Interestingly, the third day of VBS, on Wednesday, children will learn the story of Jonah, in which Jonah was eaten by a big fish. Of course, the purpose of the disciples fishing for people is not for the people to be eaten by actual fish, disciples, or Jesus. So what will happen to those caught by the disciples? Ecclesiastically, the correct answer is to be baptized and to confess their faith in Christ. Or more simply stated, to believe in Christ…however, what does it really mean to believe in Christ? I think that the Gospel text today is fundamental when thinking about this question: What does becoming a Christian truly mean? Several paragraphs before today’s text, 5000 people were well fed by Jesus with…

Tweet 2015年8月2日LCR日本語部週報通算第1362号 2015年8月2日の週報 August 2, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1362E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace