Archive for the ‘牧師説教’ Category

Tweet 10月9日をもってカール牧師が引退されるため、復活ルーテル教会では9月11日より今日まで、「移行期」というテーマで、日本語部も含めて、すべての聖書研究の学びのグループで、同じ聖書箇所を学んできました。 そのまとめとして、本日、カール牧師を通して添付のようなメッセージが語られました。  本日の礼拝に出ることができなかった皆様、ぜひお読みください。 ここをクリック---> 2016-10-02-lcr-jpn  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 2nd, 2016

2016年9月説教

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Tweet 9月4日 「まず腰をすえて」 2016-09-04-lcr-jpn 9月11日 「忍耐」 2016-09-11-lcr-jpn 9月18日 「信仰の礎」 2016-09-18-lcr-jpn 9月25日 召天者記念礼拝 「死がその棘をなくす時」 2016-09-25 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 2nd, 2016

2016年 8月 説教

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Tweet 2016年8月7日 「仕える喜び」 2016-08-07-lcr-jpn 2016年8月14日 「投火」 2016-08-14-lcr-jpn 2016年8月21日 「新たな始り」 2016-08-21lcr-jpn 2016年8月28日 「謙虚」 2016-08-28-lcr-jpn Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 日本語説教「仕える喜び」2016 08 07 LCR Jpn 英訳”The Joy of Serving” 2016 08 07 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

July 29th, 2016

2016年 7月の説教

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Tweet 7月3日 「財布も持たずに?」 2016 07 03 LCR Jpn 7月10日 「良きサマリア人はどこに?」2016 07 10 Jpn Good Samaritan 7月17日 「良き知らせ:ただ一つだけ」 2016 07 17 LCR Jpn 7月24日 「Luggage:旅行かばん」 2016 07 24 Luggage Jpn Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 6月5日 「憐れに思い」ってどんな思い? 2016 06 05 LCR Jpn 6月12日 「ぜいたくな贈り物」2016 06 12 An Extravagant Gift in Japanese 6月19日 「イエスはあなたにどれほどの事をしてくださったか」2016 06 19 LCR Jpn  6月26日 ”Show Up” 関野和寛牧師 2016 06 26 LCR Jpn by Pr Kaz Sekino Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet “Remembrance : 記憶”   Joshua 4:1-7 Pr. E. Carl Zimmermann 要約 安達 人間の記憶力はいいかげんなものである。サウスコーストプラザの駐車場に車を停め、買い物をした後、いざ駐車場に戻ってみて、車を停めた場所がすぐに思い出せなかった経験などあるのではないだろうか。 しかし、逆にすばらしい記憶力がある人もいる。フィラデルフィアの郊外に、毎週何千人もの客がやってくる有名なレストランがある。食事はおいしく、雰囲気もよく、人々が“ウィリアムソンおじいさん”と呼び、親しまれた創立者でオーナーだった彼が亡くなるまでは、それは大人気のレストランだった。レストランに入るなり、彼は、握手をして、顧客の名前を聞いていた。びっくりしたことに、5年後に訪問しても、彼は名前を覚えていた。  しかし、多くは悲しいかな記憶力の衰えを経験する。たとえば、名高い哲学者、ラルフ・ワルド・エマーソンは、どんどん悪くなる記憶力喪失に悩んだ。親しい友人、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが亡くなったとき、エマーソンは棺の横で、「この紳士は、親切ですばらしい魂の持ち主だったが、私は完全に彼の名前を忘れてしまった。」と言った。 人々が、「年を取るのは良いが、記憶力を失いたくはない。」と言うのをよく聞く。みんなそういう気持ちを持っているのではないだろうか。今この場のことを覚えられるということも良いことだと思うが、また、過去につながることも大切だ。 一昨日には、オバマ大統領が広島を訪れ、次のような言葉を述べた。「なぜ、私たちはこの場所、広島を訪れるのでしょうか? 私たちは、それほど遠くはない過去に、恐ろしいほどの力が解き放たれたことを深く考えるためにここにやってきました。。。。犠牲になった人たちの魂が、私たちに語りかけています。もっと内側を見て、私たちはいったい何者かを振り返り、今後、どのようになろうとしていくべきか、私たちに語りかけています。」 だから私たちには、年一回のメモリアルデー、国民の祝日があるのかと思う。メモリアルデーは、私たちに今の自由があるのは、過去の犠牲の結果であることを思い出させる。 最初のメモリアルデーは1865年5月1日だと信じている人々がいる。その日に、サウスキャロライナ州のチャールストンで、過去、奴隷だった人々が、南軍拘置所の墓地に埋葬された257名の北軍の兵士を称えた。またある人々は、ニューヨーク州のウォータールーにおいて、1866年5月5日に、町を国旗と花々で美しく飾って、南北戦争の英雄、ジョンマーレイ将軍がメインストリートのパレードの先頭に立ったのが、メモリアルデーの始まりだとしている。  なにが起源であろうが、66万5千人もの人々が勇気を持って、進んで、犠牲を払って命を落としたことを覚えてたい。しかし、ここで、ちょっと違う方向から、記憶ということについて話すことを許していただきたい。ある神学者は、「健忘症が、神との関係をそこなっていく。」とも言う。 それは、イスラエルの人々を悩ませた一つの問題だった。 神は、イスラエルの民のためにしてくださったにもかかわらず、選民の記憶は短く貧しかった。創造者は、ある日にすばらしいことをしてくださっていたのに、次の日には、彼等は忘れてしまった。だから、多くの記念碑、記念の食事、毎年のお祝い、お祭りが、聖書には記されている。 聖書の記述は、人々が神の偉大なるみ業を忘れないようにする。   それがヨシュア記から学べることだ。40年の間、モーゼの指揮の下で、ヘブライ人たちは、荒野をさまよい、約束の地を捜し求めた。そして、ヨシュアはリーダーとして引継ぎ、ヨルダン川の土手へと人々を導いた。対岸は、求めてきた約束の地であった、しかし、問題があった。 川の水量はふくれあがっており、横断することは、あまりに危険なことだった。 しかし、40年さまよった後、引き返すことはありえなかった。そこで、司祭たちは、契約の箱をかつぎ、先頭を歩んだ。 そして激しい流れの川の中に進み行くと、流れは止まってしまい、人々はなんら支障もなくヨルダン川を渡ることができた。 そして、彼等が、対岸に渡ったすぐ後、石を積み上げて、簡単な記念碑をつくった。 神が、イスラエルの歴史の中で、またもや立役者となってくださったことを、忘れないようにするためだった。   さきほど読んだヨシュアの言葉を覚えているだろうか? 「我等は、これらの石を、メモリアルを立てるために使う。 将来、これらの石はどういう意味があるのか?と子どもたちが聞くだろう。あなた方は、『契約の箱が川を渡ったときに、水がせき止められたことを忘れないようにするために、これらの石があるのだ。』と答えなさい。そして、これらの石はイスラエルの人々の間では、永遠の記念となるだろう。」   言い換えていうならば、記念碑は、神の予想もしえない奇跡的な顕われであり力なのだ。 聖書を通して、とくに旧約聖書において、これらの記念碑は、何十回にもおよんで示されており、みな同じ目的がある。人々に、神が驚くみ業をしてくださったことを、思い出すためである。  私は先月のドイツ旅行から、あることを感じている。 いずれ、私はたくさんの場所を訪れたことを忘れてしまうだろう、しかし、マルチンルターが、誓約したチャペルを忘れてしまうようなことは無いだろうと思う。 彼が恵みと赦しの説教をした説教壇を忘れたりしないだろう。 95カ条の論題を掲げたウィンテンベルグの教会の扉も、10 週間で新約聖書をドイツ語に訳したヴォルトブルク城も、忘れないだろう。これらの場所は、偉大な男、ルターというより、さらに大きな神の、記念碑であり、記録である。 そして、さらに私を考えさせる。 もし、私たちの教会の名前をレザレクションメモリアルルーテル教会(Resurrection Memorial Lutheran Church)に名前を変えたらどうだろうかと。もしそうしたら、通りかかった人々は、すくなくとも二つのことを知るのではないだろうか。 まず第一に、我々がルター派であること。そして、もっと大切なことは、私たちが、永遠に続く、記念教会であり、すべては、神がなさったこと、また将来にわたってすべて神が計画されていることを、永遠に記念しようとしている教会であると。 もっとも私たちの教会は、すでにLutheran Church of the Resurrectionと呼ぶべきかResurrection Lutheran Churchと呼ぶべきか、議論が起こっており、さらに名前を変えようということにはならないだろう。。。 しかし、Resurrection Memorial Lutheran Church、レザレクションメモリアルルーテル教会、ちょっと良い名前だと思えないだろうか?  アーメン。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ 14:11-17 このメッセージを聴く人の心に、またこのウェブサイトを介して読んでくださる方々の中にも、主の恵みと平安が豊かに注ぎ込まれますように! 二週間前、母の日の日曜、LCRとしては、恒例のPSS Project Self Sufficiencyをサポートする日だった。 私はPSSのような働きはとてもすばらしいと思い、応援したいと思っているが、その日、二人の母親、それぞれの子供をつれ、一組目の親子が8時半の礼拝に、二組目の親子が10時の礼拝に来られた。その子たちの名前を覚えているだろうか? 意味のある偶然だと思ったが、二人ともFaith という名前だった。  その後、はっと気がつかされたが、私たちの子供の一人にも、Faithという名前の子がいると思った。なぜ? と思われるかもしれない。 母の日の10時の礼拝に出られていた方はご存知だが、献金の最中に、長男がチェロを弾く機会をいただいた。 長男の名前は信。 信は、信じるという意味であり、Faithでもある。 妻と私は、あきらかにFaithを意識して、長男の名前を信にした。 さて今日、与えられた福音書の内容に触れていきたい。12節を読んでどんなことを思われただろうか? 十字架に架かって、明日には、死に葬られるイエスキリストは、使徒たちに、あなたがたがイエスのした御業をするようになると話している。それも、もっと大きな業をするようになるということになる。イエスのされたことより、もっと偉大なことをするなんて、そんなことはおかしいと思われるかもしれない。しかし、イエスは「私が真理を述べる」と言われた後の語った言葉であることを覚えておきたい。 しかし、ここで注意しなければならないことは、条件があるのだ。イエスは「私を信じるものは」といっておられる。私を信じるとは、どういうことだろうか、まさにFaithなのだと思う。イエスの信仰を持つものは、イエスのされたことより大きなことさえできるという。 そこで、ちょっと考えてみた。 信のしていること、もちろん世界中に、信よりすばらしいチェリストやピアニストはいるが、イエスはどうだったのだろうか? 信はイエスより偉大な、チェリストやピアニストと言えるのか??? もっとも、イエスがチェロを弾いたり、ピアノを弾いたという記録は残っておらず、信がイエスより偉大なチェリストだとか、ピアニストであるかどうかは、間違った質問だと思う。 それより、イエスを信じる信仰のあるものが、イエスより偉大な御業をするという、イエスの言葉の意味をもう少し掘り下げて考えてみたい。イエスを信じるということはどういうことなのか? Faithとはどういうことなのか?  イエスを信じるということは、神が地球上ではないところ、はるかかなたから神が私たちを見ておられて、私たち人間をコントロールしているような、そういう神様を信じているのではない。 イエスの言葉で、「父なる神が私の中にいる。 また私は、父の中にいる」ということを言っておられた。つまり、この地球に2000年前に来られたイエスの中に、神もおられた。 この地球で寝泊りされた、神がおられる。 ここで、最初に出した、Faithを漢字で書いた場合の「信」にいて説明したい。 信の左側は肉体を持つ人を象徴したものだ。 そして、右側は、「言:ことば」”Word”である。 ヨハネ福音書は、「はじめに言(ことば)があった、その言は神とともにあった。その言は神であった。」という文章ではじまっている。信ということは、神と人がいっしょになった漢字なのだ。 神が人と一体になったことを著す漢字を使って、信じるという意味を表していることに、とても意味深いものを感じる。 また、イエスの語られたことは、父なる神と子なるイエスが一体だというだけでは終わらない。本日の福音書でイエスが語られたことからして、自分がいなくなったあと、父にお願いして真理の霊、つまり神の霊、聖霊を送ってくださる。その霊は私たちの弁護者であり、ずっと私たちとともにいてくださる。その父なる神の送ってくださる霊のおかげで、イエスの名によって祈ることは、なんでもかなえられ、つまり、イエスの業、さらにおおきなる業が可能になる。 今日は三位一体主日であるが、父なる神と、子なるイエス、そして、神が送ってくださる息、聖霊が、一体である、そういう神の存在を、私たちキリスト教者の信仰を覚える日である。 どこか遠くにいる神、この世を見下ろしているような神ではなく、イエスの体となって、この世に下りてきてくださった神である。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。イエスの信仰とは、この世の常識として信じられることではなく、わたしたちに与えられる信仰である。そして、その信仰は、聖霊となって、この世の私たちの中に永遠にやどってくださる神を信じること。その信仰は、わたしたちにとてつもない業をさせてくださる。 とても人間の力だけではできないと思っても、イエスの神がおくってくださる霊のパワーのおかげで、大きな事ができたり、あるいは大きな慰めになったりする。 それは、ピアノでもオルガンでも、人間業とは思えないような演奏ができたりする。あるいは、聖書の言葉を聴くなかで、とてつもない困難や悲しみを解消するし、あるいは、信仰者たちどうしが、互いの愛をもって、偉大なミニストリーを行なうことにもなる。父、子、そして聖霊なる三位一体なる神がわたしたちとともにいてくださる。  アーメン 安達均 “Faith Makes Us Do What??” John 14:11-17 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the people’s hearts while listening to this message! Two weeks ago, on Mothers’ Day, as usual we invited guests from Project Self Sufficiency. Two single mothers and their two daughters attended the two worship services. One mother and her daughter came to the 8:30 a.m. service and another mother and child came to the 10:00 a.m. service. Do you remember their two daughters’ names? Coincidentally, or I would say meaningfully coincidental, the names of both girls were “Faith.” Then later on, I also realized there was another child whose name was “Faith”. For those of you who attended the 10:00 a.m. service, one of our children played the cello during the offering. His name is “Shin.” The Chinese character of Shin means to believe or “faith.” Satoko, my wife, and I named “Shin” using the character “信”, remembering our faith; that we both strongly believe. Let’s dive into today’s Gospel text. When you read verse 12, what did you think? One day before he was crucified, our Lord told his disciples, “anyone who believes in me, you do what I have done, even greater works than I have done.” Can the disciples do even greater works? Or can Christians do even greater works than Jesus did? You might think it is impossible… However, remember, this is what Jesus…

Tweet 主の恵み、心の中に豊かに注がれますように! 5月から復活ルーテルの新しい体制に入った。日本語での礼拝は、いままで月4-5回あったのが月二回となり、英語の礼拝に参加することを呼びかけているのは大きな変化。 もう一つの変化がある。  Carl牧師より日本語会員に英語で月二回のバイブルスタディが行なわれていたが、今後は日本語で、み言葉について、神さまの思いについて、学ぶ、思いを巡らす機会になる。 今日のメッセージでは、最初の5月6月の学びの中心となる課題やその意味の概要を含めてお話できればと思う。  この復活ルーテル教会は、全米に一万近く、380万人くらいの教会員からなるアメリカ福音ルーテル教会の一教会。 そのアメリカ福音ルーテル教会のスローガンは、”God’s Work. Our Hands.” という言葉。 「神様のお仕事を、私たちの手が。」とでも訳したら良いだろうか。  しかし、神様に代わって私たちが神の仕事をするなんて、おこがましいし、そんなことはできない、と否定される方もいるかもしれない。 でも本当にできないのだろうか?  本日与えられている聖書の箇所にふれていきたい。 第二日課として読んだ、使徒言行録2章では、復活後50日目にパワフルな聖霊が下った事実が記されていた。 ガリラヤ出身の使徒たちに、ユダヤに集まっていた、さまざまな地方から来ていた人々のために、異なる言語で話す力が与えられた。  さらに、使徒たちには、聖霊の力が働き、イエスキリストの福音伝道のために、派遣され、伝道の言葉を述べていこうとする力が宿った。  しかし、この聖霊がくだることは、ヨハネ福音書に書かれていたように、イエスは預言していた。 父なる神にお願いし、真理の霊を送り、あなたがたとともにいる。 イエスは、父の内におり、また父がイエスの内にいることを繰り返し述べ、イエスを信じる者は、イエスが行なった業よりも、もっと大きな業をされることを述べておられた。 本日の第二日課とヨハネ福音書、さらにキリスト教会に集められた者が、長い歴史の中で、聖霊の働きを体験する中で気がつかされたことがある。まず、聖霊によって、たとえいままでは文化も異なるし、話す言葉さえ異なった人々との交わりが起こる。 隼人くんはこの礼拝に来て、まだ日本語もよくわかっていないが、私は聖霊のただよう空間に置かれ、神の言葉や、賛美歌を聞く中で、隼人くんと私は、交わっていることを感じる。さらに、聖霊の力は、隼人くんを、父なる神とその子救い主イエスとの交わりにも近づけていく。 つまり、聖霊は、人と人を結びつけ、また人と神をも結びつける働きをする。 そして、聖霊は、イエスを信じるものに、神の派遣・使命を果たそうとする力を及ぼす。神の思い、無償の愛に根付いた、奉仕の業へと遣わされ、その業は、イエスが2000年前になさった業よりも、もっと大きな、キリスト教会全体で行なっている奉仕の業の一部を担当する力が与えられる。  God’s Word. Our Hands. の話をさきほどしたが、聖霊の力によって、私たちの手が神の業を成すということ、おわかりいただけるだろうか。また、必ずしも、手だけではないのだと思う。私たちの、見る目も、話を聴く耳も、言葉をしゃべる口もすべて、イエスのみ業のために、さらに言うならば、イエスのなされた業より、さらに大きな御業のための道具になる。 今年のはじめから、ステファンミニストリーの話をしているが、このミニストリーは、信徒が、救い主イエスがされたように、世の中で本当に困っている方や、突然の災害、病、あるいは家族の死を体験した方々等を尋ね、目と目をあわせて対面し、話を聴くミニストリーだ。  それは、数十年前までは、牧師の仕事だとまかされていたような面があるが、実は、この世の中に、牧師や臨床宗教師のケアを長期的に必要としている方々はとてつもなく多い。 そのような境遇に招かれて、派遣され、神の御業のために遣えるのがステファンミニスターといわれる、信徒の方たちだ。 5月6月の木曜、合計、4回にわたって行なわれる、学びの機会は、最初に聖書のみ言葉をよみ、観想し、さらに、ステファンミニスターとして、人々と接するということは、どういうことなのかを疑似体験するような機会としたい。  ステファンミニスターになるためには、合計50時間の学びのときが必要になるが、その最初の部分をこの5月6月の学び、さらに5月の修養会で体験していただければと思う。 すべての学びに全部出なければいけないというわけではない。 どれもが、一つ一つ、独立した講義なので、出れるときに出ていただければと思う。 それぞれの学びで、キリスト者として生きるための、意味のある洞察が必ず与えられることを確信する。 アーメン  牧師 安達均 “Can We Do What God Does?” John 14:8-17 May the Holy Spirit of our Father be showered into the people’s hearts in this sanctuary! Starting this month, members of Resurrection Lutheran Church are experiencing something new. Japanese language services are now twice a month, the first and third Sundays. There is also another major shift. Pastor Carl has held Bible studies for Japanese members twice a month for the last three years. And starting this month, I will lead Japanese language Bible studies twice a month at LCR on Thursdays. In this message, I would like to include some information what we will learn in the May and June Japanese Language Bible studies. Resurrection Lutheran Church is one of 10,000 churches of the Evangelical Lutheran Church in America. We have a slogan, “God’s Work. Our Hands.” You might think that we cannot do what God does or God’s work, but is that true, that our hands do not do God’s work? Let’s dive into today’s text. The second lesson, we read is Acts Chapter 2. On the fiftieth day from the Resurrection of Jesus Christ, the powerful Holy Spirit blew into the community in Jerusalem. The many of the Apostles were from Galilee and their native language was Aramaic, a dialect of Hebrew, and with the help of the Holy Spirit; the Apostles could speak many different languages of…

Tweet 日本語説教右をクリック ->2016 05 01 LCR Jpn English Message Please Click ->2016 05 01 LCR Eng Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace