Tweet マルコ10:2-16 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の上に豊かに注がれますように! 以前に説教で話したことがあるので、覚えている方もいるかもしれない。 南アフリカ共和国東部で話されているズールー語で「こんにちは」に相当する言葉はなんというか? 「サボナ、Sawubona」。 そして、その応え方として、「ギコワナ、Nigikhona」 短く訳すなら、「サボナ」は「ナボナ」などのお菓子の種類ではもちろんなくて、「私はあなたを見ます。」 「ギコワナ」は「私はここにいます。」 しかし、ニューヨークに住む、アフリカ系のELCAのパスターによれば、この挨拶には、もっと深い意味があるという。 それは、サボナには、「私の中にいる神が、あなたの中にいる神をみます。」 そしてすぐさま応答するキゴワナという言葉にも、「そう、私の中の神がいて、その神があなたの中にいる神を見ます。」 というやりとりらしい。 私は、その挨拶はすばらしく、神が存在するから、私たちは、今互いに会っているんだという認識にたち、そのときの出会いが、それがいつも挨拶を交わしている相手でも、まったくはじめて会ったときでも、また、人種が違う、年齢が違う人とあった時でも、その出会いにはとても意味があり、また、相手のことを真剣に思う、愛が生まれてくるように思う。 今、話したことは、実は、これだけ話せば、今日のメッセージは終わりにしても良いくらいだと思っている。 「えっ」 と思われる方がいるかもしれない。 なぜなら、「さきほど読んだ福音書では、イエス様が、離縁とか離婚について話していただはないですか。 だから、離縁について離婚について、もっと話を聞かせてください。」と思われる方もいるかもしれない。あるいは、「イエスさまは、神が結びあわせたものを人が話してはいけない、といっているから、キリスト教は離縁とか離婚を認めてはいけないのではないですか」という質問もある方もいるかもしれない。 離縁や離婚について、聞きたいということはよくわかる。 離婚を経験された方がこの中にもおられる。 おひとりおひとり、どうだろう、自分の親戚、家族を見回しても、離婚経験者がいるということはほとんどではないかと思う。そして、完全な離縁とはいかなくても、法律にのっとった離婚をした際でも、精神的な痛みや、経済的な痛み、さまざまな傷がどれほど大きいか、多くの方が同感するのではないだろうか。 それは、離婚し、完全にもう離縁、互いに連絡もとらないなどとした場合には、当事者同志だけの問題ではなく、子供や、さらには、孫にまで影響してくることだってある。 自分の父親がだれかわからない、あるいは、自分の祖父はだれだかわからない、それが、痛みになってくることだってある。 しかし、離縁や離婚ということに、もうちょっと話すなら、離婚がやむをえない場合というのもあるのだと思う。事情はさまざまだ。 しかし、離縁や離婚の話は、ここまでにしたい。 なぜなら、今日の福音書の箇所で、ファリサイ人の質問の意図は、モーセの律法とイエスの言わんとしていることが食い違わないかどうかをさぐるような気配があるからだ。ファリサイ派の人々は、イエスのすきをねらって、願わくば、律法に反するようなことを言うなら、イエスを罪に問う、ゆくゆくは、死刑にすら追い込むことを狙っているようなところがあるからだ。 イエスはそのようなことを承知の上で、結婚とか離婚のことを超えて、もっと、もっと、人間にとって大切なことを、示して話してくださっているように思う。 離縁問題というシリアスな話をしている時に、イエスに触れてもらおうとして、子供たちをつれてきた人たちがいた。 弟子たちでさえ、いまはなにもわからない子供たちが出てくる幕ではないとして、その人々を追い返そうとする。 しかし、イエスは、弟子たちを叱り、子供たちをここにつれてくるように言う。 二週間前の礼拝に出ておられた方々は、またかと思われるかもしれないが、今日の福音書箇所の最後では、イエスは、子供たちを抱き上げている様子が描かれている。 律法第一のユダヤ社会では、まだ律法の律の字もわからない子供たちは、いわば、律法を守ったりすることもできず、無能力者的な扱いだった。 そのなにもわからない子供たちに接しているイエスの態度から、イエスは弟子たちに何を教えようとされたのだろうか? それは、また、21世紀を生きる、私たちにも、イエスの思いは迫ってきているのだと思う。 どんな出会いであったとしても、そのかけがえのない出会いの中に、忘れてはならないことを、イエスは教えてくださっているのだと思う。 何年もつきあってきている同じ結婚相手とあっているときでも、未婚の方あるいは離婚経験者でも将来結婚するかもしれない相手とあったときでも、あるいはどのような子供でも、あるいは個人的・経済的に多くの困難を背負っている人でも、目の前の相手は、この自分を創造してくださった神の慈しみがあり、また相手も同じ神が創造してくださって神の慈しみがある。 そう、互いに、同じ神が生んでくださった兄弟姉妹なのだということを覚えるように導いてくださっているように思う。 今日、イエスさまから、おおきな挑戦を受けているのではないでしょうか。 今日から、どんな人と出合ったとしても、それが新しく会う人でも、いままでなんども会ってきている結婚相手とか家族親戚、友人であっても、自分にとって都合がよいか悪いかとかいうことで、相手を見るのではなく、神がその出会わせてくださった人、同じ神の子供たち、互いに兄弟姉妹であることをわきまえて接することができますように。 アーメン 安達均 “A Precious Encounter” Mark 10 : 2-16 May Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! Since I talked about this word in the past in one of sermons, someone might remember. What do you say “greetings” in Zulu which is one of the languages in Southern part of Africa? “Sawubona!” And to respond “Nigikhona.” If translated in a short form, they are “I see you.” and “I am here.” respectively. However, an ELCA pastor in New York who is an African American Descendant explained that much deeper meaning of these greetings. When you say “Sawubona,” it means “God in me see you God in you.” Likewise in the response, when you say “Nigikhona,” it measn “Yes God is in me and sees God in you.” When I heard this, I sensed that because of God we are seeing each other. Whomever and whenever we see someone, that is the first time or someone see each other often, whatever his or her ethnicity, gender, age, religion, because of God we see each other. When we think about this, this greetings bring us God’s love and mercy each other. What I talked so far in three minutes is the conclusion of the message today and I may finish this sermon today…. Well, you might think why…. because what I read in the Gospel talked about divorce, so why don’t you talk about it? Or, since Jesus…
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Tweet 2015年10月4日LCR日本語部週報通算第1370号 2015年10月4日の週報 October 4, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1370E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は10 月1 日から4日間にわたり聖書日課に与えられている詩編8編を読もう。詩編8編は、去年と一昨年の三位一体主日の頃、また、今年の元旦の頃にも取りあげられた。したがって、詩編を読もうで取りあげるのは、今回で4回目になる。何回読んでも含蓄のある詩編だと思う。今回は、10月4日に与えられているマルコ10章2-16節で離縁のことがとりあげられているが、そのことにも触れたいと思う。いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して、さらにマルコ10章のことも加味しつつ、現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 気になる言葉やインパクトのある言葉としては、私の場合は特に5節の中の、「人間は何ものなのでしょう。人の子はなにものなのでしょう。」という言葉。 詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。ギティトとは、以前きまったメロディと書いたが、琴のような楽器という説もある。2節の前半は、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っている。 同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中身は「天に輝くあなたの以降をたたえます。」という賛美から始る(2節後半)。全能の神が、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって、神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。 さて、詩編8編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。この詩編の1節を除く2節から10節の詩の部分でその中央にあたる5節の言葉に「人の子」と出てくる。新約聖書を読む私たちは、ここで、「イエスのこと」とピンと来るが、この詩編はイエスが顕われる500年以上昔に、歌われ始めていた。だとすると、イエスが顕われる前から、救い主イエスが見え隠れしていたような時代があったことを思わせる。 先週の日曜は、カリフォルニアで夜8時近くに、満月が月食となり、月が見え隠れするような気がしたが、月の光って、あるいは太陽から出てくる光って、いったい何なんだろうと考えさせられた。究極的には、神と神の子、この世に顕われる人の子とは何ものなのか、について考えさせる。そして、詩編8編の「人の子は何ものなのか」の前には、「人間は何ものなのか」という問いは、神から愛されているある特定の人を指しているわけではなく、神がこよなく愛される人間全体、人と人の関係というものがどういうものなのかを問われているように思う。 冒頭に述べたように、4日の聖日に与えられている聖書は、マルコ10章。ファリサイ人が離縁について質問しているが、イエスの感心は、離縁や離婚より大きなスケールで、人と人との関係のあり方について、示唆を与える事にあるように思う。つまり、この詩編8編で中心となった、「人間は何ものか、人の子は何ものか」について、マルコ10章2-16節で応答しているような面がある。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace