「与えられた永遠の命を信じる者」”Joy of Believing Eternal Life”

私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

これまでに、多くの方からキリスト教の信仰の原点あるいは出発点はどこでしょうか、と聞かれた事が何回もあります。私の、そして全てのクリスチャンにとって信仰の原点、出発点とはイエス・キリストが十字架にかかって死んだ後、父なる神によって復活なさったと言う事実にあります。コリントの信徒への手紙(一)1517節にこのように書かれています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」

イエス様の十字架の死は弟子たちに大きな衝撃を与えました。その時、彼らはイエス様に失望してしまったのです。弟子たちは、このイエス様こそイスラエルをローマ帝国から開放してくださる方に違いない、そう信じてイエス様に望みをかけていたのです。ところが、三日後の日曜日、死んだはずのイエス様が弟子たちの前に現れたのです。弟子たちは、その人物がイエス様だ、とすぐには解りませんでした。しかしいろいろな場面でイエス様と出会うことによって、自分たちと共にいる方はイエス様だと解り、復活の事実が成就された事を知るのです。

復活されたイエス様を信じることができるようになったのは、ただ単に自分たちが一生懸命信じたから出来るようになったのではありません。信じられるようになったのは、神様のギフトである信仰が、弟子たちの心に聖霊の働きによって入って行ったからです。

世界の歴史を見ますと、「イエス様こそ神様です」と信じる信仰は2千年も続いているのです。例えば、私達が生まれ、成長して自分達の子供が生まれるまでの年数を25年します。すると百年で4 generation(世代), 1千年で、40 generation, 2千年で80 generation となります。今世界の中で、イエス様に従う信仰を持った者は世界の人口の3分の1です。世界のあらゆる国の中で迫害を受けてもクリスチャンは生きているのです。

旧約聖書に詩篇と言う本があります。多くの詩篇の中に書かれていることは神様との対話です。詩篇139章に、私達人間が神様、創造者に向けて語っている言葉がこのように書かれています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ,深い地の底で織りなおされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」

詩篇の言葉は難しいのですが、ここで言われていることは、私たちは神様の計画の中で生まれて来た、人生は偶然に始まるものではないと言うことです。私たちは神様によって造られ、他者とまた神様との関係の中で人生を有意義に過ごす機会を与えられているのです。私達の人生には目的と意義がある事を神様は教えてくださっているのです。

今日の召天者礼拝は、神様のご計画により、私達がこの世で時を共に過ごす事ができた私達の家族、そして友人の一人一人を偲ぶ時です。そして、この方たちが私達の人生に関わったことを覚え、それによって、私達の人生が豊かになった事に感謝をする時です。よく言われているように、人生は長いようで本当は短いものです。ついちょっと前まで赤ちゃんだと思っていた子供が、瞬く間にもう小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人へと成長して行きます。親にしてみれば、なんと時間が経つのは早いものか、の一言に尽きます。そして私たちも私たちの両親が歩んだのと同じような人生を繰り返し歩んで行くのです。

私ももうすぐ還暦を迎えます。昔と違って60歳と言ってもおじいちゃんと呼ばれるまではまだ時間があるでしょうが、物忘れはするようになったし、記憶力は確かに昔ほどありません。しかしそれだからと言って20年前の私に戻りたいとは思いません。その時はその時で苦労があった。しかしそれを乗り越える力も確かにありました。私たちは人生を再び繰り返すことができません。一度しかない私たちの人生です。その人生の中で神様は私たちに与えられた今の時を大切にしなさいと言われているのです。その一つが今の私たちを見守ってくれた人々へ感謝を捧げる事です。

私たちを愛し、愛された人たちを思い出し、その人たちに感謝をするこの召天者記念礼拝を持つことは大切なことなのです。私の父は昨年6月に、二年間に亘る病院生活から神様の御許に帰りました。そして家内の父もこの6月に神様の御許に召されました。悲しみは今でも続きます。先立ってこの世を去った人生の伴侶、お母さん、お父さん、おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、友達、その方々は今でも私たちの心の中で生きているのです。私たちはその素晴らしい者たちに囲まれて人生を過ごすことができた、そのことを神様に感謝しましょう。

今日私が選んだ福音書はヤイロという会堂司の娘の死と復活についての話です。イエス様は、私を含めて、皆さんの人生を今のこの時まで愛を持って導いてくださっているのです。これをRock climber、登山家 の体験から話して見たいと思います。一人で山の岩場を登る人もいますが、多くの登山家は何人か一緒にグループで山を登ります。そのグループの仲間達はお互いに信頼しながら山を登るのです。グループの一人が山の峰の頂上までもう少しだ、と言う岩場で、つかんでいる岩に全身の力を注ぎ、体を上に持ちあげようとした、その時です。摑まっていた岩が、欠けたのです。この登山家は急激に落下して行きました。この登山家は、私の命もこれまでだ、と思ったかもも知れない。自分の家族の顔が目の前に現れたかもしれない。何もできない状況で目を瞑って祈りの言葉を捜していたその時、この登山家は自分がロープで宙ぶらりんになっていることに気がついたのです。地上から何キロもある空中に、仲間の二人が岩場にしっかり打ち込んであった釘とそこにしっかり結んであったロープのお陰で、この男は命拾いをしたのです。

Grand Canyon のふちに立ち下を眺めた時、私は寒気がして足がすくみました。底に飲み込まれそうな気持ちにかられたからです。これは人生の不安と同じではないでしょうか?私たちの人生は迷子になった、空っぽになった、また不安に取りつかれたような気持ちで悲しくなることがよくあります。しかしそこで思い出して欲しいことは、イエス様は岩、私たちの信頼できる岩、その岩は私たちを見放すことを決してしないということです。イエス様は私たちが信頼することのできる方です。それを信じて今日の福音書の話を聞いてください。

ヤイロというユダヤ人の会堂の責任者に12歳の娘がいました。この娘が病気になりました。ヤイロと彼の奥さんは一生懸命看病したのですが病気は悪くなるばかりでお医者さんもこの娘を元気にすることができませんでした。このままでは娘は死んでしまうかも知れないという苦しい思いの中で、ヤイロは奇跡を起こすことができるイエス様のことを知りました。イエス様は病気の人を癒す、耳の聞こえない者を聞こえるようにできる、足を引きずってやっと歩いている者を自由に歩けるようにしてくれる、目の見えない者を目が見える者にしてくれる。ヤイロは、イエス様ならきっと彼の娘の病気を治してくださるに違いない、と信じたのです。そのイエス様が今彼の町に来ているということを聞いて一目散にイエス様のところに走って行ったのです。イエス様を見つけた彼はイエス様の足元に跪き、心の底から泣いてイエス様に娘の癒しを求めたのです。「どうか私の家に来てください、私の娘が死にかけているのです」と。もし私の娘が死にかけていたならば、イエス様に同じように頼んだでしょう。皆さんも同じことをイエス様に言ったはずです。私たちにとって子供はかけがえのない宝物だからです。

ヤイロがイエス様と彼の家まで急いで走っていったのです。その途中、会堂司の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言ったのです。ヤイロの目の前は真っ暗になりました。「ああ、遅すぎたか、せっかくイエス様をお連れしたのに。」ヤイロの家に着いたとき、イエス様は続けて言いました。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」イエス様は娘の手を取り「タリサクミ」「娘よ、起きなさい。」と言いました。すると娘は、その霊が戻ってきて、すぐに起き上がりました。娘の両親は非常に驚いたのです。

イエス様は神様の息子です。彼にできないことはありません。イエス様は私たちにも、永遠の命の希望を与えてくださっているのです。なぜなら、イエス様は、死の中から甦り、もう死ぬことがないからです。

今日、私たちがここに覚える天に召された家族や友人のお一人お一人は今神様の許にいます。神様と共に私たちを見守ってくれているのです。主イエス・キリストによって、そのお一人お一人と何時の日にか再会できる事が、私たちに約束されているのです。これこそ召天者礼拝の中で受ける私たちの心の平和と安らぎなのです。アーメン。

 

 

 

2011年9月25日は何回もお知らせして居ります通り

{召天者記念礼拝」を行います。

週報#1182日本語

2011 9 25W

週報#1182WE

Sunday English Bulletin(Memorial for All People) 1182E英語

 

 

マタイによる福音書20章1-16節

「神の葡萄畑で愚痴る者」”Sour Grapes in God’s Vineyard”

私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

私は都会育ちですからお百姓さんの仕事とはあまり縁がありません。しかし私が神学生として4年間勉強したPennsylvania
のGettysburg の産業は主に農業で、見事に実った小麦、見渡す限り全てがひまわりの畑、そして私が一番興味のあったのはだいだい色のかぼちゃ畑でした。かぼちゃは日本でもありますが、一つ違うのはその大きさです。大きさがスイカのように4ポンドドほどのものが多い中で、中にはお化けかぼちゃもあるのです。とても一人で持ち上げることのできない100ポンドほどのものもあり、なぜ神様はこんなお化けかぼちゃを創造したのかと思うこともよくありました。

アメリカのお祭りの一つにハロウインというお祭りがありますが、そのお祭りの飾り付けに必要なものはこのかぼちゃで、そのかぼちゃに彫刻をするのです。もっとも私が子供たちと作ったものは怖い顔のかぼちゃでした。ところでこのかぼちゃを畑で収穫するのは思ったより大変な仕事です。最初に働く人を探します。カリフォルニアでは出稼ぎのメキシコ人が多いようにペンシルベニアにはプエルトリコ人がこのような仕事にかりだされます。お百姓さんはトラックで街角にたむろして仕事を探している人たちをPick up して畑まで連れてゆき、そこで一日$50の約束で働いてもらうのです。一日中一つ五キロのかぼちゃを畑からトラックまで運ぶ、ろくに休憩の時間もありません。朝6時にPick up された人達は一生懸命働いていましたが、それでもこの仕事は終わりそうもないとお百姓さん、12時にまた同じ街角まで行ってそこでたむろしていた何人かの人を連れてきたのです。3時になってまた5時になって、新しい働き手がPick up され仕事に加わりました。さて6時になり最後に雇われた人が先に給料を受け取りました。50ドルです。これを受け取った人は笑顔でホクホクです。次に3時に、そして12時に雇われた人。50ドルの約束でしたが、それに何かプラスの賃金をもらえるだろうと思っていたにですが、同じ50ドルを受け取りました。その顔は不服な顔つきです。6時に雇われた人たちも同じ50ドルを受け取りましたが、この人たちはこわばった顔つきで、お百姓さんに言いました。「私たちは一日中、12時間休みもなく働いたのになぜ3時間しか働かなかったものと同じ給料なのですか。それは不公平ではありませんか。私たちはあなたから100ドル受け取るべきです」。

もちろんこの話はブドウ畑が、かぼちゃ畑に変わっただけで聖書のイエス様の話の内容と同じです。この話は会計とか、経済とか、労働ユニオン、Labor Unionの話ではありません。この話は神様の恩恵、恩寵、好意、慈悲、ギフトについての話です。This is all about the GRACE of God.

神様はすべての物の作り主、管理人なのです。神様は、神様の意思でこの恩恵、Grace を私たちに与えてくださっているのです。このGrace,恩恵は、わたしたちが神様から私たちに無償 に与えられているのです。

朝早く働きに来た者も、昼から働きに来た者も、たった3時間しか働かなかった者にも、神様は同様な恵みを与えてくださっているのです。神様はたくさん仕事をしてきた人たちにそれなりの報酬をしないのですかと質問するのは当然と思われますが、神様の私たちへの愛はすべての人に神様の見方で平等に与えられているのです。

イエス様が十字架につけられた時、その隣の十字架に犯罪人としてつけられた一人はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」それに対してのイエス様の答え覚えていまか? イエス様は答えて言いました。「よく言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この男は犯罪を犯した者、それがどんな者かはわかりません。しかし惨めな人生を送ってきたような男、しかしイエス様の噂は聞いていたと思います。そのイエス様の隣、それも十字架にかかった、その辛い、人生の命ももう消えようとしているその時、「あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言われたなら、それほど光栄なこと、それほど涙が出てくるようなすばらしい福音ではないでしょうか?

この男はイエス様を知らなかった。しかし聞く話によると、イエス様は世の中で皆から嫌われているもの、罪人と言われる者達を哀れんでくださるお方だと言われている。イエス様は私たちがどんな罪人でも私たちを赦し、愛してくださるのです。神様が私たちを愛してくださると言う時、誰が一番愛されているかとの質問はいりません。何故なら、この惨めな私も、あなたも、イエス様、神様にとっては#1の愛の対象であるからです。愛に順番があるのは人間の世界だけです。神様の愛は平等です。しかし、愛さ更に言うなら、私たちの一人ひとりはイエス様の愛の対象#1であるはずです。私たち人間にとってそれはできませんが、神様、イエス様にとっては、私たちすべてが神様の愛の対象#1なのです。そして、神様はすべての人をいつかは神の国へと招いてくださるのです。

Reader’s Digest にJim Williams と言う人が書いたものを皆さんに紹介しましょう。私がある夜、規制スピードを超えてハイウエイを走っていたとき近寄ってきた車が私のすぐ後ろにつきサイレンを鳴らしました。車をハイウエイの脇に止めて窓を開けるとお巡りさんがやって来て何も言わず、フラッシュ・ライトで車の中を点検しました。最初に私の顔、そして妊娠7ヶ月目の家内、そして18ヶ月目になるベイビー・カー・シイトで眠っていた娘、そしてぐっすり眠っていた3人の息子たち、そして最後にこれ又ぐっすりねむっていた二匹の犬を見たのです。ゆっくりと、おまわりさんは私の顔にフラッシュ・ライトを向けなおし言いました。このところは英語で本のなかに書いてあったとおりに言いましょう。 “Son,” he said.  “You can’t afford a ticket.  Slow down.”  And with that, he returned to his car and drove away.お巡りさんはわたしにTicket を出して当たり前だった。しかしそれは忠告にとどめて、大切なことを言ってくれたのです。「車の中の宝物を大切にしなさい、家族の一人ひとりを守りなさい」とのお巡りさんの言葉は、まさに、私にとって神様からの言葉のようだっのです。

もう一つ伝説の中の話を紹介しましょう。お母さんとまだ幼い少年の話です。ある日少年のお母さんは病気になりました。お母さんを元気にしてあげたいとの思いで村の花屋さんにお母さんお好きなバラの花を買いに行きました。しかしお店の花はみな売切れです。ああお母さんにお花を上げたかったのに残念と心落ちして帰る途中、すばらしい庭園を見つけたのです。綺麗なばらの花が沢山咲いていました。そこにgardnerを見っけて、もしバラの花を売ってくれないかと頼んだのです。Gardnerは言いました。「この庭園は王様の持ち物で、売ることはできません」と。少年は涙を流して自分に言いました。「それでは何時かお母さんをおんぶしてここまで連れてきてあげよう。この素晴らしいバラを見たらお母さんの病気も良くなるでしょう」と。その時です。少年を呼ぶ声が庭園の中から聞こえました。それはプリンス、王様の息子の声です。「庭の花を売ることはできないけれど、その花をプレゼントすることはできますよ」と。そして両腕にいっぱいになるほどのバラを少年に与えたのです。これは神様と神様の国でも同じです。神様の国に入るメンバーシップはどんな価格でも買うことの出来るようなものではありませんが、親切で慈悲深い神様より無償で自由に与えられるのです。

これが私たちの信じる神様の恩恵、GRACEです。Graceは、数とか、ポイントとか、私たちがする善行いによって受け取るものではありません。神様が私たちに一方通行で下さる掛け替えのないギフト、賜物です。しかしある人はこの神様からのGrace
と言うものが心の中に入らないのです。受け取れないのです。

畑に言って働きなさいと言われ、朝早くから働いた人たちが、お昼から働いた人たち、そしてたった短い間働いた人たちと同じ賃金をもらったことが面白くない。神様の恩恵、Graceは、この人たちの心の中で、片隅にも見つからないのです。

今日の旧約聖書の話はヨナという宣教師の話です。あの大きな魚、鯨に飲み込まれた人の話と皆さんは思い出すでしょう。ヨナは神様に呼ばれて外国に行き、そこで神様について語りなさいと言われ、いやいやながら異国の地で神様のことを語ったのです。異国人がイスラエルの神様を受け入れなかったならそれでもいい、ユダヤ人だけが救われるはずだから。ところが外国人、異邦人が、イスラエルの神様の教え、救い、神様の恩恵まで受けとった。Acceptしたのです。これは面白くない。彼は、ユダヤ人の神様を外国人が受け入れることに神様に抗議し、怒りのあまりに死にたい位ですとまで口に出して神様との会話をしたのです。救いは私と私の民族だけのもの。これがヨナの考え方でしたが、それに対しての神様の答えは、私は世のすべてのものが私を信じ、救いを受けることです。大切なことは人間である一人ひとりと神様からいただいた愛の精神で付き合うこと、一緒に生きることができるように勤めることです。

私たちの中でもイエス様に従う信仰を守ってきた先輩はたくさんいらっしゃいます。それと反対にキリスト教徒はと勉強を今始めた方もいます。信仰の長い、短いによって神様の私たちに対しての愛は変わりません。私たちはみな平等に、それは全てのキリストに従うものに同じように与えられていることを覚えてください。アーメン。

マタイによる福音書18章21-35節

「赦すことの大切さ」          “The importance of forgiveness”

私たちの父なる主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように。アーメン。 

10年前の今日9月11日の朝、皆さんは何をしていましたか? 朝の9時ごろだったと思います。テレビをつけて、ニュースを見ようとしたことろ、突然 New YorkのWorld Trade Center に、飛行機が飛び込んできたシーンのを見たのです。これは、すでに起こったビデオでしたが、何と言う恐ろしい事が起こったのかと思っていた矢先、今度はまた考えられないような事、それはこのビルが上の方から地上までものの2,3分のうちに崩落していったのです。その後、また同じことが起こり、Twin tower と呼ばれていた、もう一つのビルに、これまた、もう一機の飛行機が突入したのです。そればかりではなく、もう一つの飛行機はアメリカ国防省のペンタゴンというビルと突入しました。そして4つ目のハイジャックされた飛行機はワシントンDC の国会議事堂、あるいはWhite House に突入することを目的としていたらしいのですが、その途中ペンシルベニアの山麓に墜落したのです。

テレビの時代になってKennedy 大統領の暗殺事件以来の大きなニュースであった聞きました。2753人がこの事件で、命を落としたのです。それは70国からの人たちを含みます。お父さん、お母さん、息子、娘、兄弟、姉妹を亡くされた家族を思うと今でも涙が出てきます。この後、アメリカは、アルカイダ、そしてイラクのフセイン大統領とアメリカ、世界の秩序の敵として戦うようになったのです。人類の歴史は戦争と平和の連続です。私は第2次世界戦争の後に生まれて日本が戦争に拘わったことを経験していませんが、両親、祖父、祖母の時代にも明治維新の時代も、戦国時代、源平の時代にも戦いがなかったわけではありません。戦い、戦争、喧嘩がいつも、どこかの国、民族の中で続くのは私たちが自分、自分たちが正しい、自分たちの意見が一番、自分たちが他の人たちより優れているという考え方から出てくるのです。

自分が正しい、自分の意見が一番だと考える私たちは知らず知らず他の人たち、それは、両親、兄弟、姉妹、友達、仕事の仲間の中でも、意気投合することが難しい状態を作ってしまうので。はっきり言って愛し合うこと、お互いを大切にする、赦しあうことは必ずしも優しいことではありません。しかし、神様であるイエス様は私たちに私たちの人生の中で一番難しい戒めを今日の創世記と福音書の中で語っているのです。それはお互いを赦し合うことです。

ヤコブの13人の息子たちの一人、ヨセフが余りにも自分は父のヤコブに一番愛されていると自慢していたのを我慢できなくなった兄弟によって大きな穴に落とされました。その後、見つけられた駱駝の商隊によって助けだされたのですが、エジプトで奴隷として売られたのです。ヨセフが自分の兄弟に対しての赦すことのできな怒りは非常に大きかったと想像します。何年、何十年もたち、イスラエルでの飢饉で食物をエジプトまで求めてきたヤコブの兄弟が、その時、王様の側近とまでになったヨセフと対面し、本当だったら兄弟たちを牢屋にぶち込むほどの怒りがあったはずです。自分の正体を明かさずにそれを水の泡に流して赦してやった。それどころか、沢山の穀物を与えて兄弟たちをイスラエルに帰したのです。

同じように、今日の福音書は王様が借金のある僕に返金をするように命じたところ、「少し待ってください、必ず王様返金しますから」と言われ、王様は哀れに思い僕の負債を取り消してあげたのです。この王様は寛大でした。しかし負債を赦された僕は彼に借りのある者を見つけ、首を絞めて「借金を返せ」と命じたのです。「どうか待つてください、少し時間を下さい、必ず返しますから」と頼んだ僕に王様が寛大であったのと反対に、この僕を金の返還ができるまでといって牢獄にぶち込んだのです。

35節の王様の言葉はこの悪い僕だけにではなく、私たちにも語られている神様からの言葉です。聞いてみてください。「あなた方めいめいも、もし心から兄弟を赦さないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう」。ここで聖書ははっきり語っているのです。神様から哀れみを受けた私たちはお互いを赦すことを命じられているのです。

少し時間をあげますから、人生の中で、誰から虐めらた、騙された、貶された、暴力を受けた。そんな経験を覚えていますか。それが大きなこと、小さなことにしろ、私たち一人ひとりが必ず経験してているのです。そのような経験の中で、人生真っ暗になった時があったと思います。あなたに被害を与えたその人を赦すことができますか?できましたか?

旧約聖書では「目には目を歯に歯」という考え方はイエス様の出現する前の一般のユダヤ人の報復、英語で言うRetribution として一般から認められていたのですが、イエス様はこの考え方にチャレンジされたのです。誰かから意地悪の言葉をかけられた。かあっとなって「何だお前」と大声で答える。こぶしが飛んで来て鼻血が出る。「このやろう」と言って取っ組み合いの喧嘩になる。周りの人はこの二人を引き離そうとするが、喧嘩はさらにエスカレートして一人は棒を振りはじめる。相手も石を拾ってそれを喧嘩相手に投げつける。最後には二人ともへとへとになって地面に倒れる。それは惨めな姿です。

このような喧嘩は男の人のやることと思いがちですが、時には、女の人もすさましい。Irvine  のCostcoで見たのですが、ある東洋人のおばさんが、会計のところで、どうもお釣りのことでごたごたしているのを見ていた時、急に、このおばさん、言葉の問題があったのか、自分の母国語で怒鳴りだしたのです。その声が、お店のあらゆるところまで聞こえてくるようなそれはすさまじいシーンでした。お店の店長さんらしい人が、このおばさ見ている感じになりました。私は家内との喧嘩になりそうなときには逃げるほうで、対決するのは苦手です。もう一度聞きます。もしあなたが、誰かから悪いことをされた時、あなたは「私はあなたを赦します」と言えますか?神様が私たちに教えてくれたことの中で、「赦す」 “Forgive”と言うことは非常に難しいことなのです。旧約聖書の中で、3回まで赦しなさいと書いてあります。しかしイエス様の教えは旧約聖書の教えを乗り越えています。ペテロが赦しは7回までしなければなりませんか?とイエス様に質問した時、イエス様は言われました。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」つまり赦しは永久に続けなくてはならないのです。

私は、所詮罪人ですが,クリスチャンとして神様から赦された者であると確信しています。イエス様は、私たちの受ける聖餐式の中で、イエス様の体とその尊い血によって私たちを赦してくださっているのです。

神様の許しは神様の愛と同様に計り知れない私たちへのギフトなのです。5歳になる男の子がお母さんとの約束を破りました。彼はこっそり自分の部屋に入ろうとしていたところを、お母さんに見つかって言われました。どこに行くつもり?」「自分の部屋です。そこで神様とお話したいから」。お母さん続けて言ました。「お母さんに話せないことがあるの?」「うん、お母さんは僕を叱って、あれやっちゃだめ、これやっちゃだめって言うけれど、神様は僕を赦してくれて、悪いことしたことを忘れてくれるから」。では大人の私たちはどうでしょう。私たちに赦す心、能力があるのでしょうか?

次の聖書の話を覚えていますか? お父さんが家の門から通りの彼方まで走っていった。そこに、いつか帰ってきてくれよと願っていた年下の息子を見出したからです。両腕の中に息子をしっかり抱きしめて本当に嬉しかった。ホーム・カミングのお祝いを催したのです。それもこの息子がお父さんの大金を無駄使いしてしまったにもかかわらず。過去のことは過去のこと。大切なのは明日に向かって生活することです。

この放蕩息子へのお父さんの愛はたいしたものです。これが私たちの天の神様、イエス様の愛である訳です。子供によって傷つけられたこのお父さん、世間からは常識のないお父さんと私たちは見てしまう。しかしこれが私たちを心から愛してくださる父の愛であり、私たち、イエス様を信じる者は天のお父様の愛、限りなく寛大な愛を頂いているのです。イエス様に赦された私たちは、お互いを愛する、大切にする、自分の兄弟、姉妹として愛し,ゆるし合う関係を築いていかなければなりません。

最後に、Forgiveness, 許しは人生の過程であることを知ってください。この先私たちの人生で、また怒りに駆られ、人との関係が難しくなることがあると思います。しかし、わたしたちはお互いを何回も何回も赦さなければならない時が来るのです。これをイエス様は7どころか7の70倍しなさいと言った理由です。

人生が意義あるものになるためには、何回も何回も私たちに拘わる人たちを赦しなさい、そして許しがあるところには和解の場ができるのです。和解の場が出来るところには平和、平安が訪れるのです。アーメン。

聖霊降臨後第15主日召天者記念礼拝を行いますので

この礼拝に是非ご参加戴きたくお案内申し上げます。

2011 9 25召天者記念礼拝招待状

 

召天者礼拝案内状2011English