マルコによる福音書1章4-11節 『水と命』”Water and Life”

私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン。

私たちはのどが渇いている時冷たい水ほどおいしいものはありません。水は生命の源です。私たちの住む地球も70%が水で覆われています。私たちの体も80%が水だと聞いています。もし水、あるいは飲み物なしで人間は5日も経てば命が脅かされます。

水はその他にも私たちにお風呂またシャワーを与えて、洗濯も水なしではできません。水はまたダムのせき止められた水の力で電力を与えてくれます。料理も水なしではできません。夏の暑いさなかにプールに飛び込むことは楽しいことです。その他に冬でも、雨は雪となり、その雪でスキーなり、スノー・ボードのスポーツもできるのです。しかし水には恐ろしい力もあります。2004年の12月26日にインドネシア沖で起こつた地震と津波は5千マイルも離れたインド、スリランカ、またタイで28万人もの命を奪ったのです。2005年の8月29日に、アメリカではハリケーン・カタリナによる大きな災害がニュー・オリンズとその近郊を襲ったのは皆さんも知っているとおりです。

しかし世界中で、一番大きな災害と言えば、昨年の3月11日に東日本を襲った、千年に一回のマグニチュウ度9.0の大地震、津波、そしてその結果崩壊された福島第一原子力発電所です。今でも何回も何回も沿岸を襲った50メートル、60メートルの高さの津波、この破壊力のすごさはビデオで見ても恐ろしく、また、悲しくなります。

私たちにとって、水は身近にあります。ここにも水の入った洗礼式に使うBaptism Font と言うものがあります。洗礼を受けた皆さんは、この中に入った水を頭に注がれて洗礼を受けたことを覚えているでしょう。あるいは全身水の中に入って洗礼を受けた方もいるはずです。実際、私も1952年の4月11日のイースターに両親と教会員に見守れる中、小児洗礼を受けました。勿論それを覚えてはいませんが、その洗礼式は川島先生と言う戦争中は戦争反対運動のため投獄されていた初代の牧師先生と戦後日本に最初送られたオラフ・ハンセンというアメリカの宣教師によって授かりました。

日本人は水が身近にあるので水の必要性をあまり感じませんが、その反対に、ユダヤ人、パレスチナに住む人たちにとって水の確保は真剣な問題です。イスラエルは地理上、砂漠地帯です。ヨルダン川、ガリラヤ湖が水を提供しているのですが、雨が少なく、地下水も深く掘らなければ出てきません。イエス様の時代、女性の大切な仕事と言えば、朝早く町の井戸に行ってバケツにいっぱい水を汲んで来ることでした。その水で、料理をし、洗濯をし、行水をし、残りの水を自分の畑にある野菜に注いだのです。今では水の確保のためユダヤ人は地中海の海水を真水にするその技術では世界一だと聞いています。

今日の福音書の記事はイエス様自身が洗礼を受けるためにヨルダン川に来た記事です。多分、イエス様はべタニアと言う町に滞在していたでしょう、それは友達のラザロとその姉妹、マルタとマリアの家があって、そこに泊まっていたのかもしれません。ベタニアからヨルダン川までは1マイルぐらいの距離です。ヨハネはそのヨルダン川のほとりで「神の国の到来は近い。悔改めて洗礼を受けよ」と叫びながら人々に洗礼を授けていたのです。

らくだの衣を着て、イナゴと蜂蜜を食事としていたこのヨハネは一般の人から見れば仙人のような存在だったでしょう。しかしイエス様にとってヨハネは彼のまたいとこ、と言うのは、ヨハネのお母さんであるエリザベトとイエス様のお母さんであるマリア様は従姉妹どうしてあったからです。ヨハネもイエス様もお互いの事をお母さんたちから聞いていたと思います。また毎年エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りにすべてのユダヤ人が参加するように義務付けられていたので、イエス様の家族はエリザベスの家族を訪れていたかもしれない。

ですから推測ですが、私はヨハネとイエス様は彼らの小さいときからお互いを知っていたと思います。ヨハネの神様から示された役目はイエス様こそ救い主であること、イエス様はご自身の神様の教えを人々に知らせるそのはじめにヨハネより洗礼を受けることを父なる神様から命じられていたと思います。

この時代、ユダヤ人にとって洗礼を言う儀式は特になかったのですが、水に罪を洗い流されて清いものとなるというと意味での洗礼、そしてそこで神の子として世に送る出されるキリスト教での洗礼はそれを預けたヨハネとそれを受けたイエス様で始まったのです。

マルコ、それは、マルコによる福音書を書いた人ですが、彼の頭の中に、何か大切なことが起こる時、天が開き、そこから人々に示す大事なことが顕されるとの予告が神様から知らされると信じていたのです。そしてその通り、イエス様が洗礼を受けたとき、天が開き、炎と鳩に象徴される聖霊がイエス様に下ったのです。神様の聖霊を受けたイエス様はすぐにサタンからの誘惑と戦うために荒野に導かれたのです。

さて、最後にクリスチャンとして受ける洗礼について、まだ分かるまで待つべきかと考えている方、迷っている方もいると思います。クリスチャンになると私たちの日本の先祖との関係はどうなるのでしょうかと心配する方もいるでしょう。

この質問に一言で言うならクリスチャンになるということは、自分の罪を知るようになる、しかし、その罪を赦してくださるイエス様という神様が私たちと何時も、一緒にいてくださる、勇気を与えてくださる、一緒に泣いてくださる、喜んでくださる、目には見えないかもしれませんが、その神さまがどんな時にも一緒にいてくださることを知るようになるということです。その時から、誰も独りぼっちになることがなくなるのです。でも分っていただけるでしょうか。最後まで、私たちは神様に見守られて生きる人生を持つことになります。

教会はクリスチャンだけの集まりではありません。初めは皆求道者の集まりです。しかし、その中で何時か、ある時、聖霊の働きによって私はイエス様に従うものになりたいと言う思いになるのです。イエス様を、わが主、わが神、と告白できるのもイエスの聖霊が私たちの心の中に入って来てくださるからです。

はっきり言って牧師としての一番の喜びは、神様の恵みと愛を皆さんと語り合う時です。この説教を書きながら、あなた方一人、一人のこと、特に求道者の皆さんのことを祈りの中に覚えているのです。アーメン。

 

ルカによる福音書2章21-40節

「名前は人を表す」  “What’s in the name”

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン。

まず最初に、平成24年の元旦を迎えておめでとうございます。西暦では2012年ですね。昨年は東日本で起こった地震、津波、原子力発電所の事故、世界のあらゆる国で問題になっている経済問題、アラブ・スプリング、そしてアメリカでは今年の末に、オバマ大統領がまたもう一期、大統領に再選されるか、あるいは新しい大統領が選ばれるかの大きなニュースが続くでしょう。又、メキシコのマヤ文明によって何千年も前に作られたマヤ・カレンダーによると今年の10月に、世界を襲う災害が起こると言われています。しかしながら考えてみると、そのようなことは毎年のように言われてきたのではないでしょうか?

今年はどんな年になるでしょうか? 大切なことは私たちの生活の中で一日、一日、神様に与えられた人生を感謝して、お互いを助け合って生きることです。

今日与えられた新約聖書の日課は主に、シメオンとアンナという年取ったいわば預言者と呼ばれる人たちと赤ちゃんであるイエス様が両親に連れられて神殿に宮参りに来た時の記事です。しかし、この記事の初めにある21節に「8日が過ぎ、割礼を施す時となったので、受胎の前に御使いが告げたとおり、幼子をイエスと名づけた」。と言うただ1節だけの言葉があります。生まれた赤ちゃんに名前をつけることは、その人の人生の始めにあたって、とても大切なことです。与えられた名前は一生私たちに与えられたギフトであり、その名前が私たちの人生の道を整えるとも言われています。私ごとですが、私の両親は私の生まれる前すでに男の子なら『豊』と言う名前にすると決めていたと聞きました。それには理由があります。私の従姉妹(いとこ)、母の姉は私の生まれる6ヶ月前に娘を産んで「めぐみ」と名づけました。私の両親は、この二つの名をくっつけて『恵み豊かに』と言う聖書の中に良く出てくる言葉を考えていたのです。

名前は人を表すといわれています。そして、苗字は家柄を表すも言われています。その典型的な小説は皆さんも御存知のシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」です。ロミオの家族は有名なモンテギュウ、ジュリエットの家族はこれまた有名なキュプレットという家族ですが、両家ともお互いを敵のようにみなしていたわけです。小説の内容は皆さんの知っているとおり、ロメオとジュリエットは恋に落ち、結婚を夢見たのですが、敵対心の強い両家がそれを赦すことはないとあきらめ、ひそかに結婚をしました。しかし、その後、自殺と言う悲しい事件を起こしてしまったのです。これは日本で言えば、源氏と平家の争いのようなものではないでしょうか。自分を自分の名前から引き離すことはできないのです。このことを英語では  “Your name is your Identity”と言います。  

さてこの中に覚えている方、どのくらいいるかわかりませんが、1970年代の後半、ちょうどそれは私が、ペンシルベニアの神学校にいた時、多くの人たちがCBラジオにこり始めました。その流行に遅れまいと私もCB ラジオを始め、まず最初に7フィートの高さのアンテナを私の愛車、Ford Pinto に取り付け自分の名をYou-talk-a lot と言うハンドル・ネイムでしばらくやり始めました。しかし知らない人とくだらないことをしゃべるのがいやになってやめました。

私たちの名前は私たちのいろいろなことを表すのは本当です。しかし名前だけではなく、名前と私たちが一緒になって現されるのです。私の息子アンドリュウは私の一番好きなイエス様の弟子で、アンドリュウの名前は、彼の生まれる前から用意しておきました。彼は気立ての優しい子です。自分の意見は述べますが、それでもいつも自分の意見をほかの人の意見を聞かずに通そうということはしません。口数も少ないほうで、誰にもいつも親切です。息子をそのように表現する私は親馬鹿かもしれませんが、自分の息子に教えられることも多いのです。このアンドリュウの性格は本当にイエス様の弟子のアンドリュウの性格に良く似ているのです。

マルチン・ルターは言いました。「人が良いReputation を受けることは人生の一つの大切なBlessing である」と。ユダヤ人の赤ちゃんは生まれて8日目に割礼、Circumcision を受けるのが決まりでした。ユダヤ人にとって、割礼は宗教的に、民族的にも大切な儀式であり、神様から恵みをいただいたことを祝う時でもありました。

このルカによる福音書にはその時、イエスと言う名前が与えられたと書いていますが、イエスと言う名前の意味は、マタイによる福音書の中に、次のように書かれています。「見よおとめが身ごもって男の子を生むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、「神我らと共にいます」と言う意味である。イエス様にはいろいろなタイトルが与えられています。それは、「平和の君」、「救い主」「キリスト」、「神の子羊」、「ダビデ王の枝」、「人の子」、「言葉」、「命のパン」、「ぶどうの枝」、「ドア」、「門」。その 他にもイエス様には沢山のタイトルがあるでしょう。

神様とイエス様は父と子という関係で表されていますが、聖霊も含めてこの3つのタイトルは切り離すことができません。この広い世界、宇宙の中で、父は創造主であり、子はイエス様という人として、聖霊は私たちの心を神様に向ける力として、私たちの心、思いの中にいつもいらっしゃるのです。

これは昔のヨーロッパの習慣ですが、二人の人が契約を結ぶとき、サインだけではなく、お互いが針で指を刺し、そこで出てきた血で印を押すのです。これはイエス様が私たちの罪を赦すにあたって十字架にかかって流された血による私たちへの契約と同じです。イエス様の流された血によって私たちは清められているのです。真心をこめて私たちの罪を告白し、イエス様に罪の赦しを求める時、イエス様は私たちと共にいて、私たちを清めてくださるのです。又、イエス様のみ名によって、私たちへの神様のすべての約束が与えられているのです。それは、永遠の命、救い、赦してあり、神様から与えられた平安と明日と云う日に向かっての希望です。

これは今世界中で心配されている経済の問題、宗教と宗教の衝突、人種差別などですが、私たち人類はお互いを自分たちの兄弟、姉妹として認めない限り本当の世界の平和は与えられないのです。神様は平和をすぐに力でくださると言うより、私たちに知恵と人々への思いやりの精神を確立することによって本当の平和を約束してくださるのです。

皆さんの良く知っている名前に、Albert Schweitzer (アルベルト・シュワイツアー)と言う人がいますが、イエス様のことを書いた短いDevotion  を最後に紹介しましょう。

「イエス様は誰からも知られていない人として私たちの中に入ってきたのです。そして出会った人たちに言いました。『私に従ってきなさい』イエス様は私たち一人ひとりに私たちの時にあってしなければならない行いを、あたえられていのです。そのしなければならないことは私たちがイエス様の弟子となり、私たちの隣人に愛を持ってかかわってゆくことです。

その中にイエス様自身が私たちと共にいます。飢饉の中で、戦争の中で、すべての苦しみの中で。悲しみの時、嘆きの時、イエス様の名前を唱えなさい。イエス様の名前を信じなさい、神様のみ名によって救いの時、やすらぎの時、許しの時、そして喜びで涙を流す時も来るのですよ」と。

この新しい年を迎え、イエス様を愛する私たちが、お互いを信頼し、お互いを助け合い、お互いを理解しあい、お互いに素晴らしい人間関係を築いて生きてゆくことができるように祈ります。アーメン。

 

2012年1月の予定

 

1/5、12、19、26           聖書を読む会           10:30 AM Joyces  Library

1/6                              コロナ家庭集会        10:30 AM 今井宅
1/8、15、29                  キリスト教101          10:00 AM Bercaw Hall

1/9、16、23、30            和太鼓                           1:00 PM 中庭

1/9、23                             英会話教室                   2:00 PM Joyces Library

1/10、24                           アーバイン家庭集会 10:30 AM 愛子G.宅

1/12                                    事務打ち合わせ            1:00 PM 日本語部オフィス

1/15                                    日本語部信徒会            1:00 PM T Hall

1/14                                    タスティン家庭集会    1 : 30 PM 安達牧師宅

1/16、30                          ラインダンス・クラス  2:00 PM Bercaw Hall

1/22                                    LCR特別信徒総会      9:30 AM 礼拝堂

1/26                                   CCN 健康講座・ランチ 1130 AM  Bercaw Hall

 

 

新年お目出とう御座います。今年も神様の祝福が皆様の上に豊かにあります様に!!!

復活ル-テル教会・日本語部一同日頃私達のWebをご愛読下さいまして有難う御座いま、

心より感謝申し上げます。来年はもっと充実しWebにする様努力致します。

週報通算#1194W (日本語)

2012 1 1W

週報通算#1194WE (英語)

2012 1 1WE

 「客室と宿屋の違い」 “Guestroom vs Inn”  

 私たちの父なる神、および主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

 ただ今読みましたルカによる福音書は毎年クリスマスに読まれるイエス様の誕生の話です。この話を皆さんは何回聞いた事があるでしょうか?その内容を覚えていますか?ローマ帝国の皇帝、アウグストから人口調査をせよとの勅令がイエス様の生まれた年に出ました。人口調査の目的は、どこにどれだけの人がローマ帝国に住んでいるかを調べ、その調査に従って国民から税金を取るという制度を作るためでした。

 イエス様が生まれた時イスラエルは一つの独立国ではなく、ローマ帝国の植民地でした。ヘロデと言うイスラエルの王様もいましたが、この人はローマ帝国の操り人形のような王様で、ユダヤ人はこの王様を嫌っていたのです。このような政治的圧力の下でイエス様が人間の世界に赤ちゃんとして生まれて来たわけです。

 羊飼いたちが夜野宿をしながら羊の群れの番をしていた時、天使が現れて言いました。「今日ダビデの町に、あなた方の救い主がお生まれになった。あなた方は、幼子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう」と。羊飼いたちが急いで行って見ると、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶の中に幼子を見つけたのです。 赤ちゃんがもうすぐ生まれて来るというのに宿屋に空き部屋がない、宿屋の主人から「お客さんでいっぱいだ。ほかの所に行け」と言われてしまったヨセフとマリヤは、馬小屋で夜を過ごさなければならなかったのです。

 宿屋とは古めかしい言葉ですが、今風に言うならホテル、それもモーテルのような所だったのでしょう。それにしてもこの主人にはやさしさや、人に親切に対応する心が少しも感じられません。現代の私たちが考えれば、この人は意地悪な主人だしまうかも知れません。

 ある教会で行われたクリスマスの劇で宿屋の主人役をした9歳の男の子は宿屋の部屋を探していたヨセフとマリアにこう言いました。「空き部屋はもうない、ほら見てごらん、そこのサインに“No Vacancy”って出ているじゃないか。」ヨセフとマリアは悲しそうにその場面を出て行き始めたとき、宿屋の主人役を演じた男の子はこの二人を可哀想に思ったのか、台詞にはない次のような事を言い出したのです。「ちょいと待てお二人さん、ここから2ブロック行った所にいいモーテルがあるよ。そこには、ケーブルテレビ、HBO、Hot Tubもあるよ」と。ページェントの舞台裏で働いていた人達は、これを聞いていて、なんというクリスマス・ページェントになってしまったかと嘆いたわけですが、この9歳の男の子が演じた宿屋の主人の言った言葉には、深い意味が隠されていたのです。それが何かという事を、今皆さんに考えてもらいたいと思います。

 ヨセフとマリヤがベツレヘムに来た理由はローマ帝国の行った人口調査の為で、ユダヤ人の全てが、自分の生まれた町に帰ることを命じられていたからです。考えて見て下さい、それは特定の人だけではなく、自分の生まれた町に住む以外の者は全て、自分の生まれ故郷に戻り、そこで人口調査を受けなければならなかったのです。これは不合理なことかも知れませんが、ローマ帝国はこのような命令を下すことによって初めてそれぞれの地域の人口を調査する事ができたのです。 ヨセフとマリアだけが遠いところから来たのではなく、どこの町の中も自分の故郷に戻ってきた人たちで一杯だったはずです。

 ところで、この聖書の箇所を注解書を用いて読んでいた時、新しい発見をしたのです。それは聖書の中に書かれているInn と言う言葉は、新約聖書のオリジナルのギリシャ語では「カタルマ」で、その意味はゲスト・ルームなのです。それは宿屋とはまた違った意味を持つ言葉なのです。

 皆さんの良く知っている、Good Samaritan の話の中で強盗に会って半分死にかけていた人を最後に連れて行った所は、もちろん宿屋、ホテルです。しかしその言葉はギリシャ語で、「パンドケヨ」と言う言葉であり、「カタルマ」ではないことを皆さんに知っていただきたいと思います。ですからルカのこの福音書の中でヨセフとマリアが探していた宿屋はなかったけれど夜寒いときに馬や、ロバを寒さから守る為に入れていた所が提供されたのです。それはゲストには適していない所かもしれませんが、それでもある意味では体を楽にすることのできた「ゲスト・ルーム」だったのです。

 又、これは中近東の人たちの習慣ですが、お客さんが訪問した時、そのお客さんにホテルや、モーテルに泊まって下さいとは言いません。どんな小さい家の中でも、ありとあらゆるもてなしをして、寝る場所も整えてあげるのです。それは、中近東の人たちの習慣だけではなく、私たちも経験する「もてなし」ではないでしょうか。 私の家族はクリスマスの後、家内の実家に1週間に渡って行きますが、それは私の家族だけでなく、家内の7人の兄弟姉妹そしてその家族全体、23人が一つの屋根の下で過ごすという事です。二つのゲスト・ルームで寝られるのはせいぜい6人、その他の人達は応接間のソファー、リクライニング・チェアー、殆どの人がカーペットの上で寝袋に入って寝るのです。お金がもったいないからホテルに行かないのではなく、そこで皆と食べて、飲んで、踊って、笑って、一緒に楽しみたいからなのです。

 イエス様も生まれた時、沢山の仲間が周りにいました。羊飼いたち、天使、動物たち、それは家族ではないかも知れませんが、イエス様が皆さんに祝福されてこの世に来た事を語っているのではないでしょうか。

 神様が赤ちゃんの姿でこの世に来たのです。その赤ちゃんが、私たちと同じような生活をし、人間としての喜び、悲しみ、辛さも私たちと同じように経験したからこそ、私たちの心の奥底まで全て理解できるのです。その神様が今ここにあなたと共にいらっしゃいます。あなた方にお互いを愛し合いなさい、助け合いなさい、お互いを大切にして生きなさい。そして、イエス様に従う全ての者に永遠の命が約束されているのです。

メリー・クリスマス!イエス様がいつもあなたと共にいますように、お祈りいたします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

2011年12月24日クリスマス・イヴ Candle Light Service

(バイリンガル)礼拝のProgamを掲載致します。

2011 12 24W

 

 

週報通算第1192W  (日本語)

2011 12 18W

週報通算第1192WE  (英語)

Sunday English Bulletin 1192WE

日本語部聖歌隊は、総勢14名で、「かいばおけにすやすやと」(讃美歌(21−269)

マニフィカート讃美歌(21-177)の2曲を声高らかに賛美しました。4部輪唱は、初トライ。大成功でした。