Tweet 2013年4月14日の週報 週報通算#1254号(日本語) Sunday English Bulletin 1254E 週報通算#1254E号(英語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 4月11日 詩編を読もう:嘆きが踊りに (詩編 30) 聖書日課で、今週の後半さらに14日の日曜日に与えられている詩篇は30編。声を出して読んでみよう。 詩編 / 30編 1:【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】 2:主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。 3: わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。 4:主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。 5:主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 6:ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 7:平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 8:主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。 9:主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。 10:わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。 11:主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。 12:あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。 13:わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。 「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」という言葉がとても印象に残っている。13年前に友人を亡くし、突如、未亡人となられた友人の奥様。 彼女が、どんな嘆き悲しみを体験したかは、測り知れない。 彼女は丁寧に話してくださったが、夜中に襲ってくるどうしようもない寂しさに対して、神様が朝を迎えさせてくださることを確信し、いかに慰められるかと。 与えられた詩篇の続きを読むと、12節には、「嘆きを踊りに変え」て下さる主の働きが書かれている。 いままで付き添ってきた配偶者が突如亡くなってしまったり、あるいは、先週はリックウォーレン牧師もそれを実体験されサドルバック教会員のみなさんに祈りのサポートを求めておられるが、自分の息子に突如先立たれるという深い悲しみに遭遇する方々がおられる。さまざまな原因で、どうしようもない「嘆き」を主に訴える状況に置かれることがある。 主イエスキリストという方は、その嘆きの場にいっしょにいてくださる。夜中には、とんでもない恐怖感を味わったりする。しかし、その場にもいてくださる。 復活の主イエスは、父なる神と、聖なる霊といっしょの存在。神が聖霊なる友となり、私たちの心の中にも入ってきてくださる。誰でも復活の主に出会っている。それに気づく時、その嘆きの状態から、喜んで踊りたくなるような状況に変えていってくださる。 キリスト教の礼拝でも、復活の主イエスに会い、讃美歌を歌い踊り、礼拝が終わった時など、踊りながら礼拝堂から出てくることもある。 日本の文化でも、盆踊りとか阿波踊りとか、いろいろな踊りがあるが、踊りとは、喜びの大切な表現。 「クリスチャンだから私は盆踊りや阿波踊りはしない。」などと言わずに、むしろ、みんなで踊る機会があったら踊ったら良い。 復活ルーテル教会のジャパニーズフェスティバルで教会の庭で盆踊りをすることは意味がある。それは神の慈しみ、愛、祝福に対する表現でもあり、踊りながら、神に感謝する。 (5、13節をもう一度読んで見よう。) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
April 8th, 2013
2013年4月7日復活後第2主日聖餐礼拝説教「あなたがたに平和があるように」”Peace Be With You”安達均牧師
No Comments, 牧師説教, by admin1.Tweet ヨハネ20:19-31 復活の主、イエス・キリストの御名において、あなた方に平安がありますように! 何かが神との間に立ちふさがり、神との関係が邪魔されてしまったと思うことがあっただろうか? 祈ろうとしても祈ることができないような。自分はクリスチャンであると思いながらも、実は疑っていて、結局は心を閉ざして、教会にも行けなくなってしまうような。自分は忙しいと思い、教会への出席を犠牲にしてしまうようなことがあっただろうか? 或いは、今、あなた方は、神との関係にあって、大きな障害をかかえているという方があるだろうか? 全能の神に疑問を抱き、その障害は、あなたに聖霊の息吹が入ってくることを妨害していると思われているようなことはないだろうか? 本日の福音書の前半部分、まだイエスが復活した当日の日曜の夕方の光景。 ヨハネ福音書によれば、その日の朝、ペトロともう一人の弟子は、墓からイエスの遺体が取り去られているのを目撃したものの、弟子たちは、全く、主が復活したなどということは理解できないでいた。 先週の説教でも話したように、復活の三日前の金曜は、イエスが十字架に架けられるとわかって、弟子たちは現場からは逃げてしまった。 また弟子の筆頭であるペトロは、三度も、イエスなんか知らないと言ってしまった。弟子たちは皆、自分たちも逮捕され死刑になるのではないかと恐れていた。イエスの弟子のつもりでいたが、まったくイエスの十字架刑を阻止できなかった。 恐ろしさとともに、自分たちを責め、恥さえ感じていた。 そして、イエスが墓に葬られた後は、安息日を良き理由に、部屋に閉じこもりつづけた。 日曜になっても、ちょっとペトロともう一人の弟子が墓を見に行ったが、イエスの遺体をだれかがまた裸にして、持っていってしまったと思いすぐにまた部屋に戻り、弟子たちで部屋のドアに鍵をかけ、日曜の夕方になっても閉じこもっていた。しかし、ドアに鍵がかけられていたにもかかわらず、イエスは部屋の真ん中に現れた。 逃げていってしまった弟子たちを決して責めるようなことを言われない。 三度、イエスを否定した、ペトロにもイエスは安らかな顔を向けられる。 そして、当時としては最悪の暴力をただ呆然と見て、キリストの十字架刑をまったく防ぎもしなかった弟子たちに、「恥を知れ。」なととは言わない。その代わりに、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。そして、両手の釘の後、わき腹の傷を見せる。 その目的は、決して弟子たちを責めるわけではなく、弟子たちはその傷痕を見ることで、実に復活したイエスであると確認できた。 そして、イエスは今一度、「あなた方に平安があるように。」と言い、さらに「私の父である神が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と言って、聖霊の息を吹きかけられ、弟子たちに罪を赦す権能を与えられる。 さて、本日与えられている聖書箇所を通して、神はこの礼拝堂に集まった私たちに何を語っているのだろうか? 神なるイエス、葬られていたイエスは、生き返り、墓石を転がし、墓から出て来られた。さらに、おびえて閉じこもっていることしかできなかった弟子たちの部屋の真ん中に現れる。 そして、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。 それと同じことが実は、今、集まっているこの礼拝堂の中で起こっている。イエスが実に復活したといっても、それが、いったいどういうことなのか、よくわからないでいる私たち。そして、キリストの体である教会を、疑い、私は、キリストはわかるけど教会はよくわからないといったりしてしまう私たち。そのような私たちに、イエスキリストの方が、私たちと教会、つまりはキリストの体、との間に存在する障害を取り除いてくださる。 そして、イエス・キリストが、私たちが閉じていると思っている心を開き、私たちの心の中に入ってきてくださる。そして、神なるイエス・キリストはご自分の傷を見せられる。 その傷とはなんだろう。 アメリカ合衆国のキリスト教会群を見るとき、昨年あたりは毎週50教会が閉じているという話だった。しかし、先週読んだ記事では、いまや、毎週70教会が閉じているという話もあり、今年中に、その数は150にも上るのではないかとも言われている。その中には、近年はじまったばかりの多くの単立教会もあれば、歴史のあるプロテスタント教会も、またカトリック教会もある。 私たちが生きている世代は、そのようなキリスト教の衰えを引き起こした世代。ここにいるすべての会衆は、キリストの体である教会に傷をつけてしまった世代に属する。 しかし、神なるイエスは、私たちを一切、非難するようなことも言わず、また、「恥を知れ。」などとも言われない。傷を負いながらも、キリストの御顔は恵みと慈しみに満ち、私たちに微笑み、「あなた方に平安があるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と話され、聖霊の息吹を私たちに吹きかけられる。 「平安」とは漢字では、「たいら」に「安かれ」と書く。日本に育った関係上、「平安」という言葉は、この二文字が表すように、静かなイメージを持っている。 しかし、英語の辞書で、「Peace」を調べると、煩雑からの解放のような意味が出てくる。 さらに、ヘブル語で「シャローム」という言葉は、もともとの意味は、「完璧」という意味になってくる。 私たちは、さまざまな困難や煩雑さを人生のなかで味わい、私たちひとりひとり、本当に不完全であることを認めざるを得ない。 たまに、「自分は完璧だ。」なんていう人がいるが、それは、不完全の現われ。 しかし、そのような不完全な中に、神なるイエスは、不完全さからの解放を与えてくださる。 神は、平安を与えてくださる、それは私たちの不完全さ、悲しみ、疑い、恥にもかかわらず、神がイエス・キリストによる完璧さを、もたらしてくださる。 そして、平安をもたらすだけではなく、イエスは、聖霊をふきかけて、私たちを世に送り出す。今この礼拝堂において、私たちは、キリストからの聖霊を吹きかけられ、「神の平安があなたがたとともにあるように。そして、あなたがたを世に遣わす。」という言葉を聴いている。 今や、私たちは、神との関係を邪魔してしまうもの、悲しみ、疑い、恥から解放され。 そして、喜びを持って、復活の主、イエス・キリストの最高の知らせを伝える者として、世に送られる。 その復活の主は、すべての人々がかかえる不完全さから解放してくださり、すべての人々に平安を賜る。 アーメン Peace Be With You May the Peace of the Lord be with You in the name of the Risen One, Jesus Christ! Have you ever had, in the past, any stumbling blocks that came between you and God? Even though you still considered yourself a Christian, you doubted Jesus, and the Body of Christ, the Church. You could not even pray to Him and closed your mind to God…Have you ever had such an experience? Or do you have stumbling blocks now? Do you have doubts? Are those stumbling blocks causing you to shut the door of your heart and not allowing the Holy Spirit to enter? In the Gospel today, it is still Sunday. During that morning, Peter and one more disciple found the empty tomb, however, the disciples could not fully comprehend the Resurrection. Three days prior, they ran away from their Lord, since they realized that Jesus would be arrested and crucified. The head disciple, Peter, even denied Jesus three times. All the disciples were so fearful because they thought that they would also be arrested and sentenced to death as well; even though Jesus was their Lord, they did not do anything to prevent the Crucifixion. They were fearful and felt shame. They kept the door closed and stayed in the room. On Saturday, there was the convenient excuse not to leave the room because it was the Sabbath. Except for the period of…
Tweet 4月4日 詩編を読もう:息あるものはこぞって (詩編 150) 牧師:安達 均 復活祭の週に与えられている詩編箇所は150編。 例によって3回、声を出して読んでみたいが、一回読むたびに、次のようなことを考えながら読むことをお勧めしたい。 まず一回目:気になった言葉や句は何か? 線を引いたり丸をつけたりあるいはメモをとる。 そして二回目:この詩編を通して、神はいったい自分に何を語りかけておられるのか? そして三回目:この詩編を通して、神はいったい復活ルーテル教会(あるいは自分の所属する何かのコミュニティ、例えば家族とか、近所とか)のコミュニティに何を語りかけておられるか? 1:ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。 2:力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。 3:角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。 4:太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。 5:シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。 6:息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。 三回読んでいただけただろうか? どんなメモを残されただろうか? どのようなことを考えられただろうか? いくつかのポイントを書いておきたい。 この詩編の箇所、よく読むと、次のような4つの質問に対する答えが書いてある。 1) どこで賛美するか? 2) なぜ賛美するか? 3) どのように賛美するか? 4) だれが賛美するか? この四つの質問に対する答えに関するようなことを、偏ることなくカバーするようなメモを残されたり、考えた方もいると思う。 それはそれですばらしい。 私の場合は、今朝は、どうも4つ目の質問に関することに集中してしまった。 一回目も二回目もそして、三回目も。 とくに三回目、「息あるものはこぞって」という言葉がせまってきて、考えさせられた。 この世に存在する、呼吸をする、神が創造されたものすべてが皆、主なる神を賛美するように、と勧められてられている。 主が復活された時、イースターの時期にあって、復活されたイエス・キリストは、自分を助けることができなかった女性たち、逃げていってしまった弟子たち、そして3度も自分を否定したペトロに対しても、いっさい文句を言ったり、責めたりすることはされない。 最初に弟子たちに現れたとき「あなたがたに平和があるように。」と言われたことも同時に考えた。 主は、隣人を愛せよ、だけではなく、敵をも愛するようにとも言われていたことも思い出す。 礼拝で神を賛美する時、それは、私たち気のあった者同志だけで賛美するとか、社会的に似たようなグループに属している人だけで賛美するとか、あるいは、大人だけでとか、子供だけでとか、そのようなある特定の人だけが賛美するのではなく、息あるものはこぞって、賛美する。 そのようなイメージを、とくに今の復活ルーテル教会に与えてくださっているように感じる。 4月7日の礼拝は、メソジスト教会の方々がいっしょに礼拝に参加してくださることになっている。 子供も来て欲しいし、また、英語をしゃべる方も、いっしょに賛美してくれたらうれしい。また花が置かれたりして、花もいっしょに。。。 復活の主にあって、良き礼拝の時、賛美の時が与えられますように。 主の復活に感謝し、病の中にある方、さまざまな悩みの中にある方のことも覚え、神の導きを祈りつつ。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet Sunday English Bulletin 1253E 週報通算#1235E号 (英語) 2013年4月7日の週報 週報通算#1235号 (日本語) Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace