Archive for the ‘行事案内及び報告’ Category

Tweet 召天者記念礼拝の報告と写真を都合によりPDFで掲載致します。 2011.9.25召天者記念礼拝 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 日曜日の礼拝が始まる時、聖壇の蝋燭に火を点す奉仕を毎週し続けた盧さん(ローさん、と私達は呼んでいた)が入院したと聞いたのは3週間程前だった。一時体調を崩されて礼拝を休んでいたが、元気になって息子さんと一緒に礼拝に出席し、再び蝋燭に火を点してくれていたのに、と皆で心配していた。 「盧」という名前からもわかるように、盧さんは日本人ではない。私達は日本語で礼拝をしている日本語部だが、典型的な多民族(Multicultural) 教会なので、私のように日本生まれの中国人や、台湾から来られた方や、最近ではまったく日本語のわからないハワイから来たサモワンの親子も礼拝に来ていた。盧さんも韓国人でありながら、全く違和感なく日本語部の礼拝に来られていた。ご家族は韓国の教会に行かれているということで、私達は後に盧さんと一緒に来られた次男のDanさん以外の方にはお会いした事がなかった。盧さんの病院がわかり、岸野先生が何度か病院に盧さんを訪ね、ご家族の皆さんとも話す機会が与えられたことは幸いであった。8月14日の日曜日の礼拝に突然盧さんの奥様が見えた。礼拝が始まって少し経ってから入って来られたので、どなたかわからなかったが、その日受付だった愛子さんが、「盧さんの奥様が来られています」と聖餐式が始まる時に教えてくれたので、即岸野先生に伝えた。岸野先生は礼拝の後、皆さんに盧さんの奥様、エスターさんを紹介された。エスターさんは日本語が解らないけれど、皆さんの親切にお礼を述べたくて来ました、と頭を下げられた。そして数日後岸野先生と大橋さんが盧さんをお見舞いに行った際、病院から出てくるエスターさんと偶然に会い、盧さんが病院からホームに移ったという事を聞いた。そして後日ホームの方にお見舞いに行きますと話したばかりなのに、盧さんはその日天に召された。8月18日の夜か、19日の未明だったそうだ。あっけなく逝ってしまった。 メモリアルサービスを即行いたいという家族の依頼を受け、8月22日の月曜日、午後12時から、先ずは日本語のメモリアルサービスをし、その後韓国語で行うという事が岸野先生とご家族の中で話し合われた。盧さんがイベントの度に皆さんの写真を撮っていたのを覚えているが、盧さんの写真は見た事がない。私はメモリアルサービスのプログラムに盧さんの写真を載せたくて、2年程前に教会の住所録を写真入りで作成したのを思い出した。その写真をカメラで写して愛子さんにも送った。9月25日に行われる召天者記念礼拝の時にもこの写真を使いたかったので、愛子さんに印刷してもらうためである。土曜日の夜遅く、メモリアルサービスの原稿を受け取った私は、どうにか日曜日の朝早く教会に行ってプログラムを完成したいと考えた。Publisherというプログラムを持っている愛子さんに、真夜中で申し訳ないとは思いつつ、とにかく岸野先生から原稿をそのプログラムに入れて教会のコンピューターに送るように依頼した。日曜日の朝、8時半からプログラムの作成をし、10時半には讃美歌の折り込みもきちんと入って、全ての準備が整った。一安心である。盧さんのメモリアルサービスはきっと盧さんが喜んでくれる素晴らしい礼拝になると思った。 月曜日の朝、10時過ぎに教会に着いたが、お花はまだ届いていないようだ。11時までに届かなければ電話しなくては、と思っていると民さんが来た。忙しくなる前に何か食べてこようと二人で簡単な食事にでかけ、11時過ぎに教会に戻ってみると、祥子さん、安松さん、愛子さん、小夜子さんがすでに来ていて、お花も届いていた。祥子さんがてきぱきと礼拝堂の入り口のテーブルに白のテーブルクロスを掛け、聖壇の前に献花用のテーブルも用意された。盧さんの写真入りのプログラムもきちんとテーブルに並べられた。 11時半には Viewingの為に盧さんのご遺体が運ばれ、ご家族の皆さんが盧さんの写真と、メモリアルサービスのサイン帳を持って来られる事になっている。11時45分頃、連絡を受けた盧さんの旧友、また日本語部のメンバーが一人一人礼拝堂に入って来られた。祥子さんとプログラムを手渡しながら、「まだご家族の方はお見えになっていませんので、サイン帳はありませんが、どうぞ中にお入り下さい」とご挨拶をし、お互いに顔を見合わせながら「どうしたんでしょう?」と首を傾げ合った。もうすぐ12時という時に、岸野先生がエスターさんの携帯に電話を入れた。誰も出ないと言う。いよいよどうにかしなくてはと思った私は、祥子さんに受付を預け、礼拝堂の中に座っている愛子さんの所に足早に行き、「愛子さん、盧さんの写真をプリントしてくれた時に、大きいサイズもプリントしたと言ってたけれど、それはまだある?」と聞くと「日本語部の机の上に置いてあるけど」と答えた。よかったー、写真があった。愛子さんが「でも額に入っていないけど」と言う、それはどうにかなる、写真さえあれば、と私は思った。実は愛子さんに写真を送った時、愛子さんは召天者用の5X6の写真と、もひとつ大きなレターサイズの写真も印刷して来てくれたのだ。ご家族の方が大きな写真を用意されるという事だったので、印刷したレターサイズの写真はそのままになっていた。礼拝堂の入り口に戻ると、ちょうど岸野先生の携帯が鳴った。教会の住所を聞かれているらしいが、どうも様子がおかしい。とにかく今やらなければと思い。日本語部のオフィスに走った。階段をものすごい勢いで駆け上り、オフィスの鍵を開け、机の上に置かれた書類の中から盧さんの写真を見つけ、オフィスの中を一回り見回して、これだと思う黒枠の額を見つけた私は、机の上に飛び乗りそれを外し、盧さんの写真をその額のガラスの上に貼った。これでメモリアルサービスが始められる!額を抱えて礼拝堂に戻ると、岸野先生の顔が全てを語っていた。私と祥子さんが心配していた通り、ご家族は葬儀場で私たちを待っていたとのことなのだ。そして韓国語の礼拝はそちらで行うらしい。私達参加者だけで、家族無しのメモリアルサービスを始めるよりほかしかたない。 何事も無かったように、私は盧さんの写真を貼った額を抱え、静かに聖壇に向かって歩いて行った。三脚に盧さんの写真を静かにのせ、聖壇の前に献花のテーブルを置き、「岸野先生、始めましょう」と落ち着いて言う。神様、どうぞ導いてください、このメモリアルサービスが盧さんを偲ぶ良い礼拝となるよう、あなたが私たちの心を整えてください、と祈りながら。 始めに盧さんへの献花をしていただく。お一人お一人に花を渡す時に涙をこらえるのが辛かった。そして礼拝が始まった。心を合わせて盧さんを思い、讃美歌を歌った。岸野先生が、盧さんがいつも蝋燭点火の奉仕をされていたこと、食事の交わりの時に、いつも悪ふざけをして、皆から「盧さんだめよ」と言われていた事、などを話した。確かにいつも盧さんは私のお皿から食べ物を取ったり、毎月最終日曜日に行うお誕生日会では、「今月のお誕生日の方、手を挙げて下さい」というと一番先に、毎月手を挙げていた。とにかく冗談がすきな盧さん、悪ふざけが好きな盧さんだった。礼拝の後は全員で盧さんの写真を囲んで記念写真を撮り、参加者の皆さんにサインをしていただいた。その後、ご家族の方が既に行かれているレストランへと、何人かが日本語部を代表して参加された。 私と祥子さんは後片付けもあるので、レストランでの集まりはご遠慮させていただいた。礼拝堂の片付けをし、私は最後に入り口の鍵をかけ、盧さんの写真の貼った額を胸に抱えて日本語部のオフィスへとゆっくりと歩いて行った。盧さんの顔を見ながら、「盧さん、最後まで悪ふざけはないよ、今日の冗談はちょっときつかったよ。」と言うと、まるで盧さんが、「私は何もしていませんよ」といつものように含み笑いをしながら私を見ているように思えた。急におかしくて、おかしくて、笑いがこみ上げて来た。盧さん、最後の最後まで私を笑わせてくれて、本当にありがとう。天国ではあまり悪ふざけはしないようにね。全く私達が計画した通りには行かなかった今日のメモリアルサービスだったが、全てが神様に守られ、全てに神様のみ力とお導きがあってこそ、行う事ができたメモリアルサービスであったことは、参加者の全てが感じたことであろう。泣いたり笑ったり、岸野先生にとっては冷や汗だった今日のメモリアルサービス、きっと誰よりも、いたずら好きの盧さんが一番喜んでくれているに違いない。 2011年 8月22日 芙美 Liang 記             Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2ヶ月頃前の信徒会で芙美さんが「民さんに食事係りの責任とカレーをお願いします」と言った時には芙美さんは気が確かだろうかと思った。うまいカレーとは芙美さんのビーフカレー、林愛子さんの南瓜カレー、深見さんのナスカレーと並べられるが私のカレーは多分、私が健康の為にとツメリック、シナモン、キュミン、ショウガなどを余計に入れるから「おいしい」と言う人は少ないのである。 しかしいつもジョナと鯨の話を思い出して寄付金とビュウテイーコンテスト以外は頼まれたことは断らない事にしているから、文句なしで引き受けた。 1ヶ月前に芙美さんと共にたけださんと会って寿司の注文を話し合った。 7月25日、祭りの5日前だからまた芙美さんと共にたけださんと会って寿司を正式に注文した。その時にカレーの話を持ち出すと親切なたけださんはレストラン用のカレーのルーを原価でゆづって下さった。(感謝)私は述べたように余計なスパイスを加えて味を変えるクセがあるから10歳の孫のジャックからも娘からも『レシピのに通りに従うとちゃんとできるのよ』と言い聴かされているのを思い出して、今回は日本部伝道の名にかかわるという責任感を感じてカレールーの袋の指導通りに従う事にした。 7月28日、 買い物の日、行き慣れている中近東の店アルテイバットで玉ねぎを20ポンド(9kg)買う。次にスマート&ファイナルでカレーに使う皿とチキンを15ポンド買った。それとチキン5ポンドの寄付で合計20ポンド。 7月30日(祭り当日〕 大きい鍋と包丁、玉ねぎチキン、そして「祭りを是非見たい」と言う孫娘を乗せて教会へ11時前に着いた。芙美さん、岸野先生、その他多くの人たちが朝早くから来て飾りの準備をしている。私の鍋と林愛子さん寄付の鍋には50人分づつ出来る事が解った。台所で見つけた鍋は小さめで2/3しか出来ない。後で水を足す事にした。そして玉ねぎを切ることを始める。乾いた玉ねぎ皮は切り難いものである。自宅から包丁と包丁砥ぎを持参してよかった。山ほどの玉ねぎを見て切り出すとジュリアチャイルドがコードンブルーに入学して最初の数日は玉ねぎだけを切らされている事を思い出した。そう思うと大して苦労とは思えずに巨大なボールをそばに置いて切っていった。ジニー下西さんが加わり手伝おうとするのだが切れる包丁が無くて玉ねぎが切れない。日本部の台所に岸野先生が行って包丁を持ってこられたがそれも切れない。しばらく砥いでどうにか切れるようになった。日本の包丁に慣れている身には西洋の包丁は切れなくて歯がゆいと言える。幸いに玉ねぎはあまり涙を誘わなくて助かった。ジニーは玉ねぎに敏感らしいがコンタクトレンズで救われたようだが、後半には諦める事となった。この時点で志垣さんが助けとして加わられた。巨大なボール3つの刻んだ玉ねぎをソテーして鍋に入れると、鍋は玉ねぎでがっしり満ちてしまった。『果てこれは間違いだろうか、これでは肉が入る隙間も、汁となる水分も無い』と内心パニックに襲われて、玉ねぎを取り出そうとも思ったが、しばらく煮込んで様子を見る事にした。3時半ごろにはチキンを入れて煮えたのを確かめた。そして4時5分ほど前にルーを入れたが、ルーが溶けるようにかき回すとチキンが崩れる事が解り、ルーは別鍋で溶かしてから加える事にした。 4時、祭り開始 一皿サンプルを作り寿司と同じテーブルに置いた。 出だしは割りとゆっくりとしていて「果たして売れるのだろうか?」と思った。人が並び出したのはゆうかりコーラスは始まった頃である。セールスの助けの白井さんはコーラスで席をはずしている。そんなときに人の列はだんだんと長くなってきた。「カレー一つお願いします。2つお願いします。4つお願いします」と台所に叫ぶと志垣さんが盛り付けをして、盆に載せたカレーをお客様に渡す。ジェインとバートが受け持ちのレジでお客様はお金を払う。そうしているうちに23合炊いた釜の底が見えてきた。もう一つ23合炊いてあるが、もう一釜炊くべきではないかと思うのだが、お米は日本部の倉庫にあるので、長い列を作っているお客様を放って売り場を去るわけには行かない。丁度芙美さんが通り過ぎたが、芙美さんも忙しい。見回すとボランテイァは皆超急がし….なのだ。 それで、『仕方が無い、ご飯が終ったら、売り切れにしよう』と言う事になった。             日本部の毎週の出席は20人前後、その中でボランテイァとして体が動けるのは10人以下と言えるだろう。日本部主催のジャパンフェッステイバルと言ってもFTFの協力やユースグループの協力、会員の家族、友人のボランテイァがあってこそ可能となったので、この10人以下の日本部の会員は皆それぞれの役目で精一杯で余分な人は何処にもいない。また広子さんのように病気の看護で日本へ行き、デイビッドのように急にスイス行きと決まり、少ない上に更に少なくなった当日である。と言うわけでカレーのセールは2釜分のご飯が終ったら売り切れとする事となった。             当日午後7時。バーコーホールでこころ太鼓の人々にカレーを出す。 私の孫娘、2日後に10歳になるシャナが「カレーが欲しい」と言ってきた。私の娘、シャナの母はカレーを作るがシャナは1度も手をつけた事がない。「本当に欲しいの?」と確かめてわりと大きい量を盛ってシャナの前においた。好き嫌いの激しいシャナがカレーを食べている。(翌日全く自主的に『カレーおいしかった』とシャナが言ったのにはビックリ) 7月31日 「カレーがおいしかった」とE-mail が入る。 8月1日 「子供夫婦と孫がカレーがおいしかった。と言うのですがコツを教えてください。」と留守電に入っている。レシピを聞くメールが来る。 VBS で通りすがりの人から「カレーがおいしかった」と白人の会員たちから声がかかる。FTFは次回はカレーの値を$5.00にしようと話したとか。   さてこう書いてみると自分のカレーの自慢話と誤解されるかもしれないが、そのつもりで書いたのではない。最初に述べたように私個人のカレーは評判にならない。このジャパンフェステイバルのカレーには神が台所に来て小指を差し込んで味付けをされたに違いないと信じるから書いたのである。(民 Day)         Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今日でやっと全ての後片付けが終了した。使用済みの飾り物や、展示に使った打ち掛けなどを丁寧に箱に詰めながら、今回もあっという間に終わってしまったジャパン・フェスティバルの全てを思い浮かべてみた。  LCR Friendship Task Force (F.T.F. 日本語では友好実行委員会)は、今年の始めから、7月30日に予定されたジャパン・フェスティバル目指して計画を立てた。 今年で第四回目とは言え、毎回同じ出し物では味気ないし、食事もお弁当ではなく、自分たちで何か作れないかどうか考えた。前回までは皆さんに買っていただくティケットはお弁当付きだったから、食べたくない人にもお弁当が配られたわけで、考えれば勿体なく思えた。そこで、今年は毎回お弁当をお願いしている武田社長にお会いして、カリフォルニアロール、太巻き、そして稲荷のバラ売りができないかお願いした所、快く引き受けて下さった。結果としてはカリフォルニアロールを30本、太巻きを20本、稲荷は100個注文する事になった。 その他に、民さんがチキンカレーを150人作ってくれることになった。大変な仕事である。武田さんに営業用のカレーを3袋譲ってもらえたのはありがたかった。稲荷が100個では足りないかも知れないと心配していたら、星さんが100個作って持って来てくれる事になった。スナックは、日本食を食べない子供達が来たらどうするか、という話しになり、前回同様、Chery lKleinの担当で、ホットドックもマカロニチーズも出す事になった。勿論グリーンティーアイスクリームや、ラムネは今年も必需販売品である。  さて、展示場の方は、前回大好評だった、スミスさんの折り紙と奥様のちぎり絵、松村さんの古代布アート、井上さんの紅型型染めの展示をお願いし、後は林さんの生け花、上原さんの墨絵がデモンストレーションの後展示される事になった。また、今年の着物着付けモデルは、去年広島旅行に参加したAshleyが名乗り出てくれた。礼拝堂での出し物は、毎回お願いしている「ゆうかりコーラス」の皆さんに今年も歌ってもらえる事になった。また大橋さんが日曜学校の子供達に簡単な日本舞踊を教えてはどうかというアイディアを出してくれたので、それはありがたいと直ぐにお願いし、日曜学校の生徒達で踊りたい子供達を募った。7月の初めから毎週日曜日に、大橋さんが何人かに日本舞踊を指導し、どうにかなるだろう、という所までこぎつけた。勿論フィナーレは今年も心太鼓会の皆さんにお願いした。今年で4回目になる心太鼓会の福原さんはもうお馴染みである。そして、今年は特別にラッフルティケットを売り、売り上げの全額を東日本災害義援金として、日本福音ルーテル教会の立野先生に送る事になった。  立野先生は3月11日の災害の後すぐに現地に駆けつけ、援助活動を始められた。今では「となりびと」というブログで紹介されているが、多くのボランティアを集めての大きな活動となっている。海を越えている私達には、一緒にボランティア活動はできないが、少なくとも自分たちにできることをしたいという願望は常にある。F.T.F.英語部メンバーのGailとCherylが、3月から集めた新聞の切り抜きを使って、Japan Disaster Displayを作成し、ティケット販売のテーブルに展示する事になった。ラッフルティケットとは宝くじのようなものだから、先ず賞品を集めなくてはならない。この呼びかけに日本語部全員、また友人家族の皆さんが快く応えて下さり、沢山の品物が集まった。ジャパン・フェスティバルに因み、日本風で、未使用な物に限らせていただいた。また、ローカルのレストランにもお願いした所、喜多山レストラン、古都レストラン、えびすラーメンの3件が快くギフト券を寄付して下さり、本当に感激だった。  7月25日、ジャパン・フェスティバルの週に突入した。必要な事柄を全てリストアップし、見落としが無いように毎日チェックしながら、着々と準備を進めて行った。金曜日に飾り付けも終わり、次の日の為に英気を養わなくてはならないとばかりに、F.T.F.のメンバー全員が早めに帰宅した。いよいよ明日だ。  土曜日の朝、7時からDennis を筆頭に、セットアップメンバーがテントを立ち上げ始めた。今年はLCRの男性グループにお願いした結果、沢山の男性群が集まり、あっという間にテントが2つ、3つ、4つと立ち上がった。問題は鯉のぼりだった。担当の深見さん(祥子さんのご主人)が、大切な部品が一つなくなっていると言う。松井さんや藤原さんが側に立って両腕を抱えながらどうしたもんかと考え込んでいる様子だ。そんな彼らの横を、各ブースの机や椅子がどんどん運ばれて行く。サインを掛け、スナックのテーブルや準備も始まった。祥子さんが興奮したようにやってきて、「部品が見つかりました。ちゃんとありました。」と報告してくれた。そして15分後には見事に鯉のぼりが南カリフォルニアの青空をバックに泳ぎ始めたのである。民さんが台所で作るカレーの匂いがし始め、提灯がぶら下がり、飲み物がクーラーで冷え始めると、そろそろブース担当の人たちが集まって来た。先ず台所と食堂のお手伝いに志垣さんと白井さんが駆けつけ、鉢巻き担当の愛子さんとご主人のペトロさん、日本語101の佳代子さん、吉成さん、樋口さん、墨絵のお手伝いをして下さる波多江先生、子供コーナーのさと子さんや、生け花ブースやショッピングブース担当の英語部のご夫人達がぞくぞくと集まってくる。着付けの粂さんがモデルのAshleyをつれて二階に上がり、大橋さんが子供たちを集め始める。浴衣をきた子供たちが走り回る姿に「祭りだ〜祭りだ〜」と叫びたくなって来た。安松さんの孫、Russell君が浴衣を着ておばあちゃんと一緒にやって来た。岸野先生のお子さん達、Andrew とKatieにも早速浴衣を着てもらう。見ているだけで楽しくなる。アメリカで生まれ育った2世の子供達にも、今日は日本文化にどっぷりと浸かってもらいたい。 4時開催だったが、3時過ぎから人が集まり、教会オフィス入り口のティケット売り場に列が出来ている。前売り券だけでも250売れているから、これは300人以上になるなあ、と思いながらプログラムを片手に4時から始まる墨絵のデモンストレーションへと走る。4時開催で、直ぐには人が集まらないかと思いきや、すでに何人もの人がTホールに設置したデモンストレーションの場所に集まっているではないか。上原さんの手際よい、アイリスと菊を描いた墨絵のデモンストレーションが終わり、次は林さんの生け花だ。お二人に前もって、一人15分ですよ、とお願いしてあったので、さすがプロである、ちゃんと15分内で終わるように準備されていた。続いてのデモンストレーションは、粂さんの着物着付けだった。手際よく着物が着せられ、帯に入った時には、しっかり起立していたAshleyの足が揺らぐ程、粂さんがきつく帯を締め、背中の帯の形も美しく決まった。着付けが終わったAshleyは、5時から始まる礼拝堂でのショーに出てもらう為に、出来るだけ早く、でも慣れない着物なのでしかたなくゆっくりと礼拝堂への向かってもらった。  5時からのショーは、日本語部牧師の岸野豊先生による歓迎のご挨拶から始まった。先生は日本で引き続き行われている援助活動の現状も話され、今回の収益が災害義援金として使われる事も説明された。その後DennisがMCを担当し、先ずはゆうかりコーラスから始まった。素晴らしい歌声が礼拝堂に響き渡り、英語と日本語の両語で歌われる歌に、人種の背景などまったく関係なく、皆が聞き入った。コーラスが終わった後で、93歳の英語部のご夫人が、どうにかこのCDを手に入れてくれるようにと頼みに来たほどである。ゆうかりコーラスの合唱の後は、着物をきれいに着こなしているAshleyと、モダンな上下の着物姿のConnieが二人で「扇子の会話」を演じた。これは出し物の合間に入れたちょっとしたジョークで、皆さんに笑っていただけたと思う。この後はいよいよ大橋さんが苦労して教えた英語部の子供達による日本舞踊のお披露目だ。どうなることかと思ったが、上手に踊ってくれた。子供達の踊りが終わると、大橋さんが堂々と「松の緑」を舞い、大喝采のうちに幕締めとなった。Dennisの閉会の挨拶に続き、観衆は前庭へと移動し、跆挙道の見学が始まる。その前に少しの時間を使ってラッフルの賞品当選者の発表をした。ラッフルの賞品は40以上も集まり、その中には盆栽あり、商品券ありで、時間を利用しないと当選者発表に長時間かかってしまう。何人か当選者を発表した後、Andrewによる跆 挙道のデモンストレーションが始まった。子供達だけでなく、大人も歓声を上げて楽しんだ。その後に始まる心太鼓の皆さんが、どうもまだ到着していない。この時とばかりに、また大橋さんに活躍してもらい、有志が輪になって教えられるとおりに炭坑節を踊りはじめた。子供も大人も、日本人もアメリカ人も、一つの輪になって踊る炭坑節が暫く続くうちに心太鼓の皆さんが到着。準備をしているあいだに、また時間を利用してくじの当選者を発表した。  そして6時半を過ぎた頃から、心太鼓会による和太鼓の演奏が始まった。ドンドンと心に響く音が海を越えて世界中にこだまして行くかのように、ドンドンドンドンと響き渡る。3年前に亡くなったF.T.F.の創立者Vi Minarさんを思い出しながら、「あなたが祈っていた通りに、この教会は神様の元で、今は日本語部も英語部も一つですよ」と今年も彼女に報告ができた。   ジャパン・フェスティバルを開催するにあたり、多くの皆さんが惜しみなくそれぞれのタレントを発揮して下さった。私達小さな日本語部の群れは、神様のみ力によって一つになり、大きな目的を達成する事ができた。上からのみ恵みと導きなしではできないことである。そして英語部の皆さんが私達日本語部をこれほどまでに助け、励まし、暖かく支えて下さっている事に、ただただ感謝である。 神様は目的を持って私達この日本語部をこの教会に於かれた。神様のご計画に応えるべく、全力を尽くしたこのジャパン・フェスティバル、最後は太鼓の音とともに、「良くがんばったね」と神様の声が聞こえてくるようで、嬉しくて疲れ等吹っ飛んでいった。  この場をお借りしまして、惜しみなくご協力下さった皆様に、心からお礼申し上げます。 Japan Festival Success Story A Rousing Success! These are  the proper words to describe LCR’s Japan Festival IV which took place on Saturday, July 30th. Around 350 people attended the event that was co-sponsored by the Friendship Task Force (FTF) and the Japanese Ministry, under the leadership of Fumi Liang and Pastor Kishino respectively. Besides the members of those two committees, many people from the congregation pitched in to lend their hands-on help and support. From the crew of men who set-up and took down the canopies and tents, to the hardworking kitchen and dining group, and including those who staffed the booths and exhibits and put on the show, everyone pulled together to make the event the tremendous success it was. The various booths and demonstrations were busy all day and the show in the sanctuary was well attended. Raffle tickets sold at a brisk pace at the Japan Disaster Display booth. The 25 raffle prizes  went to enthusiastic participants. As always the stirring sounds of the Taiko drums finished off the day in grand style. All ages of people attended the event and approximately $2,000 will be sent to Japan for disaster relief. As stated, it took many, many hours and lots of people to put on such a tremendous undertaking. FTF and the Japanese Ministry would like to thank everyone who helped before, during and after…

Tweet 2011 Seder 過ぎ越しの祭り食事準備者のあとがき   2009年過越しの食事礼拝 この文章を読む前に2009年伊籐文雄牧師により行われました、私たちの最初の過ぎ越しの食事の記事を お読み下さる様筆者が薦めています。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2011 Seder Meal Hand Out with Japanese クリックしてご覧下さい。(PDFフォーマット) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 過ぎ越しの食事へのご招待へのご案内は下記の リンクを押してご覧下さい。 過ぎ越し礼拝2011 4 21 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace