Tweet 2014年9月7日LCR日本語部週報通算第1322号 2014年9月7日の週報 September 7, 2014 LCR Japanese Ministry Sunday Bulletin Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編119編65-72節を読む。詩編119編はヘブル語のいろはがるたのような詩をならべたもの。22文字あるヘブル語アルファベットの各文字ではじまる22の詩が集められている。65節はヘブル語の”t”の文字ではじまる言葉が最初に位置されている歌。もちろん日本語に訳されているので、”t”の文字ではじまっている言葉かどうかはわからない。しかし、新共同訳の聖書をみると(テト)と65節の前に書いてある。これはヘブル語のアルファベット文字の”t”に相当する文字をカタカナで表記している。さて前置きはそれくらいにして、いつものように気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して何を語りかけているか思いを巡らせて行きたい。 詩編119編 (テト) 65:主よ、あなたの御言葉のとおり/あなたの僕に恵み深くお計らいください。 66:確かな判断力と知識をもつように/わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。 67:わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。 68:あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。 69:傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが/わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。 70:彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。 71:卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。 72:あなたの口から出る律法はわたしにとって/幾千の金銀にまさる恵みです。 気になった節や言葉はどこだろう? 67節にある「ついに卑しめられました。」という言葉と71節にある「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。」 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。全体的には、とてもわかりやすい言葉で表現されており、すんなり読める詩である。詩編は詩編作者の祈りであり、また詩編にくみこまれている歌であるので、この言葉をシナゴーグにあつまったユダヤ教徒たちが礼拝の中で皆で祈り詠うようになったと想像する。この詩編個所、すんなり読めるとは書いたが、詩編作者の人生は、決して「すんなり」したものではなく、山あり谷ありの信仰の旅路を歩んだことだろう。さて一節一節を振り返りたい。 主の御前にへりくだって、あなたの僕である私を恵み深く計らってください(65節)。と詠いはじめ、あなたの戒めに従う判断力や知識を持ち合わせていなかった自分に、ぜひあなたの判断力や知識を教えてください。あなたの戒めを信じています(66節)。 私はあなたの戒めに従わず迷いの人生を歩んでいたため、ついに卑しめられましたが、今からはあなたの戒めに従います(67節—詩編作者は人々から非難されたりしたのだろう)。あなたはすべて善なる方で、すべてを善に変えられる方なので、あなたの掟を教えてください(68節)。あなたの掟を学ばずに傲慢に生きている者はうわべだけを繕おうとするが、私は心からあなたの掟、命令を守ります(69節)。その傲慢な者たちはあなたに心を開いていないが、わたしは心をあなたに開き、あなたの法を楽しみにします(70節)。卑しめられたおかげで、あなたの掟を学ぶようになりました(71節)。あなたが語る律法は、どんな財宝にもまさる恵みです(72節)。 この詩編を通して、主なる神は現代の私たちに何を教えてくださっているのだろうか? 上記には、新共同訳聖書に用いられた「卑しめられた」という言葉をそのまま使って書いてきたが、卑しめるという言場、どう解釈したら良いか考える時、7日の日曜に与えられた福音書個所(マタイ18:15-20)にその答があるように思った。福音書からキーワードを二つ挙げるとすると「忠告」と「祈り」なのだと思う。 兄弟姉妹から受ける忠告と兄弟姉妹が集まって、心を一つにしていっしょに「祈る」ことの大切さがある。 「卑しめられた」とあったが、周辺の信仰者から「忠告を受けた」という言葉がピンと来るように思う。 そして、現代を生きるキリスト信仰者たちも、もし主の道からはずれて生きているような場合は、兄弟姉妹間で、忠告しあうことの重要性を教えられているように思う。 また、忠告しただけで終わるのではなく、この詩編作者が詩編に残して、信仰者たちが集まった場で、皆で詠い祈ることが行なわれていたように、現代の兄弟姉妹たちも、いっしょに主に感謝して祈ることの大切さがある。もし兄弟姉妹が集まる機会がすぐに得られないような場合は、2500年以上前に生きた詩編作者たちが残してくれた、詩編を読み、時を越えて詩編作者と心を一つにして読むように心がけることもすばらしいことだと思う。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マタイ16:21-28 主イエスにある希望と喜びが、礼拝堂に集まった会衆の心の中に豊かに注がれますように アーメン Prosperity Gospelという言葉がある。訳すなら、「 繁栄の福音」といえば良いだろうか?いわば金持ち、裕福になりたいという自分なりの目的があってキリスト教を信じるようになる方々がいるのは現実だと思う。 しかし、イエスキリストは、十字架を背負って私に従うように言われた。十字架の大きさにもよるが、十字架を背負って生活していたら、それが金持ちになれるというわけでもなさそうだ。十字架を担ぐということはどういうことなのだろうか? ペトロが先週の聖書箇所の中で告白していたように、主イエスが救い主、生ける神と信じて生活する事が大きな鍵だと思うが、しかし、それはどういうこのか? 本日与えられている聖書の中で、弟子たちに、十字架を背負って私に従うように話す前に、イエスは、弟子たちに「自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。と弟子たちに打ち明け始められた。」とある。 イエスの予知能力があるんだ、と読まれる方もいるかもしれない。しかし、よく考えると、イエスが病人を癒し、貧困の中に食事を与え、希望、励ましを与えた。 また異邦人、カナン人の女性の子供ですら、イエスに癒された。 すべての人を神が創造されたものとして、主の憐れみ、愛を施された。 ユダヤの指導者たちは、貧困や病は律法を守らないことや異邦人のように律法を知らない結果であると見ていたような面がある。なので、律法を守ることを最優先にしている宗教的エリートたちにとって、イエスの行為は目の上のたんこぶだった。したがって、ユダヤのエリートたちには、だんだんイエスを殺す動機が強まっていくことは理解できたのだと思う。 しかし、苦しみを受け、死するということだけでなく、イエスは復活を視野に入れておられた。 「復活することになっている。」と話されたことは、これこそすごいと思うかもしれない。 しかし、復活ということも、旧約聖書の中には、たとえば、エゼキエルには枯れた骨の復活の話はあるし、ダニエル書12章などにも、苦しみを受け、葬られ、しかし、立ち上がるというイメージは預言されていたことで、必ずしも驚くべき話でもないように思う。 私は、そのような予知能力に感動するより、もっとほかに感動すべきことがあるのだと思う。それはイエスの生き様がであり、そこに、神の意志だと感じることがある。通常の考えなら、苦しみ、死が控えているとわかったなら、苦しまないように、あるいは十字架に架かかろうとしている原因をよく考え、その原因をとりのぞくように行動する。しかしイエスは徹底的に神と全人類への愛を示す宣教、奇跡を遂行しつづける。それが、人の子イエスの深い父への信仰であり、生ける神で救い主であるイエスの計画実行なのだと思う。 弟子たちには、そのような考えは理解されず、「あなたは救い主、生ける神」と信仰告白した一番弟子のペトロでも、その中には神の目的とは異なる自分なり目的があった。だから「そんなことがあってはなりません。」とイエスを叱責する。しかし、イエスからは、「さがれ、サタンよ。」と、逆に叱責されてしまう。サタンとは、悪魔、人を神から遠ざけるものの象徴。 そして、「私についてきたいものは、自分の十字架を担いで私に従いなさい。」という言葉を弟子たちに与えている。 これは、その当時の弟子たちに話しているだけではなく、今、ここに集まっている兄弟姉妹ひとりひとりにも、「十字架を担いでイエスに従うように。」と言われていることなのだと思う。 どうか皆さん、一人一人、イエスが十字架を担いで歩かれたときのことを想像して欲しい。イエスはエルサレムの街中を、十字架を担いで歩かされた。ユダヤのリーダや市民から馬鹿にされ、辱めを受けながら。 21世紀は、イエスが本当に十字架を担がされた時とは、時代背景が異なる。私たちが、文字通り十字架を担ぐということはないだろう。しかしながら、拷問を受けるとは言わないまでも、イエスの信仰は、物質的な裕福さや、楽な生活を保障するようなものでは決してない。十字架を担いてイエスに従うということ、たとえ困難の中にあろうが、あるいは、どんな困難が訪れようが、イエスが救い主であり生ける神であるという信仰を持ち続けるということではないだろうか。 スライド紹介 ここでフランスの画家、ジャンフランソワミレーの「馬鈴薯植え」という一枚の絵を分ち合いたい。この絵にはいっさい十字架は描かれていないが、私は「十字架を担いでイエスに従う。」ということと関係があるように見える。この絵は実は約30年に渡って、私たちの家の居間にいつも掲げられてきた。私たちの結婚式の司式をしてくれた牧師夫妻が私たちに贈ってくださった。絵に描かれた雲は、今にも雨が降ってきて、嵐がおき、洪水すらおきかねないような天候であるかのように感じる。にもかかわらず、この絵に描かれた若夫婦は畑を耕し、ジャガイモを植え続けている。この絵の裏に、牧師が次のような言葉を書き残してくださった。「明日が世の終わりでも、今日、二人で地を耕してください。主の栄光のために。」 私はこの礼拝堂に集められた兄弟姉妹が、今、真のキリストの弟子となられていることを覚える。私たちは、なんらかの形で、苦しみを体験してきたか、これからも体験することがあるのだろう。 しかし、神の恵みと愛は、私たちの信仰をますます強くしてくれる。 今日、イエスは、私たちに、神の最終的な判断を信じつつ、目先の利害に振り回されないように教えてくださっている。 キリストの弟子とし、私たちは父・子・聖霊なる生ける神、救い主イエス、をひたすら信じ、神の意志に従って、イエスの愛を周りの人々と分かち会って生きてゆく。 神の恵みにより、私たちには復活の命、永遠の命の中におり、天の御国(約束の地)にて、真の朽ちることのない富が与えられる。 アーメン 安達均 What Does “Take Up Your Cross” Mean? Matthew 16:21-28 May the hope and joy of Jesus Christ be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! Amen. Have you heard the phrase, “Prosperity Gospel?” There are actually people who become Christians or attend certain churches focusing on becoming wealthy. These people are following their own agenda and not living in a way that glorifies God. Jesus said, “Take up your cross and follow me.” Well, if you live your life literally carrying a cross, I do not think you will earn lots of money. What does it mean to take up your cross and follow Jesus? I think the key is believing, as Peter confessed in the Scripture we read last week, that Jesus is the Messiah and the living God. How should we live, in this world, when we take up our cross and follow Jesus? Today’s Gospel text details Jesus’ foresight of his suffering, death, and resurrection. Before Jesus taught his disciples to take up the cross, he mentioned that he would undergo great suffering at the hands of Jewish leaders, be killed, and be raised on the third day. For us, readers of the Bible, 2000 years after Jesus foresaw his own death and resurrection; we might be impressed by Jesus’ predictive ability. But let’s think about the context when he predicted this. Jesus was miraculously healing…
Tweet アーバイン学校区の多くの小学校は、9月2日から学校がはじまる。 そこで、最後の連休前の金曜日、この夏を振り返り、また新たな元気が湧いてくるようにと願い祈り、子供たちといっしょにPollyannnaの映画を鑑賞した。 両親を亡くしたPollyannaだが、おばにひきとられる。 何事にも前向き、明るい彼女は、お年寄りや牧師の考え方をも、明るい生き方に変えてゆく。 今年の夏は復活ルーテルでも大変だったという家族もいれば、また、北アメリカ大陸、中西部から東方では大洪水にあったり、日本でも大雨により何人もの方がなくなった。 家も無くした方々は、いったい何家族いるのだろうか。 しかし、映画を見ているなかで、いろいろな困難の中にも、楽しみ、喜びが与えられることを学ぶ良い機会だった。 新しい学年に向けて、ぜひ、子供たちも、また親たちにも大きな希望が与えられているように。 また家を無くして、夏前にはとても想像しえなかった困難な境遇におられる方々もいることを覚える。 そこに神の癒し、慰め、励ましが注がれますように。 また本企画をしてくださった信徒に感謝。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace