Tweet 一ヶ月程前に今台北に住んでいる長男に女の子が生まれました。私にとっては初孫です。生まれてから暫く毎日のように長男とメールのやり取りがありました。スケジュールを徹底させて、母乳の後はおむつを替えて寝かせるけれど、どうもぐずつき出すと黙って見ていられなくて抱っこしてしまう。本には、泣くのは赤ちゃんの運動だから、お腹がすいていなくて、おむつもぬれていなくて、熱も無ければ別に泣いてもほっておけば眠るとあるが、どうもほってとけない、等、真剣に「親の仕事」に取り組んでいる様子が、メールの向こうから感じ取れます。 果たして私が母親になった時はどうだったかしらと思うと、いかに自分が自己中心に生きて来たか今更ながらに考えさせられました。子供の頃から、いつも「自分」が中心にありました。弟が生まれてから体が弱く、よく病気をしたので、母は常に弟につきっきりでした。今思えば当然のことですが、5歳の時に「ママもパパも私を可愛がってくれないから私は今から家出します。」と言って荷物をまとめた事もあります。私の頭の中には、「こんなはずではなかった、どうして私がほっておかれるの?」という思いだけがあり、弟の体の弱さや、両親の大変さなどは考えませんでした。 母親は厳しい人でしたから、いつも「やさしい母親がほしい」とばかり思っていました。今思えば、台湾から日本に渡り、結婚して日本に住んだ母は、「何所に行ってもどんな事に耐えてしっかりと生きて行ける女性」に娘を育てたかったのだと思います。それが解ったのは、高校を卒業してから台湾に始めて一人で帰った時でした。まったく解らない中国語での授業に、何度も日本に帰りたいと思った事か。「こんなはずではなかった、台湾にくれば親から離れて自由に暮らせると思っていたのに。勉強がこんなに大変だとは、一人暮らしがこんなに淋しいとは、こんなはずではなかった」と思う事然りでしたが、アパートで自炊をしながら頑張って行けたのは、母が厳しく育ててくれたからだとその時気がつきました。そして羽田を発つ時に母が「祈っているからね」と言ってくれた事も大きな力でした。父は商売人でしたから、夜は遅く、子供の頃は「怖い存在」でしたが、一生懸命働く父の姿を見て成長することが出来ました。幼い時に父親を亡くした父は、旧制中学の時から台湾の親元を離れて日本に留学に来たわけですが、それから波瀾万丈の人生を送ります。父は身を以て私に、「どこに行ってもしっかり生きて行きなさい。」と示してくれました。私が「自己中心」な事を一番解っていたのは父だと思います。私は負けず嫌いだったので(今でもそうかも)成績は何時もよかったのですが、中学2年の時、急に勉強をしたくなくなり,成績が落ちた事がありました。夏休みの前に家に持って帰った成績簿を父が見た時、何と言われるかとびくびくしていた私に、父はこう言いました。「パパは、国語や数学の点数が落ちた事は別に心配しない。これは、芙美がやる気がないからで、勉強すれば点数はまた上がるでしょう。心配なのは先生の評価にある“人間的豊かさ”がB−という所だ。これはどういう事だと思う?」と聞かれました。そして一夏父が逗子に夏だけだす中華食堂の手伝いをさせられたのです。夏休みの親子ずれや、逗子海岸にやってくる若者たちで食事時は満席になり、大変な忙しさの中、不満そうな顔をした私の表情を素早くキャッチしていた父は、夜家に帰った後、「今日の芙美の態度は何だ?どうして不満だったか言って見なさい。」と聞かれました。黙っている私に父は、「パパが言ってあげようか。芙美は同じ年頃の女の子が楽しそうに食事をしていたね、それを見ながら、自分の夏休みはこんなはずじゃなかった、とおもったんじゃないの?羨ましいと思ったんでしょ?パパは見ててわかったよ。」言われて私は心の中で,よくぞ解ってくれました、と思ったのですが、次に父はこう言ったのです。「そういう気持ちが無くなるまでは、芙美にはアルバイト料は出さないからね。」大変なショックでした、さんざん苦労しているのに、夏休み遊べないし、お金ももらえないなんて。でもその時に私が学んだ事は、どんな場所に置かれても、どんな状態にあっても、喜んで今するべきことを一生懸命することでした。 アメリカに来て、始めての仕事が「Sunny Delight」の工場で、プラスティックのボトルの底に日付のスタンプを押す事でした。スタンプを押しながら、国立政治大学を出た私が、こんな所でニコヨンみたいな仕事をしている姿をみたら,親は嘆くだろうなあ、と思いました。でも、父はきっと「どんな仕事でも喜んでやりなさい」というに違いない、とすぐに思い直し、一生懸命スタンプを押したことを思い出します。 そしてやっと正式な仕事に就いて保険がもらえるようになったのは、アメリカに来て半年してからでした。主人がまだ大学院に入ったばかりでしたが、その時妊娠し、アメリカに来た翌年に長男が生まれました。小さいアパートの台所の床に座って、泣き続ける赤ん坊を抱きながら、「泣きたいのはこっちですよ、こんなはずではなかった。アメリカに来たら主人が全てを面倒みてくれるはずだった。結婚すれば幸せになれるはずだった。子供が生まれたらもっと楽しくなるはずだった。こんなはずではなかった。」そう思いながら母親に国際電話をかけたことを思い出します。母から「母親はあなたしかいないんだから、しっかりしなさい。」と言われました。 子供を育てながら、私も成長して来たような気持ちがします。子育てこそ、一番「こんなはずじゃなかった」事で、子供は親の計画通りには育ちません。さまざまな出来事から、私も子供と一緒に学びました。長男が幼稚園に行く年頃になり、そのころ住んでいた家の真向かいの方が、クリスチャン学校の校長先生で、彼女の息子もその学校に通っていて家の長男とは良く遊んでくれていたので、その学校の幼稚園に通う事になりました。それから子供達と一緒に神様のみ言葉を聞く機会に恵まれるのですが、始めて神様のみ言葉が心に入って来た経験をしたのもこの頃からでした。学校時代に礼拝がありましたし、日曜学校にも行っていました。台湾でも祖母と教会に行っていましたが、私がここで今生きているのは神様のご計画なのだと始めて気がついたのはこのときでした。そして、始めて「こんなはずではなかった」全ての事柄が本当は「それでよかった」、だから今の私があるんだ、と気がついたのです。神様が与えてくれた厳しい母親だからよかったんです。 お給料を父がくれなくてよかったんです。台湾で一人で苦労してよかったんです。それら全てが、アメリカに来て、子育てをして、仕事をして、いろいろな事にぶつかった時に乗り越えて行けるようにという神様の特別なお計らいだったのです。神様は私達がこの世で送る人生が、一人一人違うことをご存知です。日本で暮らそうと、アメリカで暮らそうと、台湾で暮らそうと、同じようにそれぞれに与えられた人生を送るしかありません。私達はどこにいても寄留者です。私の両親は台湾から日本に行った寄留者です。アメリカ生まれの長男は台湾に住む寄留者です。市民権やパスポートはただの「身分証明」でしかなく、どこにいても毎日起こる様々な出来事に対応し、巡り合う人々と交わり、いろいろな体験をし、悲しい思いも、嬉しい思いも、人間は繰り返していくのです。でも私達はただ単に与えられた人生を送るのではなく、神様と共に生きる人生を選ぶ事ができるのです。それが解って来たとき、始めて自分が好きになりました。「こんなはずではなかった」と自分のことばかり考えていた私は、とても好きになれる自分ではなかったのです。中村先生がAAPIの時にお話して下さったのですが、その時に語られた素晴しい言葉のなかで、私が一番好きだった言葉は、「Enjoy yourself in Christ.」でした。イエス様と一緒にいる時の私が一番好きな私です。もっともっと自分を好きになれるように、常にイエス様に戻って、与えられた人生を、何処に置かれようと、喜んで生きて行きたいと思います。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 新年の集まり 1月2日が2011年の初めての集まり、教会の中は病気の芙美さんは欠席,日本訪問の安達さと子さん、その他来てない方もありましたが私にとってはとても心温かくすごした日でした。 早めに着きましたが、大きな助けの芙美さんが欠けているために、キッチンと日本語部の物置を数回行き来して物を運ぶ事で大切な時間が去って行き少し心が騒ぎだした時に全く神の助けのように安松さんがOCTA〈オレンジ郡交通局〉で来られました。健康の様子がわからないから躊躇しましたが,安松さんの熱に負けて手伝って頂く事を受け入れました。3年前始めての新年天ぷらをやった時にも安松さんと私との2人でやりました。数日前に買い物をしながらも安松さんのことを考えていたのです。さすがは横浜のお魚屋さんのお嬢さん、シャキシャキと動く人です。 安松さんは私が持って来た2つの前掛けの一つを着けて「どれ?これ?」とテキパキとやりだして25皿のサラダの準備、25杯の天汁の準備ができました。その後は私が野菜やエビの準備をしている間にホットポットを準備しテーブルを準備してもらいました。「神は戸がしまると窓を開けられる」とはこの事だなあと思いました。 礼拝が終わりキッチンにいる私に数人の方が「何をしましょうか」と助けの手を出されました。ナンシーには緑茶をお願いして、岸野先生にはリードをお願いして,尚美さんには全体の監督とウェイトレスをお願いして皆それぞれ良く役を果たしていただきました。トムさんもウェイターをお願いしてありましたが佳代子さんがウェイトレスに自主応募されたのでトムさんには座っていただきました。 レンジの前にいる私にはテーブルの様子はわからないのですが尚美さん、佳代子さんの報告を信用して上手く行って居るらしいことを喜んで皆さんがおなかいっぱいになるまで天ぷらを揚げ続けて、そのあと私の食べ物を持って席に着きました。(知ってのように私は天ぷらもご飯もデザートも食べられません。エビと野菜をソテーして頂きました)作ったものを食べないシェフは信用できない料理師と言われるのですがどうでしたでしょうね。 皆さんが食べ終って口が自由になったところで「今年のレゾリューション〈決心〉は皆さんなんですか」との岸野先生の質問でそれぞれが話しました。勿論アメリカのレゾリューションは悪い癖を「やめる事」を決心し、日本人は今年は「これをやろう」と決心する事で、反対と言えば反対ですが、目的は同じでしょう。 片付けに入ると皆様全員が協力されて、皿、ごみの始末、残り物の始末、使わなかった皿や箸、炊飯器、ホットポットなどを日本語部に持ち帰るなど、お頼みすることなく果すことができたようです。さすが20人近い人数への油物のなべなど洗い物は随分ありましたが尚美さん、佳代子さん、その他の方々の働きで終りました。汚れた布巾は深見さんが自宅で洗濯するとの事、一番最後のごみを上原さんが持ち出されて、戸締りを岸野先生に託して雨の中に車に入ると天ぷらの成功と皆様の手助けを神に感謝した後、帰途につきました。 では又来年楽しくやりましょうね。芙美さんは来年は天ぷらをする2週間前は無菌テントに入れようと思いますがどうでしょうか? 2011年1月3日 民 山本 Day 「1月2日は日本語部恒例の天プラ・ランチが民さんのご奉仕で ありました。これはその時のことを 民さんが書いて下さいました。 残念ながら写真を撮れませんでしたが、楽しい雰囲気をご想像下されば 幸いです。」 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 2008年5月19日 世界宣教会議に参加して 4月21日に、東京市ヶ谷の福音ルーテル教会本部にて、世界宣教の会議がありました。ドイツから帰国された松本先生、李神学生、そしてロスアンジェルスからは伊藤牧師がそれぞれの体験談を交えての外地での宣教報告をされました。伊藤先生の依頼で、丁度20日の夜日本に着いた私もその会に参加させていただき、大変に良い経験をさせていただきました。 ドイツから帰国された松本牧師は、現在経済低迷の折に、教会経営が困難になって来ている事、そして4つの教会を3人の牧師でどうやっていくか考えている事などを報告の中で話されました。それを聞きながら、私達も今年の1月から伊藤先生がお一人でトーレンスの日本語部とハンティントンビーチの日本語部を兼牧される事になったこともあり、どこも同じような状態なのだろうか、と興味深く報告の内容を聞かせていただきました。同じようにドイツに留学された李明生神学生も、様々な体験談を交えて、ドイツでの宣教報告をされました。最後に伊藤牧師がトーランスとハンティントンビーチでの活動報告をパワーポイントで報告されました。伊藤先生は力強く、「日本から若い牧師を海外に送って、外の風に吹かれる必要がある。日本国内だけの宣教ではこれからの世界には通用しない、もっと外にも目を向けて、世界の宣教の動きを知る必要がある」と、強く発言されました。確かに、これからの外地での伝道は今までのように「日本語を話す」一世を対象に、ただ日本語の説教をすればいいだけではありません。2世や3世はその地で生まれてその地の言葉を不自由無く話し、却って日本語がおぼつかなくなって行くのが現状です。 しかし、そんな状況の中で、日本文化を大切にし、習慣、風習などをそれなりに受け継ぎながら生きている2世3世達に、「日本に触れる事ができる場所」を与えて上げる必要性を切に感じるのです。 私がアメリカに移民して来てから30年以上の月日が流れました。30年前と比べると、嘘のように東洋の文化がこの南カリフォルニアの地で取り入れられています。アジア系のマーケットも沢山あり、レストランも昔は、「アメリカナイズ」された日本食ばかりだったのが、今は「ここは日本か?」と思わせるような居酒屋も増えています。そんな環境の中で生活している私たちですが、やはりどこか根無し草のような気分になる事もあります。私達は日本で生活している日本人ともちょっと違い、アメリカに住んでいても100%アメリカ人ではないわけです。ですから、伊藤先生が発言されたように、この場所に来て、ここで生活してみなければ、この状況はわからないわけです。日本から送られてくる牧師、宣教師の方々が、真剣にそれを理解して下さり、神様から与えられたチャレンジに取り組んで下さる事を私達は祈ります。 市ヶ谷の福音ルーテル教会も、日本国内のさまざまな問題に面していると思いますから、国外に宣教活動の目を向けるのも容易ではないことでしょう。実際,残念な事にブラジル伝道は今年で幕を閉じます。私達も日本語部信徒達の加齢により、礼拝参加者の人数が少なくなったりする傾向を目の前にし、どうなるのかな、と心配する事もしばしありますが、神様の御心ならば、きっと神様は私達と共にいらして、いかなる困難も一緒に乗り越えて下さる事を信じ、信徒達が出来る限りの奉仕をさせていただいています。 神様が私達をこの場に置かれているように、日本から来られる牧師や宣教師の方々も同じように神様が彼らを日本から送り出し、宣教と言う使命とともにこの場に置かれるわけです。それを思うと、何週間か前に伊藤先生による「聖書を読む会」 で学んだ使徒言行録のパウロを思い出します。 何千年という月日が流れても、未だに私達は「寄留の民」なのです。ですからキリストの愛が私達を支え、力づけ、どんな時にも「国籍は天にある」と確信して生きて行きたいものです。 LCR役員 Liang 芙美 記 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace