Tweet 2016年1月10日LCR日本語部週報通算第1383号 2016年1月10日主の洗礼日の週報 January 10, 2016 LCR Japanese Ministry Sunday Bulletin Sunday English Bulletin 1383E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 新年も最初の1週間が過ぎ去っていこうとしている。聖書日課では、7日から10日与えられている詩編は72編だが、昨年も新年にあたって、72編が読まれたこともあり、今年は、11日から13日、来週月曜から水曜に与えられている詩編106編1-12節をとりあげたい。 いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編 106編 1:ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。 2:主の力強い御業を言葉に表し/主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。 3:いかに幸いなことか、裁きを守り/どのような時にも恵みの業を果たす人は。 4:主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき/わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。 5:あなたの選ばれた民に対する恵みを見/あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い/あなたの嗣業の民と共に/誇ることができるようにしてください。 6:わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。 7:わたしたちの先祖は、エジプトで/驚くべき御業に目覚めず/豊かな慈しみに心を留めず/海辺で、葦の海のほとりで反抗した。 8:主は、御名のために彼らを救い/力強い御業を示された。 9:葦の海は主に叱咤されて干上がり/彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。 10:主は憎む者の手から彼らを救い/敵の手から贖われた。 11:彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ/生き残る者はひとりもなかった。 12:彼らは御言葉を信じ/賛美の歌をうたった。 気になる言葉、インパクトのある言葉は何だろう? 私にとっては、6 節にある、「主に逆らった」という言葉。 詩編作者の気持ちを覚えつつこの詩編箇所を振り返りたい。多くの詩編に見受けられる、賛美への招きからはじまり、ユダヤ教の礼拝に詠われるのにふさわしいのだと思う(1節)。しかし次編ではいきなり現実的な話となり、いったいだれが、主のみ言葉を告げ続けて、賛美しつづけられるだろうか(2節)。詩編一編にも登場していた「いかに幸いなことか」の言葉のあと、裁きに従い、どんな時でも恵みの業を果たす人は(3節)。4-5節では主への嘆願となり、詩編作者とそこに属している民が、主の民が喜び迎え入れられる時、喜び祝う時、私たちも御心を留め、ともに祝うことができますように。6節以降は、音楽でいえば転調したような感じがする内容になってくる。 まず、先祖が罪を犯したように、私たちも主に逆らったという告白(6節)。先祖は主の御業に目をとめず、主の慈しみにも心を留めず、反抗した(7節)。にも関わらず、主が御名のために、先祖を救い、御業を示された(8節)。 先祖の行く道を進めなくしていた葦の海は干上がって、深い谷を行くように通ることができた(9節)。主は、先祖を憎む者、敵の手から救われた(10節)。先祖を苦しめたものは生き残れなかった(11節)。反抗していた先祖だったが御言葉を信じ、主を賛美するようになった(12節)。 さて、上記のような詩編箇所、神の御心は、わたしたちに何を語りかけているのだろうか? 私たちには、日本という地において260年もの間、キリスト教を迫害した歴史がある。キリスト教徒は死罪とされた。 実は、ヨーロッパでの歴史も時代は日本の歴史よりさらに1500年さかのぼるが、紀元4世紀途中までのローマでも同じ傾向があったといってよい。それは、その当時に普通に生活していた人々から見れば、社会として、キリスト教を認めていなかったのだから、やむを得ないような状況は否めないが、ヨーロッパの先祖も日本の先祖も、罪を犯し、主に逆らったということはできるのだろう。 しかし、この詩編に、主がイスラエルの先祖を辛抱強く慈しみをふりそそげ続けたように、ヨーロッパも日本の民をも、主が愛し続け、憐れみを与え続け、主の救いをもたらし続けてくださっているのだと感じる。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet ヨハネ1:10-18 主イエスの恵みと真理、神の真心が、集まった会衆の心の中に染み渡りますように! アーメン! 教会の暦では12月25日がキリストの降誕日でそれから12日間、1月5日までを降誕節と呼んでいる。そして1月6日が顕現日、キリストがこの世に顕われたことを記念する日。1月6日は平日であるため、本日、顕現主日として、この礼拝は守られる。 降誕と顕現がどうちがうのかと思われるかもしれない。 降誕は、あくまで、イエス様が生まれたということ。 顕現となると、ギリシャ語で、Epiphany、英語ではMinifestation とも訳せるが、でその意味はStriking Appearance でビックリするように顕われること。 イエスがこの世の馬小屋で生まれてしまったこと以上に、もっとビックリすることがいろいろあったのだと思う。 そのひとつ、マタイの2章の1-12節に書かれていることだが、東方の異邦人の星占いをする博士たちにも、ユダヤの王の誕生がわかり、イエスを拝みに来たのだ。 顕現の意味することのひとつは、イエスが異邦人に対しても生まれた。 それはキリスト教会が、どんな人種や文化を持つものであろが、どんな社会的地位を持つものであろうが、キリストにおいて一つであること。 この教会で、日本人であっても、この礼拝堂で、いっしょに共同体を形成することに、神の意志は強く働いているのだと思う。 降誕にしろ、顕現にしろ、神が人となって、この世に顕われたということについて、神がどういう気持ちで、人間になったのか、神の人間に対する真心がということなのか考えたい。 この説教では、あるたとえ話をした上で、神の真心について、お話ししたいと思う。 外は大嵐だった。 ある人が家から窓の外を見ると川が流れており、その向こう側はあひるが何十匹も群れを成していた。 その川は濁流が激しく流れており、あひるたちはとても泳いで渡ることはできなかった。 川の向こう側は、今にも氾濫しそうで、あひるたちは、瀕死の状況にあった。 困っているあひるたち。 その川の数百メートル上流に移動すれば、橋があり、その橋を渡ってくれば、あひるたちは、みなこちら側の安全な地に来ることができ、助かるのにと思った。 窓からそれを見ていた人は、自分が今、あひるになって向こう岸にいき、そして、あひるの言葉をしゃべって、橋を渡らせ、こちら側に誘導して助けることができるのに、と考えた。 さて、この話はたとえ話だが、ひとまず、たとえ話は横におき、与えられた聖書の話に入りたい。 ヨハネ福音書1章の10節から18節を先ほど読んだ。 ヨハネがこの福音書を書き留めたのは、紀元後90年ごろと言われており、イエスを信じる者たちへの迫害が非常に激しくなっていたといわれる。 したがって、ヨハネはこの福音書を書き始めるにあたって、言葉を選び、イエスキリストとは書かずに、別の言葉を使って書き始めたと思われる。 ちなみに、ヨハネ1章1-3節は、1: 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2:この言は、初めに神と共にあった。 3:万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 今「言」として読んだところは、実は、イエスに置き換えて読むと意味が深まってくる。私が「言」を「イエス」にして、さらにわかりやすい言葉にして、同じことを伝えたい。最初からイエスがいた。イエスは神とともにいた。 イエスは神であった。 すべてのものは、イエスによって生まれた。。。 さらに10節から18節の中で書かれている「言」となっているところで、本日の説教で鍵となる箇所を、イエスに置き換えて、話したい。 14節には、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」とあったが、「イエスは肉となって、つまり人間となって、私たちの間で共に過ごすようになった。」ということになってくる。 ヨハネ福音書の1章さらにヨハネ福音書全体で語られるポイントは、この世に存在するすべては、神なるイエスによって生を受けた。 しかし、イエスのことを忘れて、つまり神のことがよくわからずに、行動してしまう人間たちを思って、イエスは人間となってこの世に生まれた。 そして、神が、ご自分の創造した人間をどれだけ愛しておられるかを、イエスの十字架の死と復活を通して、示してくださった。 あひるのたとえ話をしたが、あひるは人間たち。 あひるだけではとても生きていくことができなかった。 そこで、窓から見ていた人は、実は神でありあひるたちに生を与えたイエスであった。 そのイエスがあひるとなり、つまり人間となり、導いてくださったということが、実際に起こった。 そのイエスは、神であり、人間すべてに生を与えた方である。 それゆえ、イエスの人間に対する愛は、抽象的な愛というものではなく、わが子のことで、からだの奥から湧き上がってくるような親の愛情、あわれみといつくしみにあふれている。 その子供たちの肌の色が何色であろうが、この世でどんな文化で育って、どんな仕事についたか、あるいは、年齢や男女に関係なく、造り主の、あふれんばかりのいつくしみが、この世に生まれたものにそそがれている。 その神の本当の気持ち、人間に対する恵みと真理、神の真心を顕にしてくださったのは、人間となって顕われ、私たちの中にやどってくださっている神、イエスキリスト、聖霊である。どのような社会情勢であろうが、常にイエスの愛が、神の真心が、私たちの中にある。 What is God’s Sincerity? John 1:10-18 May the Grace and Truth of Jesus Christ, God’s Sincerity, be poured into the hearts of the people in this sanctuary! Amen! In the Church calendar, December 25th is Christmas, and until January 5th, it is called Christmas Season. Then January 6th is the Epiphany. From Epiphany until one day before Lent, it is called Epiphany Season. Since January 6th is on a weekday, we observe and celebrate the Epiphany today. People might think what’s the difference between Christmas and the Epiphany? Christmas is the birth of Jesus Christ. The word Epiphany has Greek origins and it can be translated Manifestation or Striking Appearance. The fact that Jesus was born in a barn and placed in a manger in and of itself striking, but I think there is another more striking thing that is included in the story of Jesus Christ’s birth. It is written in Matthew Chapter 2:1-12. Wise, gentile men in the East, noticed the birth of the King of Judea and came to Bethlehem to worship Jesus. One of the aspects in the Epiphany of Jesus Christ is that he was born not only to the Jews but also for the Gentiles. Therefore, the Christian Church is open to all people regardless their race, class, gender, or age. It welcomes every individual. The appearance of Jesus Christ to this world at that time…
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