Archive for March, 2015

Tweet 父なる神、私の口から出る言葉、メッセージがあなたの思いに適い、そして集まった会衆の一人一人が新しくあなたの思いを見出すことができますように! アーメン 道場という言葉を聞くとどういう印象を持ってもられるだろうか。 剣道、柔道、空手等々のはげしいスポーツをする所と思われている方。 私は高校の授業で剣道を一年間ずっと習った年があった。 高校の道場があり、そこで、週一時間だけだったが、稽古にはげんだ。  いまでも忘れられないことは、最初に道場に入るときは、必ず一礼して入ることが習慣となっていた。それは、私が小さいころから家族で行っていたロシア正教会の会堂に一礼して十字架をきって入っていくが、神聖な場所に入っていくのだという心構えと共通のものがあることを感じた。 あと、もうひとつ忘れられないのは、最初の授業。 50分の授業は、正座してただ、教師から剣道のオリエンテーションを受けたが、一切防具をつけたり、竹刀を持つことはなかった。 50分の授業でやったことは、「正面に礼」 「互いに礼」 という教師の掛け声に従って、お辞儀の練習をする。 そのおじきの練習だけで、一時間が終わった。 そこには、キリスト教で、「主なる神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すること」の大切さを教えられることと共通のものを感じた。 神とも仏とも呼んではいなかったがそこは神聖な場であり、道場の正面におられる大いなる存在に加護されることを願いおじきをし、となりにいる稽古をする相手(戦う相手)に尊敬の念を持っておじきをする。 道場そのもの、生徒たち、そして自分の体も尊敬するように指導された覚えがある。  私の神学校時代の新約聖書の教授、とても影響力のあったMary Hinkle Shore教授は、信仰の道を歩む上で「道場」という言葉を用いて、訓練の大切さを説いている。 あくまで比喩だが、道場に通って練習するように、信仰においても礼拝に通うという約束と礼拝堂を尊敬する大切さがあるのだと思う。  それにしても道場が、今日の聖書の箇所とどういう関係があるか、首をかしげているかもしれないが、説教の後半で気がついていただけると思う。 さきほど読んだ福音書の中で、イエス様はずいぶんと激しい行動をとられている。神殿の境内にいた、牛や羊を鞭でおいはらって、両替人のお金をまきちらして、さらに台をひっくり返されるという行動をとられた。 「こんなものは、ここから運び出せ。」っと大声も出されたのだろう。 ユダヤ人たちは、イエスに、「こんなことまでしてしまって、いったいどうしてくれるのか? どんなしるしをみせてくれるのか?」 ということをいっている。 「しるし」ということばはわかりにくいかもしれないが、おそらくイエスが見せてくれる、奇跡、つまり、今日の聖書箇所の前に出ているイエスが水をワインにするような。だから、境内がめちゃくちゃになっても元通りに直すような奇跡のことを意味したいたのではないかと思う。  それに対するイエスの返事は、「この神殿を壊せ。 三日で立て直してやる。」 とまでいわれる。 後にわかることだが、イエスは十字架に架かって死に葬られても、三日目に復活したわけで、三日で立て直す神殿とは、イエスの体のことを示唆されていた。 さて、ここで、質問したい。 イエスは、当時に立てられていた神殿そのものの存在を否定され、これまでの神殿ではもう礼拝する必要がないということを意味したのだろうか?  その答えは、まず今日の福音書箇所をよく読む必要がある。イエスは「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われている。 ここで、「父の家」とはルカの2章で、イエスがまだ少年時代に、父ヨセフと母マリアは過越祭の後に、エルサレムからナザレの帰り道にいたのに、イエスだけは神殿に残っていたことがあった。 ヨセフとマリアに再会したときに、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ということを言っている。 また、マタイ、マルコ、ルカには、今日と同じ場面のところが描写されており、イエスの言葉のなかに、イザヤ56章7節の言葉を引用して、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ということ、つまり、父なる神の家ー神殿ーは祈りの家というイエスの一生を通じての考え方があるのだと思う。 なので、神殿自体を、イエスは否定しているわけではない。 その神殿で行なわれる行為が、商売の家となってしまい、父の家として、また、祈りの家ということを、どこかに置き去りにしてしまったことが問題だった。 しかし、さらにイエスが三日で神殿を建て直すということを言われたところに、イエスの全く新しい概念を提示されていることがある。 イエスの体が神殿、そこには、神殿の概念がぐっと広がってきている。  さあ、いったい今日の福音書から、わたしたちは、このハンティントンビーチにあるResurrection Church の礼拝堂で、毎週毎週、定期的に、神の御言葉を聴き、祈り、礼拝を捧げているが、そのこととどう関係あるのだろうか? イエスはこの礼拝堂で毎週毎週、父の家であり、祈りの家として、礼拝を捧げることを、とても良いこととし、主はわたしたを加護してくださっていると信じている。イエスの体が神殿だと教わっても、毎週日曜の神殿での礼拝は信仰の中心であることには、やはり変わりはないのだと思う。  しかし、わたしたは、同時に、イエスの体が神殿であるということから、普段の生活の中にいてくださる、イエスの存在、聖霊の存在によって、私たちの生活も、そこが神殿になっているということがいえるのだと思う。  コリント信徒への第一の手紙の 3 章 16-17 節には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 (中略) あなたがたはその神殿なのです。」という言葉がある。 さて、私たちの信仰生活のうえで、とても大切なことが、教えられていると思う。 柔道、剣道、空手で、訓練をする道場があるように、わたしたちも、定期的に、つまり毎週日曜日に、聖なる空間、礼拝堂に入り、創造主なる神に出会い、主の御言葉を聞き、賛美する訓練の大切さがある。 それと同時に、わたしたちが世の中に生活するなかで、月曜から土曜も、そこに生きておられるイエスさま、聖霊がわたしたちに宿ってくださっていることを、意識して生活する。 それは、毎週毎週の礼拝堂での訓練によって培われ、わたしたちの体が、神殿となり、普段の生活でも実現するのではないだろうか?キリストに従う者として、神の聖なる場、礼拝堂を愛し敬い、兄弟姉妹を愛し敬う。この礼拝堂は、わたしたちの信仰の訓練をする最高の神の道場という表現もできるのではないだろうか。 主にあって、今週の生活も、ゆたかにみちびかれますように。 アーメン 安達均 Is this Sanctuary a Dojo? John 2:13-22 May the words from my lips and thoughts in this message be acceptable to you, Lord, and may your grace and peace be poured into each of us! What kind of impression do you have when hear the word “Dojo”? Do you have a perception that it is the place where people fight each other as a sport? As a high school student, I took Kendo lessons for one year. I practiced in a nearby dojo. I enjoyed practice every week, even though it was only one hour per week. There are two things that I cannot forget. The first thing is that we always enter the dojo only after bowing. For me this was similar to entering the Orthodox cathedral after I bowed and crossed on my chest. Both customs indicate that you’re entering a holy place. The other thing that I cannot forget is that during the first class, we listened to the teacher’s lecture for 50 minutes. We did not touch bamboo swords or protective gear…instead when, our teacher wasn’t lecturing, he had us practicing proper bowing technique towards the front of the dojo and bowing to each other. I thought this is somewhat similar to Christianity, because Jesus said, “Love your Lord and love your neighbors.” That is the most important command. And in…

Tweet 2015年3月8日復活ルーテル教会日本語週報通算第1343号 2015年3月8日(四旬節第三主日)の週報 March 8, 2015 LCR Japanese Ministiry English Bulletin Sunday English Bulletin 1343E(3 Lent)   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週後半に聖書日課にある詩編19 編を読む。いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神は、現代の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。 詩編19編 1:【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 2:天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。 3:昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。 4:話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても 5:その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 6:太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように 7:天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。 8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。 9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。 10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。 11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。 12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。 13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。 14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。 15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。 さて、どのような言葉がインパクトがあっただろうか?あるいは引っかかったか? わたしの場合は、バイブルスタディをするときや、説教の前などに、15節にある言葉の内容の祈りを心がけていることもあり、15節の「言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。」 詩編作者の気持ちになって、19編を振り返りたい。 1節にダビデの詩となっているので、ダビデがこの詩編の作者かもしれないし、後世の詩編作者の一人がダビデのことを想像しつつ、礼拝での賛歌として作詩したとも思われる。 2節以降については、本日は、一節一節ふりかえるというより、大きく三つの部分にわけて、ポイントは何かということを述べてみたい。 一つ目は、2節から7節で、天と地、そして太陽の出現について、その空間的、時間的なひろがりを詠っている。2節の「御手の業」や5節の「設けられた」などの言葉からして、天も地も太陽もすべて神の創造のなかでおこっている。 二つ目は、8節から11節で、聖書(旧約聖書でとくにモーセ五書なのだと思う)に書かれ、伝えられてきた、さまざまな主の律法や命令が、いかに尊いもので、畏れおおく、また、金銭には変えられない価値があり、また甘い(愛情に満ちた)ものでもあるか。 三つ目は、12節以降最後までで、主なる神への語りかけ、謙虚な祈りなのだと思う。  詩編19編を通して、主なる神は、今日の私たちに何を語りかけてくださっているのだろうか? 四旬節は3週目に入っている。 この期間、自分の罪を振り返る時期ともいえる。 現代はとかく、自然と離れて、情報化社会の中で人間が作り上げた世界にひたって、生活を送っている。しかし、詩編19編の前盤に詠われていることから、たとえ人間が創り上げたと思われるような世界でも、すべては神の創造の上に成り立っていることを忘れてはならないのだと思う。先週はフロリダ方面へ出張していたが、ダラス経由の飛行機だった。 ダラスという南部に位置する都市でも、行きは空港の滑走路脇に数十センチの雪が溶けずに残っているのに驚いた。そして帰りはなんと、ダラスに雪が降っており、多数の便がキャンセルとなり、私も自宅近くの空港には帰ってこれず、LA国際空港に帰ってきて、予定より7時間遅れで家に日曜の明け方にたどりついた。情報化社会や飛行機の技術がここまで発達しているとはいえ、自然が相手ではどうにもならない。中盤に入って、十戒に代表される主の律法、さらにその大元は、主イエスの御言葉から「主を愛し、隣人を愛する」という最も重要な掟に従って生きることの大切さと、その価値の尊さを覚える。 そして最後の祈りの中に、最重要な掟を、守りきれない私たちの現実があるなかで、神に赦し、清め、導きを願いもとめる私たちの現実があるのだと思う。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet マルコ 8:31-38 主の慈しみと平安がここにあつまった一人一人に注がれますように! ある方が亡くなったために、その方が加入していた日本の生命保険の会社に、死亡を通知して、手続きをはじめてもらうように依頼したことがあった。  すると、保険会社の担当者は「ああ、Mr. Cはクリスチャンだったのに、癌で命を落とされたのね。」と言われた。保険会社の方は、キリスト教に興味を持っておられたようだが、クリスチャンになっていれば、癌にかかったりしない、あるいは癌にかかっても死ぬことは無い、そのようなことを信じている宗教ではないかと思っておられたようだった。 みなさんはどう思っておられるだろうか。 クリスチャンであれば、癌にならないという考えは? 前に説教で話したことがあったと思うが、人生、上り坂あり、下り坂あり、さらにまさかという坂もある。クリスチャンであろうが、なかろうが、まさかもやってくる。 まさかには、いろいろある、がんでステージ4といわれるかもしれない。あるいは突然のストロークか心臓発作か、あるいは突然の交通事故かもしれない。 あるいは、アルツハイマーか、ALSかもしれない。 しかし、肝心なことは、どういう形のまさかが来るかわからないが、どう神と向き合うか、どう家族や友人たちと向き合えるかということではないだろうか? 今日与えられている福音書は、イエスが弟子たちに自分は十字架にかかって殺される。しかし、三日後には復活する話をはじめられたところ。 しかし、一番弟子のペテロは、そんなことがあってはなりませんと言って、イエスをいさめはじめる。  それに対してイエスは、ペテロを「サタンよ引き下がれ」といって叱責する。 サタンとは先週も話したように、人間を神の思いから逸脱させてようとする力。そしてそれにしたがって神の方から別の方向を向いてしまうことを罪と呼んでいる。ペテロは人間の思いとしては当然で、主と仰ぐイエスが十字架にかかって殺されるようなことがあってはならない、そんな「まさか」があってはならないと述べた。 しかし、神の御心はそうではなく、まっこうから、サタンだと否定されてしまった。 じゃ、神の思いはどういうことなのだろうか? イエスは、ペテロを非難した後、とても大切なことを述べていると思う。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。いったいどういうことなのか?」 命という言葉だけで4回、さらに、命をさしている「それ」という代名詞も2回あり、合計、6回の命という言葉があるともいえる。 この命という言葉は、ギリシャ語では、プシュケーという言葉が使われていて、「息」とか文字通り「命」でこの世の命をさしている場合と、「魂」と訳したらよいかと思うが永遠の命をさしている場合がある。 そのどちらの命のことをいっているかを吟味しながら、もう一度読み直したい。「自分の命を救いたい者」の「命」とはどっちか? 「それを失う」の「それ」はどっちか。 「イエスのため、福音のために命を失う」の「命」はどっちか? それを救うの「それ」はどっちか?  答えは、イエスの歩まれた生涯からわかってくる。 イエスのこの世の命は、ユダヤ教の指導者たちばかりではなく、民衆もこぞって、十字架にかけて、この世の命を終わりにしてしまった。 イエスはいっさいそれらに抵抗することなく、従順に十字架を担ぎ、無抵抗のまま、十字架上で死に、葬られた。そして、地獄のようなところにまで行かれた。しかし、イエスは復活し、永遠の命を得る方となった。  イエスは永遠の命に生きておられる方であり、私たちクリスチャンは、イエスの聖霊によって洗礼にあずかった生きるものとなった。それはすなわち、イエスと同じようにわたしたちは、洗礼で罪とともに死に、永遠の命にあずかっている。たとえ、この世の命が終わっても、永遠の命に生き続ける。  問題は、この世の命の終わるときに、どうわたしたちは対応したらよいのだろうか? もちろん、どういう医療が受けられるのか、お葬式も心配、お墓も心配という気持ちもわかるが、もっともっと大切な永遠の命が重要ということをイエス様がおっしゃているのではないだろうか?  この世の命にしがみつくのではなく、たとえ、地獄と思えるようなところを通るかもしれない。ひどい話だが、イエスと同じように、クリスチャンであるがゆえに十字架にかけられて殺される人もたくさんいるのがキリスト教の歴史だ。現代でいえば、イスラム国の兵士たちのテロにあって、命を失うことだってありうる。 しかし、イエスの信仰によって、イエスとともに永遠の命に生きるようにと言われているのではないか。  1ヶ月前は、私は長崎にいた。長崎には、有名な26聖人記念館がある。26聖人のひとりひとりのことは、かなりの記録がのこっておいて名前はもちろん、いろいろなことが紹介されている。 その中の一人、パウロ三木という人は、十字架上で押しかけた群集に向かって、「私はキリスト教を信じたというだけで殺されるのである。この理由のゆえに私は命をささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。 私は、パウロ三木氏は、たしかにこの世の命は失ったが、永遠の命の中で、イエスととも、今も生きている。 キリストを信じてここで礼拝する私たちも、永遠に命に生き続けていることを覚えて、新しい一週間を新たに歩んでまいりたい。 アーメン 安達均 Those Who Lose Their Lives for the Gospel Mark 8:31-38 May the Lord’s Grace and Peace be poured into the hearts of the people in this sanctuary! My friend passed away about 15 years ago. On behalf of his family, I contacted his life insurance company and asked the claims department for guidance because I was the family’s contact person. The representative said, “Oh I am sorry, even though Mr. C was a Christian, he died due to cancer.” Although the representative showed interest in Christianity, she thought that believing in Christ might prevent you from getting cancer or even if you have cancer, you’ll be Ok and not die due to cancer. What do you think about the relationship between being a Christian and the possibility of dying due to cancer or any other diseases? I’ve explained in the past, that even if we are Christians, we go through the ups and downs of life, including very difficult times; during which you may miserably suffer. There are many different types of life challenges. You might be diagnosed with Stage 4 cancer, you might suffer a sudden stroke or a heart attack, or you might be involved in a traffic accident. Also, you or a loved one might be diagnosed with Alzheimer’s disease, dementia, or ALS. When you are forced to deal with these life-changing situations, the issue becomes how do you…

Tweet 2015年3月1日LCR日本語部週報通第1342号 2015年3月1日(四旬節第二主日)の週報 March 1, 2015 LCR Japanese Ministry English Bulletin Sunday English Bulletin 1342E(2 Lent)   Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace