Tweet 聖書日課では8日から11日に与えられている詩編は29編となっているが、昨年の今頃にも取り上げた詩編なので、今週は5日と7日に聖書日課で与えられていた詩編110編を読みたい。 短い詩編なので、何回か繰り返して読んでから、気になる言葉、印象の強い言葉を挙げる。 その後、詩編作者のことを創造しながら、どういうことを詠っているのか各節を読む。そして、現代の私たちに何を語りかけているのか考えたい。とくに1月6日は顕現日といって、主イエスがユダヤの民からではなく、異邦人だった東方の国の占星術者たちが、降誕後まもない主イエスを拝んだことを記念する日だった。 そのことからはじまって、2000年の歴史を経て、全世界の異邦人(ユダヤ人以外の民:約70億人)の三分の一以上(約20億)がキリスト教の信仰者となっている。 そのような現代に生きる私たちに、この詩編110編を通して、神が語りかけていることはどういうことなのか思いを巡らせたい。 詩編 110編 1: 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 2:主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。 3:あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。 4:主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」 5:主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。 6:主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。 7:彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。 印象に残る言葉としては「わたしの右の座」という言葉。礼拝で毎週、使徒信条のなかでは「全能の父なる神の右に座したまえり。」と唱えているし、マタイ26:64をはじめ、ルカ、マルコ、エフェソ、コロサイ、ヘブライなどでも、「右の座」は引用されている。 さて詩編作者の立場を思って詩編110編を読んでいきたいが、作者は1節に「わが主に賜った主の御言葉」と書いており、「わが主」というのは、ダビデのことで、「主の御言葉」の「主」は全能の神のことだと思われる。 なので、ダビデに仕えていたものが、ダビデが天啓を受けて聞いた言葉を聞き、その言葉が語り継がれて詩編の一つになったのかと思われる。そして、110編は前半(1-3節)と後半(4-7節)に分かれており、前半は、神がダビデに語った、いわば任命の言葉。後半は、ダビデに語った、神の誓いといえるのではないだろうか。 神はダビデに、自分の右の座、つまり神の右腕のような存在、アシスタント、となるように、そしてダビデに敵対する者さえも足台にする(1節)。 神はダビデの権力をシオン(エルサレム)から拡張し強めて、ダビデに敵対する国々をも支配するようにする(2節)。 歴史を振り返るなら、ダビデがイスラエルの南北(南のユダと北のイスラエル)を統合し治めたように、政治的手腕を神が与え、政治的権力が強められた。3節に入ってくると、当時の詩編作者がどういうことをイメージして詠ったのか、明確な意味はよくわからない。 そして、後半の神の誓いになってきて、神はダビデ(とその子孫)を神の言葉に従って永遠の祭司(メルキゼテク)とする(4節)。 主はダビデの右に立ち、諸国の王たちを撃つ・倒す(5節)。 神は諸国を裁き、出るものを撃ち、広大な土地が屍で覆われるようなことすら起こる(6節)。 7節になってくると、3節同様、明確な意味はとらえがたくなってくる。 さて、紀元前数百年前に詠われ始めた詩編110編を通して、紀元後2000年経った、現代に生きる私たちに、神が何を語りかけているかを考えるとき、その意味はぐっと広がるようで、また救い主イエスにフォーカスされてくるようだ。 上記では、1節の「わが主」はダビデに仕えるものが、ダビデのことをわが主であると考え、ダビデの政治的にも宗教的にも優れた指導力のことを想像したが、「わが主」とは、主イエスキリストのことが詠われていると思える。そして、顕現日にその発端をおく主イエスの全世界統治は、2000年たった今も途上であるが、確実に進んでいることを覚える。3節後半や7節が表現していることも、今後の歴史的な進展・変革の中で、明らかになってくるような時代が来るのではないかと思う。 そのような歴史の途上に、主イエスがすべての民を、困難、貧困、悩み苦しみのなかにある状態から希望、解放、喜びへと導き続けており、その宣教の業に、私たち一人一人が置かれていることを覚える。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マタイ2:1-12 主イエスから恵みと平安が集まりました会衆の上に豊かに注がれますように! 皆さん、新年の抱負、英語ではNew Year’s Resolution 、を考えられた方、多かったと思う。 今年はこんなことに注意して生活しよう、あるいは、こういう目標を立てた等々、みなさん、それぞれに、心に思うことがあったのではないかと想像する。 日本語ミニストリーとしても、教会の暦では、昨年11月30日から新しい年に入っていたため、11月ごろからの礼拝説教の中で、2015年に向けて、指針が与えられていったように思う。 11月と12月に礼拝説教でお話していたことを若干、復習する。 ルカ福音書とマルコ福音書から、「目を覚ましている」ということは、イエスの再臨を待ち望むことだが、いつ来られても良いように眠らないでいるということではなく、目の見えないながらもとても大切な聖霊なる、主イエスが招いてくださっている礼拝に感謝して出ること。そして主イエスを愛することと同じ位重要な、隣人を愛して歩む、信仰生活を実行することが、目をさまして、再臨を待ち望むということであるというメッセージが与えられていた。 そのような御言葉が礼拝説教で語られる中、2015年テーマ聖句として、コロサイの信徒への手紙4章2節から「目を覚まして、感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」という御言葉が与えられた。 そして本日、2015年の最初の聖日礼拝、顕現主日。 顕現主日とは、キリスト教会がクリスマスを12月25日として祝い、その12日後の1月6日に、東方の国の占星術の学者たちに、赤ちゃんのイエスが顕われた、つまり顕現された日として、覚えてきている。 1月6日はだいたいは平日になってしまうので、6日に一番近い、聖日ということで、本日顕現主日として、この礼拝の時が与えられている。 与えられた福音書は、占星術の学者たちと、赤ちゃんイエスが対面するストーリ。 占星術の学者たちという言葉は、ギリシャ語ではMagoiという言葉が使われているが、マギ族の人々。Magiという言葉は、英語のMagicの語源ではないかと思うが、星占いをしたり、魔術を行なう人々だったようだ。 そして、このMagi族はおそらくイスラエルのはるか東方、現代のイラン北西部にいた人々、その昔はペルシャ大帝国の宗教上は、司祭階級の人々だったようだ。 つまりユダヤ教とは異なる宗教を信じていた、占星術者たちにも、「ユダヤ人の王が生まれた」ということが、星占いの結果、告げられた。 そして、占星術の学者たちはその王子を拝むため行動を起こす。 といってもユダヤのどこに生まれたかということまでは特定できなかった。そこで、ユダヤ人の王に会いに行く。 そしてまずは、ユダヤの中心都市である、エルサレムにやってきて、「ユダヤの王子が生まれたようですが、拝みに来ました。でも、どこに生まれたのでしょうか」と質問する。 この質問を聞いて、当時のユダヤの王、ヘロデは、自分の地位を脅かすものであり、不安に思う。 それで、自分の側近たちと相談して、旧約聖書のミカ書にある預言の言葉から、生まれたとしたら、ベツレヘムだろうという見解を出した。といってもベツレヘムのどこの家かということまでは特定できているわけではない。 そこで、ヘロデは占星術の学者たちに、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出す。 しかし、ヘロデは内心、その生まれた子供の場所がわかったら、殺してしまおうと心の中では思っていた。 占星術の学者たちは、王の言葉を聞いて出かけると、不思議なことに、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まり、学者たちは喜びにあふれる。それは、例の馬小屋だったわけだが、中に入ると、みどり子イエスは母マリアと共におられた。 学者たちは、ひれ伏してイエスを拝み、持ってきた、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。そして、東方の国へ帰るわけだが、帰り道は、「ヘロデのところへ帰るな」とお告げがあったため、エルサレムへは寄らずに、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。 2015年のはじめに、イエスの顕現物語を、あらためて聞くとき、主なる神はわたしたちに、何を語りかけておられるのだろうか? 大きなポイントは、占星術の学者たちは、ユダヤ人ではなく、異邦人であったことが挙げられると思う。 異邦人であるにもかかわらず、ユダヤの新しく生まれた王を拝みに行くという行動に導かれる。そして、救い主、イエスと対面する。そして、対面したあと、歩んできた道ではない、別の道を歩むように導かれている。 私たちも、「目を覚まして、感謝して、ひたすら祈る」という信仰生活を続けていく上で、今年は、神様からちょっと別の道を通って信仰生活を歩み続けるように、さらにいえば、別の方法で伝道をするように、導かれているのではないだろうか。 異邦人の一部である日本語を話す人々の中にも、また母国語かに関係なく、どのような異邦人であっても、まだまだ主の慈しみと恵みを必要としている人々がたくさんいる。 そのような方々への伝道を続ける上で、この復活ルーテル教会のJapanese Ministryも、喜んで、ちょっと別の道を歩み、主の御心に従うミニストリーとして導かれますように! アーメン 牧師:安達均 “By Another Way” Matthew 2:1-12 May Grace and Peace of Jesus Christ be showered upon the people gathered in this Resurrection sanctuary! I imagine there are many of you who thought about new year’s resolutions the last couple days. Maybe things like: “To work out every day,” or “write in a diary every day,” etc… The church calendar begins the new year from November 30th, the First Advent Sunday. I was reflecting over the message from that specific service over the last few days and realized that the new year’s resolution for the Japanese Ministry had already been defined back then. A quick overview of the key points from the messages during November and December is the meaning of “Keep Awake” from Luke and Mark. By “Keeping Awake”, the scripture implies that followers shall wait for the second coming of Jesus Christ by coming to worship and walk the journey of faith in loving our neighbors. Reflecting over these messages, one passage struck a chord with the ministry: “Devote yourselves to prayer, keeping alert in it with thanksgiving.” This is an appropriate thematic verse for 2015. Today is the first Sunday Service of 2015 and we are observing an Epiphany. An epiphany is the manifestation of Jesus to the Gentile. It has been celebrated in Christian history on January 6th, a week day almost every year, so we now observe…
Tweet 2015年1月4日LCR日本語部週報通算第1336号 2015年1月4日顕現主日の週報 January 4, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1336E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 復活ルーテル教会の日本語ミニストリーを支えてくださっている主、そして皆様に感謝しつつ、謹んで2015年、新年のお喜びを申し上げます。 詩編を読もうをWebに掲載する木曜日に、今年はクリスマスの12月25日そして元旦の1月1日が与えられたことにより、詩編を読む興味がさらに倍増しているように感じている。12月25日がイエスの降誕日とすれば、1月1日は8日目にあたり、イエスに割礼が施された日となる。今日詩編を読むなかで、イエスという御名が登場していなくても、主なる神、イエスの存在、大いなる光、の存在に気がつきますように! さて、元旦当日に聖書日課によって与えられている詩編は8編。昨年も一昨年も、三位一体主日(聖霊降臨日の翌週の日曜日)の頃に与えられているため、すでに「詩編を読もう」で二回とりあげた。しかし、年の初めに、詩編8編を、新たな気持ちで読んでみよう。 そして、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの新しい年のはじめにあって、現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編8編 1: 【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 2:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3:幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。 4:あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 5:そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 6:神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7:御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。 8:羊も牛も、野の獣も 9:空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。 10:主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。 気になる言葉やインパクトのある言葉はなんだろう? 私の場合は2節後半にある、「天に輝くあなたの威光」という言葉。ヘブライ語でもどういう言葉が使われているか調べたが、もともとの意味は、「主は、ご自分の栄光を天を越えたところに据えられている。」という意味。 詩編作者の立場を思って詩編8編を読んでいきたいが、1節は合唱・演奏するにあたっての説明。2節の前半の言葉、「主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている。」と詠っており、この同じ言葉が、最後の10節にも詠われて、詩編8編が終わる。 その言葉にサンドイッチされる中で、最初に書かれている言葉が、上記に書いた「主は、ご自分の栄光を天を越えたとことに据えられている。」 それ以降は、幼子、乳飲み子たちの口(声)によって。神に刃向かう者から砦を築いて守り、報復する者を絶ち滅ぼす(3節)。 天を仰ぐなら、月も星もすべてあなたが配置されたもの(4節)。とてつもない広い全地と天(宇宙)のなかで、主が人間に御心を留めてくださっているとは、いったい人間とは、人の子とは、何者なのでしょうか(5節)。あなたは人間を、神より少し劣るものとして創られ、栄光と威光をかぶらせ、この地に主が創られた、動物たちも鳥たちも、すべてのものを、支配するようにしました(6-9節)。 主よ、わたしの主よ、あなたの御名が力強く全地に満ちている(10節)。 2014年はもう過去となり、2015年がはじまる中で、この詩編8編の言葉を通して、主なる神は私たちに何を語られているのだろうか? 詩編8編の2節後半を、ヘブライ語と英語で、意味を調べ、「主は、ご自分の栄光を、天を越えたところに据えられている。(You have set your glory above the heavens.)」という言葉に、「はっと」させられている。 私たちの見ることができるこの地球上とか、仰ぐことができる天、宇宙を越えたところ、私たちが把握できる空間とか時間を越えた概念の中に、主なる神が存在してくださっている。私たちの認知できる概念をはるかに超えた、大きな御力が、わたしたちの中に働いてくださっている、ことを新たに感じる。さらに、詩編8編の5節の中に、「人の子」という言葉が使われている中で、マリアから生まれた、救い主イエスのことが見え隠れしている。 日本人は長い歴史の中で、初詣という習慣を守ってきており、そこに「神の子であり人の子であるイエス」の存在が浸透するには、さらなる歴史的な時間が必要なのかもしれない。それでも、初詣をして、私たちの認知できる概念をはるかに超えた、大きな御力の存在によって、2015年の平和と幸福を願うという気持ちは、クリスチャンかどうかに関わらず、分ち合うことができ、大切にしなければならないと思う。新年、感謝しつつ、おめでとう。 アーメン。 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace