Archive for June, 2015

Tweet 今週は6月11日から14日の聖書日課に与えられている詩編92編を読もう。新共同訳聖書では最初の5節までと、最後の13節から16節までの短い箇所に集中して読む。いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編92編を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。 詩編92編 1: 【賛歌。歌。安息日に。】 2:いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは/いと高き神よ、御名をほめ歌い 3:朝ごとに、あなたの慈しみを/夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 4:十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ/琴の調べに合わせて。 5:主よ、あなたは/御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。 13:神に従う人はなつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえます。 14:主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。 15:白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし 16:述べ伝えるでしょう/わたしの岩と頼む主は正しい方/御もとには不正がない、と。 インパクトのある言葉や節として、私は15節の「白髪になってもなお実を結び/命にあふれ、いきいきとし」という箇所を挙げたい。ほとんど白髪となってしまった私には、元気づけられる言葉である。 箴言の16章31節には、「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」とある。また中国の諺には、「なにかわからないことがあったら白髪の人に聞くように」という言葉があるそうだが、そのような言葉も思い出す。  詩編作者の気持ちになって、与えられた詩編を振り返ろう。1節の説明からして、ユダヤ教の土曜日(安息日)の礼拝で歌われていた讃美歌なのだと思う。きっと弦楽器もたくさん使われて讃美歌を歌ったのかと思う。 主に感謝し、讃美歌を詠うことはどんなにか楽しいことか(2節)。毎朝、あなたが夜の間、ずっと私たちを愛し、まもってくださったことを、そして毎晩、あなたの正しさを述べ伝えることは楽しい(3節)。さまざまな種類の弦楽器の調べにあわせて賛美することは楽しい(4節)。主よ、あなたを賛美する理由は、あなたの御業が私を喜ばせ、祝福してくださるから、私はその喜びを歌います(5節)。 神に従って歩む人は、なつめやしのように茂り続け、レバノン杉のようにどんどんそびえていく(13節)。主の家に植えられており、神の庭に茂る(14節)。年老いて、白髪になろうが、なおも他の人々を主へと導き、いきいきとしている(15節)。そして、私が岩として信頼する主は正しい方で、そこには不正がない、と述べ伝える(16節)。 主イエスがこの世に降誕された後の紀元後、とくに21世紀、現代に生かされている私たちに、主なる神はこの詩編92編をもって何を語っておられるのか考えたい。 1-5節に詠われていることは、現代の私たちにも、全く共通することで、主なる神を賛美し、楽器に合わせて讃美歌を歌うことは、いかに楽しことであるか。ただ、その理由として、主の御業を思うとき、紀元前であれば、イスラエルの民が、エジプトの奴隷時代から解放されたことが一つの大きな、主の御業になるのかと思う。しかし、現代の私たちにとっては、イスラエルを越えて、どこの人種であろうが、主イエスが、全人類のために、十字架に架かり、死にて葬られても、復活し全人類の罪を赦し、「あなた方に平和があるように」といって新たなる永遠の命を与えてくださったことが、最大の御業なのかと思う。 その御業を讃え、毎週、主の復活された日曜日に、礼拝があり、賛美している。13節以降に描かれた、いきいき茂るなつめやしや、そびえたつレバノン杉にたとえられた、神に従って歩む人とは、信仰深い方々を指しているのだろう。しかし、その中に、主なるイエスも、信仰者たちの間に混じって存在しているのだと思う。 そして、主なるイエスが永遠に生きておられるように、信仰者たちも、肉体的にはたとえ白髪となり老人になろうが、霊的には、常に実を結び、いきいきとしている。だから、絶対に正しい、主なる神、イエスキリスト、そして聖霊として、21世紀にも存在してくださっている御方を信頼して生きて行くように。そして、そのことを人々に伝道して、主なるイエスの体である教会が、ますます命あふれて成長しますように。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 2015年6月7日LCR日本語部週報通算第1355号 2015年6月7日の週報 June 7, 2015 LCR Japanese Ministry English Sunday Bulletin Sunday English Bulletin 1355E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝の説教は、今日の福音書、マルコ3章の20−30節より、カール先生がメッセージをくださいました。 “ Is Jesus Out of His Mind? “ 「イエスの気が狂った?」 Mark 3:20-30 マルコ福音書3章20−30節 2015年6月7日聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝説教 E. Carl Zimmermann 牧師   イエスは、彼が行った多くの奇跡や、語ったお話しで、大変な人気を集めた。 しかし、彼の家族はイエスの気が変になったと思った。 そして、宗教指導者たちは、イエスの事を、執拗に人々を騒がせている困った奴だと思っていた。 彼らにとってイエスは脅威であった。なぜなら自分たちユダヤ人の伝統や風習、信じて行っている事柄を否定されていると思ったからである。 更に、彼らの中にはイエスの人望やカリスマ性を快く思わない者もいた。 宗教指導者たち(律法学者)にとって、あまりにも不愉快であったので、彼らはイエスに対して不信をいだき、イエスが宣教開始直後から、イエスを無き者にしようと陰謀を企んだ。 律法学者たちは、イエスがサタンに取り憑かれているか、またはサタンの手下だと思った。 ある訳によれば、“サタン(魔王)”は“Beelzebub(ベルゼル)”と呼ばれ、それは“Lord of the Flies(蠅の王)”という意味だ。 ベルゼブルは古代フェニキア人の異教の神だった。 彼は死と汚物の神だった。彼は常に人間の汚物に関わっていたので、“蠅の神”という名がつけられたのだろう。 イエスの伝道の最初から、ベルゼブルはキリストの最大の敵だった。 そして暗黒の世の中では、ベルゼブルは凄まじく威力のある存在だった。 彼は、憎しみや狭い心、怒りや嫉妬によって人々の生活を惨めにしていた。 ベルゼブルはさらに全力で、イエスと神を冒涜した。 彼は悪行高い、偽りに満ちた醜い神だった。彼の使命は人々の人生を台無しにし、心痛と悲しみをもたらすことだった。 それに対してイエスの使命はどうだっただろう: 「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、..」 (ルカ4:18) イエスとベルゼブルの違いが一目で解るだろう。一人は死をもたらし、他の一人は命をもたらす。 サタンは私たちを傷つけようとする; イエスは私たちを常に癒してくださる。 悪魔は偽る;イエスは真実のみを語る。 ベルゼブルは私たちを惑わす;イエスは私たちをより優れた者へと導く。 悪者は私たちを失望させる;イエスは私たちにエネルギーを与える。 そして彼らの違いの最終的決定打はこれだ: ベルゼブルの力は一時的なもの;イエスの力は永遠に在るもの! イエスが十字架を克服した時、サタンも克服したのだ。 聖パウロは、私たちがこのことを常に心に止めているようにと、コリントの信徒への手紙にこのように書いている。 『「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエスキリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。』 私たちの死を乗り越えた勝利は、サタンからのものではなく、イエスの十字架の勝利によるものであることに注目したい。 確かに、現在の世の中にも悪魔の働きは続いている。キリストの十字架によって傷ついてはいるが、彼は戦い続け私たちの人生に影響を与え続ける。 私たちは、ひたすら彼の悪行に立ち向かわなければならない。しかし、キリストが再び来られる時、サタンは完全に征服され、永久に消滅される。 その日がくるまで、私たちはイエスに従おう。 彼は決して気が狂ったのではない。 彼は決して自分を失ったのでもない。 彼は決して悪霊に取り憑かれたのではない。 そうではなくて、 彼は神の独り子である。 彼は主の主、彼は王の中の王 彼は私たちの羊飼い、リーダー、先生、友、そして私たちをいつも導いてくれる方。 彼こそが、道であり、真理であり、生命である、その事が何よりも大切な事実なのである。     要約: 芙美Liang       Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 今週は、詩編120編を読もう。まず、いつものように気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。そして、7日の聖日にあたえられている福音書はマルコ3章20-35節。詩編の言葉とイエスの気持ちを重ね合わせるようにして読むのも良いと思う。 詩編120編 1:【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。 2:「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」 3:主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ 4:勇士の放つ鋭い矢よ/えにしだの炭火を付けた矢よ。 5:わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは 6:平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。 7:平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。 マルコによる福音書3章 20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30:イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 31:イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32:大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33:イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34:周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 本日は牧師のコメントは休暇中のためお休み。 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace