Tweet マルコ6:14-29 主イエスの恵みと平安が集まった会衆の心の中に染み渡るように! もう50年ほど前の話になってしまうが、悪いニュースは一切報道せずに、良いニュースだけを報道するラジオステーションが開局したそうだ。 一見、すばらしいことのようだが、ビジネスとしては数週間と続かなかったという。 スポンサーがつかなかったのだと思う。 そして、実際問題、人間は悪いニュースを欲している実情があるのだと思う。 本日与えられた福音書、イエスの幼なじみだったヨハネが、当時のヘロデ王の下、牢屋につながれていた。 ヘロデ王は、ヨハネを尊敬していた面があったが、妻のヘロディアは、殺したいと思っていた。さきほど、聞かれた通り、信じられないような経緯を経て、ヨハネは殺され、ヨハネの頭が盆に載せられてヘロディアの娘に渡される。 さらに、娘はヘロディアに渡す様子が描写されていた。 なんでこんな極悪非道ともいうべき話が、聖書の中の話なのだろうか? なぜ、イエスのおさななじみのヨハネがこんな無残な最後を遂げなければならなかったのだろうか? 私たちが、納得の行く説明をすることは難しいのかと思う。 ただ、現実問題として、私たち人間の心は矛盾に満ちている。 冒頭に話した、悪いニュースを欲している面がある。 目を覆いたくなるようなことでも、実は、指の隙間から、その悲惨な状況を見たくなるような面がある。 みなさんの記憶にも、まだ残っているかと思うが、なぜ911の飛行機がワールドトレードセンターに激突するシーンがあれほどまでに繰り返し、放映されなければならなかったのか? そこには、矛盾に満ちた人間の心、罪が、隠れているように思う。 ヘロデ一家が、ヨハネを悲惨な死に追いやっただけではなく、ユダヤ人も異邦人も凶暴してイエスを十字架刑にかけて殺してしまったのは事実で、その話を2000年間くりかえし、私たちは語り続けてきた事実がある。そして、これからもイエスの十字架は、語られ続けるであろう? なぜだろう? そこには、神の秘められた計画がある。 そして、そのイエスの死が、死では終わらなかった、死によって死は滅ぼされた事実がある。復活の力があり、復活の命により、どれだけ、人類は、慰められ、癒されているか計り知れないものがあるのだと思う。 現代においても、残念ながら、悲惨な報道、さらに映像を目撃することは続いてしまう。 それを何度も見るか見ないかが問題ではなく、できれば、見ないほうが良いのかと思うが、もっとも大切なことは、そこに秘められた神の思いを、私たちは思いめぐらすことが大切なのかと思う。 どんな困難、どんな悲惨な死と思われるようなことがおこったとしても、その真っ只中におられる主イエス、いっしょに困難を経験してくださり、慈しみと恵みに満ちた主イエスの働き、勝利を確認できますように! アーメン 安達均 “His Mysterious Plan” Mark 6:14-29 May the Grace and Peace of Jesus Christ be with you all! About 50 years ago, there was a radio station that never broadcasted bad news but only broadcasted good news. Although it seems like a good idea, businesswise, it did not last more than a few weeks. No major sponsors supported them. It seems, human beings want bad, breaking news. In Today’s gospel, John the Baptist, who was Jesus’ childhood friend and second cousin, was in jail. Although King Herod respected John, his wife Herodias did not like him and she wanted to kill him. Herod was conflicted. He respected John but swore oaths to Herodias’ daughter that she could have anything she wished. As I read the Gospel text a short time ago, John was beheaded in an unbelievably cruel way. After the beheading, his head on a tray was given to Herodias’ daughter and she, then, gave it to her mother. This scene is like something from a bloody horror movie. Why was this shocking story included in the Bible? Why was Jesus’ childhood friend, John, killed in such a cruel way and treated horribly after death? I do not think I can convincingly answer these questions. However, as this story shows, human beings’ hearts are full of conflicts. As I said earlier, human beings seem to prefer bad news. Even when people should avert their eyes, they still look at horrible events. I…
June 21st, 2015
2015年6月21日聖霊降臨後第4主日聖餐礼拝説教「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
No Comments, Uncategorized, 牧師説教, by admin1.Tweet マルコ4:35-41 主イエスの恵みと平安が、ここに集まった会衆の上に、さまざまな理由で礼拝に来られずにいる人々の上にも豊かに注がれますように! イエス様の目から見れば、このように行動したら良いということはわかるけど、回りの人々の目が気になり、とてもそんなことはできない、と思うことがあるだろうか。 たとえば、この人を教会に誘ったら、こんな人は誘わないで欲しいと言われてしまうのではないかとか。しかし、そういうことは決してあってはない。 さきほど読んだ福音書の内容に入っていくが、どのように聞かれただろうか? イエスさまはすばらしい、どんな怖いことがあっても、だいじょうぶ。イエス様が波を沈めてくださる。台風が来ようが、火山爆発があろうが、地震が来ようがだいじょうぶ、イエス様がなんとかしてくださる。ということなのだろうか。 実は、今日与えられていた聖書箇所は、サウスカロライナ州チャールストンで起こってしまった銃撃事件と多いに関係があるのだと思う。 今日の福音書は、与えられた聖書箇所のイエスの言葉とともに、福音書記者マルコが意図したことや、弟子たちの気持ちも想像してみる必要を感じる。それは、今日の聖書箇所の前後にどんなことが書いてあるかにも気を配って、今日の箇所を考えると良いのだと思う。 今日読んでいるマルコ4章35節以前は、種蒔きをする人のたとえ、灯火や秤のたとえ、からし種とたとえといった、すべてたとえ話で来ていることに注意したい。 一連のイエスのたとえは終わり、イエスが「むこう岸に渡ろう。」と、イエスが語られる言葉ではじまっている。さて向こう岸とはどこだろうか? それは5章のはじめを読むとわかるのだが、向こう岸でも、さらに内陸に入っていったゲラサ人が住む地域をイエスは目指していた。それは、ユダヤ人ではなく、異邦人の地域。 弟子たちにとっては、文化も違うし、考え方も違っていて、いわば外国だった。 弟子たちにとっては、「なんで、そんなところに行くのですか、イエスよ?」 という気持ちがあってもおかしくない。 弟子たちは、キリストの世界宣教などまだわかっておらず、ユダヤ人のわたしたちだけで、楽しく過ごして、ユダヤ人たちだけが、病気が癒されたり、おなかがすいたときには、おなか一杯食べてれば良いのだ、なんて思っていたのではないだろうか。だからイエスから異邦人の地に行こうという指示に、弟子たちの心は穏やかではなかったのだと思う。 このように読んでいくと、このガリラヤ湖が大荒れで、激しい突風がおこって、船が水浸しになってしまう光景は、いわば、弟子たちの心を表す、たとえのようにも思えてくる。 イエスは、「黙れ、静まれ」と風に向かって叱られる。その様子は、弟子たちが、「私たちのよく知らない異邦人の町なんかにいくのはやめましょうよ」と言いたくなるような、おだやかでない弟子たちの心境に対して、自分よがりの文化に、叱っているのではないだろうか。 そして、今日の福音書箇所の最後のイエスの言葉は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われている。 これから文化や方言も異なり、また悪霊にとりつかれてしまっている人々に解放をもたらする異邦人伝道に対し、イエスは弟子たちに私を信じて、勇気を持ってついてきて、いっしょに宣教の業に励むように導いているのではないだろうか。 今日の福音書箇所は、チャールストンでの銃撃事件で、大きな動揺を覚えるアメリカ福音ルーテル教会の牧師や信徒たち、またどこの宗派であろうが、バイブルスタディの真っ最中であのような事件がおこって心境おだやかではないキリスト者の心境を、嵐にたとえて語っているように思えてくる。 事件のおこったマザーエマニュエル教会でアフリカ系アメリカ人の方々9人が亡くなったが、二人の牧師は、サウスカロライナ、コロンビアにあるルーテル神学大学で学んだ方たちだった。さらに残念に思うのは、銃撃犯の21歳のデュランルーフは、アメリカ福音ルーテル教会のヨーロッパ系アメリカ人の会員だった。 イエスキリストの伝道ということを考える時、いろいろ悩むことがある私たちである。キリストの教えはすばらしいのだが、キリスト教といえども宗教であり、社会では、「宗教は友達を失くすのよ。」なんていわれたりしてしまう。伝道することが恐ろしくなってしまう私たちの存在がある。 そのような社会に、イエスは「黙れ、静まれ」と言ってくださる。そして異なる文化、考え方の方々の中に入っていき、対話するように導いているのだはないだろうか。 あのような事件が起こる現代の世の中にあって、そこに躊躇がある私たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」という言葉を、新たに投げかけてくださり、私たちは、祈り、常に隣につきそってくださっている主イエスを覚えて、今週も主に従う生活を歩もう。 (日本語説教は、サウスカロライナの銃撃事件により、当日礼拝の直前に、内容をかなり追加・削除した。下記英語訳は、追加・削除前のものであること、了承いただきたい。) アーメン 安達均 “Why Are You Afraid? Do You Still Have No Faith?” Mark 4: 35-41 May the Grace and Peace of Jesus Christ be poured into the hearts of the people in this sanctuary! There are times, when we know this is God’s will and we act without hesitation. However, there are times when people around us may not agree it’s the correct action and we are unable to act decisively. For example, if I invite this person, I might be taken advantage of. Regardless, all are welcome to church, this is our calling. And consequently, all people are invited to welcome others to church, too. Let’s talk about the Gospel text. What did you learn about Jesus? Jesus is powerful; he calms you when you’re fearful. He even calms stormy weather. I believe we should focus on Mark’s intentions and the disciples’ feelings about what occurred. It is almost always helpful to read what was written before Scripture and after Scripture to better give context. Before the scripture, Chapter 4 is all about parables. Parables of the scattering seed, parable of the lamp, and mustard seed. At the end of Chapter 4, in today’s Gospel, Jesus began with the words, “Let’s cross to the other side of the lake.” What is on the other side of the lake? If you read Chapter 5, you will know what’s there. Jesus was heading not only…
June 18th, 2015
2015年6月18日 詩編を読もう:導く主 (詩編107編 1-3, 23-32節)
No Comments, Uncategorized, 詩編を読もう, by admin1.Tweet 今週は6月18日から21日の聖書日課に与えられている詩編107編1-3節および23-32節を読もう。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編 107編 1:「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と 2:主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い 3:国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。 23:彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。 24:彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。 25:主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので 26:彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け 27:酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。 28:苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。 29:主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30:彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31:主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32:民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 気になる言葉としては、私にとっては25節の「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」という箇所。 読む人によっては、「神様のいじわる」と言いたくなってしまうかもしれない。 しかし、聖書全体から教えられるメッセージは、決して、神様がいじわるな方だというわけではない。 さて詩編作者の気持ちになって、この詩編箇所を今一度味わいたい。 「恵み深い主の感謝しよう、慈しみは永遠にあるのだから」という言葉をもって、主に感謝しよう。主が贖ってくださった人々は唱えよう、主は人々を苦しめる者から贖って、東西南北、あらゆる方角の国々から、集めてくださった(1-3節)。 人々は、海に船を出し、大海を渡って商売人となり(多少高慢な人間になったような面もあったのだろう)彼らは深い淵で主の御業・驚くべき御業を見ることになる(23- 24節)。 主は言葉を発することで、嵐を起こし、波を高くした(25節)。 よって、人々は天に昇ったり深淵に落ちるような気分になってしまい、苦難の魂が溶けてしまうかのよう(26節)。 また酔ってしまった人のようによろめいてしまい、知恵も働かず、なにもできなくなってしまう(27節)。 なにもできずにいる彼らは、大声で主に助けを求めてみる、すると、主は彼らを導きだした(28節)。主は嵐を静められ、波はおさまった(29節)。彼らは波が静まったのを喜び、目的地の港に導かれていった(30節)。だから主に感謝せよ、主の慈しみは深く、人々に驚くべきみ業を成し遂げる(31節)。民を集めて主を崇めよ、長老が集まった集いで主を賛美せよ(32節)。 21世紀の現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編をもって何を語っておられるのか考えたい。紀元前に地中海を我が物顔に航海していた商人に突然、悪天候がおとずれたように、現代においても、順調にものごとが運んでいても、突然の逆風に遭遇し、なにもできなくなってしまうようなことがある。もう少し言うなら、「私の人生、とくに困っておらず、宗教にお世話になるつもりはありません。」と言う方とか「もうちょっと年を経て、キリスト教が必要になったら教会の門をたたきます。」といってくださる方もいたりする。 しかし、人生はいつ暗雲がたちこめ、真っ暗闇になってしまうか、何事もうまく行かずに意気消沈してしまうことにもなりかねない。 しかし、紀元後になって、主イエスが顕われてくださってから明確になったことだが、主イエスの信仰によってどんなことがおころうが人生は終わらない。 たとえこの世の命が終わったあとでも、主の慈しみは永久に続き、主が共に歩んでくださる。 どのようなことがおころうが、主が共にいてくださって、導いてくださっていることを覚えよう。 今週与えられた詩編箇所を読む中で、人生、順風の中にいる時から、主を畏れる信仰をもって生きるように導かれているように思う。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年6月7日LCR日本語部週報通算第1355号 2015年6月7日の週報 June 7, 2015 LCR Japanese Ministry English Sunday Bulletin Sunday English Bulletin 1355E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
May 21st, 2015
2015年5月17日復活後第七主日聖餐礼拝説教「人々に仕えることができるように」
No Comments, Uncategorized, 牧師説教, by admin1.Tweet ヨハネ17:6-19 聖霊の働きにより、イエスの喜びと愛が集まった会衆の心の中にゆたかに注がれますように! 洗礼を受けて、クリスチャンになるということは、天国に行く列車の切符を手にすることなんです。 という方がいる。そのような比喩は、たしかにそういう面はあると思う。しかし、二点ほど付け加えないと思うことがある。 第一点は、洗濯してなくなったりしないように、切符は紙ではできていないこと。洗礼をうけ、聖なるものとされ、キリストの十字架のしるしを受けることそのものが、切符である。 第二点目は、これから説教でお話することすべてが第二点目ということになってくる。 洗礼を受けた者は、ただ列車に乗って何もせずに天国に行くわけではない。じゃ、どんな列車なのだろうか? 1970年代、私はまだ日本で中学生だったが、日本でも大ヒットしたディスコでよくかかった The O’ Jaysというソウル3人組が歌ったLove Train という曲があるが、最初の1分程度だけでもそれをちょっと見ていただけたらと思う。 踊りたくなってしまうかもしらないが、どうぞおけがのないように。 今ご覧いただいたビデオに出ていた、列車が走っているイメージと子供たちのイメージがオーバーラップしていたのが、とても面白いと思った。 そして、この説教がどういう方向に話が展開するのか、もうわかってしまった方もいるかもしれないが、この列車のことはまた説教の後半で話したい。そして、与えられた福音書の内容に入っていきたい。ヨハネ17章はイエスの長い祈りで、苦しみを受ける前日の晩、弟子の一人に裏切られ、他の弟子たちからも見放される前に、弟子たちのために祈った祈り。その祈りは確実に聞かれ、当時の弟子たちにとっては現実のものとなり、現在の弟子たちにも現実になりつづけている。 イエスの17章の祈りには、6点もしくはそれ以上の要点があると思う。 しかし、私は、11節から16節の中のポイント、3点だけにしぼって、お話ししたい。 その第一番目のポイントは、イエスが十字架刑に架かる前に、弟子たちが、守られるようにとにかく祈ったところ。そしてすべての弟子たちが神とともにひとつになるようにと祈られたこと。 ヨハネ福音書は90年代に記載されたというのが世界中の一般的な見方だが、当時すでにキリスト教徒たちはたいへんな迫害にあっていた。そのような時代背景の中で、福音書記者ヨハネは、イエスが激しく祈られたことを強調しているようにも見える。イエスの祈りはすさまじい。たとえ、弟子たちが迫害され殺されてしまうようなことがあったとしても、イエス自身が父なる神によって守られ父なる神と一体で、永遠の命を得ていたように、弟子たちも一体となり、神から守られ永遠の命にあることを祈られたのだと思う。 第二番目のポイントは、弟子たちがイエスの喜びで満たされるようにと祈っている。その喜びとは、たとえ翌日十字架刑にかかろうが、イエスに喜びが満ちていること。それは、新幹線でグリーン車の切符を手にするような喜びとは全く種類の異なる喜び。 イエスが父なる神と一体で、父から喜びを与えられているように、弟子たちも一体で同じ喜びで満たされるように祈っている。そして、弟子たちとは、当時イエスといっしょにいた弟子たちだけではなく、後の弟子たちをも含めて、つまり私たちも含めて、喜びで満たされるようイエスは祈ってくださった。 最後のポイントは、世に遣わされる弟子たちを聖なるものとしてくださいと祈られたこと。イエスは翌日には、十字架にかかる、そして3日後には、復活して40日間は弟子たちの間に姿を現されたが、復活後40日目、天に昇っていかれる。そのように、父なる神と一体なる聖なるイエスは、この世にいなくなる。しかし、その聖なるイエスが存在し続けるがごとくに、弟子たちも、聖なるものとしてくださるように、そして世に派遣されるように祈られた。派遣されるということは、隣人たちへ仕えるようにと祈られた。 さて、キリスト教徒、イエスの弟子になるとはどういう意味か今一度振り返りたい。洗礼を受けて、聖なるものとなり、国籍は天にあるものとされる。それは、天国行きの切符が保証されるともいえる。かといって、なにもせずに天国に行けるということではない。 イエスが当時の弟子たちにまた将来の弟子たちに祈られたように、私たちは皆、世に遣わされ、人々に仕える僕とされていく。 この列車の比喩は、受動的な列車ではなく、むしろ積極的な列車である。 キリスト教徒たちは、列車に乗っているというより、むしろ列車そのものがキリスト教徒たちというべきなのだと思う。 この列車の比喩は、マルティンルターの馬車の比喩を思い出される。ルターいわく、あなたがたは、キリスト者の生活は馬に引かれたワゴンにのって、その馬を操るようなものだと思っているかもしれない。 しかし、実際は、キリストが馬を操り、私たちは馬だと。神が方向性を定め、私たちが、愛をもって、自分を捨てて人に尽くすように仕向けている。 私はCCN、カウンセルのミーティングに出たり、また、最近ではストラテジックプランにMeaningful Program and Ministry の会議にも出たりしているが、教会のため、世のため人のために尽くしている方々を見るにつけ、どれほど私も喜びで満たされるか。また今、この毎週の礼拝そのものが、神の喜びと愛で満たされイエスが私たち一人一人に仕えてくださっているように、私たちが礼拝に出ていること事態が、人々に仕えあっていることを示している。 これはイスラエルからしてみれば、地の果てとも思えるようなハンティントンビーチで、また世界中の各地で、おこっている。それはもともと2000年前に、弟子たちが守られ、喜びで満たされ、聖なるものとされ、人々に仕える者となって世に派遣されるようにと、イエスが祈られたことが、現実のものとなっている。このように聖霊が、私たちを世の人々のために仕える者となるようにしてくださっている。 May We Live for Others John 17: 11-19 May the Holy Spirit, Joy, and Love come to the hearts of the people gathered in this sanctuary! There are people who say, “To be a Christian is something like getting a train ticket to heaven.” It might be true, but I would like to add two more things to that metaphor. Number 1: That ticket isn’t made of paper so you cannot lose it by putting it in the washing machine. The ticket is like an e-ticket, being baptized, sanctified, and marked with the cross of Jesus Christ is the ticket, so you do not need to show your driver’s license or passport to claim it. The second point I would like to talk about is actually the content of the rest of my sermon. These people, baptized people marked with the cross of Jesus Christ, are not just boarding a train that goes to heaven. So what kind of train are we talking about? In the early 1970s, during my middle school years, there was a great hit song called “Love Train,” sung by R&B group The O’ Jays. I would like to show a little bit of a YouTube video for that song. Some people might want to dance, please feel free to do so in your seat. HERE: SHOW THE YOUTUBE VIDEO I think the images we…
Tweet 礼拝後は安達牧師と男性軍が女性に感謝し、焼きそばの食事会がありました。 2015年5月10日(母の日)LCR日本語部週報通算第1351号 2015年5月10日(復活後第6)の週報 May 10, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1352E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2015年5月3日LCR日本語部週報通算第1350号 2015年5月3日(復活後第5主日子供祝福式)の週報-2 May 3, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1350E-2 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今日の説教は、第一日課のヨナ書からメッセージをいただきました。カール先生の説教日本語訳をお読みください。 2015年1月25日説教日本語訳「気乗りしない預言者」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 11月から、コロナとタスティンの家庭集会は、新しいシリーズに入り「竜馬をめぐる5人のサムライたち」というビデオを見ています。 幕末のサムライたちに、救い主イエスが、オランダの宣教師だったり讃美歌だったりあるいは英語教師だったり、さまざまな過程を経て、御言葉が働いたことを学びはじめました。そして、実は同じ御言葉が私たちにも働いていることに気づかされる、そのような学びの時となっています。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 召天者記念礼拝招待状 2014 召天者礼拝案内状2014English Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace