Archive for April, 2014

Tweet ヨハネ11:1-44 安達均 主イエスキリストの恵みと平安が豊かに与えられますように。 私が会社勤めをしていた時、同僚が亡くなった。 ここにおられる何人かの方はご存知だが、彼はすい臓がんを患らい、医者からは、数ヶ月の命とも言われた。 しかし、夫婦でキリストを信じ、洗礼を受けたあと、この世からは去られた。信仰を告白し、洗礼を受けた時から永遠の命が与えられており、奥様にとって、夫の死を体験しながらも、そこに復活の命を確信でき、大きな慰めがあった。 彼が亡くなる数週間前に、日本の本社からは会社の最高責任者が出張で来られ、死期の近づいていた彼の家を尋ね、お見舞いに行った。 彼は本当に痩せほどっていた。 しかし、私は彼の中に、なにか力強いものを実感することができた。やせ細った彼を見舞ったあと、私と何人かの現地社員も誘っていっしょに食事をした。そのとき、社長は「人間死んだらそれで終わりだよね。」ということを語った。 私はその言葉にどうしようもない憤りを覚え、それから、数ヶ月後に社長に向かって私は、説教をしてしまった。 「この世の命が終わっても、復活の命があります。」と強い口調で話した。私は、その説教がいずれは会社を辞め、最高の知らせを世に宣教する者になる決定打になったような気がしている。 さて今日与えられた福音書、マルタとマリアの最愛の弟、ラザロが病になるというシーンからはじまる。病名は書いていないが、深刻で治療を一刻も争う、急性肺炎とかあるいは、心臓発作とかだったかもしれない。 当時、電話もなければ救命救急のためのサービスもない時代、マルタとマリアにとって頼りになるのは、イエスだった。人を遣いに出し、イエスに「あなたの大切なラザロが病で死にそうです。」ということを伝えさせた。それでも、イエスは、すぐにベタニアに向かおうとせず、二日間も同じところにいた。そして、イエスはユダヤ地方に向かうものの、イエスの到着3日前には、ラザロは死んでしまった。 マルタはイエスが来たと聞いて、迎えに出るが、挨拶もせず「主よ、あなたがここにいてくださったらラザロは死ななかったのでしょうに。」と言う。イエスへの文句のような言葉で始る。聖書の中でマルタが出てくるもう一つの話、イエスと弟子たちを家に迎えたとき、マルタばかりが給仕をしていて、マリアはただイエスの話を聞いていたのを不満に思い、「マリアに手伝うように言ってください。」とイエスにマルタが言ったのを覚えている方もいるのではないだろうか。 マルタはそういう女性のようだ。それでも、イエスはマルタを大好き。 一方マリアは、今回は、マリアも、マルタと同じように「主よ、あなたがここにいらしてくださったら、ラザロは死ななかったでしょうに。」と言う。やはりイエスへの不満のような言葉とともに、マリアは泣き崩れる。またいっしょにいたユダヤ人たちも泣いていた。 そのような状況に対して、イエスは憤りを覚えられた。 イエスの憤りは、決して、マルタが、そしてあの従順なマリアまでも、遅く到着したイエスに不満を述べたからというのでは全くない。 それは、イエスはラザロを蘇らせる目的で、ここに来ているのに、人々はそんなことはつゆもしらず、あきらめていたことにあると思われる。 また、「イエスは盲人の視力を回復することはできたが、ラザロを復活させることはできない。」と決め付けているような捨て台詞を話すようなユダヤ人もいて、何もわかっていない人々に、イエスは再び、心を痛め、憤りを覚える。 そして、イエスはここから必死になる。墓の前に置いてある石をどけるように指図する。 マルタは「四日も経っているから、もう臭います。」と言うが、「信じるなら神の栄光が見られると言っていたではないか。」と強い口調で応答する。何人かの人々はイエスの言う通りに、石をどける。 そして、イエスは「いつも祈りを聞いてくださる父なる神に感謝し、ここにいる人々が、私があなたから遣わされたことを信じるために。」と祈られたあと、「ラザロ出て来なさい!」と叫ぶ。 そして、布に包まれたラザロが墓から出てきて蘇る。 この話を、レントに読んでいるが、いったいどういう意味があるのだろうか。イースターとどういう関係があるのか、あるいはラザロの復活とイエスの復活はどう違うのか? イエスは、肉体的に死んだ人でも、イエスの祈りによって生き返らせることができるという話はすごい。しかし、注意したいことは、ラザロのこの話は、たとえ、ラザロは肉体的な蘇りが起こっても、ラザロはいずれは肉体的には亡くなったのだと思う。  そのことを考えるとき、イエスの復活はラザロの蘇りとは種類の違う復活であることを覚えておきたいと思う。これから2週間、さらに復活節の7週間の間にもっともっと大きなキリストの復活について触れていきたいと思う。  今日のメッセージのポイントの一つは、マルタやマリアまでもいっしょにイエスに文句を言い、イエスは二度も憤られた様子を話した。 そこには、イエスはマルタやマリアが文句と言ったから心を憤ったのはなく、「死んだらそれでおしまい。」と思った、マルタやマリア、そして、周りのユダヤ人たちへの憤りだったのだと思う。   人の死は神の目にあってそれは滅びではない。ラザロの復活の出来事は、ユダヤの指導者たちがイエスの抹殺をたくらむ決定的な要因になった。 そして、イエスはユダヤの指導者、ローマの政治家たち、そしてすべての民衆、弟子たちをも巻き込み、十字架の死へと追い込む。にもかかわらず、神の子イエスは復活し、すべての人々への赦しと永遠の命を示されることになる。今日のラザロの復活の出来事は、十字架の死によって、死を滅ぼす、歴史上、最大の出来事につながる、決定打のようなもの。肉体的な死は、決して滅びではない。 アーメン “The Call to the Cross” John 11:1-44 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of our Lord and Savior, Jesus Christ be upon you in this sanctuary. When I was working for a Southern California company, one of my colleagues died. As some of you know, he was diagnosed with pancreatic cancer and was told that he had only several months to live. However, he believed in Jesus Christ, was baptized, and then he left this earthly life. At the same time his wife was baptized and several months later his daughter was baptized, as well. Therefore, they believed in his eternal life and were comforted by Jesus’ peace. I have never told this story to anyone before, so please listen carefully. As a matter of fact, a few weeks before he died, the president of the company visited California. I took him to Mr. K’s home visit him. Mr. Kyu was very thin but he could still talk with us and I felt his strength in the Holy Spirit, even though he was physically very weak. The president and I, along with several managers of our US subsidiary had dinner after our visit to Mr. Kyu. At the table, the president said, “Once you die, it is the end, isn’t it?” I was greatly disturbed by what he said….then several months later, when I had a chance to speak with the president more privately, I preached to him saying, “Although…

Tweet 2014年4月20日、LCR日本語部受難節・復活祭ご案内 2014 Holy Week Easter Invitation 聖木曜日のスープランチョン、聖木曜日礼拝、イースターエッグの色染め等、是非ご参加ください。復活祭には3名の方が洗礼を受けられます。是非教会にお出で下さい。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

April 3rd, 2014

No Comments, 週報, by admin2.

Tweet 2014年4月6日LCR日本語部週報通算第1301号 4月6日の礼拝はのぞみミッションの皆さんをお迎えしての合同礼拝です。礼拝の後は楽しい食事の交わりがあります。来週は枝の主日です。教会でお会いしましょう!2014年4月6日週報 Sunday English Bulletin 1301E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 四旬節もあと二週間余り。十字架に向かわれる主なるイエスを覚える中で、ご自身がさまざまな苦しい思いを経験されている兄弟姉妹も多いのではないかと思う。そのような境遇で、今週は詩編143編を読む。やはり四旬節にふさわしい詩編だと思う。いつものように、なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編143編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。  詩編143編 1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。 2:あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。 3:敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。 4:わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。 5:わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。 6:あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。〔セラ 7:主よ、早く答えてください/わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。 8:朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください/あなたに、わたしの魂は憧れているのです。 9:主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。 10:御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。 11:主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。 12:あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。 気になる言葉としては、2節にある、「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。」 150編ある詩編の中で、7つの詩編は「悔い改めの訓練」のための詩編と言われている。今日読む143編もその一つ。 しかし、詩編作者の立場を思い、この詩編143編全体を読み返すと、あまり「悔い改め」っぽくはない、切実に訴える祈りのような面も見えてくる。2節の最後では自分も含めて、御前に正しい者はいないと詠うが、1節と2節前半部分だけで、「祈りをお聞きください。」「耳を傾けてください。」「わたしに答えてください。」「あなたの僕を裁きにかけないでください。」と願い(要求)を4回も繰り返している。そこには、ダビデの切羽詰った状況を詩編作者は詠っているようだ。3節は苦情の様でもあり、4節で自分がいかに落ち込んでいるかを短く詠う。5-6節では、詩編によくあるパターンだが、過去に主なる神がしてくださった救いの御業を思い返し、このような状況にあっても、希望を抱けることを詠う。7節から12節では、主を信頼している言葉をちりばめながら、「ください」という言葉が10回出てきており、願い(要求)を再び繰り返している。  この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。12節からなる詩編の中に、14回も「ください」という願いの言葉が繰り返されていることがわかったが、2節後半の、正しいものはひとりもおらず自分もその一人であることを告白することの大切さとともに、10節にある「御旨を行なうすべを教えてください。」という願いが、とくに際立ってくる。自分の思いは正しくないかもしれない、だから、主なる神の御心が成るように、そして自分もそれに従うようにと祈ることの大切さを覚える。 四旬節にあって143編を読む時、イエスキリストが十字架に架かる前の夜、最後の晩餐の後、ゲッセマネで祈られた祈りを思い出す。 短いので、マタイ26章の言葉を記載したい。 「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet ヨハネ9:1-41 安達均 集まりました会衆の上に、主イエスキリストの恵みと平安が豊かにありますように! 何か困難があったとき、自分の何かが悪くてこれは天罰がくだったのだ。 とか、あるいは、自分の先祖が何か悪いことをしたために被っている困難だと信じている方もいる。あるいは、ヒンズー教や仏教に伝わっている輪廻思想によれば、自分が今生まれ変わっているが、前世で、なにか悪いことをしてしまったので、しょうがないと思う方もいたりする。物は考えようだが、確かにそのような説明を受けて納得し、今の困難を我慢することができるということもあるのかと思う。しかし、そこには、真の赦しや過去の罪からの解放ということが起こるのだろうか悩んでしまう。 本日与えられている聖書、目の見えない人の人生が、イエスによって大転換する話。 彼は「生まれつき目が見えない」ので「それは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えた。しかし、イエスは個人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定する。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言う。イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明するのではなく、これから起こる出来事に弟子たちの目を向けさせる。そして、目の見えない人の目の上に、泥につばをペッペッと吐いて、こねて塗るというようなことをした後、「シロアム」という池に行き、洗うように言われる。そしてその日は安息日だった。すると、見ることができなかった光景を見れるようになる。ここで、生まれつき見ることができなかった彼の人生がイエスが行い命令したことによって大逆転する。  本日の聖書箇所の後半では、のちのち、彼は実際にイエスに会って、イエスを見ることになるが、目が見えるようになる時点までは、彼はイエスを見ることができていない。しかも、たまたが通りがかったイエスと弟子たちが彼に話し始めており、彼にとっては神、イエスがどういう人か何もわかっていなかった。それにくらべ、聖書の中に描かれているファリサイ派の人々は何が正しいことか、強い信念があり、いわば、神のことを悟っていた。 それは、目が見えない人がいたら、それは過去の罪の結果であるとし、安息日に何かをすることは罪であるため、安息日に奇跡は起こせないという信念だった。 ファリサイ派の人々のそのようなところに、宗教の落とし穴がある。 霊的な盲目といっても良いかと思う。  私は、ファリサイ派の人々だけを言っているわけではなく、現代のキリスト教信者と言っている我々の中にも、そのような危険性を否定できない。 「私には、こうこうこうだからこうだ、という確信があり、だから私は正しい」と言って、その信念を見事に語っているようなキリスト教信者には、ファリサイ派の人々と同じように、霊的な落とし穴がある。そして、本当の神の御業を見れず、信念が根底から崩されてしまうようなところがる。「私はイエスキリストを見た。」という方もおられるが、本当に私たちは、イエスを見ているのだろうか? 聖餐式でいただく、ウェハーとぶどう酒の中に、イエスを本当に見ているのだろうか? 私たちは、イエスが毎週毎週、霊的な視力を回復してくださるようにして聖餐を受けているのか、あるいは、イエスを見るといいながら、霊的には盲目で、自分の固定観念に陥っていないだろうか。  イエスは、本日の聖書箇所の最後で、「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われる。 イエスは自分なりの理解で、「イエスを見える。」と話すことに対して、警告を与えてくださっているように感じる。 たしかにイエスは2000年前に来られたが、私たちはイエスの再来を待つ身である。「イエスは来た。だけどまだ。」という時代に生きている。 私たちは、今日の聖書にあるような、盲目の状態から目が見えるようになった人に見習いたい。固定観念にはとらわれず、イエスのほうから顕われ、与えてくださるこの上ない愛と憐れみに感謝する。 四旬節の後半に向かう中、この礼拝中の御言葉と聖餐を通し、イエスに会うことができるように、そして主が私たちに、十字架を担ぐ力を与え、そして、愛なるイエスと共に、歩むことができるように祈る。アーメン “Truly Seeing Jesus or Meeting Jesus” John 9:1-41 Pr. H. Adachi May the Grace and Peace of Jesus Christ be upon you in this sanctuary! Whenever people have difficulties in their lives, some people think that the difficulties are God’s punishment for the supposed wrongs that these people have done. There are Buddhists or Hindus that believe in the cycle of death and rebirth, and if bad things happen; it is because they think they did something wrong in their former lives. Everything depends on your mindset, but I wonder if people truly believe they can be forgiven and truly freed from the cycle of wrong doing? I am not sure if just being patient during hardships will help. The Gospel text today, is the story of the blind man, and how Jesus changed his life. Because the man was born blind, the disciples thought the man’s own sins or his parents’ sins caused his blindness. However, Jesus refuted the relationship between sins and the man’s blindness, Jesus said, “Neither this man nor his parents have sinned” and “God’s works might be revealed in him.” Jesus did not try to explain the cause of the man’s blindness, but he let his disciples see what happened when He interacted with the blind man.  Then, Jesus spat on the ground and made mud with the saliva and spread the mud on the man’s eyes, saying to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which means Sent). Then the man…