Tweet マルコ12:38-44 主の恵みと憐れみが礼拝堂にあつまった兄弟姉妹の心の中に豊かに注がれますように! 私は、横浜の田舎、日吉で生まれ、お寺や神社に囲まれていた。家の近辺、1マイル四方に、神社とお寺が4つはあったと思う。 そのような、さまざまな宗教を身近に感じながら育った。 日本人が、祈願・奉献をするために、日本神道の神社に行って、最初にすることは、まず鈴を鳴らすという作法がある。 私は最近まで、その意味をよく知らなかったが、先週訪問されていた大江教会の立野牧師や信徒の方の意見を伺ったり、またインタネットで日本神道の専門家の解説を聞いた。それは、罪深い自分を鈴の音によってきよめ、そして、祈願をするためそして貢物を奉納するために、自分が来たことを神にわかっていただく、という意味があるようだ。つまり日本神道の神をお呼びするような意味もあるようだ。 与えられた福音書の内容に入っていきたい。 イエスはユダヤ教の指導者たち、律法の専門家に関する教えを語られた。そのあと、福音書記者マルコは、賽銭箱の前で献金していく人々の様子を伝えている。 当時のユダヤ教のシナゴーグにおいてあった賽銭箱は、ラッパ型をした雄牛の角、13個から出きていたそうだ。 福音書に描かれた光景から、金持ちたちが、たくさん献金していたようだ。 私の想像ではあるが、おそらく、たくさんのお金を入れることによって、この13個のラッパが大きな音をたて、「私はたくさん献金しましたよ。」という神への報告とともに、また、周囲の人々へのみせびらかしもあったのではないかと思う。 そこへ、一人のやもめが、やってきて、当時の通貨では最小貨幣価値の銅貨を、二枚だけ、献金した。それは、金持ちたちの献金に比べ、どんなにかか弱い音で、いったいいくら入ったのか、あるいは、お金だったのかどうかもわからないような音でしかなかったのではないだろか。 しかし、イエスは、それを見逃さず、また聞き逃さなかった。イエスはやもめが入れた献金の音をしっかり聴いた。主イエスは、聞き逃さないどころか、やもめが、夫の死後、ほとんどの財産を、律法の指導者たちから、奪い取られ、ほぼ無一文になってしまったことがわかった。 そのことによる、やもめの痛みが、イエスにも、はらわたが、しくしく痛むほどにわかったのだと思う。 主イエスは、本当にかすかな、寡婦の嘆き、また憐れみを求める願いを、たとえ音にはならなくても、また、言葉には、ならなくても、聞いてくださっている。 そこには、主が、ともに痛みをおってくださっている主の憐れみがある。 英語ではCompassionというが、Comという言葉は、共に、また、Passionには、痛みという意味がある。 だから、共に痛みをおってくださるのが憐れみだ。 2週間前は、パシフィカ教区とサウスウェストカリフォルニア教区の多くの牧師とともに、Theoasisというカンファレンス(研修会)に参加していた。 講師の一人は、一昨年前まで、アメリカ福音ルーテル教会の総主教を12年務められたマークハンセン氏の90分づつあるいは60分の講演を、三日間にわたって聴いた。 すべてすばらしいものだった。 彼の講演のテーマの一つは、多文化、またますます増える様々な宗教に囲まれる中で、クリスチャンとしてどういう存在であるべきか、ということだった。講演中になんども牧師たちに質問をし、その質問について牧師たちで真剣に議論しあった。 その最後に、マークハンセン元総主教は、次のような質問をしたのが、印象的だった。 クリスチャンとして、絶対譲れない、キリスト信仰の核となる確信は何だろうか?ということだった。 冒頭に述べた、日本神道の教えには、私はすばらしいものがあると思っている。 また、今日は、話にはとりあげないが、私の母方の祖母が毎日「南無妙法蓮華経」とお経を読み信仰していた仏教にしても、すばらしい教えがあると思っている。 しかし、日本では、1637年代から1873年代までキリスト教が禁教となり、刑罰は死罪だった時代がある。 しかし、私の父方の曽祖父が、周囲に伝道的なすばらしい宗教がありながらも、1880年、キリスト教が解禁となってまだ10年以内だったが、キリスト教信仰を持った。 曽祖父が書き残してくれたものを読むと、最初はプロテスタントの牧師の話を聴いたようだが、「してはならないこと」ばかりを話され、全然、キリスト教信者にはなろうと思わなかったそうだ。(ちなみに、ルーテル教会が日本に来たのは、私の祖父が洗礼を受けた後、15年くらいしてからである。) 曽祖父は後に、ロシアからの正教の教えを聞き、家族全員で洗礼を受けることになった。 曽祖父がキリスト教信仰に導かれた背景には、神の憐れみがあったのだと思う。 神は、ご自分の造られたすべての民への憐れみをいだいている。 民が神に背いてしまうようなことがあっても、その民を憐れんで愛しているがゆえに、主イエスは無となり、自らの体と血を捧げ、十字架に架かられた。 そして、墓に葬られた。 そして、墓からよみがえって、その主の愛を永遠のものとしてくださった。 神は、社会がもっとも小さき、価値の無い者とした寡婦にも、憐れみを示された。 神は、240年もの間、キリスト教など価値が無いとして禁教にして、何人ものキリスト信者を十字架に架け殺してしてしまった日本の民にも、その憐れみを示された。 私は、十字架上の死と復活を通して示されたイエスキリストの愛、どんな人であろうが主が憐れんでくださっていることが私の譲ることができない核となる信仰の確信であると申し上げたい。 私たち、一人一人、譲ることができない核となる信仰の確信について考えることをお勧めしたい。 アーメン 安達均 What is the Core Conviction of Your Faith? Mark 12:38-44 May God’s Mercy and Grace be poured into the hearts of the people gathered in this sanctuary! I grew up surrounded by multiple religions in Yokohama, Japan. Within a mile square, I believe there were more than four Nippon Shinto Shrines and Buddhist Temples. When people go to a Nippon Shinto Shrine to pray and give an offering, the first thing that person does is ring a bell. The bell is not like a hand bell used in the Christian Church, but more like a jingle bell. I did not know the meaning of ringing the bell until recently, but I researched a little bit via the internet. Pastor Tateno and one of Japanese congregants, Shingo, helped me to understand the meaning while they were here last week. The meaning of the bell sound is cleansing a person’s sinful heart and body before giving the offering and prayer. It also calls the Nippon Shinto god to show up and listen to a person’s prayer and see what he or she has offered. Now, I would like to jump into the good news that was read a short time ago. After Jesus taught about Jewish scribes, St. Mark describes how the crowd put their coins into the treasury box. At that time the treasury box in the very front of the Jewish synagogue was made of…
Tweet 2015年11月8日LCR週報通算1375号 2015年11月8日主日の週報 Sunday_English_Bulletin_1375E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet 今週後半は146編が与えらているが、最近読んだこともあり、あえて来週11月9日から11日まで与えられている詩編94編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編94 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。来る聖日に与えられている福音書はマルコ12章38-44節で、生活費のすべてを賽銭箱に捧げる未亡人の話。その箇所を振り返りながら、詩編94 編を読むのも良い。 詩編94編 1:主よ、報復の神として/報復の神として顕現し 2:全地の裁き手として立ち上がり/誇る者を罰してください。 3:主よ、逆らう者はいつまで/逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。 4:彼らは驕った言葉を吐き続け/悪を行う者は皆、傲慢に語ります。 5:主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業を苦しめています。 6:やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します。 7:そして、彼らは言います/「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。 8:民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。9:耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。 10:人間に知識を与え、国々を諭す方に/論じることができないとでもいうのか。 11:主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。 12:いかに幸いなことでしょう/主よ、あなたに諭され/あなたの律法を教えていただく人は。 13:その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。 14:主は御自分の民を決しておろそかになさらず/御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。 15:正しい裁きは再び確立し/心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。 16:災いをもたらす者に対して/わたしのために立ち向かい/悪を行う者に対して/わたしに代わって立つ人があるでしょうか。 17:主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。 18:「足がよろめく」とわたしが言ったとき/主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 19:わたしの胸が思い煩いに占められたとき/あなたの慰めが/わたしの魂の楽しみとなりました。 20:破滅をもたらすのみの王座/掟を悪用して労苦を作り出すような者が/あなたの味方となりえましょうか。 気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、21節の「彼らは一団となって神に従う人の命をねらい/神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。」という言葉。 詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したいが、長いので、三つのブロックに分けて記述してみたい。まず1-7節では、「主よ顕現して誇る者を罰してください」と詠う(1-2節)。その背景には、申命記には24:17-20などには、はっきり、寡婦、孤児、寄留者を大切にするようにという掟がありながら、それを守らない世の指導者、「神は見ていない」という最悪の指導者がいたのだろう(3-7節)。 続いて8-15節では、「神は見ていない」という者たちへの応答を詠っているようだ。愚かな者たちよ、耳や目を創造した神が、見えないわけがあろうか、人間の企てはいかにむなしいかを、主はわかっている(8-11節)。主に教えられ、律法を守るものは幸せ、苦難がおそっても、神は決してそのような民を見捨てることはない(12-15節)。 最後の16-23節では、神が砦となってくださるということがポイントのようだ。災いをもたらそうとする者に対して、主が助けとなってくださる、足がよろめきそうなときに主の慈しみに支えられ、思い煩うときに、主の慰めが、魂をうるおす(16-19節)。主は決して、破滅をもたらそうとする者の味方にはならないが、彼らは一段となって神に従う人々を苦しめる20-21節)。 主はかならず私たちの砦、岩となってくださる、どうか彼らに悪に報いとなり、彼らを滅ぼしてください(22-23節)。 さて現代の私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三つほどポイントがあると思う。 一つ目は、神が裁かれるということ、ローマ人への手紙12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」に通じるものがある。二つ目は、神に従うものは、苦しみを受けるということ。それはイエスキリストがまさにそうであるし、さらに、イエスに従うものも、実際、そうであることは否めない。上記にインパクトのある言葉として挙げた21節の言葉は、日本のキリスト教信仰者は、たいへんな迫害を受けたことにも通じていると思う。そして三つ目は、神が砦となってくださる信仰こそ最強のもの。特にイエスキリスト以降の時代は、キリストを主とする信仰こそ岩であり、キリスト信仰を土台にして生きることで、どんな困難にも絶えられ、それが楽しく喜びあふれる、永遠の命につながってくる。 アーメン 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace
Tweet マルコ12章28-34 日本福音ルーテル大江教会 立野泰博牧師 日本で有名なシンガーソングライターに中島みゆきと言う人がいます。最近彼女の「糸」という作品に自然と涙が流れてしまいました。自分も歳をとってシニアになってきたのだと思います。 彼女の歌はこのように始まります。 「なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない」と。いまここに集まっておられる方も同じです。私たちの知らないところで、神様は出会わせてくださり、日本からもやってきて礼拝に参加し、27周年をお祝いしています。これは神様がくださった奇跡です。 さらに歌はつづきます。「どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語 縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」と。この辺でいつも涙腺がゆるみます。私とあなたがそれぞれ1本の糸で、それがおおく交わっていくと一つの布になる。しかしよく見ると重なったところはすべて十字架なのです。私たちがイエス様によって一つにまじわるとき、痛み苦しむ人たちの心を暖めうる一枚の布になる。27年の間にその布は広がって、より多くの人を暖めているのです。 さらに歌はつづきます。「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」そして「 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は 仕合わせと呼びます」。神様によって出会うべくしてここで出会い、キリストの十字架によって一つとされた私たちの教会。その教会がいま新しい方向転換へと招かれています。 本日の聖書をみてみましょう。一人の律法学者がイエス様に尋ねています。マタイやルカの福音書によれば、イエス様を試そうとして質問したことになっています。ところがマルコでは尋ねたとあります。たぶん、イエス様の福音とユダヤ教の教えの違いをはっきりさせるためだったといえます。簡単にいえばイエス様の教えとユダヤ教の教えはどこが違うかということです。あくまでも謙虚に尋ねたのでした。 さて、ユダヤ教には613の掟がありました。そのように多ければ人間の性格として、どの掟が第一のものかという問いがでてきます。つまり掟のランク付をする努力をしていたのです。しかし、ランク付をしてもすべてを守るべき義務はかわらないのですが。律法学者の質問は「イエスよ、あなたならどの掟を一番とするか」ということだったのです。 イエス様の答えは二つでした。「神を愛すること」「人を愛すること」。これはわけられない。これはランクが付けられず、すべての律法はこの二つに集約できるといわれたのでした。じつはこれが縦の糸と横の糸なのです。しかしそこにキリストの十字架を見つけることができたでしょうか。 しかし、律法学者は感激しています。つまり自分と同じ答えだったのでしょう。この律法学者はとても熱心に勉強していた人でした。彼の答えをみてみると、旧約聖書のありとあらゆるところから答えを出しているからです。 イエス様もまた彼の答えを称賛されています。そして「神の国から遠くない」と言われたのでした。つまり、それだけ学んだことを生きていきなさいと言われたのでしょう。しかし、イエス様の彼への答えをみれば、そこまでわかっているのならもう一つのことが分かれば完全だと言われたように思います。それは何か。目の前にいるイエス様を信じることなのです。その信仰が彼を完全なものにする最後の一つのことでした。彼にとって新しい方向転換をしてイエス様を受け入れるだけでいいのです。しかしそれができない。だからこそ、「あなたは神の国から遠くない」そこまできているよと言われたのです。 大江教会は今年、新しい方向転換をしました。集会室をカフェにすることを承認し、計画を実行しました。教会が、地域の教会として九州学院へも宣教する教会となるための整備でした。これまで大江教会は「集会室」という場所をもっていました。もともとは地域へむけての宣教の場として、サークル活動や勉強会、地域の会議などに用いられてきました。時代は変わり、地域公民館が整備され公の会場が出来たことにより、教会は内部で使用するだけ部屋となりました。1週間、何も使用されず、人も訪れず、寂しい空間になりました。 そこで、大江教会では時代に添う変革を考えました。再び地域に開かれ、人が集まる場所になるための計画を立てました。それが「集会室のカフェ化」です。新しい方向転換を選択しました。 現代の若者たちは、時間のある時、ちょっとした集まり、仕事をするとき、勉強をする時「カフェ」を利用します。スタバなどはいつも満員です。ここに注目しました。集会室をカフェにすることで教会の門を広げる計画でした。自由に珈琲も飲める。安心してそこに居場所を見つけることができる。そして十字架を置くことによってキリスト教をさりげなくアピールできる。さらに信仰的な書物を置く。大江教会カフェのファンを増やし、教会の持つ壁をなくすことでした。 教会が縦の糸となって、地域が横の糸になる。交わったところが人を暖め、傷を癒す場所となる。最近一人の中学生がカフェにやってきました。お母さんと二人でした。人伝えに教会カフェのことを聞き、勉強する場所を探してこられました。彼女は脳腫瘍の病があり、いつ倒れるかわからない。教会カフェならば神様のもとで、安心して居場所としてなるからと。私たちの教会が新しい方向転換で目指していたものはこれでした。イエス様が全ての人を受け入れてくださる一つの布になることです。 私たちは考えて理解します。ところが、そこで止まってしまうものなのです。本日の聖書からもキリスト者にとって大切な掟は二つだ、「神を愛すること」と「人を愛することだ」と理解します。しかし、それを生きていきなさいと言われると止まってしまいます。イエス様はそんな私たちに「あなたは神の国から遠くない」といわれます。 私たちは、この27年の宣教で多くの糸がここに織り込まれているのをしっています。天に召されていかれた多くの人の信仰もここに織り込まれている。LCR日本語部という布は、「いつも、人を暖め、傷をいやし、イエスと出会い、幸せと導かれる」のです。 28年目にむかって、もっとおおきなイエス様という1枚の布を広げていきましょう。 “Our New Turning Point” (Mark 12:28-34) Message by Pastor Yasuhiro Tateno November 1, 2015 27th Anniversary of LCR Japanese Ministry There is a famous singer, songwriter named “Miyuki Nakajima”. Recently I found myself in tears when I was listening to one of her songs called “Thread”. Maybe I became more sensitive to certain lyrics as I’ve gotten older. Her song begins like this: “We don’t know the reason why we meet each other, we never know when we encounter”. I think we can say the same thing to all of us who are gathered here today. God plans each encounter beyond our knowledge. It is God’s miracle that we are here from Japan and celebrating the Japanese Ministry’s 27th anniversary together with all of you. Her song continues: “Where have you been? Two life stories, living under the far away sky. You are the Vertical Thread, I am the Horizontal Thread. We can create the cloth by weaving your thread and my thread together. And that cloth might warm someone someday”. When I hear this part, of the song, my eyes get teary. You and I, different threads, but when we continue to gather the threads and weave them together, it will become cloth. And when we look it…
Tweet 私たちの姉妹教会である、熊本大江ルーテル教会の皆さんを迎えての祝福された礼拝でした。説教は立野泰博牧師でした。 2015年11月1日、LCR日本語部週報通算第1374号 2015年11月1日宣教27周年記念主日礼拝の週報 Sunday English Bulletin 27th Anniversary Sunday 1374E Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace