Archive for May, 2013

Tweet 今年の5月9日木曜日は、カトリック教会や多くのプロテスタント教会の暦では何の日にあたるかご存知だろうか? 今年の主の復活日、3月31日、から復活節に入り、復活節は7週間続いている。主の復活日を第一日目とし、7週間後の50日目の日曜、5月19日には、聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝う。その10日前、つまり復活日から数えて40日目、今年は5月9日になるが、主の昇天日と言われている。復活のイエスが天に昇られた日とされている。 その時の様子は使徒言行録の1章1節から11節に記述されている。  さて、与えられた詩篇、47編を、声に出して読んでみよう。 詩編 / 47編 1:【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】 2:すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。 3:主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。 4:諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。 5:我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ 6:神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。 7:歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。 8:神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。 9:神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。 10:諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。 5節の終わりに「セラ」と書いてある。 詩編を読んでいると、しばしば、「セラ」と書いてある。何の意味があるのだろうか、と思われた方もいると思うので、今日、この文字に触れたい。 詩編は、そもそも歌である。毎週この記事を書くのに、題目は「詩編を読もう」としているが、「詩編を歌おう」の方が良いのかもしれない。歌であるなら、五線譜があって、音符や休止符があったりするのが良いかと思うが、残念ながら、そのような記述は紀元前数百年前は存在しなかった。よって、詩編は歌われながら、伝承され、文字にも残されたのだろう。  そして、五線譜のようなメロディは残せなかったものの、休止符に相当する記号として、「セラ」という文字が、記述されてきたようだ。ヘブル語で「セラ」という言葉は「つるしておく」という意味があり、つじつまはあう。さて、「セラ」を休止符とし、詩編47編の5節まで歌うような気分で読み、しばらく休止して、6節以降をまた歌うように読んでみたらどんな感じだろうか。主の昇天日にあって、6節「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」がより強調されてくる。 神は、主イエスキリストの昇天を詩編47編作者に預言されたのだろう。 詩編は、時代順序からすれば、キリストの降誕より1000年近く前から歌われはじめたが、詩編の中には、イエス・キリストのことが歌われているとしか思えないような箇所がたくさんある。イエス・キリストは復活後、次のように言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」(ルカ24:44より) ところで、復活ルーテル教会の礼拝堂正面には、どんな彫刻が刻まれているかご存知だろうか? どんな彫刻だったかよく覚えていないという方は、ぜひ、彫刻をご覧いただきたいと思う。また、復活ルーテル教会で讃美歌を歌う時は、角笛ではなく電子的に作られたものとはいえパイプオルガンの響きとともに讃美歌を歌っている。オルガンの上にパイプが並んでいるが、オルガンと連動しているわけではない。よく見ていただくと、「なんだ、意味ない。」と思われてしまうかもしれない。 私は、それでも、あそこにパイプが置かれているのは、意味があると思う。 とくに、この詩編47編を6節に思いを巡らす時、礼拝堂の彫刻もパイプも、ひとつひとつ、それぞれ神に在って、意味がある。 5月7日または8日の教会からのemail連絡をご覧になった方は、ご承知の通りだが、私は7日に肺炎と診断され、痛み止めを使いながら、抗生剤を服用する治療がはじまった。少なくとも肺炎だとわかったことに感謝している。そして皆様からのお祈りに心から感謝している。  それにしても、8日の夜までは、痛み止めを使っていても、咳がすこし出ると、右下の胸部から右の背中、さらに肩にかけて痛みが走っていた。9日朝は、症状が改善されてきたのを感じている。 肺炎の困難にあるのは、私だけではないし、さまざまな肉体的・精神的な痛みを覚えている方々も大勢おられる。 そのすべての場にあって、主の平安、癒し、慈しみが、豊かに与えられるように祈る。 そして、どんな苦しみにあっても、主の恵みにより、詩編にあるように神を讃美し喜び歌おう。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 神の国は誰のもの? ルカ18:15-17 主のイエス・キリストの恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように。 脳波検査を受けたことがある方どのくらいおられるだろうか? 睡眠障害になったり、あるいは、交通事故等により強い衝撃を頭に受けたりすると脳波を測定する。 あとは、エピレプシー、発作を起こしてしまう患者さんにもよく脳波測定が行われる。 脳神経を専門とするあるドクターが教えてくれた。脳波は、大人の場合は、比較的安定していて、通常の脳波と異常な脳波を判定することは比較的容易だが、子供の脳波は、もともとだれも不規則で、子供の脳波測定をしたところで、その子供の脳波が異常なのかどうかわかりにくい、と語っていた。  子供のときは、ひきつけ(てんかん発作)を起こしてしまう確率が大人に比べとても高い。 みなさんの中にも、小さい時、私はひきつけを起こしたという方もいると思う。 しかし、かなりの確率で高校生ぐらいまでの間に、発作は起きなくなる。 要は、子供の体が成長過程にあるように、脳だって発達過程にあり、子供が何人かいたら、その子供達全員に、大人と同じような振る舞いを期待したって無理である。 ひきつけを起こさないまでも、騒いでしまったり、落ち着きがない子もいるだろうし、いろいろなことが起こる。  さて今日与えられている聖書の話をしたい。こどもの日にちなんで選ばれた聖書の箇所だが、今日の箇所の少し前で、イエスはどのような話しをしていたかをちょっと述べておきたい。 ルカ18章前半で、イエスは二つのたとえ話をしている。 最初は、まず、裁判官はなかなか取り合ってくれないような人だったが、しつこく裁判官のところにやってくる未亡人がいて、その裁判官がその未亡人の訴えを聞くという話し。当時の社会状況からして、未亡人の主張はなかなか認められないような状況があったのだろう。しかし、その裁判官が未亡人の訴えを聞いた理由は何であれ、神は、正しいことを義とされる。 いわばソーシャルジャスティスについてイエスは弟子たちに教えていた。   二つ目のたとえ話は、ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈る話。ファリサイ派の人は、自分は神の善しとすることをしており、自分は正しい人間だと思い祈っていた。しかし、徴税人は、言ってみれば意地の悪いような人であり、自らも自分の罪を認め神の赦しを求めた。 すると、その徴税人こそ、神の目には義とされる人となることが話されている。 弟子とイエスたちは、社会正義の問題や、信仰生活における罪の告白といった、真剣な問題について語り合っていた。 そこに、イエスの評判を聞いて、子供たちが、ちょっとでもイエスに触ってもらえたらと思い、子供たちを連れて来た人々がいた。 弟子たちは、大切な話をしている最中だし、騒いだり、落ち着きのない子供たちが来るところではないと判断して、連れて来た人々を叱りはじめた。 ところが、イエスは、子供達を連れて来た人々を呼び集めるため、「子供達を私のところに連れて来なさい。」と言われ、また弟子たちに向かっても、「妨げてはならない。」と言われた。 弟子達は、子供たちを連れてきた人々を、追い返すことこそ、主イエスの考えておられたことだと思って、叱ったところなのに、主のお考えは全然違っていた。 さらに驚いたことに、イエスは次のようなことを述べられる。 「神の国は、このような子供たちのものである。子供たちのように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。」  弟子たちは、自分たちこそ、神の国を引き継ぐ者という気持ちでいただろう。しかし、イエスからは、神の国はこのような子供達のものであると言われてしまった。しかし、この話、いったい私たちにどういうことを語りかけているのだろうか? それは、決して、弟子たちが神の国を引き継げないということではない。復活節にあって、弟子たちは、なかなか復活したイエスの存在を信じられなかった話をしてきた。 しかし、なかなか信じられなかった弟子たちも、結局はイエスの伝道活動をするようになり、現代では70億人の世界人口のなかで約20億人がキリストを信じる者になってきているようだ。  イエスが死んで葬られて復活して弟子たちの前に現れることまでしても、イエスの赦しと愛をなかなか信じられなかった弟子たちに対して、子供達はどうなのだろうか。 子供たちは、大人の目からは、落ち着かず、わあわあ騒いでしまう存在に思われてしまうが、主が考えられていることは、主イエスの赦しと愛は、子供たちに簡単に伝わり、彼らこそ主を受けいれ、すぐに神の国を引き継いでいける存在になる。   「神の国は、このような子供たちのもの。」と主イエスが2000年前に言われ、この言葉は聖書に記述され、代々伝えられ強調されてきたことは、とても大きな意味がある。 この世において主イエスの体の構築は現代も続いており、その過程において、子供のたちは、とても大切な存在である。   イエス・キリストの体、教会、そして神の国の建設は、子供達のように素直に神の愛が永遠に続くということを信じられる、そのような信仰者たちに引き継がれていく。子供の日を祝うとともに、私たち大人も子供達のような気持ちで、主イエスに従う群れになってまいりましょう。復活の主、イエス・キリストの平安が、皆様方そして子供達、さらには子孫の上にも、豊かにありますように、復活の主イエスキリストの御名によって祈ります To Whom Does the Kingdom of God Belong? Luke 18:15-17 How many of you have experienced EEG (Electroencephalogram) test? When you have a sleep disorder, a serious car accident, a seizure or anytime there is head trauma, doctors order an EEG. One doctor shared with me that it is relatively easy to diagnose adults’ EEGs, however, it is generally very difficult to diagnose children’s EEGs. Children’s EEG patterns are so different from adults’ EEG patterns. It is difficult to define what is baseline abnormal for children. Did you know that a high percentage of children experience seizures? You may have experienced one or two seizures yourself when you were younger…or you may know parents whose child had a seizure. However, about 70% of children stop having seizures as they grow older. My point is that even if children never have a seizure, their brain activity is very different from adults’ brain activity. Children’s brains are still developing, so it’s unfair to expect them to have an adult’s patience & attention span. If children have Attention Deficit Disorder (ADD), it’s even harder for them to sit still and pay attention. Let’s talk about the text chosen on this Children’s Day. I would like to explain a little bit about the context of what Jesus and his disciples were talking about regarding today’s text (which I read a few minutes ago). Luke chapter 18 starts with two of Jesus’ parables. The first one was…

Tweet 週報通算#1257号(日本語) 2013年5月5日の週報  週報通算#1257E号(英語) Sunday English Bulletin 1257E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 5月2日 詩編を読もう: いただきます (詩編 67) 牧師:安達 均 食事の前に、「いただきます」と言って食べるのは、そこに感謝の意味がある。 ある牧師は、「いただきます」という言葉には、「神が創造された命をいただく」という事だと説明してくれた。そこには、深い感謝の意味がある。   さて、与えられた詩篇、67編を三回、声に出して読んでみよう。 詩編 / 67編 1: 【指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。】 2:神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくだ さいますように〔セラ 3:あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。 4:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ ぞって/あなたに感謝をささげますように。 5:諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁 き/この地において諸国の民を導かれることを。〔セラ 6:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こ ぞって/あなたに感謝をささげますように。 7:大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が/わたしたちを祝福して くださいますように。 8:神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで/すべ てのものが神を畏れ敬いますように。 どんなことを思われているだろうか? 冒頭に書いたが、この詩篇を読んで、「感謝」することの大切さを感じている。 復活ルーテル教会の牧師をしながら、アメリカ福音ルーテル教会パシフィカ教区の教区長補佐の仕事を与えられている。正直、かなり大変、きつい、と思うこともあるが、いろいろな経験ができることに感謝しつつ、また、不思議なことにどこに行っても、神の恵み、食べ物が与えられる。 食べることができる健康が与えられていることにも感謝し、まさに「いただきます」という感謝の気持ちを表し食べている。  与えられた詩篇に戻るが、気がつかれただろうか? 4節と6節は全く同じ言葉が並んでいる。 しかも、神への呼びかけの言葉の後は、それぞれの節に「すべての民が、あなたに感謝をささげますように。」という言葉が二回繰り返されている。 ただ、二回目に繰り返されるときに、「こぞって」という言葉が入ってくる。「すべての民がこぞって」とすべての民を強調するような言葉。それは、たとえどこの国の方であろうが、また、たとえどのような状況にある方であろうが、すべての民、全員がという意味になってくるのだろう。  全体をよく読むと、「すべて」という言葉は3節、5節、さらに、最後の8節にも出てきている。 3節、5節は、4節、6節と同じように「民」にかかる言葉として使われているが、8節では、「すべてのもの」という言葉に代わっている。 数週間前に読んだ、最後の詩篇150編のさらに最後の節には、「息あるものはこぞってハレルヤ」であったことを思い出す。  詩篇67編を読みながら、二つの目的を感じている。 ひとつ目の目的は、この詩篇を読むなかで、その読む方々が、「感謝を捧げる」ものとなるように。 そして、二つ目は、感謝を捧げるのは、自分だけではなく、この世界中のすべての民、さらには、息をするものすべてが、神に感謝を捧げるものとされるように。   今、復活ルーテル教会のなかには、病のため、まともには食べ物がいただけないという状態の方もいる。しかし、痛みや息苦しさの中にあっても、そこに神の恵みがあり、たとえ肉の糧はいただけなくても、神の祝福があり、御言葉の糧、命の糧をいただき、感謝の気持ちがもてますように。多くの方々の祈りの中で、それが実現していますように。  また、世界70億人の方々、さらには、神が創造されたすべてのものが、神の愛、祝福に気づき、感謝を捧げるものとなりますように。     Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace