Tweet 今週は詩編126編を読む。すばらしい詩編の一つだと思う。先週復活ルーテル教会の50周年を祝ったなかで、また、待降節の時期にあって、この短い6節だけの詩編を何度か読んでみると良いと思う。 そして、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編126編 1: 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。 2:そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 3:主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。 4:主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。 5:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 6:種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、「夢を見ている人のようになった」という言葉。 さて詩編作者の気持ちになって一節づつ読んでいきたいが、この詩編の書かれた時代を想像してみる。日本語だけを読んでいると、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に詠まれた歌のように思えるが、英語に訳されたもの(1節から3節は過去形、4-6節は現在形の願い)から想像して、バビロン捕囚から見事に解放された時のことを過去のすばらしい体験として詠っているようだ。そして、紀元前6世紀以降に起こった、何かの困難に直面した時に、将来への希望を抱いて詠われているように思う。では、一節づつ振り返ってみたい。主がバビロンに捕らわれていた民をまたイスラエルに連れ戻してくださると聞き、夢を見ているようだった(1節)。その時に、民には笑い、喜びが満ち、他の国々も「主なる神が偉業をなされた」と言った(2節)。主は、わたしたちのために大きな業を成し遂げてくださったと私たちは喜び祝った(3節)。主よ、ネゲブ砂漠に川の流れを導くかのように、新たに捕われた私たちを解放してください(4節)。涙しながら種を蒔く人は喜んで刈り入れる時が来ますように(5節)。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人が、束ねた穂を背負い喜んでうたいながら帰ってくることができますように(6節)。 21世紀に生きている私たち、この詩編が訴えてくるものは何だろう? イスラエルの民は、バビロン捕囚から解放が起こった時、現実が夢のごとくに感じられた。同じように、私たちの人生においても、似たような体験があるのではないだろうか? 私は第二次世界大戦13年後に生まれたので、戦争中の厳しい体験を実体験していない。それでも、子供の頃に、1940年代の戦争という真っ暗闇とも言える状況から思えば、1960年代に起こっていたことが、「夢のようだ」と言われていたことを思い出す。 その現実はいったいどのように実現したかを考えると、ララ物資のような日系アメリカ人やクウェーカ教徒たちが中心になって働かれた日本難民救済の働きとか、逆説のようだが朝鮮戦争を支援するために日本に急速に産業が発展する必要が生じたとか、さまざまな要素があるのかと思う。それらは人間の計画というより、背後に働いている主なる神の存在を抜きにはとても考えがたいことなのだと私は思う。 そして、人類がしばしば経験する、困難は、個人的なレベルでも社会的なレベルでも、繰り返される現実がある。 どのような困難かはわからなくても、そのような困難、暗闇に直面した時に、すべてをご存知の御方が民を愛してくださっていることを確信し、夢が現実になることを思い出し、夢を見つつ希望を持って歩めますように。 待降節にあって、希望と喜びを抱きつつ。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週は詩編85編の2-3節と9-14節を読む。今年8月7日にも「詩編を読もう」で読んだ箇所。その時は広島と長崎の両原爆記念日にはさまれた日に読んだわけで、神が与えてくださる平和について考えさせらた。そして、同じ箇所を待降節に読むとき、新たな視点が与えられるように思う。 いつものように、詩編を読んだ後、気になる言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。 詩編85編 2:主よ、あなたは御自分の地をお望みになり/ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。 3:御自分の民の罪を赦し/彼らの咎をすべて覆ってくださいました。〔セラ 9:わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 10:主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。 11:慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし 12:まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。 13:主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 14:正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。 気になった節や言葉はどこだろう? 私は、14節にある、「正義は御前を行き、主の進まれる道を整えます。」来る聖日に与えられている福音書箇所はマルコ1:1-8で、主イエスの宣教開始前に、洗礼者ヨハネが悔い改めのバップテスマを述べ伝えたことと重なってくるような面がある。 詩編作者の立場を思って、今週の詩編を読んでいきたい。主なるあなたがご自分の地(イスラエル)を希望され、ヤコブの子供たちの世代からエジプトに捕らわれ奴隷だったユダヤの民を、イスラエルに連れ帰ってくださったのを思い出します(2節)。自分の民の罪を赦し、あやまちをすべて覆ってくださった事がありました(3節)。という二節が詩編85編の最初に詠われる。そこには、過去の過ちが赦された時があって良き時代になったが、しかし、この詩編が書かれた時代は、また民が神から離れてしまい、困難に直面している時代だったのかと想像する。そして、今日の箇所ではないが4節から8節までは、神に救いを求める駆け引きとも思われるような言葉も出てきて、神への懇願が詠われている。そして9節以降は、現代の音楽でいえば、短調から長調に移調するような感じで、様相ががらりと変わって、賛歌になってくる。 御自分の民が愚かなふるまいに戻ることがないように、主なる神が平和を宣言なさるのを聞く(9節)。 主を畏れている人々(過去を悔い改めている人々)には救いは近く、主の栄光がいっしょにとどまってくださる(10節)。神の慈しみと真理は満ち溢れ、正義と平和は一体となる(11節)。雨が降って見事な植物が地面から芽を出して伸びてくるように、正義が降り注がれて、地上に住む私たちの間に真理が萌出でる(12節)。 主は天からかならず良いものを降らせてくださり、地に実りをもたらす(13節)。正義は主の前を行き、主が歩まれる道を整える(14節)。 詩編85編を通して、主が現代の私たちに語りかけていることに思いをめぐらせたい。現代をどういう時代か振り返ると、残念ながら不正ははびこっている。飢餓阻止のための協力により、飢餓状態からの向上は起こっているのかと思うが、まだまだ貧富の差がはげしくなっているような様相も感じる。自然環境ということを見ると、1983年からの10年間に起こった世界の自然災害合計は一年平均で147回だったが、過去10年間では、306回に跳ね上がっているというデータを見た。ほとんど毎日のように世界のどこかで自然災害が起こっていることになる。自然災害と呼んでいても、そのかなり災害は人類の愚かな、神を畏れぬ行為が自然災害の原因になっているような面があるのだと思う。このような時代にあって、今、新たに、待降節という季節が与えられている。主の到来を待ち望む時。この季節のはじまりは、南カリフォルニアでは、珍しく雨が続いている。 旱魃でたいへんな思いをしていていた南カリフォルニアには、たいへんな恵みと感じる。また、詩編85編の言葉を読みつつ、雨が降っている音を聴くと、私たちを悔い改めへと導き、過去の罪を洗い流してくださるような面を感じる。世界各地では、大雪や寒波に見舞われている地域もたくさんある。しかし、その厳しさの中にも、主なる神が良いものを与えてくださっており、そこに人々の信仰が芽生え、新しく希望と喜びが抱くことができるように。主の到来に備えることができるように。アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ 13:24-37 主イエスキリストの恵みと平安が集まった会衆の上にゆたかに注がれるように! フランスの作家、作詞家、かつ飛行士、サンテグジュベリの書いた「星の王子さま」は日本だけでも600万部、世界では8000万部が販売されたという世界のベストセラーともいえる絵本。 原作は1943年、第二次世界大戦中に発売されている。翌年に、著者は亡くなっているため、世界的に有名になったのは、本人の死後何年もたってからのこと。 日本語訳は53年に発売になったが、日本で大ブームになったのは70年代以降だと思う。90年代末、箱根に博物館もできている。大ブームの根底には、人生の重要な問題について、大きな指針を与える本である事だと思う。 もう少し言ってしまえば、聖書とはきっても切り離せないような関係があると、私は思っている。事実、著者は、イエズス修道会の教育を受けていることからも、想像がつく。 今日の福音書箇所、待降節に入って、教会の暦では新しい年となり、今年の福音書はマルコを中心に読んでいく。しかし、今日のテーマも11月はじめから読んでいたマタイ福音書の焦点と同じ、終末、イエスの再臨に関係している事。 マルコ福音書は、わたしたちに新たな視点を与えてくれると思う。イエスは、人の子、つまりイエス自身が、雲に乗って来るのを見ると、教えられている。 イエスがこのように話しているのは、旧約聖書の中にダニエル書の中で預言されていたことをイエスは教えているし、またそのことは、パウロが書いたテサロニケの信徒への手紙などに出てきているイメージとも重なる部分があると思う。 人の子が雲に乗ってくると、イエスが話されていたことは、サンテグジュベリの想像力を掻き立て、ほかの星からやってきた、王子様という設定が浮かんできたのではないかと、私は勝手に想像している。 イエスのことを聖書の中でいろいろな呼び方がされるが、平和の君とかThe Prince of Peaceなどとも呼ばれる。 星の王子様の英語のタイトルはThe Little Prince。 本日の福音書で、イエスが話そうとされていることのポイントは、後編に重点が置かれているような気がしてならない。「目を覚ましているように」という表現が4回も繰り返し使われていて、最後の言葉も「目を覚ましていなさい」で終わっている。 目を覚ましていなさいとは、イエスは何をおっしゃりたいのだろうか?文字通り、眠らずにしっかり目をぱっちり開いていなさいということなのだろうか。この箇所については、聖書学者も多くの牧師たちも、「眠らないように、目を開いている」ということを言っておられたわけではないと、解釈しており、私もそう思っている。 そして、今日特に感じているのは、目を開いているというより、むしろ「目を閉じてしっかり考えるように」と言われているように私には聞こえてくる。礼拝で読まれる聖書の箇所はいつも数節だけで短いので、ついついそこだけで解釈しようとして、意味を取り違えてしまう危険性を含んでいるのかと思う。 今日の箇所はマルコ11章からずっとイエスがどういうことを語ってきたのかを振り返ってみる必要があるように思う。 イエスがエルサレムに弟子たちと共にやってきて、なにを見てきたか? それは、まずエルサレムの宗教指導者たちに幻滅したともいえる。さらに弟子たちさえも、神殿にあこがれ、神殿の石のひとつひとつに感動したようなところがある。 しかし、イエスは、弟子たちによく考えるようにいわれているのだと思う。目に見える神殿がそんなに大切なものなのか。目に見えている天地が本当に、あなたが頼るべきものなのか。「天地は滅びるが、私のことばは決して滅びない。」と言われていたことをよく考えたい。どうか、いま、この場で目を閉じて、神の御心、御言葉を静かに聞いてみてほしい。 終末がいつか来る、イエスキリストがいつか再臨される事に備える私たち。もし、終末や再臨への備えという概念が難しければ、いつか私たちに必ず訪れる、肉体的な死とその後の世界を思うとき、わたしたちにとって、本当に大切なものは何なのかを考える必要があるのではないだろうか?いったい何をもっとも大切に、何を頼りに生きていったらよいのだろうか?よく言われる、衣食住、それに必要なお金そのようなものが一番大切なのだろか。それらを超えてもっと大切なものがあるのだと思う。 サンテグジュベリが残してくれた、「星の王子様」の最大のテーマで、人々に一番インパクトを与えている言葉は、「もっとも大切なものは目にみえないんだよ。」と教えてくれていることだと思う。 その目には見えないものをもっとも大切にして、歩むことに、大きな希望があるのではないだろうか? サンテグジュベリは戦争中に自らが操縦する飛行機が墜落して亡くなった。しかし、70年たった今も、「星の王子様」日本語だけでもいろいろな出版社からいろいろな方が訳して、本屋に並んでいる。 たとえ、どのような肉体的な死が訪れようが、たとえ天地が滅びるときが来ようが、そのもっとも大切な目にはみえないものに頼って生きる生き様に、永遠の命の希望、喜びがあるのではないだろうか。 新たに、クリスマスを待つ季節が訪れた。新たに再臨を待つ季節が訪れた。今年、何か異なる新しいことが待ち受けているのではないかと思う。新たに、主イエスの慰め、励み、希望を覚えつつ、今年のクリスマス、再臨を待つときを、主イエスの信仰によって心がたかめられ、毎日毎日を歩めますように。 アーメン 安達均 What Does It Mean to “Keep Awake”? Mark 13:24-37 May the Lord’s Grace and Peace be showered into the hearts of the all people in the sanctuary! “The Prince From A Star”(Literal Translation from the Japanese title of “The Little Prince”) is a bestselling book written by Antoine de Saint-Exupéry, a French aristocrat, a poet, writer, and aviator. The story sold, 80 million copies worldwide and 6 million copies in Japan. It was published in 1943. The next year, Saint- Exupéry died; it became very popular and remains popular many years after his death. The Japanese translation was published in 1953, but it became very popular in late the70s, early 80s. Now there is a museum, dedicated to “The Prince From a Star” in the town of Hakone. The story remains popular because it is entertaining but also asks philosophical questions. I believe there is a strong connection between “The Prince From a Star” and the Bible. Saint-Exupéry was educated in Jesuit schools. “What is essential is invisible to the eyes.” is a main theme in the book and can be applied to Gospel teachings. Today is the first advent; it is already the beginning of a new year in the church calendar. This year, we read the Gospel of Mark on most Sundays. However, today’s theme is still the second coming of Jesus (the eschatology: the end…